「少年、お小遣いをあげよう」


「少年、少年」

おいでおいで、と手招きをしながら、小声で呼びつける上司にちらりと視線をやったレオナルドは、何でもない顔をしてすくっと立ち上がった。
そうしてどこか人目を避けるように足音を殺しながら、スティーブンが待つ仮眠室の扉の近く、クラウスが持ち込んだ大きめの観葉植物の陰にすすすと近寄ってゆく。
事務所にいるのは、スティーブンとレオナルドの二人きり。こそこそする必要なんてないけれど、これはある種のお約束のようなもの。
ようやくスティーブンの元に辿り着けば、よく出来ましたとでもいうようにくしゃくしゃと頭を撫でられる。まるっきり子供に接するような扱いに、思うところがないではないけれど、レオナルドは反発するでもなく大人しく受け入れる。
なぜならば、いつもは職場の部下として割と容赦なくレオナルドを扱うスティーブンが、この時だけは過剰にレオナルドを子供扱いしたがることを、よく理解しているから。だってこれは、そういう遊びなのだ。

「さあ少年、お小遣いをあげよう」

ひとしきりレオナルドの頭を撫でくりまわして、満足気に頷いたスティーブンは、懐に手を入れて一ゼーロ札を取り出し、機嫌よく笑ってレオナルドに差し出した。ザップには内緒だぞ、と立てた人差し指を唇に当て、ウインクしてみせるなんておまけ付きで。
お小遣いなんて貰う歳ではないし、仮にそうだったとしてもスティーブンから受け取る理由なんてないけれど、レオナルドは素直にそれに手を伸ばして、恭しく受け取る。

「……ありがとうございます」

なるべく嬉しそうな顔を作っているつもりだけれど、多少唇の端っこが引き攣るのは許してほしい。
受け取ったお小遣いをポケットに捩じ込んで、軽く頭を下げるとまた、わしゃわしゃと撫でくり回される。何が楽しいのかはあまり分からないけれど、されるがままに身を任せながら、レオナルドはこっそりと心の中でため息をついた。


「少年、お小遣いをあげよう」

一番はじめ、そんな言葉と共に、百ゼーロ札をちらつかせた上司ににこにこと微笑みかけられた時、レオナルドの心に浮かんだのは、マジかこいつもか、というある種の既視感を伴った驚愕だった。
非情に不本意で残念なことではあるけれど、ヘルサレムズ・ロットにやって来てから、お小遣いをあげると言われたのは、実はこれが初めてではなかったから。
揃いも揃って随分と歳上の男性から、お小遣いをあげようと持ちかけられ、だから一晩付き合ってほしいとお誘いを受けた回数は既に、片手の指の数を超えていた。
認めたくはないけれど、レオナルドは少年趣味のおじさんたちに、お姉さまではなくおじさんたちに、妙に人気があるのだ。この街においては、特に。
原因はなんとなく分かっている。外の世界でも平均より小さい身長のせいで歳より幼く見られる事は多かったけれど、ヘルサレムズ・ロットにおいてはその特徴がより浮き彫りになってしまうからだ。
なにせ日常が暴力と死の隣合わせの街である。だからこそ、その辺を歩くヒューマーでさえ、やたらとガタイが良かったり目つきが鋭かったりする者が多い。当然幼い子供やティーンに相当する数も、外に比べれば随分と少ない。いたとして、大抵彼らの周りには保護者や護衛がついて回っている。
そんな中で一人でふらふらと歩いている、外の平均より小さくいまいち厳しさに欠ける顔つきのレオナルドはどうにも、周りから浮いてしまいがちだ。しょっちゅうカツアゲに目をつけられやすいのも、飛びぬけて貧弱でチョロそうに見えるからだろう。とても遺憾ではあるけれど。
そしてそんなレオナルドに目をつけるのは、カツアゲ目的のチンピラだけでなく少年趣味の変態達も同様のようだった。
顔の造作は二の次で、その体格と幼く見える顔つき、ついでにこれが一番ムカつくのだけれど、あまり女にモテなさそうな、いかにも童貞っぽい雰囲気が、そちらの趣味の人達の琴線を擽ってしまうらしい。
その辺の知りたくなかった己の需要の内訳は、何度か誘いをかけられるうちに嫌でも理解した。

だから百ゼーロ札をちらつかせたスティーブンの行動を、まずそちらと結びつけてしまったのも仕方のない事だと思う。うっわスティーブンさんって結構ケチなんだな、だなんて、提示されるお小遣いの相場としては随分安いと即座に判断出来てしまうくらいには、その手のお誘いをかけられることに慣れつつあった。

「すみません、僕、そういうのはちょっと」

わかりやすく大きく一歩、スティーブンから距離をとり、丁寧にお断りの言葉を告げれば、百ゼーロ札を指で挟んだまま、きょとんとしたように瞬きをして、自分の手元とレオナルドの顔を交互に見やったスティーブンは、何かに気づいたようにはっと息を呑んで、慌てたように首を横に振った。

「少年、君、妙な変な誤解してるだろう。違うからな」
「いえいえ。別に僕ぁー、スティーブンさんがペデラスティだなんて思ってませんよ」
「……さすがに君、そこまで子供には見えないから、ペデラスティってよりはエフェボフィリアじゃないか? いや、違うけどな」
「あ、そっすか。じゃあ僕はこれで」
「待て待て待て。少年、誤解だから。違うから。こら逃げるな聞け!」

じりじりと少しずつ後退するレオナルドに、スティーブンは顔つきをどんどん険しくしてゆく。
このまま逃げてしまおうかともちらりと思ったけれど、どうせこれからも顔を合わさざるを得ない相手だったので、仕方なく途中で足を止めた。それでも改めて近づこうと思わない程度には、警戒心は残したままだった。

「少年、僕はノーマルだ。これで君をどうこうしようなんてつもりはない。クラウスに誓って」
「えーっと、じゃあ、なんかめんどくさい仕事割り当てられる感じですか?」
「それも違う。面倒な仕事やらせるにしても、金なんか渡すか。ただ一言、行ってこいって送り出せば済むだろ?」
「……あー、確かに」

懐疑的にスティーブンを見ていたレオナルドだったけれど、クラウスに誓って、なんて言われてしまえば、それ以上疑うのも悪いような気がしてくる。それなりに警戒心が育ったとはいえ、他人を信用するという点においては基本的にレオナルドはチョロい。
しかしそれではお小遣いとやらを渡される理由が見つからないので、じゃあと他の心当たりを挙げてみれば、それもすぐに否定された。とても説得力のある言葉と共に。
だったらますます、スティーブンがレオナルドにお小遣いを渡そうとする動機が分からない。
何でなんですか、と首を傾げれば、ようやくスティーブンの表情が和らいだ。
それにつられて、レオナルドも体の力を少し抜く。緊張が解れればその分、思考にも余裕が出てきて、咄嗟に変態と結びつけちゃったけど自意識過剰すぎたんじゃ、だとか、うわあ早とちりで失礼な勘違いしちゃって申し訳ない、だとか、スティーブンに対する罪悪感もむくむくと育ちはじめていた。
のだが。

「僕はただ、君に純粋にお小遣いをあげたいだけだ」
「申し訳ありませんが、ちょっと何をおっしゃっているのか分かりかねます」

じゅんすいにおこづかいをあげたい。
脳内でそっくりそのまま、スティーブンの言葉を繰り返してみたけれど、全く理解が出来なかった上に下心をちらつかされるより危ない気がして、レオナルドは育った罪悪感をむしり取ってダストシュートに投げ入れ、極めて機械的に応対した。

「少年を見ていると、無性にお小遣いをあげたくなるんだよ」
「申し訳ありませんが、ちょっと何をおっしゃっているのか分かりかねます」
「……そうだな、例えば君の妹さんに子供が産まれたとしよう。それでその子がちょっと大きくなって、レオナルドおじさんって無邪気に近づいてきたら、お小遣いをあげたくならないか?」
「あー……」

しかしながら敵もさるもの。
全く理解し難かった純粋にお小遣いをあげたい気持ちも、身近な人の名前を挙げられてしまえば、否が応でも形を持ってレオナルドの心にすとんと落ち着いてしまう。
具体的に想像するまでもなかった。
ミシェーラの子供、お小遣い。その二つの単語だけで、あっさりとレオナルドは理解して即座に頷いてしまう。

「間違いなくあげますね、お小遣い。なんなら財布ごと渡しますね」
「だろう? そんな感じなんだ」
「はあ、それについては分かりました。純粋にお小遣いをあげたい気持ち。でも、スティーブンさんは別に、僕のおじではないですし」

だが理解は出来たとはいえ、それはそれ、これはこれ。レオナルドのミシェーラの子供の間に存在する関係は、レオナルドとスティーブンの間に横たわる関係とは大いに異なっている。
だからやっぱり、それは受け取れないと丁重にお断りを申し上げたのだったが。

「親戚のおじさんだ」
「は?」
「遠い親戚のおじさんだ」
「いやー、えっと、違いますよね」
「先祖を辿ってけば、どこかで僕と君に共通の先祖が出てくる筈だ。だから僕は君の遠い親戚のおじさんで間違いない。ほら、問題ないだろ」
「んな無茶苦茶な……」

うわースティーブンさんもそんな冗談言うんっすね、と笑い飛ばすにしては、目がマジだった。至極真剣な顔つきで、何度も親戚のおじさんを自称される。

「君だって親戚のおじさんにお小遣いを貰ったことくらいあるだろう」
「そりゃ、ありますけど」
「じゃあほら、少年、お小遣いだ」
「あああ! 分かりました! でもそんなには受け取れません! んな貰ったら後から母さんに怒られるやつです!」

どれだけ断ってもちっとも折れてくれず、終いには詰め寄ってきて、服の隙間に百ゼーロ札を捩じ込もうとしてきたスティーブンの目つきが、次第に嫌な感じに据わってゆく事に気が付き、とうとうレオナルドの方が先に折れてしまった。
とはいえ、やっぱりそんなには受け取れないと主張するのは忘れない。

「……分かった、じゃあいくらならいいんだい?」
「ご、いや、一ゼーロ……」
「一ゼーロ? 子供の駄賃じゃないか」
「だって、お小遣いなんですよね。親戚の子供にあげる。ウォッチ家ではそれくらいが普通でした」
「ミシェーラ嬢の子供には財布ごと渡すって言ったくせに」
「うっ、そりゃ、渡しますけど。でも後から『お兄ちゃんいい加減にして!』って丸々突っ返されるやつです。ええ、間違いなく」
「本当に?」
「本当です!」

レオナルドの主張はけして嘘ではない。ウォッチ家では子供にあまり多額の金を与えることを良しとしていなかったし、ミシェーラの子供に財布の中身ごと渡して後から散々叱られて突っ返されるのも、半ば確定した未来だ。多少、少なめに申告はしたけれど誤差の範囲。概ねは真実しか告げていない。
しばらくは渋い顔をして、値上げを要求していたスティーブンだったけれど、ウォッチ家の方針なので、と押し通したら、不本意そうながらも納得してくれた。親戚のおじさんって言うなら、うちの方針に従ってもらわなきゃ、と強硬に主張したのが効いたらしい。

「ほら少年、お小遣いだ」
「……ありがとうございます、スティーブンおじさん」

差し出された一ゼーロ札を渋々受け取りつつ、せめてもの意趣返しにとわざとらしくおじさん呼ばわりしてみたけれど、ダメージを与えるどころか喜ばせてしまった。
楽しげに瞳をきらめかせたスティーブンに、わっしゃわしゃと頭を撫でまわされて、満足げにうんうんと頷かれる。

(訳分かんねーな)

一体どういうつもりなんだろう、と訝しく思いつつも、スティーブンとの短くないやり取りでごっそりと何かを削り取られてしまったレオナルドは、深く考えることを放棄した。この話はもうこれで終わり、と、一連の流れを忘れてしまうべきものに分類することにしたのだ。


ところが。
レオナルドの中では、これで終わりだった筈のものが、スティーブンの中では始まりだったらしい。
最初にお小遣いを受け取って以来、事ある毎にスティーブンはレオナルドを呼びつけて、一ゼーロ札を差し出してくるようになった。
毎回レオナルドも丁重に断っていたのだけれど、受け取らないとどんどん不機嫌になってゆき、最後にはしょんぼりと肩を落として寂しそうな顔をして、わざとらしく大きく溜息までついてみせる。それでも頑なに受け取らないと、その後しばらく落ち込んだ様子でどんよりとした暗い陰まで背負うのだから、なんだかとてもいたたまれない。
それが上辺だけのポーズだけなら良かったのだけれど、どうやら本気でがっかりしているらしいと気づいてからは、強硬に撥ね付ける事が難しくなった。
レオナルドが素直にお小遣いを受け取って、ありがとうおじさんと素っ気なく呟いただけで、分かりやすく機嫌がよくなる。書類を裁きながらふんふんと鼻歌まで歌うほどに、あからさまな態度を見せつけられてしまえばいよいよ、辞退するのが躊躇われてしまう。

だから、最低限のラインを決めて提示した。
受け取るのは一日一回、一ゼーロまで。そうしないと際限なくスティーブンがお小遣いを寄越してこようとするから、ある程度の線引きは必要だと主張した。
レオナルドの提案にひどく難しい顔をしたスティーブンだったけれど、ウォッチ家ではそれが上限です、と言えば比較的あっさりと受け入れてくれる。どうやら親戚のおじさん気取りは続いているようで、ウォッチ家の方針なら仕方ないと、大人げなく唇を尖らせながらも最終的には同意してくれた。

レオナルドは毎日ライブラの事務所に顔を出している訳ではない。緊急性が高くレオナルドの眼が必要な事件が舞い込めば、事務所に缶詰状態になる事も少なくはないけれど、そうでなければバイトを優先して二、三日事務所に行かないなんて事もざらにある。
実は提示した条件は、そんな自身の行動を織り込んだものだった。毎日顔を合わせる訳ではないから、そこまで頻繁にお小遣いを渡される羽目にはならないだろうと。せいぜい週に二、三度がいいところだろう、なんて。
ところが、そんなレオナルドの思惑はあっさりと裏切られた。
事務所に行かない日でも、何故だかレオナルドの行く先にひょっこりと現れるスティーブンに、さあ少年お小遣いだよと一ゼーロ札を渡されてしまうのだ。一日に一度、必ず。
やあ偶然だね、なんて白々しく登場するけれど、持たされたGPSで居場所を特定されているのは明白だった。いい加減にしてくださいよ、と抗議はしたけれど、何のことだいと首を傾げてはぐらかされるばかり。
一度、たまりかねてGPSを切った事もあるけれど、それでもスティーブンはレオナルドの前に現れてみせた。さすがにちょっと、怖かった。
訳も分からないまま場所を特定されてしまうよりは、GPSのせいだと思っていた方がまだ納得出来るので、それ以来持たされたスマホの電源は常にオンにして、きちんと居場所を知らせるようにはしている。

たかが一ゼーロ、されど一ゼーロ。
一度だけなら、子供の駄賃にしても少ないものだとしても、回数を重ねればその分金額が膨れ上がってゆく。
毎日せっせせっせとお小遣いを渡してくるスティーブンのマメさのせいで、二週間と少しを過ぎた頃にはあっという間に十四ゼーロ。スティーブンにとってははした金でも、レオナルドにとっては、それなりの金額だ。
毎回毎回受け取りはしているものの使ってしまうのは躊躇われて、十四枚の一ゼーロ札はレオナルドの部屋、ミシェーラへの仕送り用の通帳の間に挟まったまま。たまに部屋に押しかけてくるザップは、勝手に家探しをして食料やら金やらを奪ってゆくけれど、ミシェーラに関するものには決して手を出さない。スティーブンから受け取ったものは、そんな不可侵の場所に大事にしまわれている。
その日もまた一枚、増えてしまった一ゼーロ札を通帳の間に挟んで、レオナルドは大きな溜息を吐き出した。
そりゃあたまに、食事を奢ってもらえるなんて言われたら喜んで飛びつくし、お使いのお釣りをとっておけと言われたらラッキーだとも思ってしまう。
けれどスティーブンから渡されるのは、そういったイレギュラーとは違うもの。彼曰く、お小遣い。

「あー、もう、ほんと、どうしろっつーんだよ……」

挟んだ一ゼーロ札を取り出して、数えてゆく。一枚、二枚、三枚……十五枚。何度数えても、その枚数は変わらず手の中にある。
レオナルドは自分が与える分にはさして頓着しない方だけれど、与えられるのはあまり得意ではない。どういう風に受け止めればいいか分からなくなって戸惑って、度が過ぎれば罪悪感に似たものを抱いてしまう。

「ザップさん、まじすげーわ」

思い浮かぶのは、しょっちゅうレオナルドから金やら食料やらを奪ってゆく先輩のこと。レオナルドのみならず、愛人たちからの小遣いで日々の生活を賄っていて、その辺のチンピラからも躊躇いなく金を奪っている。見習いたいとはけして思わないけれど、あそこまで頓着なく人からものを受け取れるというのは、十五ゼーロですら重く感じてしまうレオナルドからすれば、ある種の才能である気すらしてくる。いっそのこと、ミシェーラの通帳の間から取り出して、そのうちザップが気づいて盗ってゆくのに任せようか、なんて考えすら浮かんでしまった。
けれど結局、揃えた十五枚の一ゼーロ札を元通りに戻したのは、スティーブンの顔が浮かんだから。受け取らないと拗ねて落ち込んでしょげるくせに、レオナルドがありがとうございますと一言呟くだけで、心底嬉しそうに笑ってぐしゃぐしゃと頭を撫でてくる、何を考えているのかよく分からない人のこと。一度思い浮かべてしまえば、貰ったものをその辺に放り出しておくのも気が引ける。もっとちゃんと、相応しい使い方を考えねばならないような気がしてくる。

(なんか、昔、初めて小遣い貰った時みたいだな)

通帳を元の場所にしまったレオナルドは、ベッドにごろんと横になってぼんやりと考える。
そういえばあの時、結局、何を買ったんだっけ。
貰ってすぐに使えなくって、何に使おうか悩んで悩んで知恵熱まで出して、ミシェーラに散々笑われたことは覚えているのに、肝心のその買ったものの内容が思い出せない。
遠くぼやけた記憶を探ったレオナルドは、うんうんと一頻り頭を捻って考えたあと、ようやくそれを思い出してぱっと顔を輝かせた。

(そうだ、小遣いだもんな。何に使ってもいいんだ)

昔の記憶を参考に、ようやく見えた使い途に、レオナルドはくすくすと小さな笑い声をあげる。
明日にでもそれを見繕いに行こうと、いくつかの店を思い浮かべたレオナルドは、久しぶりにとても良い気分で眠りについた。



「スティーブンさん」

その日、レオナルドは珍しく自主的にスティーブンへと声をかけた。事務所に二人きりになったタイミングを見計らって、いつもスティーブンがするように、小さな声で囁くように。
お小遣いを貰うようになってから、無駄とは分かっていても極力スティーブンを避けていたから、声をかけられたスティーブンは一瞬驚いた顔をしてみせたけれど、レオナルドが仮眠室近くに誘えば、ゆるりと目元を緩めて素直に付いてきてくれる。
そうして辿り着いた観葉植物の影で、いつものように懐に手を差し入れようとしたスティーブンを制止して、レオナルドがポケットから取り出したものをずいっと差し出した。

「スティーブンおじさんに、プレゼントです」

いかにも安っぽい包装紙はとてもスティーブンには似つかわしくなかったけれど、レオナルドは気にすることなくにししと笑う。
プレゼントを取り出すと同時に、ぽかんと呆けた顔で固まったスティーブンの手に、無理矢理それを握らせてレオナルドは満足して頷いた。
昔、初めてお小遣いをもらった時。
散々悩んだレオナルドは、両親とミシェーラに贈る花を買ったのだ。子供のお小遣いで買えるのはそれぞれにガーベラを一本ずつが限界だったけれど、みんな物凄く喜んでくれた。そんな彼らの姿を見たレオナルドだって、とても幸せな気持ちになった事までしっかり思い出した。
だから、スティーブンに貰ったお小遣いも、そうやって使ってしまおうと決めたのだ。

「それ、アイマスクなんです。レンジであっためて、何回も使えるやつ。スティーブンさん、よく目の下ヤベーことになってるから、ちょうどいいかなと思って」

花束はしょっちゅう贈ったり貰ったりしてそうなイメージがあったから、やめておいた。出来ることならちゃんと使ってもらえて、あわよくば喜んでもらえそうなもの。
雑貨屋をいくつか巡り、見つけたそれは目にした瞬間にびびっと来た。中身を取り出してレンジで温めるタイプのホットアイマスクで、カバーは可愛らしい猫をデフォルメしたもの。これを目の上にのっけたスティーブンはさぞ可愛らしくて面白かろうと、悪戯心も加算して選んだ。

しかしはしゃいで中身を説明するレオナルドとは対照的に、スティーブンは未だ呆けた様子でぼんやりと手元を見つめるばかり。
その芳しくない反応に、レオナルドの浮かれた気分は次第に、しゅんと萎んでゆく。
喜んで貰えそうなものを選んだつもりだったけれど、やっぱり迷惑だっただろうか。そうだよな、スティーブンさんならもっとちゃんとしたもの、もう持ってそうだもんな、と勝手に盛り上がっていた自分が恥ずかしくなってくる。

「あの、いらなかったら、その、無理に使わなくても……」
「十六ゼーロ」
「え?」
「十六ゼーロで買ったの、これ」
「あー、ハイ、すみません」

スティーブンが口にしたのは、それまでレオナルドが貰った小遣いの総額。正しくは十六ゼーロにプラスして数ゼーロ分、多少の足は出たけれど、それは伝えず頷いて下を向く。
とてもいいアイディアだと思ったけれど、つまるところスティーブンに貰った金で買ったもの。プレゼントなんて銘打つには、おこがましかったかもしれないと、じわじわと後悔がせり上がってくる。失礼だったかなと、羞恥で頬が赤くなる。
スティーブンの行動をなんだかなあとは思いつつ、どこかではすっかりお小遣いを貰う子供の気分になって、小さな頃の自分の行動を振り返ってはしゃいでしまったけれど、レオナルドはもう小さな子供ではないのだ。だったら、きっぱりと金を突き返すか、受け取らないのが正しい大人としての姿だったんじゃないかと、改めて自分の取った行動のまずさに胃がずんと重くなる。自分で稼いだ金でもないのに、何がプレゼントだと迂闊さに舌打ちすらしたくなった。

しかしスティーブンは、レオナルドを咎める代わりに、はあっと長い息を吐いて、片手で顔を押さえて項垂れた。
不機嫌ではなさそうだけれど、纏う空気は落ち込んでいる時のものに似通っていたから、レオナルドは申し訳なさにますます身を小さくする。
しばらくしてぽつり、口を開いたスティーブンの声は、やはりどんよりと沈んでいた。

「君が、好きなことに使えばいいと思ったんだ。あれっぽっち、何の足しにもならないだろうけれど、昼飯の量を少し増やすくらいなら、出来るだろうと思って」
「ええと、ごめんなさい、期待に添えなくて」
「謝らなくていい。謝るな……だってこんなの、僕が嬉しいだけじゃないか」
「……え?」

ところが。
スティーブンが語った内容は、レオナルドが予想していたものとは随分と違っていた。てっきり貰った金でプレゼントを買うような、マッチポンプじみた真似が何かしら気に障ったのだと思っていたけれど、嬉しい、との言葉が聞こえて、レオナルドはばっと顔を上げてまじまじとスティーブンを見つめる。視界の端で捉えていた時は気づかなかったけれど、よく見れば手のひらからはみ出た頬は、うっすらと赤く染まっていた。その姿は落ち込んでいるというより、まるで照れているような。

「君が金を受け取るたび、居心地が悪そうにしてるのは知ってたよ。でも君を見ると無性に小遣いをあげたくなって、受け取ってもらえたら嬉しくなっちまうから、こっちの気持ちを優先して無理矢理受け取らせてたのに。だから君は、遠慮なんてせずに自分のために使ってくれれば良かったのに」

そこまでぼそぼそと独り言のように小さな声で呟いたスティーブンは、あああっと大きな声を出して顔を押さえていた手で、ぐしゃぐしゃと自身の髪を掻き毟ると、拗ねたようにじろりとレオナルドを睨めつける。頬は依然として、赤く染めたまま。

「なのにプレゼントだと? ああ、くそっ、俺ばっかり嬉しくて馬鹿みたいじゃないか! 結局君に、負担をかけただけだ。わざわざプレゼントまで買いに行かせることになった!」
「いや、確かにお小遣い、貰うのはちょっと、心苦しかったですけど」

差し出された金については、負担になってなかったと言えば嘘になるので、そこは正直に白状する。途端にスティーブンの眉が悲しげに顰められたから、慌てて言葉を付け足した。そちらも、嘘ではなく正直な気持ちを。

「でも、プレゼント買うのは、僕も楽しかったですし」
「嘘だ」
「ほんとですってば! ほら、誰かのための贈り物を選ぶのって楽しいじゃないですか。どれが喜んでくれるかな、とか、使ってくれるかな、とか想像しながら、あれでもないこれでもないって店回るの、楽しいでしょ?」

すぐにスティーブンに疑わしげな目線を寄越されたけれど、怯むことなく主張を続ける。
だって本当に、楽しかったのだ。
あれもいい、これもいいといくつもの店を回って候補をピックアップして、渡したアイマスクを見つけた時はこれだ、と心が跳ね上がるほど嬉しくなった。カバーは猫以外にも、蛙と犬と熊があって、どれが一番いいか選ぶだけで、たっぷり三十分は悩んだ。頭の中で順にスティーブンの目元に動物達を重ねてみて、最終的に残った猫と熊のどちらにしようか、最後の最後まで迷いまくった。
そうして選んだプレゼントを包装紙に包んで貰ったら、家に帰るまでに誰かに盗られるのを警戒して、一緒に付いてきていたソニックに先に家まで持っていってくれるようにお願いした。レオナルドより音速猿であるソニックの方が、持ち物を盗られる可能性は随分と低いから。
借りた部屋まで帰れば、ひょこりと顔を見せたソニックがしっかりと包装されたプレゼントを抱えて現れたから心底ほっとして、礼を兼ねて帰り際に買ったちょっと高めのバナナを差し出してやった。
そうして眠るまで、暇さえあればプレゼントを見てはうきうきと心を弾ませた。スティーブンがどんな顔をして受け取ってくれるだろうと、渡すのが楽しみで仕方がなかった。

そんな自分の行動を全てをそのまま伝えるのは、浮かれすぎていてちょっぴり恥ずかしかったから、掻い摘んで説明する。聞いたスティーブンはどこか納得がいかないように首を捻ったけれど、頬の赤みは若干増しているようにも見えた。

「……あんまり、そういう経験は無いな」
「まじすか。スティーブンさん、僕よりよっぽどプレゼント贈り慣れてそうなのに」
「確かに慣れてはいるけど、大抵は仕事絡みだからね、そういうのは。ちっとも楽しくはない」
「うわあ……。でも僕は楽しかったです。こっち来てからあんまり、そういう機会無かったから余計に」

憮然とした口調で言われま内容には、さすがに少し頬が引きつってしまったけれど、さらりと流して改めて自分は楽しかったのだと重ねて主張する。
失敗したかなあ、と心の中に湧き出していた後悔は既に消え去っていた。いろいろ納得はいかない様子だけれど、プレゼント自体は嬉しいと言ってもらえたから。

だから、スティーブンさんが嫌じゃなかったらそれ、使ってもらえたら嬉しいなあ、なんて。
最後にそう付け加えて、ちょっと照れて笑ったレオナルドに、スティーブンはぐううと喉の奥で唸り声をあげると、天を仰いで両手で顔を覆った。曝け出された喉仏まで、ほんのりと薄く色づいていたから、レオナルドはゆるりと表情を緩める。なんだかスティーブンさん、ちょっと可愛いな、なんて呑気な事を考えながら。

思えばこの時、さっさと逃げておけば良かったのだ。けれどレオナルドは、珍しい上司の姿を観察するのに気を取られていて、その両手の下に隠れた瞳の色が、変わるのに気が付かなかった。

しばらくそのままの格好で固まっていたスティーブンだったけれど、何の前触れもなく唐突に、顔を覆っていた手をレオナルドの方へと伸ばして肩を掴むと、頬を赤く染めたまま鋭い視線でじっとレオナルドを見据えた。掴まれた肩が少し痛くて、反射的に後ずさりしそうになったけれど、両手でがっちりと固定されてしまったせいでそれは叶わなかった。
突然の行動に狼狽えるレオナルドをよそに、赤い顔を近づけてきたスティーブンは、真面目くさった顔で口を開く。

「少年、抱きしめてもいいかな?」
「え?」
「いや普通に考えて、抱きしめたくなるだろ? ほら、あげたお小遣いでおじさんにプレゼント買ってきたなんて差し出されたら、可愛くて抱きしめたくなるだろ? 親戚のおじさんとしては!」
「あー……、って、手が早い! ちょ、苦しいですってば!」

スティーブンからの問いかけに、一瞬、未来のミシェーラの子供を思い浮かべてしまったせいで、返事をするのが遅れた。
確かに抱きしめたくなるかもな、と納得しかけ、すぐに思い直して断ろうとしたけれど、思った時にはもう遅かった。
背中に回された大きな手に抱き寄せられて、ハグというには痛いくらいにぎゅうぎゅと締めつけられる。慌ててレオナルドもスティーブンの背中に手を回し、ギブアップを告げるべくその広い背をべしべしと叩いたけれど、抱き寄せる手の力は余計に強くなるばかり。
しばらくしてようやく拘束が緩み、ほっとしたのも束の間。再び肩を掴まれ、眼前に迫ったスティーブンの瞳孔が、開きかけていることに気づいたレオナルドは、ひっと息を呑んだ。先ほどよりもよほど本気で、顔を引いて逃げようとした。
なのに肩に置かれた手は、やっぱりレオナルドに後退を許してはくれない。
それどころか。

「可愛い子には、思わずキスもしたくなるよな?」
「し、親戚のおじさんはそこまでしねぇっす!」
「じゃあ親戚のおじさんは止める。ただのおじさんでいい」
「それ、余計に悪い、っちょ、やめ、んっ、も、だめっ! ん、んんんーっ!」

心なしか、スティーブンの鼻息が荒いような、顔にかかる息が熱いような気がして、気まずさに視線を逸らしたレオナルドは、新たなる問いには今度こそ間を置かずに否定を返した。
なのにスティーブンは諦めるどころか、妙な事を口走ってから、頷いてもないのにちゅっちゅとレオナルドの顔のあちこちにキスの雨を降らせはじめる。ただのおじさんってそれ、親戚のおじさんよりダメなやつじゃねえか! と叫ぼうとしたレオナルドの声は、短い悲鳴に変わって喉の奥から飛び出てゆき、最後にはその悲鳴さえも塞がれてしまう。半開きの口に重ねられた、熱い唇によって。
さすがに中に舌は入れられなかったけれど、ぺろりと上唇を舐められてやわやわと下唇を吸われた。辛うじてファーストキスではなかったけれど、口と口が一瞬、触れるだけのキスしかしたことのなかったレオナルドにとって、押し付けられた唇の柔らかさは未知の感触で、嫌悪感を抱くよりも先についうっかり、気持ちがいいかもなんてとち狂った事を考えてしまう。おそらくかなり、動揺していたらしい。
たっぷり十秒は唇を塞がれてから、ちゅっとわざとらしいリップ音をたててようやく、スティーブンの顔が離れてゆく。急いで服の袖でごしごしと濡れた唇を拭えば、ひどいなあなんてスティーブンにぼやかれたけれど、その言葉とは裏腹に、楽しげに口角が釣り上げられていた。まだ頬は赤いままだったけれど、すっかり調子を取り戻したらしい。

「さて少年、今日はこの後、バイトは入ってないって言ってたよな?」
「……だったら何なんすか」
「よし、じゃあ一緒にどこかへ食べに行こう。もちろんおじさんの奢りだ」
「親戚のおじさんは止めたんじゃなかったんですか」
「うん、やめる。今の僕はただのおじさんだ」
「ただのおじさんに奢ってもらう理由がねぇです」
「つれないなあ。ほら、遠くの親戚より近くのおじさんって言うだろ」
「言わねえし! なんか変質者の標語みたいですよそれ」
「はは、少年も結構言うね。でも、間違ってはいないかも」
「はああ?!」
「そういう事みたいなんだよ、どうやら」

未だキスの衝撃で動揺するレオナルドを面白そうに眺めながら、スティーブンがディナーの誘いをかけてくる。
もうやだ何なんだこの人、と思いながら、素直に頷くのは面白くなくって、ぶすっとしながら素っ気なく切り捨てた。けれどスティーブンは怯むもなく、むしろますます楽しげに口元を緩めながら、噛み付くレオナルドの言葉に飄々と返してゆく。
そして、とうとう。
変質者、だなんて失礼極まりない言葉を投げつけても、気を悪くするどころかにんまりと唇の端を釣り上げたスティーブンを目の当たりにするに至ってようやく、レオナルドは危機感を抱く。
しかし時既に遅し。
慌てて距離を置こうとしても、いつのまにか腰に回っていた手に逆に身体を引き寄せられいて、反対側の手でやわやわと手を握られただけでなく、あまつさえ持ち上げられ指先にキスをされてしまう。
ひいっと情けない悲鳴をあげたレオナルドは、それでも必死の抵抗を試みた。

「し、下心はないって言ってたくせに! クラウスさんに誓って!」
「そうなんだよなあ、無かった筈なんだけど、君があんまり可愛いことするもんだから。それにさ、よく考えたら親戚でもない少年に、純粋にお小遣いをあげたいって、おかしくないか? 他のやつが言い出すならまだしも、僕だぜ? 柄じゃないだろ」
「アンタがそれを言うんすか?! そりゃおかしいですよ!」

スティーブンが敬愛するクラウスの名前を出してまで、そういうのじゃないって言ってたくせに、と非難すれば一瞬、バツの悪そうな顔をしたけれど、すぐに開き直られてしまった。
職場の部下にお小遣いをあげる上司の図は、レオナルドだって常々おかしいと思っていたから、今更ながら自覚してくれたらしいスティーブンの言葉に何度も頷いて同意する。だが、そこからの話の展開はレオナルドの予想外の方向に転がってゆく。

「僕も今気づいたんだけどね。少年を見てると、無性に何かしてやりたくなって、気付いたらポケットに手が伸びてたから、ああ、僕は少年にお小遣いをあげたいんだって思ってたんだけど。……なあレオナルド、例えばさ、君が好きな子に好きだ、愛してるって伝えるなら、どういう言葉を使う? 好きだとか愛してるって言葉以外で」
「はっ? いきなり何を」
「いいから答えろよ」
「お、横暴だ……ええと、だ、大事にしたいとか、一緒に居たら楽しい、とか?」
「ふうん、少年らしいな。……それで、だ。その、少年にとっての大事にしたいってやつが、僕にとってはお小遣いをあげたいって事だったみたいなんだ。いやあ、まいったまいった、アハハ」
「アハハ、じゃねえ! ちょ、手、手ぇ離して!」

まさか、まさか。
一連の行為が、スティーブンなりの愛の言葉だったなんて、とち狂った事を言い出したから。
すぐには、何を言っているか理解出来なかった。
けれどぎゃんぎゃんと脊髄反射でツッコミをいれつつ、握られた手をぶんぶんと振って解こうとするうち、じわじわと脳内にその言葉が染み込んでくる。

(俺の、大事にしたいって言葉が、スティーブンさんの、お小遣いをあげたいって、え? え? いやいやいや、おかしくね? え? つまり、スティーブンさんは、俺のことが)

クラウスに誓ってレオナルドは、スティーブンの事をそんな目で見たことはなかった。贈り物を考えるのが楽しいくらいには好意を抱いているけれど、あくまで職場の上司に抱くものの範疇を逸脱してはいなかったと思う。多分。
けれどようやくスティーブンの語った言葉の意味する事が頭の中で繋がって、理解するに至った時、レオナルドの顔色は青ではなく赤に染まった。鏡を見なくても分かるくらい、頬が熱く火照ったのを自覚してすぐ、スティーブンの目から己の反応を隠すように俯いたけれど、しっかり見られてしまったらしい。
視線を逸らす寸前、ふ、と柔らかく微笑んだスティーブンの顔が見えて、その表情があまりにも優しげだったから、ますます頬は熱くなるばかり。
その反応って、期待してもいいの、と耳元で囁かれ、ゆるゆると首を微かに横に振ったけれど、そんな弱々しい否定ではあまり説得力がないと分かっていた。
そういうやり取りに不得手なレオナルドですら、自覚があったくらいだ。レオナルドよりよほど、手慣れたスティーブンがどう捉えるかなんて、明白だった。
くすり、と笑う声が聞こえて、レオナルドはますます頬を赤くする。心臓は変に騒いでいて、既に脳の許容量は限界を迎えていた。

「このまま僕の家に連れ込まれるのと、一緒にディナーを食べて君の家まで送り届けられるの、どっちがいい?」
「ディナーでお願いしますうぅぅ!」

だから。
色気たっぷりの低い声で、けれどどこか茶目っ気を滲ませた二択を提示されれば、思わず後者に飛びついてしまったのも仕方ない。余裕が無かったのだ。
すぐさまぷっと噴き出したスティーブンに、じゃあ行こうかと上機嫌な様子で外へと引っ張られるに至って、ようやく謀られたと気付いたけれど、がっちりと握られた手はちっとも離れてくれない。
そのまま事務所近くのトラットリアと連れてゆかれ、特に何かある訳でもなく、比較的平和に食事を終えてから、宣言通り部屋まで送り届けられ、ようやく心が持ち直したタイミングで。

「君にお小遣いをあげるのは、もう止めるよ」

なんて真剣な顔つきで言い出したスティーブンに、ほっと安心したのも束の間。

「僕がなりたいのは、親戚のおじさんじゃなくって、君の恋人だからね」

なんて、ウインクと共に宣言され、明日からはただのおじさんだと思ってくれ、とかっこいいんだか悪いんだか分からない言葉を残して去ってゆく男の背中に、レオナルドの心は再びかき乱されてしまった。
そのままベッドに飛び込んで、枕に顔を埋めてああああ、と呻き声をあげたレオナルドの心を占めるのは、嫌悪感でも忌避感でもなく。

(なんだあれ! ずるい!)

困惑と羞恥と、胸を熱くさせる名前のつかないむず痒い何か。
突然あんな事を言われて困ったのは本当だけれど、嫌ではない。嫌ではないから、困ってしまう。
だってスティーブン自身が自覚していなかったらしい頃、レオナルドにお小遣いを渡そうとする時のスティーブンの顔はとても楽しそうで、受け取らなければひどく落ち込んでしまって、受け取れば簡単に機嫌をよくしていた。
その、お小遣いが。スティーブンなりの愛の言葉だったなんて言われてしまえば。
そんな前置きがなければ、レオナルドだってここまで困惑しなかった気がする。タチの悪い冗談か、何か腹の底に隠した思惑があるのだと疑って、撥ね付けてしまったかもしれない。
けれど無自覚の愛の言葉を差し出していた時の、スティーブンの表情を知ってしまっていたから。そこに浮かぶ感情がけして嘘ではないと、理解してしまっていたから。
そんな気はなかったとはいえ、ミシェーラ用の通帳に挟んで、大事にしまってその辺に放り出せなかった事も、なんだか知らぬうちにスティーブンの気持ちの欠片を受け取ってしまっていた錯覚を覚えて、恥ずかしくなってしまう。
なのにそれを嫌だなんて思えないから、困るのだ。
どうしようと呟くたび、キスを送られた指先の温度が上がってしまう。どくりと心臓が跳ねるたび名前のつかない何かが、少しずつ大きくなっていってしまう。
いくら経験が乏しいとはいえ、その正体に全くの心当たりがないほど、鈍感にはなれなかった。

既に若干、傾きかけている自分の心を見つけてしまったレオナルドは、うわああ、と枕を抱えてゴロンゴロンとベッドの上でのたうち回り、結局。
一睡も出来ないまま次の日の朝を迎えてしまった。

そうして、寝不足で迎えたその日から。
親戚のおじさんから、ただのおじさんにクラスチェンジを遂げた職場の上司に、お小遣いの代わりに好きだよと囁かれる毎日を送るようになり。
三十ゼーロ相当の愛の言葉が貯まると同時に、とうとう両手を挙げて降参を宣言したレオナルドは、その憎たらしい唇を唇で塞いでやり、余裕たっぷりに笑う男の頬を再び赤く染めてやることに成功したのだった。