※ザップさんと愛人さんの事後描写あり
ライフライン
焚きしめた甘い香りと二人分の匂いがが混じった気怠い空気に、微かに葉巻の匂いが混じったのに気づいて、アンジェラはうとうととした微睡みの世界から帰還する。
隣にいるのはさっきまで身体を重ねていた男。上半身を起こして葉巻を吸う横顔はひどくセクシーで様になっているし、身体の相性もバッチリだけれど、それ以外は結構困った男だということはよく分かっていた。
現に、今だって。
お世辞だとしたって、すごく良かったよ最高の夜だった、くらい歯の浮くようなセリフでも言えば可愛げもあるのに、代わりにその男の口から飛び出てきたのは。
「なあアンジェラ。お前の知り合いに、童貞のに優しく手ほどきしてやんのが大好きなやついねえ?」
なんて、ピロートークにはどう考えても不向きなもの。しかもふざけてるのではなく、その男にしては珍しく真面目な様子で。
人によっちゃ馬鹿にされたって怒りだすかもしれない言葉だが、アンジェラは腹を立てる代わりに、ぱっと思いついた何人かの名前を挙げる。
「ヘレナは?」
「あーだめだわ。アイツ、道具使うの好きだろ。もっとノーマルなやつで」
「じゃあデイジー」
「デイジーはクスリ使うだろ。それもナシだ」
「んー、モリー?」
「モリーはヤリすぎるからダメだ」
「えー、ワガママー」
可愛い初な男の子が大好きな知り合いたちは、きっと誰を選んでも忘れられない素敵な最初の夜をプレゼントしてくれるに違いないのに、その男、ザップは難しい顔をして三人とも却下してしまう。いつもの彼なら確実に、誰でもいいわと納得しているところなのに。
珍しい、と呟いたアンジェラは、そこで初めて興味を惹かれて、その質問の意味を尋ねてみた。
「なぁに、お偉いさんの坊ちゃんの筆下ろし相手でも探してるの?」
「ちげーよ。レオだよレオ。あの陰毛頭の」
「ああ、あのキュートな彼。へえ、あの子ねえ」
レオ、という名前には聞き覚えがあって、こうやってベッドの上で話を聞くこともあれば、実際にザップに連れ回されてるのを見たこともある、ザップの仕事場の後輩。
どう見てもザップとは性格も住む世界も違ってそうなのに、案外相性はいいみたいで、ザップもなんだかんだ可愛がっているのは知っていた。
けれどまさか、ここまでなんて、と。
少し驚いたアンジェラは、おどけた様子で軽く探りを入れた。
「なあに、あの子に頼まれたの?」
「ちげーけど。でもアイツ、放っといたらずっと童貞のまんまだろ」
「さすがにそれはないんじゃない?」
「いーや、あるね! それかエゲツない不定形生物に無理矢理乗っかられてヤられるわ、絶対。なら最初くれー、キレーで可愛いとびきりのいい女、紹介してやろうかと思って」
近くにザップみたいな存在があるから、自分もおこぼれに預かれるなんて思ってるのかしらと、最初は冷ややかな軽蔑を乗せて。
そりゃあザップはどうしようもない男だけれど、一晩過ごすだけの価値はある男だ。金を介して男と寝る事を生業としているアンジェラや他の娼婦達が、ザップ相手にはプライベートの時間を差し出す事を厭わないくらいに。
そんな男と親しいからってだけで、自分も同じように扱われると勘違いしてるなら、痛い目に合えばいいのだとのささやかな願いも込めて。
けれどそうでは無かったらしい。
信じられないことに、頼まれてもいないのに自主的にザップが、彼の相手を探しているという。
一体どういう風の吹き回しかしら、と可笑しくなったアンジェラは、じゃあミリア、と件の少年に似合いそうな少女めいた容貌をの知り合いの名前を挙げてみれば、すかさず却下された。見た目の儚さとは裏腹になかなかハードなプレイが好きな子だからきっとダメだろうとは思っていたけれど、想像以上にその撥ねつける速度が早かったので、とうとうたまらなくなってくすくすと笑い出す。
「ずいぶん可愛がってるじゃない」
「そういう訳じゃねえけど。こんなとこ住んでりゃ、いつ死ぬかわかんねーだろ。こんな気持ちイイこと知らねぇまま逝っちまったら、さすがにカワイソーじゃね?」
「ふうん、優しいじゃないザップ」
「だろ?」
口では可愛がってないなんて言っているけれど、続けた言い訳をどうでもいい相手に向けられるような男では無いことは知っている。
ふうん、そんなに大事なんだあ、と裏に隠れた言葉を読んで勝手に納得したアンジェラの適当な相槌に、軽く笑ったザップは、それによ、と呟いてどこか遠くを見る。
「俺、よく死にかけてんだろ。まあ死なねーけど」
「そうね、懲りないわよねえザップも」
よくよく痴情の縺れで刺されたり殴られたり切られたり呪われたり。それ以外でも、何をしてるのかそれなりに物騒な仕事場らしく、大怪我をしたとか入院したとかで、ぱたっと姿を見せなくなるのは、よくある話。
ザップがまた死にかけてるわよ、というのは最早、アンジェラの周りでは驚きもしない世間話の一つ。
今度こそ本当に死んだらしい、なんて噂が流れた事も一度や二度ではないけれど、それでも誰もがそのうち顔出すでしょと噂を信じる事なく笑い飛ばし、実際その通り、しばらくすれば何事も無かったように戻ってきて、またそこかしこの女に手を出すのだから、懲りない上にしぶとい男だと思う。
「あーやべ、まじ死んだわってなった時、考えんのって大抵、あん時もっかいアンジェラとヤッときゃ良かったとかそういうやつで、そしたらもっかいヤるまで死ねねーってなるんだわ。だって死んだらヤれねーし。ギリギリの時って案外、そういうの大事じゃん」
「そうなんだ? アタシ、さすがに死にかけたことまだないからなあ」
「そんなもんなんだよ、男は」
そのしぶとさの理由が、もう一度ヤリたいからだなんてふざけているようにしか思えないけれど、それなりに本当なのかもしれないと思ってしまったのは、珍しくザップの声がしんと落ち着いていたから。
まあザップの場合、そのヤリたい気持ちが結局死にかけの状況を作っているのだから、究極のマッチポンプとも言えるんじゃないかしら、とアンジェラは思ったものの、口にはせずに、そうなの、と頷く。
「だからアイツも、すげえ気持ちイイ経験しときゃ、死にかけた時に、もっかいヤリてーってなんだろ。死んだらもうヤれねーし、なら死んでる場合じゃねえじゃん」
なんて。
童貞のまんま死んだらカワイソウ、なんて言ったくせしてこの男は、その後輩にどうしても死んでほしくはないらしい。
そんな簡単に死ぬタマじゃねーけど、と、見た目はすぐに死んでしまいそうな頼りなげな少年をどこか誇らしげに評し、アイツにはまだ死ぬわけにはいかねーって理由も根性もあるし、としたり顔で語って、でもまあ一応保険かけといてやろうかって、ほら俺ちゃんってば優しいからな、とふざけた口調の中にどこか本気を漂わせて。
真っ暗な死の淵から、その子を引き戻すための命綱を、それが繋がったアンカーを、一本でも多く作っておきたいのだと。
軽くふざけた言葉で包んではいたけれど、あのザップが、そんないじらしい事を語ったりなんかするものだから。
端的に言えば、絆された。
どうしようもない男だと分かってはいるのに、うっかりきゅんとしてしまった。
心を寄せて何もかも差し出すほどではなくても、多少手を貸してもいいかなと思ってしまうくらいには。
ピロートークの片手間じゃなく、本腰を入れて記憶の中にある女達の名前をピックアップしてゆく。
初めての子が大好きで、あまり過激なプレイじゃなくノーマル寄りで、死にかけた時に思い出したら踏ん張る気力を与えてくれるくらいの最高の夜に相応しい相手。
同時に何度か会ったことのあるザップの後輩の顔と言動を思い返し、性格的に相性が良さそうな子をピックアップしたリストの先頭に、優先的に並べ替えて順に名前を読み上げる。
少なくとも五人の名前を挙げるまでには、ちょうどいい相手が決まるものだと思っていた。
全員ザップの言った条件に当てはまっていたし、アンジェラが自発的に付け加えたいくつかの条件も問題なくクリアしていた。
なのに自分から紹介してくれと言い出したくせして、誰の名前を挙げてもザップはなかなか頷かない。一人挙げるたび、いちゃもんにも似たダメな理由を見つけて首を振り、五人全てを弾いた後には、最初の条件に加えて、背景に肩入れしてしまいそうな深刻な事情がなくて心底セックスが大好きでだけど他の男の影をちらつかせるほど手慣れてはいなくて童貞でも尻込みしないような不慣れな部分もあって、なおかつ包容力があってメロメロに骨抜きにする手前のちょうどいい部分で留めてくれるような、なんてものまで増えていて。
ねえザップ、そんな女本当に実在すると思ってんの、と嫌味の一つも言ってしまいたくなるような。
いろんな女と寝てきて色事には長けている筈の男の口が、まるで夢見る童貞の想像の中にしかいそうにない女を描き出すから、いよいよ重症だとアンジェラは呆れ果てる。
じゃあ、と途中からは趣向を変えて、娼婦仲間ではなく色んな男をつまみ食いして遊ぶのが好きな知り合いに的を絞ったけれど、そちらも全滅。人妻はダメ、歳が離れすぎてるのもダメ、美人すぎるのもダメ。
極めつけは、ザップと寝たことのない女はダメだなんて言い出したから、とうとうアンジェラは匙を投げた。
だって俺がヤッた事のねえ女だと、どういう女か分かんねぇじゃん、と当たり前の顔をして言ったザップに、頭が痛くなってくる。
いくら仲が良い相手とはいえ、同じ女と寝るのは遠慮したがるのが普通ってもんじゃないかしら、とアンジェラはこめかみを押さえてため息をついた。既に親身になってやろうという気は、綺麗さっぱり消え失せている。
「じゃあアタシは?」
「年下にも童貞にも興味ねぇだろ?」
「そうね。でもほら、アタシ、三人でするの好きだし」
そんな心配なら、ザップも一緒に混じればいいじゃない。
そうは言ったものの、紛うことなき、純然たる冗談だった。
アンジェラが男二人と一緒にベッドインするのが好きというのは本当で、ザップの事も何度か誘った事はある。だけどその度、他の男の裸なんざ見たら萎えると嫌そうに顔を顰めて断られたから、無理を通した事はない。嫌がる男を強引に引きずり込むのは、アンジェラの趣味ではない。
だからこれは、すぐさま切り捨てられる事を前提にしたもの。
そりゃねぇわ、と言われたら、じゃあもう心当たりはないわね、と返して、話を終わらせるための。
「アンジェラ、お前……」
なのにザップの反応が予定していたものと違っただけでなく、隣から発せられる存在感が一瞬にして、身の危険を感じるほどに大きくなったから、アンジェラはすぐに迂闊な発言を後悔する。
おそらく男の逆鱗を掠めてまったらしいと理解して、いつでも飛び起きて逃げ出せるように肘をついて身体を起こし、タイミングを見計らいがてら恐る恐る様子を窺うと。
「天才か!」
逆鱗に触れるどころか、まるでとびきりのアイディアを耳にしたかのごとく、ぱあっと顔を輝かせていたから、思わずはぁ? と気の抜けた声が漏れてしまう。
いやーそうだよなアイツ一人じゃ失敗して散々になりそうでも俺様がフォローしてやりゃ童貞くんでもしっかり相手まで気持ちよくさせてやれるだろうし。アンジェラなら変なクスリもやんねーし道具も使わねぇし安全だわ。やべえ何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ。
なんて。
一人ではしゃいでべらべらと喋り出したから、一気にアンジェラの身体から力が抜けた。
そしてようやく、あれだけ散々文句をつけていた理由を悟る。
「アタシ、セックスは大好きだけど、その他は全然条件に当てはまってないわよ?」
「問題ねえわ。グタグタ言ったら、黙らせるし」
「ザップ、他の男の裸見たら萎えるって言ってなかった?」
「はっ、ただの童貞くんは男のうちに入んねーよ」
「……じゃ、その子とする前に、他の童貞の子入れてしてみる? ザップ三人でしたことないでしょ?」
「なんでだよ冗談じゃねえぞ」
一応確認のため、質問の形を装って誘導すれば予想通り。
あれだけ細かく注文をつけたくせにあっさりとどうでもいいと捨て去って、男の裸は嫌だって言ってたくせに後輩は童貞だから男じゃないなんて言い出して、じゃあと他の童貞を引き合いに出せば以前誘った時と同じ、嫌そうに顔を顰めて払い除ける。
「なあ、いつヤる? 今からでもいいぜ?」
そのくせ待ちきれないようにそんな事を言い出すから、これって本気で言ってるのかしら、と。
呆れを通り越して面白くなったアンジェラは、そうねえ、と考え込むふりをしてたっぷり焦らしてから、首を振る。
「やっぱりその気になんないわ。他を当たって」
「マジかよ。なあアンジェラ、どうしても?」
「ごめんね。代わりにアタシと同じ趣味の子紹介したげるから、そっち当たって」
「……しゃーねえか、じゃあ頼むわ」
アンジェラは二人の男にたっぷり責められるのは好きだけれど、別に当て馬になりたい訳じゃないのだ。
だから三人、別の知り合いの名前を挙げる。
ザップの事をそれなりに気に入ってて、だけど入れ込みすぎるほどじゃなくって、アンジェラと同じ性癖で、ザップを散々からかって焦らして遊んでくれそうな子達の名前を。
彼女達の名前を聞くやいなや、シャワーも浴びずに服を着て、礼の言葉一つ残してあっという間に飛び出していったザップの後ろ姿にひらひらと手を振ったアンジェラは、たまらずベッドの上で笑い転げ、スマホを手にして名前を出した三人に連絡を入れる。
(『きっと今日のうちにザップが面白いもの見せにそっちに行くから、楽しみにして待ってて。それで何があったか、アタシにも教えてね』と)
くすくす、と漏れでる笑いを止められないまま、文字を打ち終えたアンジェラは、上機嫌に鼻歌まで歌う。
(さあ、ザップはいつ気がつくのかしら)
あまりに日常的に女と寝すぎているせいか、別に間に女を挟まなくったってその気になれば、男ともヤれるって事に全く気づいていないらしい、あの女たらしが。
自分こそがその、大事な後輩の命綱になりたいのだと。
自覚しちゃったら、どうなるのかしらと、想像してまたぷふっと噴き出す。
とりあえずは。
性癖だけではなく、性格もそこそこ通じるもののある共犯者予定の三人から、楽しい報告が入ることを期待して。
マナーモードを解除して通知音を最大にしたアンジェラは、機嫌よくバスルームへと向かうのだった。