ハッシャバイベイビー


ベストは深夜の二時から三時の間。
十二時すぎだと少し早すぎて、三時を超えると少し遅すぎる。
勿論前日と翌日のスケジュールにも密接に関係しているから、絶対とは言えないものの、基本的にはそこを抑えとけば間違いない。
別にレオナルドの、翌日の予定に支障が出るだとか、その辺は特に気にしちゃいない。
ただ単純に、そこの時間帯がザップにとって都合がいいだけ。

いかにもぼろっちいアパートの部屋の前で、まずは中の様子をぼんやり探り、慣れた気配がある事を確認してから、壊れない程度にドアを一蹴り。そうして中の気配が揺らいだ具合によって、追加で何度かガンガンとドアを蹴り、オラ先輩様が来てやったぞとっとと開けろと催促はするものの、大抵は内側から開けられる前に、ザップの手によって開ける事が多い。当然、合鍵なんぞは使わない。
ここでレオナルドが、普段通りにきゃんきゃんと言い返してきたら、目論見は失敗。そこまで意識がはっきりしてると、うまくはいかない事は分かっている。そんな時は腹いせも兼ねて、適当に食料を漁って朝までしつこく居座って絡む。

もう何なんすか眠いんっすけど、と欠伸をしながら微妙に舌の回らない口調でのろのろと玄関に近づいてきたら、その日は当たり。
半分寝たままのレオナルドを完全に起こしてしまわないよう、ザップにしては珍しく声量と言葉に気をつけ、そっとレオナルドをベッドへと追い立てる。あんまりいつもの調子でからかえば、条件反射なのがむにゃむにゃと言い返しているうちに、レオナルドが覚醒してしまう確率が高い。
そうなったら台無しだから、ザップは静かにレェオ、と呼びかけ、まるで愛人でも相手にするかのように、柔らかく背中を押してベッドへと連れて行ってやる。

愛人相手ならそのまま、服を脱いでセックスにしけこむ所だが、レオナルドは愛人ではないし、ザップの目的はそれではない。
ふらふらと寝ぼけつつ、ザップの誘導に従ってベッドに寝転がったレオナルドの横に、ザップも一緒に潜り込む。
顔の位置はちょうどレオナルドの鎖骨の辺りに来るように。
ただでさえレオナルドの部屋のベッドはザップには小さいのに、頭の位置を下にずらしたせいでますます、足の方が窮屈な事になっているけれど、多少は仕方ない。
そのまましばらく待って、何も起こらなければ、額をぐいぐいとレオナルドの胸に押し付け、小さな声で囁く。

レオ、レェオ、なあ、レオ。

部屋に反響した己の声を耳にして、ザップ自身が驚いたほど、甘えきった声で。起きているレオナルド相手だったら、からかう時か金をせびる時くらいにしか使わない種類のもので、しかもそれより数倍甘い。
これが誰かに聞かれているなら、けしてこんな声は出さないけれど、これも目的のためだから仕方ない。普通の声で呼びかけるより、甘えた声で名前を呼んだ方が、効果的なのだ。

ほら、現に。

「ん……、ほら、いーこだから、寝よう……いーこ、いい子……」

むずがるようにううん、と喉を鳴らしたレオナルドが、そっとザップの頭を抱きしめて、むにゃむにゃと呟きながら、柔らかく髪を撫でる。
まるで幼子をあやすような口調は、心地よく身体に染みてゆき、すとんと気が抜けた。
頭を撫でるのとは逆の手はザップの背中に添えられていて、とんとん、と一定の間隔を置いて叩かれる。
背中を触られるのはあまり好きではないザップではあるけれど、優しさしか宿していない手のひらの動きに、欠片ほどの警戒心を抱くのも馬鹿馬鹿しい。
だってこれが、ザップを傷つける訳がない事は、ザップが一番よく分かっている。

最初はきっと、ミシェーラの夢を見ていたのだろう。
いい子good girlと呟いた声はあまりにも無邪気で、眠るレオナルドが浮かべた表情は穏やかな幸福に満ちていた。
その時は確か、最初から一緒に眠った訳ではなく、愛人に追い出されて仕方なくレオナルドの部屋に行って、レオナルドをベッドから蹴り落としてザップが占拠していた筈なのに、明け方ふと気づいて目が覚めた時には脇の空いたスペースにレオナルドが潜り込んでいた。
柔らかくて抱き心地のいい女ならまだしも、男と同じベッドで眠る趣味なんて、ザップにはない。たとえそれがレオナルドのベッドであっても、関係ない。
だからザップはザップの理論に従って、再びレオナルドをベッドから追い払おうとしたのだったが。
そのタイミングで、寝ぼけた声のレオナルドに抱きしめられたのだ。
いい子いい子と、頭を撫でられながら。

硬く薄っぺらい男の胸に、顔を埋めたって何も楽しくないし面白くもない。
置かれた状況にムカついて、一発で目覚めるくらいキツい一撃をくらわせてやろうと思ったはずだったのに、なぜだかザップの身体は思ったように動いてくれなかった。
たぶん、殴る前に、ちらりとレオナルドの顔を見てしまったのが、良くなかった。

だって、あまりにも邪気がなくて、無害で、柔らかで、暖かなくせに、何も求めていなくって、ただただ腕の中の存在が愛しい、みたいなそんな、顔をしていたから。
ぼんやりとそれに見入ってるうち、いつの間にか外は明るくなっていて、蹴落とすタイミングを見失ってしまったのだ。


それから。
ザップはたまに、眠るレオナルドの隣に潜り込むようになった。
最初のうちはたまたま仕方なく、別に狙ったわけじゃない、慈悲をやってベッドに入れてやってだけだと、自分自身に言い訳していたザップだったけれど、途中からそれも面倒くさくなって、コレがひどく心地よいものだと、一応は認めることにした。
だって、コレはあまりに害がない。
男のくせに、貧弱で間抜けなレオナルドの抱擁は、レオナルドより柔らかくて小さな女達より、よほど無害なのだ。
抱きしめて慈しんだ見返りに心を要求することも無いし、背中に回した手のひらにナイフを隠したりもしていない。与える事しか考えてなくて、腕の中のものがただそこにいるだけでこの上なく幸せそうに笑う。
ハッシャバイベイビー、なんて掠れた声で呟きながら、心音に合わせて背中を叩いて、メロディすらはっきりしない下手くそな子守唄を途切れ途切れに口ずさむ。
頭を撫でる指先には、アタシを愛してなんて言葉は乗っていなくて、ただただ腕の中の愛しい存在が、健やかに眠れますようにと願う心しか滲んではいない。
それが、レオナルドの最愛に向けられているものだと理解していたからこそ、そこはひどく安心出来た。
もしもザップが寝ぼけて噛み付いたとして、気まぐれに首を締めたとして、抵抗することなく、どうしたんだいミシェーラ、怖い夢を見たの? と甘やかに笑う様が目に浮かぶ。

愛してるといじらしく擦り寄ってくる女はみんな可愛くて、ザップなりに彼女達みんなを愛しているけど、それはある種の対価を伴ったやり取りでもあった。ザップが彼女達をめいっぱい愛して、気持ちよくさせるからこそ、ザップだって気持ちよくなれるし、いい気分になれる。
けれど眠るレオナルドが腕の中に捧げるのは、それとは全く違った種類のものだった。
何も返さなくていい、ただ受け取るだけでいい、或いは受け取らなくてもいい。それでも変わらず、注がれる柔らかな親愛。
そこに包まれて眠れば、その腕の持ち主がその辺のビヨンドにあっさり殴り倒されるような弱い存在と知っていても、世界で一番安全な場所にいるような錯覚を覚えるのだ。

そこは、安全な寝床だった。
どこかに警戒を残したまま、身体の一部は目覚めたまま、眠る必要のない場所。
周りの状況に気を使うことなく、たっぷりと眠る事の出来る所。

そこにそれ以上の意味がついたきっかけは、馬鹿馬鹿しいくらい単純なものだった。

いい子good girlいい子good boyに変わった、たったそれだけで。

ぎゅうぎゅうと痛いくらいに胸が締め付けられて、喉の奥がじわりと熱くなる。頭がふわふわと軽くなって、後頭部からじんじんと熱が溢れてくる。
それはドラッグでハッピーになった時とよく似ていて、けれどドラッグよりも依存性がよほど高い。
いい子good boy、おやすみ、いい夢を、とレオナルドが夢現に呟いて微笑むたび、ぎりぎりと奥歯を噛み締めなければ喉の奥から、何かがドロドロと溢れてきそうだった。
犬じゃねえぞふざけんな、と呟いて眠るレオナルドのほっぺたを抓ってみても、ぐつぐつと煮えたぎる胸はちっとも落ち着かず、眠ったままふにゃりと笑って、背に回した指にほんの少し、力を込めるレオナルドの反応に、胃の中身を全て吐き出しそうになる。

その不可解な感情につける名前を、ザップは持ち合わせてはいなかった。
けれど、もしかしたら、それは。
幸福、と呼ぶのかもしれない、などと、らしくもない事をふと思ってしまったら、もう手放せなくなった。

楽しい、ならザップの中に、数多存在する。
酒を飲んで酔うのも楽しければ、ドラッグでトリップするのも楽しいし、女を抱くのも楽しい。殴り合いも楽しいし、生死の狭間で命のやり取りをするのだって、全部全部、楽しくて仕方がない。

レオナルドの寝言は、けして楽しくない。
わくわくもしないし熱くもならないし、似たようなルーティーンで目新しさもない。
なのに、その腕に抱き込まれて、ぽんぽんと背中を叩かれるだけで、身体の内側が柔らかなもので撫でられたような気がして、喉の奥から熱い塊がせり上がってくる。
腹の奥がもぞもぞして居心地が悪いのに、ずっとそこに留まっていたくて、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思う。

いっそのこと、抱いちまうか、と眠るレオナルドを見つめ、考えた事は一度や二度では済まない。
だってそうすれば、この居心地の悪い不可解で柔らかなものを、ザップのフィールドに引き込んで塗り替える事が出来る。
そうすれば、少しは気が晴れる。意識もないくせに散々、内側を乱したレオナルドが、ザップの手で乱れて喘げば、それはきっとひどく楽しい。
優しくザップの頭を撫でる手は、もっと優しく甘やかになって、寝ぼけたレオナルド呟くのがgood boyでなく、my sweetなんてものになれば、傑作だ。想像するだけで、面白い。

でも、それをしてしまえば、取り返しがつかない気もするのだ。
いい子、と寝ぼけて呟くレオナルドは永遠に失われて、愛人たちと同じ、愛してるから愛して頂戴、と指先に望みを宿すようになるかもしれない。

愛人を作るのは、簡単だ。
褒めて煽ててベッドに誘って、最高に気持ちよくしてやる。たったそれだけでいい。

けれどレオナルドと同じものを作る方法を、ザップは知らない。
この街で生きてるくせに眼を使ってすらろくに身を守る事も出来ないくらい弱くて、なのに雑に扱って殴って金を奪って罵っても、ちっとも怯むこと無くあまつさえ煩く反論すらしてきて、たまに助けてやればあっさりありがとうございますなんて口にして、ザップが怪我をすれば馬鹿みたいに泣いて、寝ぼけて人の頭を撫でて呑気にへらりと笑うような、そんなもの。

抱いてしまうのは、簡単だ。
抵抗されたって抑え込めるし、男ではあるけれど多分、勃つ。
でもそうして、レオナルドが愛人と同じものになったら、もしかして。
この、腹が立つほど穏やかで、喉の何かがせり上がってくるような――認めるのはムカつくけれど、多分、泣きたくなるような。
馬鹿みたいに幸せな時間が、永遠に喪われてしまうかもしれない。

だから今日もザップは、少しの逡巡の後、レオナルドに伸ばしかけた手を引っ込めて、ぐりぐりとその胸に頭を押し付け、名前を呼ぶ。

レオ、レェオ、レオナルド、レオ。

すると頭の上で、レオナルドがうっすらと微笑んだ気配があって、とんとんと背中を叩かれ、旋毛に軽いキスをされて。

ハッシャバイベイビー。
風が吹いたら、揺りかごが落ちる。
そしたら、兄ちゃんがちゃあんと、受け止めてやるよ。

少し変則的な子守唄はきっと、レオナルドが昔、ミシェーラに歌ってやってたものだろう。
ゆっくりと時間をかけて、切れ切れに吐き出された子守唄に耳を傾けたあと、バーカ、お前を受け止めんのは俺だろ、と笑って鼻を軽く弾いて。

ゆっくりと目を瞑ったザップは、深い眠りへと落ちていった。