細かすぎて伝わらないそれ


特に大きな事件も起こっていない、比較的平穏なとある日の事務所にて。
ばあぁん、と大きな音を立てて勢いよく開け放たれた扉から、駆け込んできたザップとレオナルドの尋常ではない様子に、一瞬にして事務所の空気に緊張が走る。
はあはあと息を切らしたザップの手には、荷物でも持つように腹を抱えられて運ばれてきたレオナルド。しかも揃って険しい顔つきをしているから、明らかに何らかの異変が発生している事は一目で見て取れた。
またあの二人が何か厄介な事件を持ち込んできたのかとため息をつきつつ、報告書を書く手を止めたツェッドも、その後ろから何が飛び込んできても対処できるよう、ぐっと体の筋肉に力を入れて備えた。
ところが。

「違いますから! 昨日のは! 惚れ薬のせいですから! 誤解しないでください!」
「……アー、そういうこった」

なんて。
必死で声を張り上げるレオナルドと、気まずそうに頬を掻いたザップの沈んだ声に、高まった事務所内の緊張は一瞬で霧散する。
しばらくして、はあ? と気の抜けた声をあげたのは、スティーブンだったか、それともK・Kだったか。或いはツェッド自身だったかもしれない。
違う、誤解だと騒ぐレオナルドの言葉からなんとなく状況は察せたけれど、いかんせん断片的すぎて決め手に欠ける。ふてくされたような顔で、そうだそうだとレオナルドの言葉に頷くだけのザップも、状況把握の役には立たなかった。
なのでとりあえずは、事務所にいたメンバー総出で、ひどく狼狽するレオナルドを宥めることとなった。


ギルベルトが入れたコーヒーを飲んで、ようやく落ち着いたレオナルドから聞き出した話を簡潔に纏めると。
昨日の朝方から、レオナルドとザップは惚れ薬の影響下にあったという。原因はザップの愛人絡みで、大体いつも通りの修羅場にレオナルドを巻き込んだ結果だった。
惚れ薬といっても媚薬の類ではなく、恋心に似た感情を疑似的に生み出すタイプのもので、その薬を摂取して初めにみた相手に恋心を募らせてしまうというもの。恋に似た気持ちを抱かせるだけなので、人格にまで影響を及ぼすものではなく、その行動は薬を摂取した当人が恋心を抱いた時にとるものに準拠する。
ちなみに薬の詳細についてはレオナルドたちが語ったのではなく、話を聞いたチェインがちょうどそういう薬が出回っているらしいとの情報をつい二、三日に耳にしたと話してくれた。
それで運悪くお互いをその惚れ薬とやらのターゲットとしてしまった二人は、昨日一日、人目を憚らずいちゃつきまくってしまった、らしい。
薬の効果が切れたのはつい先程のことで、正気に返って昨日の失態を思い出して青ざめた結果、今日は二人とも出てくる必要もなかったというのに、弁解すべく慌てて事務所へと走ってきたのだとか。

いちゃつきまくっていた、と断定せず、らしい、という言葉で濁してしまったのは、そのいちゃつきまくったという事実に、事務所の誰もがさっぱりと思い当たるものを持ち合わせていなかったからである。当然、ツェッドにも心当たりは無かった。
昨日の二人の事務所での姿をざっと思い返してみたけれど、特に変わることなくいつも通りだった気がする。おかしいと不審を抱く行動も特になかった。
もしかしてツェッドがそういう、恋愛関係にある二人の触れ合いといったものに疎いせいで、何も思いつかないだけかと他のメンバーの反応を窺ってみたけれど、結果は似たり寄ったりのものだった。
K・Kとチェインは昨日は一瞬顔を出しただけで帰ってしまったし、クラウスはプロスフェアーに集中していたから心当たりがなくても仕方ないとして、スティーブンとギルベルトはさすがに何かあれば気づいている筈だ。けれどその二人とも、レオナルドたちの主張には首を傾げるばかり。

「も、ほんと、そんな風に気ぃ遣われると、逆に居た堪れないんで、いっそ笑ってください……」

そんな一同の反応を、優しい気遣いだと受け止めたレオナルドは顔を覆って俯いてしまったが、誰にも全くそんなつもりはない。本当に何も思いつかなかっただけだ。
あまりに双方が思い浮かべる事実に食い違いがあるために、まさか記憶の改竄が行われているのかもしれないだなんて、そんな疑念すらメンバーの中に生まれ始める。
しかしながら、そんな疑念を払拭したのもまた、レオナルドの言葉だった。
さすがに気遣いにしては反応がおかしいと気づいた様子で、訝しげに首を傾げながら、だって、と続ける。

「僕とザップさん、昨日すげえべたべたしてたじゃないっすか。え、気づかなかったとか嘘ですよね?」

その言葉を聞いた一同が反射的に、胡乱げな視線を揃ってレオナルドたちに向けてしまったのは、ある意味当然だったと思う。
なぜならば、昨日からのあらましを語るレオナルドはなぜかザップの膝に座っていて、ザップはそんなレオナルドの肩に顎を乗せて腹に腕を回しているのだ。そこまで珍しい光景ではないけれど、どこからどう見ても現在進行形でべったりくっついている。
昨日べたべたしてたってじゃあ今現在のそれは何だと、言葉にはせずとも皆の心に浮かんだ疑問はおそらく、同じものだったに違いない。
じとっとした目をいくつも向けられ多少怯んだ様子のレオナルドは、その視線の向きから一同の言いたい事をなんとなく察したらしく、ああ、と軽く頷いた。

「だって、平らなとこに座るとケツ痛ぇんすもん。膝の方がまだまし……って、女性もいるのにすみません」

特に気負うことなく紡がれたレオナルドの言葉に、女性陣が瞬時に殺気を纏う。スティーブンはあー、と気まずそうに呻き、クラウスは少し首を傾げてからはっとして、だらだらと大粒の汗を流し始めた。ツェッドが気づいたのは、クラウスから更に遅れることしばし。女性二人の殺気が向けられた方向と、慌てた様子でレオナルドの体調を気遣うクラウスの反応でようやく察し、あああ、とスティーブンが漏らしたのと似た呻き声をあげた。
惚れ薬。ザップ。尻が痛くなる。
つまるところ、おそらく、そういうことである。
いつもはぎゃあぎゃあ騒がしいザップが、ふてくされた顔をしながらも妙に大人しいのも、レオナルドの椅子に甘んじているのも、おそらく、そういうことである。

「まあそれはどうでもいいんですよ」

しかしこちらが呆気にとられるほどの軽さで、あっさりとそれをどうでもいいと切り捨てたレオナルドは、それより昨日のことですけどね、とあくまで事務所でいちゃついてしまった事に拘る素振りを見せる。尻の安否よりも、そちらの方がレオナルドにとっては重要らしい。ザップの方は多少思うところはあるようで、気まずそうにしてる分、レオナルドよりもまだ反応としてはまともな気がする。
大体においてザップの非常識さに呆れて全く尊敬できないなと思っているツェッドだけれど、たまにレオナルドも大概大雑把だなとしみじみしてしまう。特に自分に関する事については、かなり無頓着だ。
しかしそれにしたって、一番気にしてなさそうなのが当事者ってどうなんだろう、と思いつつ、そんなレオナルドを気遣えばいいのか気にしない方がいいのか態度を決めかねているらしい上司たちに代わって、ツェッドが疑問を投げかけた。

「でもレオ君。その、レオ君達って、しょっちゅうくっついてるじゃないですか。昨日といつもの違いが、正直言って、全然分からないんです」
「いやいやいや、だっていつものはただのコミュニケーションじゃないですか。昨日のとは全然違いますよ! ねえ、ザップさん」
「オウ、だよなあ。お子ちゃまな魚類にゃわかんねーのか」
「僕だけじゃなくって、皆さん分かってないと思いますよ」
「ええええ、まじすか? 本当に?」

レオナルドに名前を呼ばれてようやく、少し調子を取り戻した様子のザップが、はんとわざとらしく鼻で笑ってみせたけれど、当然挑発には乗ってやらない。
そのまま周りに視線を向けると、うんうんとツェッドの言葉に揃って賛同の意が返ってくる。そんな一同の反応にレオナルドが心底驚いたように声をあげた。しかし驚きたいのは、こちらである。多数決の原理から言っても、明らかにツェッドたちの方に分があった。
ザップ以外の誰からも同意を得られないと気付いたレオナルドは、むうっと眉間に皺を寄せ少しの間考え込む素振りをみせてから、くるりと後ろを振り向いてザップに何事か囁くと、ぽんぽんと腹に回った手を叩いた。その合図で、ザップの手がレオナルドの腹から首に移動した。
がしり、と抱え込むように首に回された手を確認したレオナルドは、ほら、と口にした。

「これがいつもの感じです」
「それもある意味、ベタベタしてるように見えるんだけど」
「違います。『金よこせ飯おごれ足になれ』な恫喝中のチンピラの基本ポジションです」
「あー……」

確かにいつもの感じだ。しょっちゅうレオナルドにちょっかいをかけるザップが、その首に手を回している姿は頻繁に目にしている。
それはそれでどうなのと、げえっと嫌そうな顔をしたチェインが口を挟んだけれど、きっぱりと否定したレオナルドの言葉には妙に納得してしまった。ベタベタしていると言えばしているけれど、チンピラと言われればそちらの方が似合っている。現に普段のザップの行動も、その辺のチンピラより性質が悪いので余計にしっくりときてしまう。むしろそれをいつもの感じと受け入れてしまっているレオナルドの事が、改めて心配になってしまった。
そして再び、レオナルドがぽんぽんと手を叩くと、首に回った手が心なしか、締まったような気がした。あくまで気がするだけで、そこまで大きな違いには見えない。

「で、こっちが昨日のです」
「なるほど。全然分からん」

しかし完全にいつもの感じとやらにしか見えないけれど、それがレオナルドとザップ曰くいちゃついている状態のようだ。
事務所でベタベタしていた事を恥じていたはずなのに、なぜだか二人揃ってどうだ、と得意げな顔をしてみせて、ほらこれで分かったでしょう、と言いたげだったけれど、やっぱり分からないものは分からない。
あえて違いを挙げるとするならば、焦れたチンピラが首を締める力を強くしているようには見えるけれど、いつもの感じがチンピラの基本ポジションであるならば、それは応用バージョンといったところ。いつもの感じがただのコミュニケーションならば、それも同じ種類のものとしか思えない。
そう感じたのはおそらくツェッドだけでなく、他のメンバーも同様だったらしい。
スティーブンが二人の主張をばっさりと切り捨てると、うんうんとあちこちから頷く声が重なってゆく。勿論ツェッドも全力で頷いておいた。
全然違うじゃないですか、と主張するレオナルドも、だよなあと頷くザップも、冗談を言っている気配は無い。
揃ってきょとんとした顔で、なんでこんなに分かりやすいのにこの人たち分からないんだろうと、まるで小さな子供のように、純然たる疑問をあからさまに表情に貼り付けて、心底不思議そうに首を捻る。
それから何パターンか、いつもの感じといちゃついている昨日のやつの違いを披露されたけれど、結果は同じ。どれもこれもさほど大きな差異があるようには見えない。

「分かった」
「分かってくれました?!」
「記憶操作の可能性が低い事はな」
「そこっすか?!」
「チェイン、それの出所だけ一応抑えておいてくれる? あんまり大した事はないみたいだけど、悪用も出来そうだし」
「分かりました」

七つ目のいつものと昨日のを披露し終えたところで、スティーブンがうんうんと頷いたから、ぱあっとレオナルドの表情が明るくなる。ツェッドは依然として判断がつかない状態だったので、さすがだなと感心したのも束の間。
違いが分かったのではなく、記憶操作がされた訳ではないと判断出来たという意味だったらしい。
よし、と一つ頷くと、騒ぐレオナルドとザップを無視して、チェインに声をかけるとさっさと書類仕事に戻っていってしまった。おそらく、これ以上付き合うのが面倒くさくなったのだと思う。
スティーブンの行動をきっかけに、他のメンバーもばらばらと事務所内に散って、二人がやってくる前に取り組んでいた仕事を再開する。ツェッドも、書きかけの報告書を仕上げるべくペンを取った。
そんなメンバーの反応に、納得がいかない様子でしばらく二人して首を捻っていたけれど、ばれてなかったんだからそれでいいんじゃないですか、とツェッドが声をかければ、あっさりと顔色を明るくしたかと思うと、すぐにぎゃいぎゃいと騒ぎ始めた。すっかりといつも通りの調子で。
相変わらずレオナルドはザップの膝の上で、ザップの腕はレオナルドの腹に回ったまま。
そんな状態で、どこか楽しげに罵り合う二人の距離感は多少近すぎるような気もするけれど、生憎とデフォルトがそんな感じなので、既に違和感を覚えないほどには慣れてしまっている。一瞬、尻は大丈夫だろうか、と心配になったけれど、本人が全く気にしていなかったから敢えて蒸し返すのもよくないかもと、ツェッドは努めて忘れることにして、目の前の報告書に集中することにした。

かくして二人の惚れ薬騒動は、幕を閉じた。筈だったのだが。
いつもの感じといちゃついている状態が、さっぱりと周りに通じていなかった事実が、どうやら面白かったらしい。
いつから始まったかは分からないけれど、二人はいつも通りを装ってこっそりいちゃついてみせて周りの反応を窺う遊びを始めたようだ。
三人でよく組まされる事の多いツェッドが気付いたのは、騒動から約一月後のこと。なんとなしに違和感を覚えて、よくよく観察してみたら時折、いつもより密着度が高い時がある、ような気がする。さすがにそれだけでは確信は持てなかったけれど、前後に視線を交わしてちらりとツェッドを気にする素振りを見せ、素知らぬふりで通せば悪戯が成功した子供みたいな顔で二人して笑うのだ。とても、楽しそうに。
その表情が、たまにツェッドまで巻き込んで悪ふざけをしてはしゃいでいる時の顔によく似ているから、遊んでいるので間違っていないと思う。おそらく。
しかしうっかり尋ねて巻き込まれても面倒くさいので、ツェッドは気づかないふりでやり過ごしている。

そうして二人の遊びの頻度が増えるにつれ、レオナルドが腰を庇うような素振りを見せる機会も増えてゆくのだけれど。
あくまでツェッドは気づかないふりを貫きつつ、ランチに辛いものを食べに行こうと提案するのは控えるようになったのであった。