がぶり
目覚めと共に口に広がる鉄錆の味は、控え目に言って最悪だった。
なぜだか後頭部がやけに痛くって、身体も随分と重かった。意識は覚醒しているのに未だ夢の名残を引きずっていて、今の自分がどこにいるのかさっぱりと分からない。
嫌々目を開けて一番に視界に飛び込んできた天井は、とても馴染みがあるような気がしたけれど、雑然と散らばった記憶の中にある筈のそれと映像を結びつける事が出来ない。
ひとまず直近の記憶を引っ張り出そうと試みたけれどうまくはゆかず、自分の名前さえ掴めやしなかった。
マズい状況だと頭では理解しているのに、身体は弛緩しきっていて動き出そうとはしてくれない。
どうにか気力を振り絞って頭を横に向ければ、狭い中に物が散らばった部屋の様相が飛び込んできた。天井と同じく見覚えのあるそこが、依然としてどこなのかは思い出せなかったけれど、なんとなく安全な場所なような気がしたから、少しだけ警戒心を緩める。
そのまましばらく、床に脱ぎ捨てられた服をじっとみていると。
「あ、ザップさん。起きたんすか」
ふいに、部屋の奥から男の声が聞こえて。
その声をきっかけに己の名前を思い出したザップの脳裏に、一気に昨日の記憶が蘇る。
ツイてない日だった。
朝から入り浸っていたカジノではイカサマがバレて出入り禁止になり、会いに行った愛人には玄関先で別れを告げられる。むしゃくしゃして目についた異界存在に喧嘩を売っても気分は晴れず、巻き上げた金で向かった酒場で出された酒はどれもイマイチだった。
極めつけは、そこで会った売人から手に入れた、非合法の異界産のドラッグ。アッパー系だと言ったくせして酒で流し込んだ錠剤のクスリは、胃の中で溶けた頃合を過ぎても一向に気分を上げてはくれず、気持ち悪さとイライラを募らせるだけ。売人に文句を言おうとしたが、既に影も形も無くなっていて、粗悪品を掴まされたのだと理解する。
腹いせにひと暴れしてやろうかとも思ったが、気持ち悪さが先に立ってやる気が湧いてこない。その辺りから次第に記憶に霞がかかりはじめ、最後。
レオナルドに電話をかけた所で、その先はぷつりと断ち切られたように暗闇に包まれている。
「もーアンタまじでいい加減にしてくださいよ」
寝転がったまま記憶を掘り返していれば、きゃんきゃんとうるさいレオナルドの声がずきずきと頭に突き刺さる。うるせえ、と顔を顰めて呟いた声はひどく掠れていた。
小さすぎてすぐに消えてしまった言葉は、レオナルドの耳にはしっかりと届いたらしい。ぶつぶつと文句を言うのを止めはしなかったけれど、声のトーンを下げて水の入ったコップを差し出してくる。
起き上がるのが億劫でそのまま手を伸ばして受け取ろうとすれば、わざとらしいため息のあとに背中に手が差し入れられ、ゆっくりと上半身を起こされる。口元に近づけられたガラスに顔を寄せると、何も言わずに傾けられた。冷えた水が喉を通ると少しだけ怠さがマシになったものの、依然として動く気にはなれない。
それにしても。
「頭、いってぇ……」
気だるさの中に紛れていた頭の痛みがずきりずきりと目立ってきたから、なんとなしに呟けば分かりやすくぎくりとレオナルドの肩が跳ねた。お前がやったのかよと、じろりと睨めつければさっと顔を横に背けて気まずそうにしていたけれど、すぐさま開き直ったようでふてぶてしくも頷いた。
「だってしゃーないでしょ、ザップさんすげぇフラフラだったし。そのくせ周りに喧嘩売ろうとするし。運ぶのめちゃくちゃ大変だったんすからね!」
ふん、と勢いよく鼻息を吐き出し腕を組んだレオナルドはまるで、自分は全く悪くないと言いたげだったけれど、それじゃあ仕方ねえなで納得するザップでもない。
じっと無言のままレオナルドを見つめていれば、うっと呻いて後ろにずり下がったあと、むすりと唇をへの字に曲げて渋々口を開いた。
「そりゃあ、運ぶ時に少し? あっちこちにぶつけちゃったかもしれませんけど。多少は俺も悪かったかもしんねーけどでも、そもそもはザップさんのせいだし! あっ、そうだ、それにこれ。これ見てくださいよ!」
しおらしく謝るかと思えば、そうではない。
ほんの少しの申し訳なさを滲ませたのは一瞬のことで、すぐに垂れた目尻をきっと釣り上げたレオナルドは、小声のまま怒鳴るなんて器用な真似をしてから、何事か思い出した様子でいきなり自分の服の裾を捲りあげる。
伸びきったTシャツの下にあったのは、無数の噛み痕と青くなった痣。特に右腕に集中しているけれど、脇腹や肩口にもぽつぽつと点在している。おまけによくよく見れば布で隠れていなかった部分、首筋にまではっきりと残った歯型に気づいて、ザップは思わずぽかんと口をあけた。
「なんだそりゃ、えっぐぅ」
「あんたが! やったんだっつーの!」
一つ二つならまだしも、数えるのも面倒になるほどに刻まれた痕に正直な感想を述べれば、レオナルドの表情がますます険しくなる。
レオナルドの主張によればそれは、ザップがやったことらしいけれど、全く記憶に無い。知らぬものを責められるのは理不尽な気がして、ねーわ、と首を振ったけれど、レオナルドは主張を引っ込める気配がない。
「何の夢見てたのか知りませんけど。人のことがぶがぶがぶがぶ噛みやがって。なんだったんすかもう、夢ん中で肉でも食ってたんすか」
「あー……」
知らぬ存ぜぬで通せれば良かったものの、眠っているザップに噛み付かれたと言われてしまえば、全く心当たりがない訳ではなかった。
夢を見た覚えはない。けれど、ごくごく偶に発生する、昨日みたいな夜。たとえばドラッグで変なトび方をして、気づけば最悪なコンディションのままどこかで朝を迎えた時。
そういう時は必ず、己の腕に噛み痕が残っていた。眠る間、気持ちの悪さを誤魔化すために無意識で行っていることだと思う。レオナルドの身体にあるのはおそらく、それだろうと見当がついてしまった。
しかしそれで素直に悪かったと思うザップではない。
いやいやいや、と微かに首を振って、ぶすりと不貞腐れるレオナルドに責任を転嫁する。
「離れときゃ良かったろーが」
果たして眠っている間の自身がどのような行動をとっているかは分からないが、いくらレオナルドとはいえ眠るザップから逃れるのはさして難しくない筈だ。
それとももしかして、がっちりと抱え込んで離さなかったとでも言うのだろうか。
レオナルドに責任をなすりつける論理を己の中に展開する最中、浮かんだ仮定になんとなく腹の底がむずむずするようなこそばゆさを感じていれば、むくれたレオナルドが首を横に振る。
「仕方なかったんすよ。だってそしたらアンタ、自分の腕に噛み付こうとするし」
ぶちぶちと文句を垂れ流していたくせ、まるで自らその身を差し出してきたかのような言い分に、いよいよこそばゆさが腹を飛び出て胸の辺りまで這い上がる。
何も覚えていないのに、がぶりと自分の腕に噛み付くザップに慌てて近づいてきたレオナルドが、再度口を開いたタイミンクで咄嗟に自分の腕を差し込んでくる様子が、見てきたかのような鮮明さでまざまざと脳裏に浮かんだ。
なんだ、やっぱオメーが悪ぃんじゃん、と鼻で笑って吐き捨てれば、レオナルドの纏う空気が一層険悪なものになったけれどちっとも迫力がない。
ほらここも、ここもといちいち指を差して被害者ぶってみせたって、その内側にあったものを知ってしまえば、長々と続く非難の言葉に苛立ちを煽られることもなかった。
「ほんっと、アホやのー」
「はあぁああ? くっそ、アンタ全然反省してねぇな!」
「だって俺悪くねーもん」
「うっわぁ、ムカつくぅっ!」
だって憎まれ口を叩くくせして、依然として声のトーンは抑えられていて、ザップが少し喋るたびに掠れた声を気にしてか、せっせと水を口元に運んで飲ませようとする。言葉と行動がちっとも釣り合っちゃあいない。
もしもそのちぐはぐさを指摘すればまた、憮然として言うのだろう。
だって仕方ないでしょ、と。
いかにも不服そうに、けれどザップを放っておく選択肢は端から存在してないとでも言うような口振りで。
ザップにとっては全く理由になっていない理由を、当たり前のように差し出すのだろう。
まだ身体は重いままで、口を開くのも面倒くさい。
けれどその重いはずの身体を無理に動かし、目の前で噛み痕を見せつけていたレオナルドの右腕を取る。
大人しくされるがままになったレオナルドは、どこか期待を滲ませてザップを見ていた。おそらくザップが反省するかとでも思っているようだが、そんな事でわざわざしんどい思いをしてまで動かない身体に鞭を打ったりはしない。
まじでアホだわ、と胸の内で呟いてから、掴んだ腕の噛み痕をまじまじと観察した。
くっきりとついた歯型の一部には軽く皮膚を突き破った形跡があって、起き抜けに口の中に広がった鉄錆の正体を知る。
血が滲む勢いで噛み付かれた時点で、蹴り飛ばしてでも逃げりゃいいのにと思うのに、いくつもいくつも残る痕はレオナルドが一晩中ザップに付き合った事を示している。
それと、噛み痕に混じって残る痣。
指の形をしたそれに、何気なく己のものを重ねてみればぴたりと一致したから、ザップは無性に笑いたくなった。
血が滲むほどに強く噛まれても、痣が残るほどにキツく腕を掴まれても、レオナルドにとっちゃザップを放っておく理由にはならなかったらしい。
(だったらこれも、しゃーねぇよなぁ)
ふと、思いついて。
ぐっと掴んだ腕を引き、二の腕の辺り、何の痕もついていなかった場所を狙って思い切り噛み付いてやった。
「いっ、てぇぇええええ! 何すんすか!」
悲鳴を上げてきっと目尻を釣り上げたレオナルドの声が、それでも変わらず潜められたままだったから。一瞬腕を振り払いかけたくせして、すぐに力を抜いて掴まれたままにしているものだから。
いよいよたまらなくなってザップは、くつくつと笑い出す。
ツイてない一日だった。
何もかもうまくいかなくって、眠る瞬間まで何一ついい事なんてない、最低の一日だった。
けれど小声で罵倒を繰り返すレオナルドを見ていれば、案外そこまで悪いものでなかったかもしれないなんて思い始めていて。
ごくりと唾を飲み込めば、薄い血の匂いが鼻から抜けてゆく。
目覚めと共に口の中に広がった鉄錆の味は、控えめにいって最悪だった筈なのに。
何故だかそれが今は、ひどく甘かった。