sugar sugar cigar
素直に感心していいものか悩むところではあるけれど、ザップ・レンフロという男は愛人たちに対しては案外まめまめしいところがある。
きちんと全員の名前を覚えているなんて当たり前の所から始まって、それぞれの好みや趣味嗜好も把握しているし、相手が喜ぶツボも一応は心得ている。たまに盛大にやらかしてぶっ叩かれたり刺されたり呪われたりもしてはいるものの、それでも関係のある愛人たちに揃って愛想を尽かされて捨てられることなく、なんだかんだ愛されているのはそういう所は外さない人だからじゃないかな、とレオナルドは思っている。
葉巻もそのうちの一つ。路上喫煙おかまいなしにどこでも好き勝手にくゆらせているそれの銘柄に特にこれといった拘りはないようで、様々なものに手を出しているのは知っていたけれど、会いにゆく予定のある愛人と銘柄に関係があることに気づいたのは少し前のこと。
そういえばアイリーンさんに会いにいく前はいつも、この匂いがしてるな。
ピザの配達のバイトの途中、レオナルドにとっては全く不本意なことに強引に後ろに乗り込んできたザップに足代わりに使われた時、告げられた愛人の名前と香る煙の組み合わせに既視感を覚え、そのまま思った通りに口にした。
そしてそれはけして気のせいではなかったらしい。
ハッと馬鹿にしたように鼻で笑って、これだから童貞クンはよお、とわざとらしいため息をついたザップは、憐憫と優越感の混じるムカつく声で宣った。
女はこういうの、結構気にすんだよ。
その口振りから察するに、どうやら会いにゆく愛人に合わせて吸う葉巻の銘柄を変えているようだ。一昨日、報告書を提出するのを忘れてスティーブンに下半身を凍らされたのに、懲りることなく昨日も忘れて今度は氷の彫像にされたような鳥頭のくせして、女性に関することについては意外なほどに物覚えがよくって細かいところまで気をつかっている。
その情熱の十分の一でも報告書に向けてやればスティーブンに怒られる回数も減るだろうに、なんて思わないではないけれど、愛人相手にしかそれを発揮しないところがいかにもザップらしいとも思う。
アンタのそういうとこ、無駄にすごいっすよね、とため息混じりに吐き出せば、無駄ってなんだよ無駄って、とぺしぺしヘルメットの上から頭を叩かれる。硬い合成樹脂で衝撃から守られているとはいえ、思い切り叩かれればそれなりに痛いし振動が気持ち悪い。やめてくださいよ事故ったらどうすんだ、と声を張り上げて抗議しても、うるせー! と耳元で怒鳴り返されて叩く手は止まらない。埒が明かないと舌打ちしたレオナルドは、さっさと余計な荷物を捨ててバイトに戻るべく、アクセルを回してスピードを上げることにした。
それから、なんとなくザップの葉巻を気にするようになって、愛人たちと葉巻の香りのいくつかが頭の中で結びつくようになった。さすがに愛人の数と同じだけの種類の葉巻を吸いわけてはいなかったけれど、それぞれの愛人に対してはいつも同じ葉巻の煙を纏って会いにゆく。
いちいち変えるくらいならずっと同じ銘柄を吸っていればいいのに、と思ったことは一度や二度ではなく、実際口に出して言ってみたこともある。けれどザップはまた、これだから童貞クンは、とレオナルドの言葉を鼻で笑い飛ばした。
愛人の中にはわざわざ葉巻をプレゼントしてこれを吸ってほしい、私の選んだ香りを纏って逢いに来て欲しい、そう願う女性は一定数いるらしい。またそこまであからさまではなくとも、衣食住の大半を愛人たちの世話になっているザップに、小遣いと一緒に何気なくぽんと葉巻を買い与える女性もいて、そんな相手に再び会いにゆく時に与えられたのと違った葉巻を吸っていれば、怒るまではいかずともいい顔はされない。更には葉巻にまるで興味がないような顔をしていても、急に吸う葉巻の種類が変われば目敏く気づいて、他の女性の影を敏感に感じ取る女性も少なくはないという。
そんな彼女たちをまとめて満足させるには、適度に葉巻を吸いわけるのが一番良い方法なのだと、ザップは煙を吐き出して笑う。
可愛いオンナのおねだりに応えてやるのも、ベッドの上では他のオンナの色を匂わせないのも、オトコの甲斐性ってモンだろ、と得意げに胸を反らすザップの主張は、そもそも同時に何人もの愛人と関係がある時点でクズでしかないと思うのに、なんだか妙に説得力があるから癪だ。とてもムカつく。
けれど倫理観は破綻しきっているくせにそういうところがあるから、この人、モテるのかもなあ、と呆れ半分に感心もしつつ、今日はダリアさんか、煙を香りを身にまとい愛人の元へと向かうザップを見送るのが習慣となって、日常となってゆく。
そんな見慣れた日常に変化が訪れたきっかけもまた、一本の葉巻からだった。
初めて嗅ぐやけに甘みの強い香りに、ああまた新しい愛人に貰ったのかと察したレオナルドだったけれど、どうにも様子がおかしい。二日、三日と続けてその葉巻の香りしかしなかったから、やけに熱心に通っているんだなと思っていたら、一週間、二週間と同じ香りが続いてようやくこれはおかしいぞと気づく。
もしかして誰か一人に絞ったんだろうか、浮かんだ想像は浮かれた顔で昨日とは違う売春宿に向かうザップの姿を見て一瞬で消える。愛人たちと切れた訳じゃないらしい。
じゃあなんで、レオナルドは考え込む。些か動揺していたかもしれない。
ザップの事は心の底からクズだなあと思っているけれど、クズなりの理論で愛人たちに向けたクズなりの誠実さと愛情を理解しているつもりだったから。本当にどうしようもない人だなあと思っているけれど、ザップのそういうところはけして嫌いではなかったから。
なのに以前語ったものとはまるで正反対の姿、未だ誰とも結びつかない香りを纏ったまま、方々の愛人たちに会いにゆくザップの姿に、レオナルドは直接関係ない筈なのにどうしてか少なからずショックを受けすらした。
レオナルドが気づくくらいだ。愛人たちはもっと敏感に、ザップの変化を嗅ぎとったのだろう。以前に比べて格段に愛人絡みのトラブルが増えて、名前を聞かなくなった愛人の数が増えてゆく。時折新しく増えることはあるけれど、それでも減ってゆく数の方が圧倒的に多い。
けれどフラれるたびにシャレにならないトラブルに巻き込まれたり、いちいち落ち込んで拗ねて泣き喚いて暴れるくせに、咥える葉巻は変わらないまま。取り巻く煙の匂いは、いつまでも甘さを湛えたまま。
今日だってまた、トラブルに見舞われる。激昂するザップの愛人にけしかけられたのは、触手のような異界存在。ザップの焔丸で斬り捨てる傍から新しい触手がうにょうにょと生えだし、燃やしてもピンピンしている。おそらく本気を出せば勝てるのだろうけれど、愛人からの報復を兼ねた襲撃においてはどこか力を抜いて受け止める傾向のあるザップは、増える触手に防戦の一方だった。
たまたま一緒にランチに出ていたせいで巻き込まれてしまったレオナルドは、戦闘の余波に巻き込まれないよう必死で逃げながらも、怒れる愛人にどうか落ち着いてくれるようにと説得を頑張った。そんなレオナルドの言葉が効いたのか、それとも触手に散々痛めつけられてボロボロになったザップの姿に溜飲が下がったのか、ようやく引いてくれた頃にはとうにランチの時間は過ぎ去っていた。
触手の体液で二人ともドロドロに湿っていて、このままではどこの店に行っても入店拒否されること間違いなしだ。一度事務所に帰ってシャワーを浴びるしかない。
全く、散々な目にあった。重いため息を吐き出しながら、濡れて重くなった服の裾を絞っていると、ふわりと甘い香りが漂う。
振り返れば、葉巻に火をつけて煙を吐き出すザップの姿。びしょびしょのドロドロのくせにどこからか取り出した葉巻は乾いていることがやけに癇に障って、きっと全部その葉巻のせいなのにとムカムカと腹が立ってきて、レオナルドは不機嫌を隠さずじろりとザップを睨めつける。
「何で最近、そればっかなんすか」
「アぁ?」
「それ、それですよ、葉巻! 愛人さんたちが怒ってんの、それのせいでしょ。前にあんなエラソーに語ってたくせに、何なんすか」
「あー……しゃーねーだろ」
「なーにーがー、しゃーねえ、だよ! 巻き込まれるこっちの身にもなってくださいよ! ……葉巻、前みたいにすりゃいいでしょ。アンタそういうとこだけはマメだったくせに」
「うるせーわ、しゃあねえもんはしゃーねーんだよ」
「……訳分かんねえ……」
ここ最近のトラブル続きでただでさえうんざりしていたところに昼飯を食いっぱぐれたこともあって、自分でも分かりやすく声は刺々しくささくれていた。
けれどザップはレオナルドにつられて声を荒らげることなくどこか気まずげにふいと顔を逸らすと、歯切れの悪い言葉と共にふーっと細く長い煙を吐き出した。そしてまたしゃーねえんだよ、と馬鹿の一つ覚えのように繰り返すばかりでけして理由には触れようとしない。
そんな反応が返って来るとは思っていなかったから、レオナルドの勢いもすぐさま削がれてしまった。こういう時のザップは、割合まともなことを考えているくせに、それが何なのかをけして語ろうとはしないと知っている。
何なんだよもう、口の中で小さく呟いてため息を吐き出す。理由は分からないけれど、何かしらの意図があってやっているらしい事だけは分かった。どうやら止める気もないらしい。この分じゃまた、近いうちにトラブルに巻き込まれる事が確実だ。勘弁してほしい。
しばらくザップさんと一緒にいるのやめようかな、レオナルドがそんな事を考えていれば、唐突にぶわりと顔に煙を吹きかけられた。
「ちょっ、うええっ、やめてくださいってば」
不意打ちで甘い匂いに顔面を包まれ、うっかりと吸い込んでしまったせいで喉に煙が引っかかり、げほげほと噎せながら抗議すれば、はん、とザップがせせら笑う。
「全部オメーが悪ぃんだよ」
「はあああ? 責任転嫁やめてもらえますぅう?」
一体レオナルドの何が悪いというのか。全くもって意味が分からない。
しかしその意味を問う前に再度煙を吹きかけられてしまったから、やめろと怒鳴りながらパタパタと手を振って煙を散らしても、しつこくまた新たな煙が顔面を覆う。白い視界の合間からは、ひどく楽しげににやにやと笑うザップの顔が見えた。完全に面白がっている顔だ。すごくムカつく。
しばらくは絶対、ランチに誘ってやらない。ツェッドさんと二人で行ってやる。絶対にだ。
心の中で固く決意しながら、煙のせいでいがらっぽくなってしまった喉を湿らせるべくこくりと唾を飲み込めば、ここ最近ですっかりと嗅ぎなれて馴染んでしまった、ザップの葉巻の甘い香りが鼻から抜けてゆく。
とても認めたくはないことであるけれど、それがやけにしっくりと来て、ものすごく納得がいかないけれど、その香りが強くなった瞬間、どうしてか落ち着いて安心しまったものだから。
余計にムカついてムキになったレオナルドは、誤魔化すように心の中、絶対に絶対に絶対に、絶対だからな! と、そう、何度も繰り返して自身に言い聞かせた。
(しゃあねーんだよ、アホ)
だって仕方がないだろう。
何もかも全部、レオナルドが悪いのだ。
ひと月ほど前のことだ。大掛かりな人身売買組織の撲滅にライブラが乗り出した。異界の技術を取り入れてステルスを決め込んだ本拠地を探し出し、捕まった被害者たちを見つけるには神々の義眼に頼る他なく、ようやくたどり着いた最深部で黒幕を叩き潰し被害者たちを保護した頃には、レオナルドの眼からはしゅうしゅうと白い煙が噴き出し肉の焼ける匂いが漂い始めていた。
普段はいらないものまで見通す無駄に高性能な変態眼球のくせして、一旦オーバーヒートしてしまうと暴走してちっとも使えなくなる。何でも近くも遠くもあらゆるもの、何もかもが見えすぎて逆に何が見えているのか分からなくなるらしい。ぽんこつのクズ以下だ。
ギリギリまで義眼を駆使していたレオナルドは、被害者の最後の一人がライブラの戦闘員に抱えられて外へと連れ出されるのを見守って、ようやく義眼の制御を手放した。地面にうずくまって頭を抱え、ポケットから取り出した瞬間冷却材を数度床に叩きつけ、眼に当てて苦しげに呻いている。
そのタイミングで。きっちり叩きのめした筈の人身売買組織の一人が、最後の悪足掻きか、よろよろと立ち上がり覚束無い足取りでうずくまるレオナルドの方へと歩き出したのだ。
下っ端のチンピラ、さして脅威ではなかった。手には武器になるようなものすら持っておらず、ふらふらの足は亀よりも遅い歩みで、しかも戦闘の余波で床一面に転がる瓦礫を蹴りながら進むせいでガンガンに足音が響いている。
さすがのレオナルドだって、見えていなくともあれくらいは回避出来るだろう。何かが近づいてきたと気づけば、大袈裟に叫んで後ろにふっ飛ぶかもしれない。前日にレオナルドの部屋で観た、きゅうりに驚いてすっ飛ぶ猫の動画を思い出して沸いた悪戯心、ギリギリまで手を出さず観察してやろうなんて思ったのがいけなかった。
レオナルドは、その場から動かなかった。男の手があと少しで触れるという距離に近づかれても、逃げ出す素振りすら見せなかった。
気づいていなかった訳じゃない。眼に冷却材を当てたまま、向かってくる男の方へと顔を向けていたから。
なのにあの馬鹿は、事もあろうにそいつに向けて笑いかけたのだ。へらりと口元を緩めて、気の抜けた声で、心做しか嬉しそうに。
ザップさん。
確かにそう、唇を動かしながら。
それを見た瞬間。気づけば一息に跳んでレオナルドと男の間に割って入り、男の手を斬り飛ばしていた。すぐさま勢いよく噴き出した血でぬめった頬の生暖かな温度は、いつもにも増して不快でしかなかった。血飛沫はレオナルドにも降りかかったようで、それでようやく悲鳴を上げて後ろに飛び退る。
気づくのが遅えんだよ、アホ。
大きな舌打ちをしたザップの気分は、控え目に言ってサイッコーにサイテーでサイアクだった。
なぜなら、血の匂いの立ち込める直前。男から微かに香った匂いは、その日ザップが吸っていた葉巻と同じものだったから。
だから全部、レオナルドが悪い。
レオナルドが、間違えたから。
敵対する相手を、ザップだと勘違いして笑いかけたから。
眼が使えなければろくに気配すらも察することの出来ない貧弱で弱っちいちんちくりんが、匂いでザップを取り違えたから。
しょっちゅうトラブルに巻き込まれては死にかけているところを仕方なしに拾って助けてやった時に、心底安心したような顔でザップに向けて笑うのと同じ顔を、どこの誰とも知らない敵対する相手に見せたから。
クラウスやスティーブン、K・Kに向けるより肩の力が抜けていて、チェインやツェッドに向けるより格好をつけていなくって、ザップだけに向ける筈のそれ。ザップだけのものであるべきもの。
今まさに死にそうになっていても、ザップを見つけた途端にへにゃりと緊張感なく唇が安堵に緩む。一歩間違えば死ぬ状況のくせに、絶体絶命の最中に無防備にも自ら命をまるごと手放してぽんとこちらへ放り投げて、ザップに預ければもう大丈夫だという顔で何もかもを委ねてみせる。
レオナルドがそれを浮かべるのはザップを見つけた一瞬だけ。すぐさまぎゃあぎゃあと騒いで泣きわめき始めるけれど、いつだってそれを向けられなかった事はない。直前に財布から金をかっぱらっていたって、なけなしの食料を全て奪ってこれみよがしに見せつけるように食べた後だって、いざ崖っぷちに立たされた時、束の間、ザップへと向ける絶対的な信頼と安心は、一度だって揺らいだことは無かった。
だから、仕方がない。
女達を泣かせるのは本意ではないけれど、量産品を纏っていればまたこの馬鹿が間違えるかもしれないから。
ザップのものだけのそれを、違う誰かに差し出してしまうかもしれないから。
そんな事、許せる筈がない。
ギルベルトを通じて頼んだオーダーメイド、市場に出回るどんな葉巻とも被らない唯一の香りをと注文をつけたせいで、やけにクセの強い甘ったるい匂いになってしまった。最初のうちは口の中が落ち着かなかったものの、慣れればそれほど悪くは無い。アホみたいに甘っちょろいくせに変なところで頑固なレオナルドには、ぴったりと似合っているようにも思える。
むすりと唇を引き結び、納得のいってない顔をしているレオナルドに何もかも教えてやる気はない。別にレオナルドのためではないのだ。ザップが、自分だけのものを他にくれてやるのがムカつくから。ただそれだけのこと。
それに全部レオナルドのせいなのだから、せいぜい悩んで喚いていればいい。どうせレオナルドのこと、愛人たちの動向が落ち着くまでザップと距離を置こうなんて生意気な事を考えているに違いないが、そんな事させてかんてやるものか。何もかもレオナルドが悪いのだから、これからも連れ回して積極的に巻き込んでやるつもりだ。
そしてむくれて黙り込んだレオナルドを見ているうち、ふと思いついてなんとなく気が向いて、その顔に煙を吹きかけてやる。煙を吐き出す直前、そういえばと葉巻の煙を顔に吹きかける仕草に纏わる俗説を思い出したけれど、どうせこの童貞には意味が分かるまい。事実その通り、げほげほと噎せながらぎゃんぎゃん喚くレオナルドは、何かを察した様子は微塵も無かった。
面白くなって二度三度と煙を吹きかければ、ちゃちな玩具みたいにバタバタと手を振って暴れ始めたから、ますます楽しくって仕方ない。
二度と間違えるんじゃねぇぞ、レオ。
馴染ませるように、刷り込むように、覚え込ませるように。すっかりと短くなった葉巻、最後の煙をゆっくりと顔全体に吹きかけてやる。
ふすん、鼻から薄い煙を吐き出した涙目のレオナルドからは、ザップと同じ匂いがした。それが思いのほか悪くなくって、妙に気分が良かったものだから。これっぽつちも可愛げのないちんちくりんが、やけに美味そうに見えてしまったから。
そうだ、ヤろう。
まるで今晩のディナーを決めるような軽さで、ザップはあっさりとそれを決めてしまう。
既にザップの中では決定事項、反論を聞いてやるつもりは毛の先ほども無かった。