もしも。
もしも貴方が、私をその瞳に映さなければ。
もしも貴方が、私を認識さえしなければ。
一瞬にして強烈に焼き付けられた焦がれるほどの眩い憧れを、息絶えるその日まで褪せることのない唯一の絶対として胸に抱えたまま、平凡な生涯を送ったかもしれない。
けれど貴方は、私を見た。大勢の中から、私を見つけた。その瞳は真っ直ぐに私の姿を捉えた。
たぎる炎を凍らせたような、青ざめた宝石にも似た彼女が、私を見て、「ニムロス」、確かに呟いたから。
ごく普通でどこにでもいるような平凡な青年は、その瞬間から特別になった。
それなりに器用な方だったと思う。
王都から近い港町に生まれ、同年代の中で勉強も運動も魔法もよく出来た私は、けれどそれなりに出来る頭のせいで自身の限界や行く末、未来の姿も薄々察してしまっていた。
出来るといっても、小さな街の中だけでの話だ。後世に名を残す偉大な魔法使いや学者になれるほど魔法や勉強が出来る訳ではなく、英雄になれるほど腕が立つ訳でもない。そもそも情勢は安定していて、他国との戦争も発生していない状況で英雄になれる方法なんて存在していないに等しい。
このままゆけば街の要職につくのが、最善の未来。街の発展に力を注ぎながら、目新しさも何もない見慣れた街の中、ほとんどの住人がそうであるように嫁を迎えて子を為しいずれ老いて死んでゆく。
ああ、ああ、それはなんて、つまらないことだろう。
想像の出来る未来への嫌悪と諦念は成長しても払拭されるどころか膨らむ一方で、しかし当然のように任されるようになった仕事は確実に想像した未来を現実と近づけてゆくばかり。
固まってゆく未来への道筋に焦燥は募ったけれど、惰性で続く日常を打破出来るほどのきっかけを掴みきれないまま、凡庸に身を浸し変わり映えのしない毎日を繰り返す。
そんな時だった。貴方が、現れたのは。
降り立った瞬間から、貴方は特別だった。
東からの定期船、いつもなら接岸してすぐ降りてくる乗客達の姿が見えず、舷梯を取り付けた船員もどこかぼんやりとした顔で船の中を見つめている。
たまたま港の近くにいた私は、明らかにいつもと違う港の空気に何かあったのかと首を捻った途端、貴方が桟橋へと姿を見せた。
そういうことか、考えるよりも先に理解した。
なぜなら貴方はあまりにも異質で、この世のものとは思えないほど静謐な美しさを湛えていたから。
戯れに声をかけることすら憚られる、圧倒的な美。たぎる炎をそのまま凍らせて閉じ込めたような、空の青さを凝縮したような、青い、青ざめた、世界に一つだけの特別な宝石。誰が手にするにも相応しくない、たとえこの国の王であってさえも到底釣り合うことのない唯一のもの。片方の目を飾る花は異質であるのに、けして奇妙ではない。この上なく貴方に相応しく、美しく咲き誇っている。
そこにいる誰もが、貴方に目を奪われていた。畏敬にも似た気持ちを抱いて、貴方を見つめていた。
ああ、けれど貴方は。
その瞳に全てを映し、同時に何も映してはいない。
まさしくそれは神のごとく平等に無慈悲に、私たちの存在を捉えても個として認識はしていなかった。
ふと見やった景色、そこにある石ころ一つ一つに意識を割かないように、揺れる草木の存在を拡大して取り出す事がないように。向けられた無数の視線をそよぐ風と同じように意識もせずに受け止めて流してしまう。
きっとどこかでは。
ぼんやりと形作られてゆく凡庸な未来の姿にうんざりしながら、それでもどこかでまだ自分は特別なんじゃないかと思う気持ちがあった。こんな街で終わることなく、何かを成し遂げる可能性だってあるんじゃないかと根拠もなく思っていた。
しかしそんな幼い妄想交じりの願望は、貴方を目にしたことであっさりと粉々に打ち砕かれてしまった。
本当に特別なものというのは、貴方のような存在を指すのだと分かってしまったから。
貴方を前にすれば、自分が特別なものだなんて間違っても思えなかったから。
貴方に比べれば、私はなんて凡庸でつまらない男なんだろうと自覚せずにはいられなかったから。
ああ、ああ、それなのに!
粉々に砕け散った自尊心、砂になった願望を掬い上げて新たな形を与えてくれたのもまた、他ならぬ貴方自身だった。
貴方が港から街中に向けてゆっくりと歩を進めるにつれ、貴方に見惚れいた群衆が少しずつ我を取り戻し始める。しんと静まりかえっていた港の中に、ひそひそと囁き声が行き交い始める。
「……に、ニムロス!」
私の近くでもそれは同じだった。邪魔をされることなく、ただただ彼女を見つめていたかったのに、誰かが潜めた声で私の名を呼ぶ。
「なあ、ニムロスってば!」
囁き声でも分かる興奮を秘めたその呼びかけを、最初私は聞こえないふりで無視をした。けれど私が応えないままでいれば、声の持ち主は少しだけ声量を大きくしてしつこく私に呼びかける。
煩わしい。思わず眉を顰めて舌打ちをしそうになった瞬間、貴方が。随分と距離の近づいた貴方が、足を止めてこちらを向いた。
「……ニムロス?」
まるで見慣れた風景でも眺めるがごとく、人々の上を凪いだ視線で通り過ぎていったその瞳が、私を見た。誰もその瞳に映してはいなかった貴方が、私の名前を呼んだ。
そっと離れた場所から眺めるだけでも衝撃に打ち震えるほど美しい貴方の瞳に真正面からひたりと見つめられれば、煌めく宝石に見惚れるよりも先に、青い炎に跡形もなく燃やし尽くされるような恐ろしさを感じる。
それはけして私だけが感じたものではなかったようだ。私の背後、名を呼んだ誰かがひっと息を飲んで後ずさる気配がする。
私の足も無意識のうちに後退しかけていた。けれどぐっと堪えてその場に踏みとどまり、恐れを飲み込んで貴方を見つめ返し、頷いてみせる。
「……はい、ニムロスは、私、です」
「そう。……貴方も、ニムロスというのね」
いつの間にかカラカラに乾ききっていた口から飛び出た言葉は、情けないくらいたどたどしい。
けれど貴方は私の拙さを嗤わなかった。それどころか小さく微笑んでくれさえした。
私に向けて。私に、私だけに向けて!
まるで生きた彫刻のようだった貴方が、その瞬間、無邪気な少女の顔になった。一瞬で儚く消えてしまった笑みのあと、静謐を取り戻した瞳は宝石のように無機質に煌めいたけれど。
たった一言、たった一瞬。その唇から紡がれた名前と、向けられた笑顔。
凡庸でつまらない男に、特別を与えるには十分すぎるほどの威力があった。
貴方に名を呼ばれた、貴方に微笑まれた。
それに自信を与えられた私は、貴方に話しかけた。宿を探しているという貴方に街一番の宿に案内し、道中、貴方の話を請うた。
けして口数は多くなかったものの、とつとつと貴方が話してくれたのは、世界中を巡りながら物語を綴っていること。ちょうど今書いている話が船乗りの青年と娘の恋物語で、船乗りの青年の名前がニムロスだということ。
貴方がニムロスと口にするたびに心は甘やかな喜びに満たされ、同時にそれが指すのが私ではなく物語の中の青年だということにじくりと胸が痛んで仕方ない。
貴方は老成した賢者のようであるのに、同じくらい無防備な少女のようでもあった。私に心を開いている訳でなくどこかには警戒も孕んでいたくせに、無害で親切な男の顔をしてそれとなく話を向けるうちに貴方の抱えた秘密の一端を紡ぐ言葉に滲ませる。見た目にそぐわずエルフのように長い時を生きてきたと口にしたくせに、危なっかしさを覚えるほどに無垢で稚い部分がぽろぽろと零れ落ちる。
あまり人と交流を深めては来なかったのかもしれない。人と話すことにそれほど慣れてはいないのかもしれない。ただ貴方の物語の青年と同じ名前、ただそれだけの男に話すには過分すぎる情報を、ほんの僅かの間に漏らしてしまうほどに。貴方の物語を綴った本を、私の目に触れさせてしまうほどに。
貴方の物語を綴った本も、貴方と同じように特別だった。銀の墨で綴られたそれはただの物語というに留まらず魔力を持ち、それは貴方のみならず綴られた青年と同じ名を持つ私にも干渉を許した。
もしかしたら貴方も、知らなかったのかもしれない。それほど長い年月を過ごしてさえ、知るほどに誰かと深く付き合ったことがなかったのかもしれない。私の言葉に反応した銀の墨に、私よりも驚いた顔をしていたのは他ならぬ貴方だったのだから。
我らが始祖の乙女、私の花の乙女、……ソフィア。
もしも貴方が、私をその瞳に映さなければ。
もしも貴方が、私を認識さえしなければ。
一瞬にして強烈に焼き付けられた焦がれるほどの眩い憧れを、息絶えるその日まで褪せることのない唯一の絶対として胸に抱えたまま、平凡な生涯を送ったかもしれない。
けれど貴方は、私に特別を与えてしまった。
貴方の瞳に映ったその時から私は特別で、そしてどこまでも凡庸な男でしかなかった。
触れた力に魅せられ、それを己の物とすることを望んでしまうくらいには。
貴方のニムロスを、物語の中の青年の名を、全て私の物に書き換えてしまいたいと願うくらいには。
無害な男の顔で貴方を出し抜いて、その本を手にする方法をいくつも頭の中で組み立ててしまうくらいには。
欲にまみれた、つまらない男でしかない。
無垢で純粋で美しい貴方とはまるで違う。
だからこそ。
方舟を造ろう。
貴方という朽ちぬ花に相応しき、不滅の園を。
美しいものが美しいままであれる楽園を。
貴方が醜い世俗の争いに巻き込まれぬよう。貴方が悪意に穢されてしまわぬよう。
貴方が永遠に無垢なままでいられる場所を。
貴方が永遠に美しいだけでいられる場所を。
貴方を全てのものから守ることの出来る場所を。
綺麗な貴方が綺麗なまま生きるには、世界はあまりにも薄汚れているから。
貴方のために。貴方だけのために。
永遠の美しい楽園を。
――全身から急激に力が抜けてゆき、刻々と終わりが近づいていることを実感する。
霞む視界に映るのは、私の宝石。この世界で一等美しく、何よりも価値のある唯一のもの。
死の間際になってようやく貴方の輝きの根底にあるものを悟り、思わず笑いだしたくなったが既に頬を動かす力も残ってはいない。
聖者として過ごした時間がもう随分と長くなったせいで、作り上げ固まった理想を省みることもなくなってしまっていたけれど。ぼろぼろと剥がれ落ちてゆく貴方を模した力、貴方の言葉と微笑みだけをよすがにしていた青年に近づいてゆくにつれ、包んだ理想の真ん中にあった気持ちが顔を出す。
私は。
ただ、私は。
貴方のニムロスに、なりたかった。
貴方のニムロスで、ありたかった。
ニムロス、あなたが紡ぐその名前が、いつだって私を指し示していてほしかった。
ただ、それだけ。
貴方の特別になりたかった。
特別な貴方の特別になるには、私も特別なものになるしかないと思っていた。
けれど貴方が焦がれていたものは、きっと、私が厭うて遠ざけた凡庸でつまらない――。
もしも、と後悔する時間は残されていない。
何よりも焦がれた永遠に見守られながら、平凡だった男は静かにその生を終える。
唇の端に、苦みと喜びの入り混じった淡い淡い微笑みを乗せて。