秘密の約束


呼び止められた時、珍しいなと思ったけれど、ないがしろにするつもりは当然無かった。
治療を求めてやってきたものなら、人種性別を問わず全てルシアナの大事な患者だ。
治療後のケアやカウンセリングも含めて対処してこその医療行為だと考えているから、迷う事なくするりと体を一つ分増やして、珍しい患者からの呼びかけに応える。

患者の名前はザップ・レンフロ。
医者としては全く歓迎すべき事ではないけれど、こちら側に浮上して以来、常連と言っていい程には、運び込まれる回数が群を抜いて多い。他の病院に連れてゆかれ手遅れになるよりはよほどマシだが、もうちょっと身体を大事にしてくれると医者としては安心なんだけど、と思わないでもない。
態度はあまりよろしくないものの、何度か治療するうちに多少はこちらの指示に大人しく従ってくれるようになった。
それなりにこちらの腕に信用も置いてくれているらしい。何もかも完全に丸投げでどんな処置をされたかの説明については、あまり興味がないらしくいつも適当に聞き流されるので、後で彼の上司に纏めて報告している。

そんなザップに、頼みてーことあるんだけど、と言われて多少の興味が湧いたのは事実だ。勿論他の患者と区別するつもりなんて毛頭なく、一瞬で消え去る類のもので、あくまで医者として対峙したのだが。

「もしも俺が死にかけても、やんなきゃマジやばいって時以外は、あっち側の治療は受けたくねえんだわ。どんだけ治るのに時間かかってもいいからよ」

言われたルシアナは、今度こそ本当に、医者の顔も忘れて心の底、本心から驚いた。
なにしろこのザップという患者は、もっとぱぱっと治るすげー薬とかねえの、だとか、治癒力のある寄生虫がいると知ればそれ便利そうじゃんとさほど抵抗のなさそうな様子で受け入れたりだとか。
とにかくヒューマーにしては珍しいほどに、あちら側のルールを利用した治療に抵抗を持っていない様子だったのだ。
外に出たらどうなるか分からないと言われれば、少し嫌そうな顔をしていたけれど、まあそれはそれで、とも言っていたから、最悪の場合はそこも視野に入れているようだったのに。

とは言え、けして悪い傾向ではない。
ルシアナとしても、くるりとひっくり返ったザップの新しい主張には大賛成ではある。
言われずとも極力、外に出ても患者の体に影響のない方法を選択するようにしている。ヘルサレムズ・ロットの中でしか保たない不安定な技術なんて、言ってみればICUの中だけで元気に走り回っているようなもの。完治とは程遠い。

「勿論よ。元々、あまりオススメはしてないからね。お金もかかっちゃうし。どうしようもなくなったら使うけど、なるべくなら使いたくないから」

現に今の貴方も、あれだけ手術受けてるけど、外に出ても全く何の問題ないよ、と告げればあからさまにほっとしたように表情を緩めてみせる。
ルシアナはその反応を、医者として心の底から喜ばしく思った。
何があったかは分からないけれど、以前とは違って外に出られないと困る事情が出来たらしい。
たとえどんな状況においても出来うる限りの手を尽くして治療にあたってはいるけれど、病状に及ぼす患者の心理状態の影響は大きい。
だからこの、しょっちゅう死にかけては運びこまれ、外に出られなくなってもそれはそれで別に、と言い放っていた青年が、外に出れなきゃ困ると匂わせたことが、何か新しい目的を見つけたことが暗に察せられたことが、単純に嬉しかった。

「あと、レオも。あいつも、同じで頼む。番頭辺りにはもしかしたら、そっちの方法頼まれるかもしんねーけど。でも、頼む。アイツが外に出れねーようにはしないでやってくれ」

だから続いた言葉にも探るような事はせず、絶対に約束するわと小さな胸を叩いて請け負った。
レオ、というのが誰を指すのかもすぐ思い当たる。
こちらもザップほどではなくとも、ちょくちょく大怪我を負っては運び込まれてくる常連だ。
一見すればライブラに属しているのが不思議なほど普通なのに、その身に神々の義眼を宿す青年。
あちらはあちらで自分の身体を大事にしていないような面が見え隠れしているから、ルシアナの中ではザップ同様に手のかかる患者でもあった。
そんな、ある意味では生き急いでいるようにも見える危なっかしい二人が、揃って何か目的を見つけたのならば良いことだ。
それが聞けただけでもルシアナとしては十分満足だったけれど、ザップの頼みはまだ終わらない。

「でもマジでやべー時は、使ってくれ。どうやっても生かして、んで、その後、どんだけかかってもいいから、外で生きてけるように治してほしいんだわ。金は、あー、ねえけど。どうにか都合つけっから」

それもまた、ルシアナの信念に反しない願いだった。
いざという時には、人繭状態にして延命を図る事も厭わない。仮に今治療法がない病気でも、未来に見つかる可能性があれば、ルシアナはそれに賭ける。
死んでしまったものを生き返らせる事は出来ないけれど、まだ死んでいないなら諦める事はしない。
どんな状況であっても絶対にあちら側の治療は受けたくないと主張されるよりはずっといい。

それに、その後の部分も大層良かった。
他の方法が無くて仕方なく異界の技術で命を繋いだあと、一見すれば完璧に治っているからと、その後の治療を放棄してしまう患者も少なくはない。
どれだけ口を酸っぱくして説明しても一定数はそんな患者が出てしまう事は、ルシアナが常々頭を悩ませている問題でもある。
そういった意味では、ザップの願いはむしろ、ルシアナの理想と合致すらしていた。
困った患者が一転、理想的な患者に変化した事を喜ばしく受け止めたルシアナは、すっかり機嫌をよくしてついつい尋ねてしまう。
医者としては願ったり叶ったりだけど、何があったの、と。
世間話のついでみたいな調子で。言い淀めば、すぐに話を打ち切るくらいの軽さで。

「レオと、約束したんだよ。いつかアイツの妹ちゃんの目取り戻したら、世界中、旅しようって。そしたらアイツ、いろんな景色写真に撮って、妹ちゃんに送ってやるんだっつって張り切っててな。調子乗って、別にザップさんはついてこなくてもいいですよ、とか生意気な事も言ってっけどさ」

けれどザップは、少しの沈黙の後、あっさりとそれを吐き出した。
もしかして、誰かに言ってしまいたかったのかもしれない。
まるで宝物を自慢するようなはしゃいだ声色と、唇を尖らせながらもキラキラと輝かせた瞳には、隠しきれない喜びが滲んでいたのだから。

ルシアナは医者という立場上、そしてマグラ・ド・グラナとの邂逅によりヒューマーではない存在となることを選び異界の知識すらも身に着けた事も加算して、彼らの置かれた状況をある程度は把握していた。
ライブラという組織に、血界の眷属の存在、そして神々の義眼の事までも。
だからこそ、そのささやかな願いを誰かれ構わず口にはしてしまえない事を理解している。
それでも誰かに自慢したくて仕方ないならば、その相手にはルシアナがうってつけだということも。
だってルシアナはどこまで行っても医者でしかなく、ザップはルシアナの患者だ。
患者の命を救うのがルシアナの望みで、つまりそれは、たとえばザップが語ったような、ささやかな未来の幸せを守ることに繋がっているから。
医者の守秘義務を持ち出すまでもなく、患者の幸せな未来への道を阻む行動に出る訳がない。

「でもアイツ、妹ちゃんの目取り戻したらっつーくせに、自分の目の事は忘れてやがんの。思いつきもしてねえの。んなの危なっかしいから、俺がついてってやんなきゃやべーし。一人じゃすぐに身ぐるみ剥がされて終わるだろ、あんなの。なのになーにがついてこなくてもいいですよ、だ。一緒に行くに決まってんだろ」

続いたザップの言葉に、確かにあの青年はそんな感じだなあと、のレオナルドを頭に浮かべたルシアナは同意する。指まで落とす大怪我をして以来、多少マシになった気がするけれど、根っこのところはまだまだ、ルシアナが受け取った印象通りのようだ。
ならばザップが彼についてゆくのは、こちらからもオススメしたい。まだまだ一人にするのは危なっかしい。レオナルドは勿論のこと、ザップだって。
しかし一人なら危なっかしいけれど、嬉しそうに語る様子を見れば、二人なら安心して送り出せる気がする。少なくともそれを語るザップは、約束を果たすために生き急ぐような真似は控えるようになるだろう。
ライブラの事や血界の眷属の事を考えれば、はいそうですかと素直にゆくのは難しそうだけれど、当然ルシアナにはそんなものは関係ない。
諸手を挙げての大賛成だ。治療した患者のその後の行く末が幸せに繋がるのが、医者としては何よりも嬉しい事なのだから。

吐き出し終えたザップは、にこにこと機嫌よく笑うルシアナを見て、少しバツの悪そうな顔をする。
絶対誰にも言うなよ、レオにもだ、と何度も念押しをしてきて、当たり前でしょと頷いてもなかなか落ち着かない。
ルシアナをちょうどいい自慢相手だと判断したのに、話し終えてしまえば本当に話してしまって大丈夫だったか、不安になったようだ。
誰にも話さないのになあ、とは思ったけれど、それではいけないらしいと理解したルシアナは、じゃあ、と一つの提案を告げる。
別にそれをわざわざ持ち出さなくともルシアナが口外することはないけれど、患者の不安を取り除くのも医者の務めだから。

「じゃあ、気が向いたらでいいからさ。一枚、私にも写真送ってよ。貴方たち二人が笑って写ってるやつ。それが口止め料って事で」

ぴん、と人差し指を立てて、重要な事を語るように。
それが差し出された秘密を口外しない対価に相応しいものだと、言い聞かせるように。
言われたザップは怪訝そうな、まるで詐欺師を見るかのような表情をして、なんでんなもん、と険のある声を出したから、やれやれと肩を竦めて付け加える。

「お金もそりゃ、必要だけどさー。薬とか機材とか、タダで湧いてくる訳じゃないし。でもね、正直、貰って嬉しいのはそういう、患者の元気な姿なんだよね」

だから私にとったら、サイッコーの報酬だよ、と言えば、簡単に合点がいったらしい。そういう素直さは、この青年の美点でもあると思う。
しゃあねえな、と口では言いつつ、サイッコーの一枚送ってやるよと、楽しい未来を優しげな眼差しで見つめ、ぐっと親指を立ててみせたザップに、ルシアナも頼んだよと親指を立てて返した。
後はもう、余計な言葉はいらない。
まずは怪我する頻度、減らしてねと医者らしく忠告して、へいへいと適当に手を振るザップの元を離れて別の患者の所へ。
その道中、自然と足取りが軽くなるのは仕方ない。

(楽しみね)

ザップを納得させるための言葉とはいえ、嘘は混じっていない。全て真実だ。
だからいつかの未来、こことは違う遠い場所から送られてくる写真が今から、楽しみで仕方なくて。
仮眠所に飾ってある、元患者たちからの写真や手紙。そこに新たに加わる一枚が、どんなものになるかと期待を膨らませる。

そして今日もルシアナは、一人でも多くの患者の未来の笑顔を守るため。
ちまちまと小さな体を動かして、人の隙間をひょいひょいと縫って慌ただしく移動し、新たに運び込まれた患者を救うべく、気合を入れるのだった。


後日。
ルシアナの忠告を聞いていたかいなかったのか、魚顔の青年と並んで再びベッドの住人となったザップに呼ばれ、こっそりと小さな声で付け加えられた条件。
ひどく不本意だと言いたげな、膨れっ面を隠しもしないで。

「ワリ、あの魚類も頼むわ。俺は魚くせーのは嫌だっつってんのに、レオが、あいつも連れてくっつーから。ザップさんが行きたくないならツェッドさんと行きます、とか言い出してよぉ、ひでーだろ?」

だからしゃーねえんだわ、とため息をついたザップは、けれど言葉とは裏腹にどこか楽しそうだったから。
ルシアナは小さく笑って、指を一本立てて。
口止め料に一枚、追加予約をしておいた。