comforting scents


「なんっか、落ち着かないんですよね」

マフィアの抗争の余波を受けて、瓦礫に成り果てたアパートから新しい住居へと移り住み、しばらく経ってからのこと。
バイトまでの時間潰しがてらライブラの事務所に立ち寄り、何か手伝う事はないかと声をかけてしばし書類整理に没頭し、ある程度の目処がついて休憩していた時に。ツェッドから目の下のクマを指摘されたレオナルドは、ひょいと肩を竦めて心当たりを口にする。
ヘルサレムズ・ロットへやって来てから、引越しはこれでちょうど六回目になる。
最初のうちは引越し作業にも手間取って、新たな部屋に馴染むまでにもかなり時間がかかったけれど、最近ではせいぜい数日経てば、もう何年もそこで暮らしてきたかのごとく、なんの違和感もなく過ごせていた。
けれどなぜだか今回に限っては、数日どころか二週間以上経った今でも、新しい部屋に慣れることが出来ていなかった。夜中に何度も目が覚めて、寝付くまでに時間がかかり、どうにか眠ってもあまり疲れがとれない。

部屋自体は、今まで住んでいた所と造りに大きな差はない。ベッドが部屋の三分の一を占めるくらいの狭いワンルームに、バスルームとキッチンがついた小さな部屋。壁の色や天井の高さ、窓の位置は多少違うけれど、おとよそは安アパートとしては平均的なものだ。
治安はあまりよくないので、外は深夜まで騒がしく、壁が薄いので隣の部屋の生活音も聞こえてくる。しかしそれは、今までだって同じこと。
むしろ今度のアパートは、かつてレオナルドが住んできた部屋に較べれば、まだマシな部分が多い。夜通し意味の分からぬ呪文みたいな異界の言葉が聞こえてくることもなければ、奇声を発して暴れ周る住人も存在していない。
せいぜい、時折大音量の音楽が流れてくるくらいだ。それだって、日付が変わる前には止んでくれる。
クラウスやスティーブン辺りなら騒がしさに眉を顰めそうな環境ではあるものの、レオナルドの基準からすればかなり静かで落ち着いている方だ。

なのに、どうにも違和感が拭えない。
何をしていてもまるで他人の家に居座っているような、居心地の悪さが付きまとい、そわそわとして落ち着かない。
レオナルドの話を聞いて、心配した様子のクラウスに温室からラベンダーの花を切って渡そうと申し出られ、ツェッドには不眠に効くというツボという東洋の医術の類を教えられ、チェインにはハーブティーを勧められた。
バイトがあるからとラベンダーは丁重に断ったけれど、親身になってくれたメンバーの気持ちは全てありがたく受け止めたレオナルドだったが。
どこか面白そうににやりと口の端を上げたスティーブンに、とある事を言われてぎくりと身体を強ばらせる。

「そういえば、ザップが退院するのは今日だったな」

その言葉を聞いて、居合わせた面々の視線がざっとレオナルドに集まったのは、少々いたたまれなかった。さっきまでは心配をその瞳に滲ませていたのが、クラウスを除いては呆れたような色を強くしたのにも、勿論気づいていた。
だからレオナルドは努めて平静を装って、そうですね、と頷いたあと、主にツェッドとチェインに向かって違いますから、と首を振った。

「ザップさん、別に、毎日うちに来てた訳じゃないですし。それこそ、二週間以上来ないなんてザラにありましたから」

だから僕のこれとザップさんの入院には、何の関係もありません、ときっぱりと言い切ったけれど、一応納得してくれたツェッドたちとは違い、面白そうにこちらを見るスティーブンが同意してくれた様子はない。
言い募れば言い募るほど、意識しているようで癪だったから、素知らぬふりで流したけれど、違うし、と呟いた内なる声には、些か覇気が足りてはいない自覚はあった。

たぶん、違う。
スティーブンの思ってるようなものではない、おそらくは。
レオナルドだって、さすがに一週間も過ぎた頃には自分の現状がちょっとマズイなと思い始めていた。
足りないカロリーやおおよそ常に身体のどこかしらに浮いている痣、詰め込んだバイトで削られた体力をカバーする手段は睡眠だ。腹が減っても身体が痛くても疲れきっていてもぐっすり眠れば多少マシになるし、早めに寝れば電気代の節約にもなるし、レオナルドにとっての金のかからない数少ない回復手段である。
それがうまく機能しないと、日常生活にもいろいろと支障が出てきてしまう。集中力や注意力が削がれて、バイト先で何度か失敗し、いつもよりカツアゲに合う頻度が増えたところで、一旦レオナルドは認めたのだ。
非常に不本意ではあるけれど、この落ち着かなさはザップの不在によるものじゃないかと。

だからとてもとても不本意ではあったものの、ザップがいつもレオナルドの部屋にやって来た時にやることを思い出して、安酒をコップに注いで放置し、なぜかリュックの底に紛れ込んでいた葉巻に火をつけて、適当な空き缶の中で燃やして匂いのついた煙を発生させてみた。
なぜならばザップが居なくとも眠れた時と、今の新しい部屋の違いといえば、ザップが残していった匂いの有無くらいしか思いつかなかったから。
そうして部屋の中をアルコールと微かに甘い煙で満たし、なんとなく覚えのある匂いに包まれてベッドに横たわり目を瞑ったレオナルドは、それでもなかなか寝付けず夜中に何度も目を覚ました事実に、困りはしたものの少しだけほっとした。
朝の薄暗い光の中で見る部屋は相変わらず他人のものみたいだったし、落ち着いて安心する事もできない。それ自体は困るけれど、もしアルコールと煙の匂いですっかり安心して眠れてしまえば、それはそれで、困る気がする。
だって、そんなの、あまりにも。

だから、違う。たぶん。
これはザップの不在のせいではなく、何か別の理由によるもの。
そう結論づけた筈なのに、スティーブンに指摘されてぎくりとしてしまったのは、もしかしたら未だにどこかではそれを疑っていたせいかもしれない。
わざとザップの退院日に合わせてバイトを入れたのも、どこかでそんな疑念が尾を引いていたからかもしれない。
いつもなら病院を出る直前に、迎えに来いと呼び出されるのが分かりきっているから、なるべくバイトは入れないようにしていたけれど、今回に限ってはわざわざシフトの変更まで申し出てこの日にバッティングさせた。
包帯の外れたザップを見てほっとしてしまうのが嫌で、無事な様子を見てすっかり安心してしまって、それであっさりと不眠が解消して眠れてしまったら。
だって、そんなの、あまりにも。

事務所を辞してピザ屋の配達のバイトへと向かい、店のバイクへあっちこっちと移動している最中、何度かポケットのスマホが震えていることには気づいていた。もしもライブラ絡みの連絡なら困るから、一応定期的に表示された名前は確認したけれど、電話もメールも全て発信元はザップだったので、気づかないふりで無視をする。
一時間近くに渡って小刻みに記録された履歴に、病院の前で立ち尽くすザップの姿が浮かんで、少しだけ罪悪感で胸がちくりと痛んだけれど、バイト中だから仕方ないと言い訳して、ついには一度も応えなかった。
配達が全て終わったのは、夜の十時を過ぎた辺り。
帰宅途中、さり気なくスマホを確認して、新たな連絡が入っていない事にほっとする気持ちの中に、がっかりしている自分が紛れているのは見て見ぬふりでやり過ごす。やっぱり迎えに行けば良かったかな、と浮かびそうになった後悔は、頭を振って追い出した。
だって、そんなの、あまりにも。

認めてしまえば、あんまりにも。
レオナルドの中のザップの比重が、大きすぎて取り返しがつかない気がしたから。


けれど結局、そんなレオナルドの努力は、全て無駄に終わってしまった。
幸いにして誰にも絡まれることなく、無事に新たな自宅へと帰っていって、鍵を差し込んで回して、扉を開けた瞬間。
もう、ダメだった。
何もかも、台無しだった。

なぜならば。
ここしばらくの間、見知らぬ人の家に勝手に上がり込むような気まずさがあったのに、久しぶりに自分の家に帰ってきた気分になってしまったから。
それが単純に新居に慣れたおかげなら良かったのに、そうではないとすぐに分かってしまうくらいには、部屋の中の様子がいつもとは違った。
薄く開いた扉の隙間から覗く異変は、漏れた灯りと、匂いと、それから。

「おっせーよ。っつーかオメー、迎え来いっつったの無視しやがったろ!」
「……バイト中だったんすよ」

部屋の中に足を踏み入れる前から、大音量で響いて鬱陶しくも存在を主張する男の声。
悔しいけれど、この二週間と少しの間、レオナルドの部屋に足りなかったらしいもの。
アルコールと葉巻の匂いに加えて、甘い香水の香りも漂っている。既にどこかの愛人のところへ寄ってきたようだ。そもそも入院した原因が、愛人絡みのトラブルだったのに、全く懲りてはいない。
いつもなら呆れて嫌味の一つも言うところだけれど、その代わりに大きくため息を吐き出して、なんで、と呟いた。

「ザップさん、ここの住所教えてなかったのに、どうやって来たんすか」
「ばんとー」
「ああ、クソっ」

精一杯の嫌そうな顔を作って部屋に入り、やたらと元気いっぱいのザップにうんざりしつつ、急激に襲ってきた眠気を自覚してげんなりした。ようやく我が家に帰ってきたと、頭で認めるのはまだ抵抗があったのに、身体は素直に受け入れてしまっているようだ。
アルコールと、葉巻と、甘い香水。
そしてその間を埋め尽くすのは、自分とは違う人間の匂い。皮膚と、汗と、吐き出す息で構成された、ザップそのものが発する匂い。
そんな、自分には欠片も存在しない匂いで充満した空気を吸ってようやく、ここを己のテリトリーだと認識出来るだなんて。
とっくに取り返しはつかなくなっていたのだと、苦々しく思いながら、レオナルドはふらふらとベッドに吸い寄せられる。今までの分を取り返すように膨れ上がった睡魔に、抗える気がしなかった。

「オイ、なぁに勝手に寝ようとしてんだよ。せっかく俺が来てやってんのに。暇だろーが」
「……ねみーんすよ」

これで明日、たっぷり眠れましたなんて顔でライブラに行けば、どんな眼で見られるか分かりすぎてたまったもんじゃない。クラウスは単純に安心して喜んでくれるだろうが、ザップにここの場所を教えたらしいスティーブンには笑われて、ツェッドとチェインにはやっぱりと呆れられること請け合いだ。
こんなことなら、素直に寝不足だなんて話すんじゃなかったと後悔が過ぎるけれど、寝不足の顔を維持するために一晩思考を保ったままでいるのは、あまりにも睡魔が暴力的過ぎて無理そうだ。悔しいけれど、仕方がない。

「オイ、コラ、レオ! 無視すんな! なあ、寝んなって! レオレオレオ、レオナルド、レオナルドくーん!」

ぽすん、とベッドに倒れ込んだレオナルドに向けて、ザップがちょっと焦ったような顔でぎゃんぎゃん喚いている。騒音レベルは、ここの最近でぶっちぎりの一番。時折流れてくる大音量の音楽より、よほど煩い。
更には本気でレオナルドが眠るつもりだと悟ったか、近づいてきたザップが胸ぐらを掴んでガクガクと頭をシェイクし始めたから、眠る環境としては最低だろう。
それでも。
急速に身体いっぱいに広がってゆく眠りの波を、止める術にはならないどころか。耳に突き刺さるザップの大声が、まるで子守唄のように、レオナルドの意識を深く深く潜らせてゆく。揺れる頭は多少気持ち悪かったけれど、そのうち慣れて気にならなくなった。

いよいよ、意識を手放す手前。
ぼやけた視界の先、しつこくレオナルドを揺すぶるザップの胸ぐらを逆に掴まえて、ぐっと引き寄せると、その胸に顔を埋めて思いっきり息を吸った。
アルコールと葉巻と香水の匂い。
そこに紛れた、ザップの匂いの割合が、鼻を近づければ近づけるほど濃くなってゆく。
呼吸をするたび、とろとろと思考を溶かす薄い眠りの膜が、一枚また一枚と増えてゆく。

(ああ、うちの、においだ。くっそ、むかつく……)

そうして、すんすんと何度も鼻を動かし、それが紛れもなく足りていなかったものだと理解して。
口の中で舌打ちの形を作ったまま固まり、久しく得られていなかった深い眠りの中に、とっぷりと全身を浸らせたレオナルドは。
その、少しあと。
レオナルドの匂いを嗅いであっさりと眠りに落ちたザップの目の下に、レオナルドと同じような薄いクマがあったことには。
ついぞ、気づかないままだった。