in the same boat


とある事件についての聞き込みを終えて事務所へと戻り、さっさと愛人の元へと向かったザップの分まで報告を済ませたレオナルドは、ポケットに入れておいたある物の存在を思い出して、恐る恐るスティーブンに差し出した。

「あの、これって経費で落ちないっすかね……?」

薄く皺が入ってしまった紙の束を受け取ったスティーブンは、ひょいと片眉をあげてまじまじと内容を検分して、僅かに動きを止める。
渡したのは、ザップのオイルライターの手入れにかかった諸々の雑費が記された領収書。詰め替え用のオイルやら、綿棒やクロス、フリントにウィック、そして特殊な加工をされた針。オイル以外は早々必要になるものではないけれど、大規模な戦闘が終わった後にはいくつか使い物にならなくなる部品も出てくるため、一般的なオイルライターの手入れに比べたら支出は激しい方だろう。

とはいえ、ザップのライターはライブラ絡みの仕事の最中にだけ使うものではなく、消費されるオイルの九割はおそらく日常の中で使用されているので、経費として申請するのは難しいだろうなあと思っていた。
もしも受理してもらえればラッキーくらいの心積りで差し出したそれに、スティーブンがなかなか答えをくれないのはきっと、駄目だからだろうなと既に諦めを覚え始めていた。

だが、領収書に目を通して顔をあげたスティーブンは不思議そうに首を捻り、何度か領収書とレオナルドの顔を交互に見やったあと、なぜか若干戸惑った様子でゆっくりと首を縦に振った。

「一部なら、経費として勘定できなくもない」
「まじっすか! 助かります」
「うん、でもね。これ、ザップのやつだろ? 何で少年が?」

あいつがちゃんと領収書とってるなんて考えにくいし、と呟いたスティーブンに、ああと頷いてレオナルドは、その疑問に答える。

「ザップさんのライター、手入れしてんの僕ですし」

何枚もの領収書を溜め込むくらいには、すっかりと習慣となったその事を口にすれば、いよいよスティーブンが驚いたように目を丸くする。
それほどおかしな事を言ったつもりのなかったレオナルドは、驚かれた理由にさっぱりと心当たりがなくて、つい先程のスティーブンがしてみせたように、首を捻って領収書とスティーブンの顔を交互に見つめる。

「ザップが、少年に任せたのかい? その、手入れを、少年にやってくれって?」
「そうですよ。じゃなきゃこんなめんどくせーこと、自分からやろうなんて思いませんってば」

歯切れの悪い口ぶりで、なおかつどこか懐疑的な響きのこもったスティーブンの言葉に、当たり前ですよ、と苦笑いで頷いた。
わざわざ好き好んでザップのライターの手入れを申し出るほど、暇ではないし甲斐甲斐しく世話を焼いてやる義理もない。完全に不本意の結果だ。少なくとも始まりの時点においては。

しかしスティーブンはまだ納得がいかない風で、本当に? と何度も尋ねてくる。
さすがに面倒になって、少しぶっきらぼうに、だから本当ですってば、と告げて大袈裟なため息まで付け加えれば、ようやく黙り込む。
けれど依然として表情は冴えないままのスティーブンに、今度はレオナルドの方から質問を投げかける。

「なんか変ですかね? あの人がこう、面倒なこと人に丸投げするのって、いつもの事じゃないっすか?」
「ああ、それはそうなんだが……」

レオナルドからすればザップの普段の行動からして、飯を集ったり家に押しかけて好き勝手したりと散々である。それを知っているスティーブンからすれば、ライターの件も同等の扱いをすると思ったのだ。
しかしそんなレオナルドの主張に一旦同意はしたものの、やはり理解しかねるという風情で低く唸ったスティーブンは、別に君を馬鹿にしている訳ではないんだけど、と前置きをしてから妙な反応についての理由を述べた。

「少年は、ライターの手入れに詳しい訳じゃないだろう? ザップのあれは、普通のものと違うギミックも仕込まれてるし。血液を媒介に戦ってるとはいえ、あれはある意味でザップの生命線だ。それを素人の君にメンテナンスさせるなんて、正気の沙汰ではないように思えてね」
「ああ、そういうことですか」

ようやく合点がいって頷いたレオナルドは、スティーブンの懸念を減らすべく説明を加える。

「一応、パトリックさんのとこでやり方は教えてもらいました。合格点も貰ったので、その辺は大丈夫だと思いますけど」
「ああ、いや、それは結構なんだが」

しかしそれでもスティーブンを安心させるには至らなかったらしい。ああ、だとか、うーん、だとか、スティーブンにしてはらしくなくはっきりしない態度で口を開きかけては閉じ、同じ動作を何度か繰り返したあと、大きなため息をついて肩を竦めた。

「事情は分かっても頭で理解出来なくて。いくら大丈夫って言われてもね。たとえば僕の場合、靴のメンテナンスを自分以外に頼むなら、信頼してる職人じゃなきゃ考えられない。それを、ザップが、君にか」

信じられないと首を振るスティーブンに、レオナルドは反発することなく確かにそうですよねと同意する。
実際、今ではすっかり慣れて当たり前のように手入れを請け負うようになったけれど、最初はレオナルドだってザップの正気を疑った。


確かあれはちょうど、半年と少し前のこと。
いつものように夜半、騒々しくレオナルドの部屋に押しかけてきたザップが、勝手に人のベッドに寝転がって寛いでる最中に、まるで明日の朝飯買ってこいと告げるような軽さで、ポケットから取り出したライターとオイルの缶を投げつけ、それ、やっとけよ、とのたまった。ついでに手入れも頼むわ、なんてしれっとおまけまで付け加えて。
そりゃあレオナルドだって朝飯くらいならば、散々文句を言いはしても渋々買いに行ってやるくらいは妥協したことだろう。けれど慌てて受け止めたそれは、朝飯の買い出しと同列に置くには、あまりに重すぎる代物だった。
同じ戦場に立つことはあっても、ザップのように直接敵と戦闘する立場にはないレオナルドにすら、そのライターがどれほど戦闘において重要な役割を果たしているかくらいは理解できる。
その手入れをレオナルドにぽんと丸投げするなんて、どう考えても死に急いでいるとしか思えない行動に、絶対に無理だと反対した。

しかしザップは放り投げたライターを回収するどころか、必死で考え直すように言い募るレオナルドをちらりと見て、至極面倒くさそうに言ったのだ。

「他人事みてぇに言ってっけど、それぁ、オメーにとっても生命線ってやつだろうがよ」

さも当然とでもいいたげな様子で言い放たれた言葉に、レオナルドの方が呆気にとられてぽかんとしてしまう。
ザップにとって重要なそれが、レオナルドの生命線となる間に存在する論理が咄嗟に思い浮かばなくてつい、はあ? と怪訝な声をあげてしまった。
そんなレオナルドの反応にわざとらしくため息をついたザップが、まるで出来の悪い生徒を教え諭す教師のごとき気味の悪い丁寧さで、ゆっくりと説明を連ねていった。

「んなことにゃあならねえけどよ、もし俺が殺られることになりゃ、オメーも終わりだろ。俺様が殺られる相手に、陰毛頭が立ち回れる訳ねーし。それに俺がいなけりゃ、オメーとっくに死んでんじゃん。五回、いや、十回は確実に死んでるだろ。だからそれを使えるようにしとくのは、お前にとっても大事っつーわけだ」

レオナルド君、お分かりかな? とさも馬鹿にしたように付け加えたザップの言葉に少々イラッとはしたものの、うまい反論を思いつけずにレオナルドはぐうと唸って黙り込む。
暴論ではあるけれど、間違っちゃいない。
ライブラ絡みの仕事では、大体レオナルドとザップは共に行動しているし、戦闘の際には神々の義眼を使ってサポートに徹するレオナルドが、ザップの背に庇われる比率も極めて高い。
日常生活においても、そうだ。
カツアゲで散々殴られることはしょっちゅうだけれど、本当にヤバくなった時、確実に迫った死になすすべもなく立ち尽くした時には必ず、どこからともなくザップの助けが入る。本人に尋ねれば否定されるだろうし、全く使い物にならないタイミングも多いものの、最低限の護衛はされているように感じることはよくある。

素直に認めるのは癪だけれど、ザップの生命線がレオナルドのそれに繋がっているというのは、ある意味では正しい。そして僅かなりとも納得してしまえば、ザップに渡されたオイルライターを突き返す勢いだって多少鈍りもする。
傍若無人に振る舞いつつも、レオナルドが本気で絶縁を考える一線は滅多に越えないザップが、そんな躊躇いを見過ごそう筈もなかった。
俺がやるよりオメーの方がきっちりやれんだろ、だとか、その無駄に見える変態眼球使えば細かいとこまで見えんだろ、だとか、パトリックんとこ出入りしてんだからやり方聞きゃいいだろうよ、だとか。
詐欺師のごとくらぺらと調子よく捲し立てられる言葉に、どんどんとレオナルドの形勢が不利な方向に傾いていく。一応合間合間で反論は試みたけれど、ちっとも聞き入れちゃくれない。辛うじて首は横に振っていたけれど、内心では半分くらい諦めてパトリックに手入れの方法を習いに行く算段を立てつつあった。

そして、極めつけに一言。

「それによ。知らねーやつに殺られるくらいなら、オメーのポカで死んだ方がまだマシだわ」

ふんと鼻を鳴らしてふざけた様子でへらへらと笑ってるくせして、妙にしんと落ち着いた声色で語られたその言葉に、トドメを刺された。
やると決めたならば、ザップの言うようなポカをやらかすつもりなんて毛頭ないけれど、まるでお前になら命を預けても構わないと言われた気になってしまったから。
仕方ないっすね、と大袈裟に肩を落として唇を尖らせたけれど、微かに緩む頬に気づかないふりをする事は出来なかった。


そんなきっかけの概要を掻い摘んで説明すれば、聞き終えたスティーブンの顔から懸念や疑問は綺麗さっぱりと消えていた。代わりになぜかげっそりと疲れたような表情を浮かべ、しきりにこめかみを指で揉んでいる。

「あー……もしかして君ら、付き合ってるの?」
「はあっ?! 何でそうなるんすか……っつうか、いきなり何なんですか」
「いや、もしそうならいざって時は、並べて墓を作ってやった方がいいかと思ってね。そうだな、景色のいい場所に作ってやろう」
「えええ、やめてくださいよ縁起でもない。別に俺ら、死ぬつもりないですし」
「だよなあ……ああ、これ、処理しとくから」

そして急に妙なことを言い出したから、呆れ混じりに否定すれば、皮肉をたっぷりと含んだブラックジョークめいた言葉を投げられる。大袈裟に身を竦めてぶんぶんと勢いよく首を横に振ればようやく、話の区切りを投げやりに提示された。
どこかいつもと違う様子のスティーブンの変なスイッチをまた押してしまっても反応に困るので、レオナルドは奇妙な態度に深く突っ込むことなくそれを受け取る。
ひょいと軽く会釈をしてから、もしかしてスティーブンさん疲れてたのかもな、なんて自分なりの見解を頭の中で展開させつつ、そそくさと距離をとって帰る支度を始めた。


真っ直ぐに家に帰れば既に、家主のごとき自然さで部屋の真ん中に、愛人の元へ向かった筈のザップが居座っていた。床には既に朝には無かったはずのビールの空き缶が転がっている。
そんな部屋の中の状況に特に驚くこともなく、来てたんですかの一言で済ませたレオナルドは、リュックを下ろして床に置いて、すぐさまシャワールームへと向かった。
カラスの行水であっという間に汗を流し部屋に戻ってからは、机の前に座って写真の整理をしつつ、一人で勝手に酒を飲むザップ相手に、とりとめもない話をする。

愛人さんにはふられたんすか。
うるせー。
最近ふられまくりじゃないっすか。
ばーか、ちげーっつうの、ふられたんじゃねえし。あれだよあれ、あれだよ。
なんっすかあれって。
だからあれだっつーの。
わけわかんねーっすわ。

さっぱりと内容のないやり取りは、考えずともぽんぽんと言葉が続いてゆく。意識の半分以上は手元のデジカメに向けながら、適当に口を開いていた最中。
ふと、事務所でのスティーブンとのやり取りを思い出して、データ整理をしていた手を止めた。

「そういやさっき、スティーブンさんに、ザップさんと並べて墓建ててやろうかなんて言われちまいましたよ」
「ああん? なにお前、番頭怒らせたの? 墓ってなにそれ超こえー。オメーが番頭にぶっ殺されんのはいいけどよ、俺を巻き込まないでもらえますかね陰毛君」
「違いますってば」

端的に言われた事を告げれば、さっと顔を青ざめさせたザップがレオナルドから距離をとる。
その極端な反応に、確かにそこだけ聞けば誤解されても仕方ないと思ったレオナルドは、先ほどのスティーブンとの会話の流れをざっと説明した。

「番頭、疲れてんじゃね」
「ザップさんもそう思います?」

聞き終えたザップが首を捻りながら出した感想は、先ほどレオナルドが抱いたものと同じもの。
やっぱりそうかと頷き、しばらくザップさん大人しくしててくださいね、と入念に言い含める。お疲れモードのスティーブンは、にこやかに笑いながらえげつない指令を出すのでなるべく刺激したくない。
ザップに巻き込まれてとばっちりを受けるのだけはごめんだと、今までの散々な例を思い出して首を竦めたレオナルドとは裏腹に、ザップはいかにも楽しげに笑った。

「しっかし、墓ねえ。どうせ建てても、中に入れるもんなんて残んねえのによ」
「そうですよねえ」

誰かが聞けば引っ掛かりを覚えそうな言葉ではあったけれど、レオナルドはあっさりと追従して頷く。
普通なら死ねば物言わぬ骸が残るだろうけれど、ザップとレオナルドについてはその限りではない予定だからだ。
積極的に死ぬつもりなんてこれっぽっちもないし、最後の最後まで粘って生にしがみつく心積りではあるけれど、それでも。
日常が死と隣り合わせのHLでは、何が起こっても不思議じゃない。レオナルドをカツアゲしたチンピラが直後、路地裏から出たタイミングで上から降ってきた瓦礫に潰されるなんて事もさほど珍しくはない。
そんな街で暮らしながら、自分だけは何があっても死なないと思えるほど能天気にはなれないし、それにザップだって。それこそ、世界が滅びても自分だけは生き残ると言い放っても違和感がなさそうな男のくせに、そういう部分は案外シビアだ。
本人に直接聞いたことはないけれど、貰った給料をすぐさま使ってしまうのも、家すら持たず最低限必要なものだけ身につけてふらふら愛人の所を泊まり歩くのも、つまるところいつ終わっても後悔がないようにしているように見える。

だからもし、万が一、その時が来てしまったら。
どう手を尽くそうと手遅れで、ライゼズに駆け込む猶予さえ残らない、そんな終わりを迎えそうになったならば。
何もかも、丸ごと。
ザップが、その身から生み出す炎で、焼き尽くしてくれるらしい。
交戦相手に盗られたら厄介だろうが、と口では神々の義眼のためだと言っていたけれど、レオナルドとミシェーラを縛り付ける契約ごと、この世から燃やし尽くしてやると約束してくれた。

もしかして、ザップさんひでえと笑って流すべきだったのかもしれない。或いは、縁起でもないと憤ってみせるべきだったかもしれない。
けれどレオナルドはザップのその言葉を聞いて、心底安心してしまったのだ。
もしかしてレオナルドが死んでも、身体のどこかに契約が刻まれた骸があれば、ミシェーラの眼を犠牲としたまま神々の義眼は稼働し続けるかもしれないとの懸念は常にあったから。特にDr.ガミモヅとの邂逅を経てからは、その可能性は杞憂では済まされない脅威としてレオナルドの中に燻り続けていた。

だから。
ザップに神々の義眼ごと全て燃やしてやると言われて。
骨一つ残らないまで、この世から綺麗さっぱりと消し去ってやると宣言されて。
神々の義眼だって、壊れることは皮肉にもDr.ガミモヅによって証明された。本来の契約者ではない存在が使用していたせいで修復力が弱かったと仮定しても、ならばレオナルドの肉体が滅んでなお、ザップの炎に耐えられるとは思わない。
ならきっと、大丈夫だと思ってしまった。
ザップ本人も、万が一死ぬことがあれば自らを燃やし尽くして、何一つこの世に残さないつもりだと聞けば尚のこと。
ふざけた様子もなく、当たり前のように己の死に際を想定しているザップなら、確実にレオナルドをこの世から消し去ってくれるだろうと、信じてしまった。

めんどくせーから誰にも言うなよ、と付け足したザップの言葉に倣って、その約束を他人に話したことはない。現に事務所でスティーブンにきっかけの話をした時も、その部分にはちらりとも触れなかった。
けれどそれ以来、二人きりの時は度々ザップはこうして約束をちらつかせるようになった。

「おら、これやっとけよ」

それは大体ライターの手入れを催促する前置きで、レオナルドの最期に関わるものだからしっかりと手入れしろとでも言うつもりらしい。
放られたライターを渋々を装って受け取ったレオナルドはしかし、浮かべた表情とは裏腹にそれを預けられることがけして嫌ではなかった。初めの頃のように、不本意に思うことも今はない。

軽く義眼の力を使って、おかしな点がないこともオイルがたっぷり入ってることも確認したら、柔らかなクロスを使ってケースの表面を磨いてゆく。特に手をかける必要はなかったけれど、そのまま放って返す気にはなれなかった。

そういや明日のバイトなくなっちまったんすよ。店、半壊したらしくって。
またかよ。結構ワリがいーっつってたやつか。
そうなんすわ。もー困っちまいますよね。ザップさんなんかいいバイト知りません?
あー、あるっちゃあるけど。ちょいヤベーやつと、かなりヤベーやつ。
あ、やっぱいいっす。ザップさんに聞いた俺が馬鹿でした。

ザップとのとりとめのない会話を再開させつつ、しっかりと手は動かし続ける。
いずれ来るかもしれないその時はよろしくとそっと囁いて。
けれど叶うならば、ずっとザップを生かし続けてくれればいいとの願いも込めて。
やがてザップがビールの缶を握ったまま、こくりこくりと船を漕ぎ始めるまで。
一度も手を止めることなく、丁寧に磨き続けたのだった。