君と一緒に
お願いがあるんです。
夜も半ば、訪れた病室で。
どの時間帯であろうと新たな患者を迎え入れて慌ただしく走り回る医師たちの喧騒を扉で隔て、しんと静まった個室に相応しい控えめな小さな声で、そんな言葉を告げられたスティーブンは、らしくもなくとくりと胸を高鳴らせた。
珍しく、何でもしてやりたい気分だった。
Dr.ガミモヅとの戦いを乗り越え満身創痍となった、レオナルドに。
甘やかして、労わって、何かしてやりたいとずっと思っていた。
けれどそれは案外、難しくもあった。
それらしい言葉ならいくらでもかけられるけれど、どうしたって計算が入る。クラウスのように心がこもった真っ直ぐな言葉なんて贈れないし、ザップみたいに思ったままを口にする事も出来ない。
病室には日々やってくる見舞客が持ってくる食べ物やら花で溢れていて、もう十分ですからとレオナルドが恐縮していたのも知っている。大半はザップの腹の中に消えてしまって、残りも殆どはレオナルドでなく客人たちに振る舞われていることも。
普通に接するだけで動作の端々から親愛を滲ませるのも、なんだか違う。ソニックやクラウスはごくごく自然に、K・Kなら過剰に行ってるそれを、スティーブンがやることを想像すればひどく白々しい。自分でも裏がありそうだなと思うそれを、レオナルドがどう受け止めるかなんて考えなくてもよく分かる。
自分では器用な方だと思っていたけれど、レオナルドに何かしてやれる事を一つも思いつけなかったスティーブンは、密かにショックを受けていた。
そんな中、レオナルドからの言葉である。
何でも言ってくれと少々張り切ったスティーブンではあったけれど、同時に内心ではライブラの活動に支障が出ないことならば、と無意識に条件を付けくわえた事を自覚して、少し自嘲する。どうしたって自分には、何の含みもなく素直に何かしてやるというのは、難しいことらしい、と。
だから、モルツォグァッツァの、と言い出したレオナルドの言葉を最後まで聞かないうちに、ライブラは関係なさそうだとほっとして、早速予約を入れてやろうとしたのは後ろめたさを払拭したいがための早合点だった。少し考えれば、レオナルドがそんな事をねだるなんてなんともらしくないと気付いた筈なのに。
最初の言葉を耳にした時点で、頭の中で予約の手順を考え始めたスティーブンをよそに、レオナルドのお願いは続く。
それはスティーブンが予測したものとは全く違うもの。
柔らかな声で語るそのお願いは、あまりにもささやかで、優しいものだった。
モルツォグァッツァへの招待状を、ギルベルトさんに預けてるんです。ええと、前に連れて行ってもらった時に、神々の義眼使って問題解決にちょっと手を貸して。すみません、言ってなくて。大したことじゃなかったんですけどね。それで、招待状、頂いたんです。で、ほら、家に置いといても安全じゃないですし。だからギルベルトさんに預かってもらってたんです。
それでその、ミシェーラとトビーに渡してやりたいんですけど、普通の店ならまだしも、この街で、しかもモルツォグァッツァとなれば、招待状を渡してはい終わりって訳にもいかないでしょう。だからその、いろんな手配とかお願い出来ないかなあって。
ええ、一応宛名は僕のものですけど、妹に食べさせたいって言ってたのは多分あっちの方も知ってる筈なんで、妹とその婚約者がって言えばきっと、通じると思うんですけど。
ミシェーラやつ、案外強情だから素直に受け取ってくれない可能性もあるから、スティーブンさんならその辺うまいこと言いくるめて送り出してくれるかなって。はは、すみません。
僕はもう食べたし、元々ミシェーラに食べさせてやりたかったし、それにトビーにも。二人に、食べさせてやりたいんですよ。まあ兄としては複雑なとこもありますけど、結婚して家族になる訳ですし。一緒に美味しいもの食べて、いつかの未来にあれが美味しかったねって笑えるような、そんな二人の、ちょっと特別な思い出になればいいなって。
ほら、割と散々じゃないですか、ここに来てからのミシェーラ達の思い出。もっといろんなもの見せてやれれば良かったのに、クソッタレはついてくるわ、せっかくここまで来たのに毎日のように病院通いさせちゃうわ。
ミシェーラも、きっとトビーも。全然そんな事は思ってないでしょうけど。これはこれで素敵な思い出になるわって、気遣いでもなんでもなく本心から言っちゃいそうですけど。
でも、ほら、やっぱり。兄として、とびっきりの思い出、作ってやりたいんですよ。ちょっとした見栄ってやつです。
それで……スティーブンさん?
うん、うん、と頷く自分の声がいつの間にか、湿っぽくなっている事に気付いたけれど、スティーブンは取り繕う事が出来なかった。
途中で言葉を止め、訝しげに首を傾げたレオナルドに、分かった、と呟いた声は震えていて、慌てたように包帯に包まれた手を伸ばしたのも分かったけれど、熱くなった目頭からぼたりぼたり、涙が流れ出すのを止める事が出来ない。
比喩でなく、事実として、何度も世界を救ってきた。人類の未来のために、血界の眷属との戦いに率先して身を晒してきた。
愚直なまでに己を貫くクラウスに感銘を受けて、その傍で支えてゆこうと決めたのも、それに感銘を受けるだけの感情が確かに、スティーブンの中にあった筈なのだ。
けれど。
私的な友人に裏切られるたび、スティーブンの世界は狭くなってゆく。守りたいものが、手のひらから零れ落ちてゆく。
仲間だったはずの存在が金であっさりと敵に寝返るのを見るたび、守るべきものに価値が見いだせなくなってゆく。
クラウスやK・Kがいなければもしかして、とうに人という生き物を見限っていたかもしれない。
本当に守りたいものは最早、数えるほどしか残っていなかった。
だけど、もしかして。
守れたものの中に、ウォッチ兄妹のような存在があったとしたら。
献身的に互いを想いあって、当たり前のように相手を尊重して労わって、大事にして。
美味しいものを食べたら、独り占めするのではなく相手に食べさせたいと願って、幸せであれと心より望んで。
大事な存在が大事にする相手もまた、幸せでありますようにと当たり前のように、願って。
柔らかな愛情を注いで、抱きしめて、慈しんで、そんなものが。
優しさが連鎖して連なる世界が、スティーブンの後ろに、数多存在していたとしたら。
Dr.ガミモヅと相対するレオナルドの元にかけつけた時。
ボロボロになったレオナルドの姿に、激しい怒りと焦燥を感じ、激情のままに驕った木偶に力をぶつけようとしたけれど。
湧き上がる感情の中、一つだけ異質なものが紛れていた。
それは歓喜にも似た慟哭。泣きたくなるような、興奮。
全身傷だらけになって、それでも背中に妹を庇うレオナルドの姿。
自分の身も顧みず、必死で手を伸ばして抗い続けるそれ。
確かにその眼は、特別なものだけれどそれ以外は、ヘルサレムズ・ロットのヒューマーの平均からは大幅に劣る。
けれど痛みで気を失う事もせず、愛しいものを守ろうと折れる事なく立ち向かい続ける彼と。
そしてその後ろで一人だけ逃げることもせず、まるで背中を押すように兄を信じる妹の姿。
守りたかったのは、こういうものだったのだと、思った。
血反吐を吐きながら戦う術を身に着けて、いつ死ぬか分からない戦いに身を投じたのは、きっと。
こんな善良で優しい子供たちの未来を守るためだったのだと、思った。
救ってきた世界の中に、彼らみたいな存在が確かにあったのだと理解した。
そして随分と久しぶりに、心の底から。何のてらいもなく、世界を救ってきて良かったと。
クラウスの信念や理想を守るためでなく、自分こそが。
世界を守れて、良かったと思ったのだ。
圧倒的な暴力に晒されてなお、互いを案じ寄り添う二人の姿は、世界には確かに優しいものが存在することを、信じさせるに足りうるものだった。
だからこそ。
それを思い出させて、信じさせてくれた彼に、何かを。
自分に出来る限りの精いっぱいの何かを、してやりたいと望んでいた筈だったのに。
「……き、みと」
包帯に覆われて口元しか見えないけれど、レオナルドが慌てているのは伝わってきた。泣いている男に戸惑って、おろおろとしているのが伸ばされた手から伝わってきた。
何か言わねばならないと思った。取り繕う前に、それを口にしてしまいたかった。
ライブラのスティーブンとしての計算が滲む前に口を開いて、考えを纏める前にそのまま、腹の底からせりあがってきたもの伝えたかった。
「食事に、行きたい。それで、君が、美味しいって、笑ってくれたら」
口をついて出たそれに、まずはスティーブン自身が納得する。
美味しいものを食べて、レオナルドがにこにこと嬉しそうに笑って、そして。
すごく美味しいから誰かに食べさせたいと、当たり前のように望む姿を見る事が出来たなら。
「僕は、世界を守って、良かったって思える」
だってそれは、スティーブンの守りたいものの、象徴のようなものだから。
善良でお人よしで、ごくごく自然に隣人の幸せを願うような。
儚くも美しい人々の、優しい世界に繋がる鍵だから。
「それで、いつか君が、美味しいものを食べて、僕にも、食べさせたいって、言ってくれたら」
しかしスティーブンの口はまだ止まることなく、望みを紡ぐ。
何かしてやりたいと思っていたくせに、それは自分がしてもらいたいことばかり。
だってその柔らかな日常の一部を、欠片でも分けてもらえればそれだけで、きっと。
「僕は、すごく、嬉しい。すごく、すごく……その、嬉しい」
すごく、幸せな気持ちになれる気がしたから。
それだけでスティーブンの世界が、軽く救われてしまうくらいに。
いい歳をした大人とは思えない、貧相な語彙でしか紡げない己の望みを耳にしたスティーブンは、頬を涙で濡らしつつ小さく笑った。
ライブラのスティーブンならもっと、いろんな言い回しで華美に着飾って、言いくるめるように立ち回れただろうに。何も考えずにただのスティーブンのまま口を開けば、こんな幼稚な言い方しか出来ないなんて。
包帯の下のレオナルドが、きょとんとしているのが分かる。
そりゃあそうだろう、いきなり職場の上司が泣き出して、一緒にご飯が食べたいだのなんだの言い出せば、さぞ驚くに違いない。しかもあんな、たどたどしい言葉で。
急に自分の子供じみた言動が恥ずかしくなって、そっと涙を拭ったスティーブンは、深呼吸をしていつもの自分を取り戻そうとする。冗談だよと笑って、煙に巻いてカラカラと笑えばレオナルドも、変に薮をつつくような真似はしないだろう。
しかしスティーブンがライブラのスティーブンの皮を被る直前。
ふふ、と楽しげにレオナルドが笑う。
そして、ちょっと照れたような口調で。
「俺、あんま上等な舌してないんで、何でもかんでも美味しいって言っちゃいますよ。片っ端からスティーブンさんの口に詰め込まなきゃ」
「……それは、ちょっと大変そうだな」
「今更待ったは聞きませんからね。しっかり付き合ってもらいますから。まずは手始めに、ダイアンズダイナー」
まるで待ちわびた予定を語るかのごとく、店の名前を挙げてゆくレオナルドにまた、じわりと目頭が熱くなる。
お世辞じゃなく本当に、スティーブンと食事をするのが楽しみだと言わんばかりの声色に、手にしたペルソナを改めて被ることもできなくて、ついついつられて楽しみだなあとスティーブンも気の抜けた顔で笑ってしまう。
ところでスティーブンさん、風邪引いてるみたいですね。
ひとしきり店の名前を列挙し終えると、突然レオナルドがわざとらしいすました声でそんな事を言い出す。いかにも棒読みですと言わんばかりの、茶番めいた物言い。
すぐに察したスティーブンも、真面目くさった声を作って、深刻そうに頷いてそれに便乗する。
酷い鼻風邪なんだ、とわざとらしく、大きな音を立てて鼻まで啜ってみせて。
そして数瞬の後。
どちらともなく、ぶはっと噴き出して。
二人分の笑い声で埋まる病室の中、楽しみだなあと呟いたどちらかの言葉が、しみじみと柔らかな夜の闇に溶けていった。