おさるのきもち


そういう日は、なんとなく分かってしまう。

どれが決め手になっているのかは、はっきりと分からない。レオナルドの纏う気配だとか、喋り方だとか、ソニックを撫でる指先の動きだとか、刻む呼吸のタイミングだとか。そういう全部がいつもと何も変わらないようでいて、けれどどこかしらいつもと違っていて漠然とした違和感があって、そわそわと落ち着かない気持ちになってしまう時。
レオナルドの肩に乗って、一番近くでレオナルドが発する全てを感じ取っているソニックには、なんとなく予感がする事がある。
ああ、もしかして今日は、そんな日かもしれないって。

そんなソニックの予想は、大抵は当たってしまう。当たってくれない方がずっとずっといいのに、気のせいでありますようにって願っているのに、いつだって音速猿のささやかな望みは叶ってはくれない。


真夜中のことだ。ベッドで眠っていたレオナルドの規則正しい寝息が、大きく乱れた。苦しげな呻き声を喉の奥から絞り出し、嫌がるように何度も首を横に振って、「ミシェーラ」、いつもなら柔らかく優しげな声色で紡ぐその名前を、まるで正反対のボロボロに傷ついて強張った声で口にする。何度も、何度も、何度も。「やめろ」「どうして」「ごめん」聞いているソニックの小さな胸がきゅうきゅうと締め付けられて、哀しくって痛くって寂しくってたまらなくなるような、絶望に満ち満ちた声で。

レオナルドのことは、よく知っている。ソニックは人の言葉を話せないけれど、人の言葉は理解しているから、レオナルドが話してくれたことはちゃんと……忘れてしまったこともあるかもしれないけれど、それなりに覚えてはいるつもりだ。
その中でも一番よく聞いている話は、ミシェーラのこと。優しいレオナルドが一番優しい顔で話す、レオナルドの大事な家族のこと。だからよく知っている。レオナルドがどれほどミシェーラのことを大切にしているか。レオナルドがどれほどミシェーラのことで後悔をしているか。レオナルドがどれほど自分のことを許せないままでいるか。
レオナルドの普通の人間とは違う特別な目のことが、ソニックは好きだった。だってそれはソニックを見つけてくれたものだから。いつだってソニックを見つけてくれるものだから。
けれどレオナルドがその目のことをけして好きではないことも分かっている。悪いやつがレオナルドとミシェーラから目を奪って、その代わりにきらきらした目をはめ込んだってことも、ちゃんと理解している。そうしてそのせいで、時々寝ているレオナルドが苦しそうにしているんだってことも、全部。

しゅんと部屋の中を跳んで、レオナルドの枕元に移動する。ううううう、唸り声は近づいた分だけ大きくなって、音だけでなく振動となってソニックの小さな体をびりびり揺らす。
きゅう、思わず漏らした鳴き声はひどく頼りない。普段は人間になりたいと思ったことはあんまりないけれど、この時だけはいつも人間になれたらいいのにと思ってしまう。苦しげなレオナルドの頬にぺたりと触れた手はあまりにも小さすぎて、眉間に刻まれた皺を伸ばしてやることも出来ない。それどころかせわしなく動くレオナルドの顔に潰されてしまわないよう、ひょいひょいと避けなければならないからなおのこと、ままならない。
もしも人間だったら、人間になれなくってももっと大きかったら、温かい毛皮でレオナルドのことをくるんでやれたのに。そうしたら、少しは眉間の皺を薄くしてやれたかもしれないのに。寝返りを打ったその体の下敷きにならないよう、またぴょんと跳んだソニックはもどかしげにきゅうきゅうと鳴く。

レオナルドを助けてやりたいけれど、起こしてしまうのもあまり良くないと分かっている。
今までに何度か、あんまりに苦しげな姿を見ていられなくって、ぺちぺちとおでこを叩いて髪を引っ張って起こした事はあった。そうするとレオナルドは、眠そうな目を開いて枕元のソニックを見つけると困ったように笑い、心配かけてごめんな、大丈夫だよ、安心させるように何度も囁いてくれる。けれどまた眠ってしばらくすると、魘されるのだ。さっき口にしたのと同じ言葉を繰り返して、まるで怖い夢をまた最初から巻き戻してみているみたいに。
起こしても起こさなくっても、レオナルドの悪い夢は終わってくれない。どちらかといえば起こした分だけ、刻まれた夢を繰り返す回数が増えているようにも思えて、翌朝の疲労も起こさなかった時よりも幾分濃いように見えてしまう。だからどれだけ見ているのが苦しくったって、ソニックはレオナルドを起こさないようにすることにしている。

けれどだからといって朝まで知らんふりで放っておくことも出来なくって、レオナルドの顔の近くをちょこまかと移動しながら、ソニックはじっと目を凝らしていた。夢の入口を見つけるためだ。
ソニックも時々怖い夢を見ることがあるけれど、そんな時は決まってレオナルドが夢の中に助けに来てくれる。なんだよ探したんだぞ、いつも通りの顔でソニックを見つけてくれるレオナルドが差し出した手の指をきゅっと握れば、たちまち怖いものは消え去ってしまう。
だからソニックだって、レオナルドの夢に入ることが出来ればレオナルドを怖いものから助けてやれるかもしれない。外では小さなソニックだけど、夢の中ならレオナルドより大きくなれることだってある。レオナルドを苦しめるものよりずっと、ギガ・ギガフトマシフ伯爵くらい大きくなって、悪いものをぺしょりと踏みつぶしてやったら、きっとレオナルドは怖い夢から抜け出すことが出来るだろう。
夢に入る方法は分からないけれど、人間より音速猿の方がずっと小さいから、人間の夢になら隙間から入り込めるかもしれない。そう思ってこの間からずっと夢の入口を探しているけれど、まだそれらしきものは見つけられていなかった。

ぐるりとレオナルドの顔の周りを一周したソニックは、きゅふうと息を吐き出して考え込む。今日も夢の入口らしきものは見つけられない。なんとなく頭の近くにあるような気がしていたけれど、これだけ探しても見つからないってことはもしかしたら足の方にあるんじゃないだろうか。
しかし早速足元に移動しようとしたソニックの耳に微かな足音が聞こえたから、音速猿はぴたりと動きを止める。
その足音の主を、ソニックは知っていた。いつもはもっとばたばたとせわしなく大きな足音を立てる人間で、それもレオナルドの家に来る時はまるでわざと来訪を知らせるように一段とやかましく地面を踏みつけるのだけれど、今日に限ってはその煩さはなりをひそめている。ぱっと聞いただけじゃ、とてもその人のものとは思えない。
けれどソニックは確信している。この足音の主は間違いなく、ザップだってことを。

ソニックはレオナルドのそういう日が、なんとなく分かる。
そしてきっと、ザップも。ソニックと同じくらい、もしかしたらソニックよりも、レオナルドのそういう気配を察しているらしい。だってそんな日は必ず、レオナルドが寝ている頃にひっそりと静かにやってくるから。

思った通り、足音はレオナルドの部屋の前で止まる。そしてがちゃがちゃと控えめにドアの鍵が鳴る音がして、少しも経たないうちにすうっと玄関の扉が開いた。そこに現れた姿形は、ソニックが思った通り、やっぱりザップのものだ。
いつもの彼には似つかわしくなく、開けた時と同じく音もなくそっと扉を閉めてから、ザップはぐるりと部屋の中を見回した。そうしてベッドの上で相変わらずうんうんと苦しげに魘されているレオナルドを見つけると、ふんと鼻を鳴らしてからずかずかと部屋に上がり込み近づいてゆく。ソニックはザップに見つかる前に、音速猿のスピードを活かして人の目に止まらぬ速さでレオナルドの傍から跳び去ると、ベッドから少し離れた棚の上から二人の様子を見守ることにした。
小さな音速猿からしてもあんまり広くない部屋の中、たった数歩であっさりと玄関からベッドの前まで移動したザップは、まじまじとレオナルドの顔を見つめるとはあと大きなため息を一つ吐き出して片手でぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。そして小さな舌打ちをしてから、頭にやった手をそのままの形でレオナルドの頬に添えれば、それだけでほんの少しだけ苦しげな呻き声が小さくなった。

ザップもソニックと同じように、最初のうちはレオナルドを起こそうとしていた。殊更乱暴な手つきで胸ぐらを掴んでぶんぶんと揺さぶり、おい起きろ陰毛、耳元でがなり立てて強制的に悪い夢から遠ざけようとしていた。
けれどそれじゃあ、怖い夢は完全には去ってくれない。ソニックの時と同じだ。何度だってそれはレオナルドに襲いかかって、彼を苦しめてしまう。それにそういう日の次の日のレオナルドは、明らかに寝不足で疲れている素振りでも、なんでもないですよってへらへら笑おうとするから。小さなことでも大袈裟にわあわあ騒いだりはしゃいだり落ち込んだりするレオナルドが、それだけは誰からも隠そうとする。明らかにいつもと違うのに、ソニックにだってザップにだってけして見せようとはしてくれない。起きた回数が増えた分だけ、浅くなった眠りに分かりやすく刻まれた隈がどれほど濃くったって、貼り付けた笑顔をけして剥がそうとはしてくれない。
だからソニックと同様、何度目かのあと、ザップもレオナルドを無理に起こすことをやめてしまった。
その、代わりに。

レオナルドの頬をさらりと指で撫でてから、手を離したザップが突然服を脱ぎ始める。するすると上を脱いで下も脱いで、音速猿もびっくりの速さであっという間にパンツ一枚になってしまった。
そうしてこっそりと見つめているソニックと眠るレオナルドしかいない部屋の中で、おー寒い寒い、わざとらしく声に出して呟いてぶるりと身を震わせると、毛布をめくってレオナルドの隣にもぐり込む。まるでお約束のように毎回必ず、寒い日も寒くない日も、ベッドにもぐり込む前には寒い寒いと口にするのがお決まりになっている。
ベッドに横になったザップは、ぎゅっとレオナルドの体を抱き寄せた。そして毛布の中、ちょうどレオナルドの背中あたりがもぞりもぞりと動いていて、おそらく背を撫でているのだと分かる。
苦しげなレオナルドの表情はしばらくそのまんま。けれどレオナルドがむずがるように首を振る度、もぞもぞと動く毛布の中の手とは反対側の手がゆるゆるとレオナルドの後頭部を撫でて、その顔をそっと自分の鎖骨のあたりに押し付ける。無理やりとは真逆の、とても優しげな手つきで。嫌がるようにレオナルドが顔を背けても、根気強く何度も、何度でも。

レオナルドの指みたいだ、ソニックは思う。
ソニックをくるくると擽る時のレオナルドの指、脆い音速猿をけして傷つけないようにとの気遣いと優しさに満ちたレオナルドの指先とザップのそれが、とてもよく似ている。いつもは手加減なしにばしりばしりとレオナルドの頭を叩くザップの手とは全然違って、その指は柔らかで繊細な線しか描かない。
初めのうちは、もっとぎこちなかった。強ばって固くてまるで木の枝みたい、ぎしぎしと音がしそうな動きで恐る恐るレオナルドの頭に触れていて、もぞもぞと毛布の中で動く手だって何度も止まっていた。おっかなびっくり、まるで初めて赤ん坊に触れる子猿みたいに。
なのに今じゃ、それなりに様になっている。父猿みたいな顔でレオナルドを見つめて、母猿みたいな手つきで魘されるレオナルドをあやしている。昼間は分別のない子猿みたいなのに、今のザップからそんな気配は微塵も感じない。

いいなあ、羨ましいなあ。ゆるゆると動き続けるザップの指を見つめながら、ソニックは思う。
それはもしもソニックが人間になったら、レオナルドにしてあげたいことだったから。音速猿の体はとても便利で気に入っているけれど、レオナルドがいつも撫でてくれるそのままにレオナルドを撫でてやるには、やっぱり人間の体でなくっちゃいけない。
レオナルドのおしゃべりを聞くのも一緒に遊びに行くのも楽しくって大好きだけど、一番好きなのはやっぱりレオナルドに撫でてもらうこと。ふわふわと撫でられるのはとても気持ちがよくって嬉しくって、うっとりとしてしまう。撫でられた部分が気持ちいいだけじゃなくって、全身をふかふかの羽にくるまれたみたいな気持ちになって、飛び跳ねたいような眠ってしまいたいような、くすぐったくて楽しくて安心して仕方がなくって、世界で一番特別で幸せな音速猿になった気がしてしまう。
だからレオナルドがソニックにしてくれる一番嬉しくって幸せになれることを、レオナルドにもしてあげたかった。レオナルドがしてくれるようにレオナルドを撫でてやって、いつもソニックが感じているように、世界で一番幸せな気分になってもらいたかった。とびきり大好きなレオナルドに、とびきり大好きなものをあげたかった。

けれど、まあ、いい。ソニックはもう立派な大猿なので、ままならないことがあっても子猿みたいに拗ねて不貞腐れたりなんてしない。今大切なのは、ソニックの気持ちではなくレオナルドの安眠だ。
じっとザップの指先を見つめたソニックは、うん、重々しく一つ頷いた。
本当はソニックが撫でてやりたかったけれど、あれでもいいことにしてやろう。だってザップの指先はレオナルドのそれとよく似ていて、似ているという範囲では収まらないくらい指の動かし方や触り方が同じようで、まるでレオナルドの指を真似しているように見える。
ということはつまりきっと、ザップだってレオナルドのあの指の優しさを知っているってことだ。
ソニックがレオナルドにしてやりたいと思ったように、ザップも魘されているレオナルドを見て同じように思ったのかもしれない。自分にしてもらった気持ちくて嬉しいことを、そのままレオナルドにしてやっているのかもしれない。ソニックと同じように、大好きなレオナルドに大好きなことをしてやりたいと思ったのかもしれない。
そうだ、きっとそうに違いない。なら、ソニックが撫でてやっているようなものとして考えてもいいだろう。
レオナルドが起きている時にも同じようにしてやればもっと喜ぶだろうにと思うけれど、それも仕方がない。大猿のソニックとは違って、ザップはまだまだ子猿だ。子猿だから、素直になれないことだってある。音速猿ではないけれどザップも猿の仲間だとよくチェインが言っているから、そういうこともあるのだろう。種族は違えど、子猿は優しく見守ってやるのが大猿としての務めだ。

やがてザップの手のひらが頭を往復した回数と反比例して、レオナルドの苦しげな呻き声が小さくなってゆく。荒れて乱れた呼吸が、規則正しい寝息へと変化してゆく。ザップの腕の中、レオナルドの体から強張りがしゅるりと抜けてゆく。穏やかな眠りがレオナルドの中に広がってゆくのが、離れた場所からでも目に見えてよく分かった。
当然だ、どこか誇らしい気持ちでソニックは胸を張った。だって、レオナルドの指はとっても気持ちよくって安心するものなのだ。まだまだそっくりには程遠いけれど、真似たザップの指がレオナルドを悪い夢から掬い上げてくれるのだって、ちっともおかしなことではない。ほうらやっぱり、レオナルドの指はとびっきり気持ちがよくってすごいのだ。
レオナルドから悪い夢が遠ざかったこと、そしてそれをもたらした指の根っこに存在する大好きな友達の手の素晴らしさ、二つ分の嬉しさと誇らしさで思わずきゅふきゅふと声を漏らしてしまえば、ぐるり、ザップがソニックの方を振り返る気配があった。慌てて両手で口を押さえたけれど、もう遅い。薄っぺらいカーテンの隙間から入ってくる外の照明で薄ぼんやりと明るい部屋の中、ザップの二つの目が正確にソニックの居場所を捉えてしまう。
ソニックを見つけた瞬間、ザップはうげえ、という顔をした。悪戯が見つかった子猿のような、とても気まずそうで居心地の悪そうな顔だ。だからソニックは両手で両目を塞いでふるふると首を横に振った。何にも見てないよ、と伝えるためだ。
ザップは小さく舌打ちをすると、「……内緒にしろよ」とぽそりと呟いて、ふっと目を逸らしてしまう。これも最初に比べたら、随分と大人しくなったものだ。ソニックは大猿の顔でにっこりと笑う。前はソニックに見られたと気づいたら慌ててレオナルドから距離をとって「ちっげーし! こいつが胸糞わりー顔してたから! あー、と、あれだ! 罰ゲーム! 番頭の!」と必死で意味の分からない言い訳を連ねてレオナルドのことなんて全然どうでもいいのだと主張していたけれど、最近はちょっぴり気まずそうにして一言二言釘をさすだけ。抱き込んだレオナルドを放り投げることもしなくなった。

子猿の成長を見守る大猿の気持ちで微笑ましくザップの後ろ頭を見つめたソニックは、ひゅんと部屋の中を跳んで窓枠に乗っかり鍵を開ける。そしてぐりぐりと顔を差し込んで隙間を開けると、一旦後ろを振り返れば予想した通りザップがこちらを見ていた。身振り手振りで後でちゃんと鍵を閉めておくようにと伝えてから、ぴょんと夜の空に向けて高く飛び出した。ちょっとは大猿に近づいたけれど、まだまだ子猿のザップはあまりソニックが見ていれば落ち着かないかもしれない。レオナルドのことはまだ心配だったけれど、ザップに任せておけば安全だとも分かっている。子猿だけれど、ザップはとても強い猿なのだ。
それにソニックにはやらねばならないことがある。ザップのおかげでレオナルドが悪い夢をみる時間は少なくはなったけれど、ゼロにはならない。そうなればやっぱり、元を絶たねばならないだろう。そのためにも、一刻も早く夢の入口を探さなければいけない。闇雲にレオナルドの周りを探し回るだけじゃ手がかりは見つからなかったけれど、他の音速猿たちから話を聞けば何か良い方法が見つかるかもしれない。小さくて速くってあらゆる場所に忍び込める音速猿たちは、人間が思っているよりもいろんなことをいっぱい知っているのだ。

――待っててレオ、ぼくが絶対に助けてあげるからね。

ビルのてっぺんで一度休憩をとったソニックは、きりりと表情を引き締めて再び夜の街を跳ぶ。小さな頭の中には、大好きな友達の笑顔だけをいっぱいに浮かべて。