アルド
ミグランス国立劇場内。まだ開演にはまだ早い時分、客席の一番前に陣取った老人は腕を組んでふんとつまらなそうに鼻を鳴らした。
今日の演目は『名探偵ハウスと消えた瞳』。国立劇場が再開して以来、長く演じられている。
演じるのはミグランスの英雄とその仲間たち。役者ではない彼らの演技はとても見られたものではないと最初のうちは否定的なものも多かったが、回数を経るごとに観客の数は増えていった。毎回変わる演者によって、劇の質も内容も大きく左右されるというどこか博打じみた要素が、娯楽に飢えた人々の心に突き刺さったらしい。
確かに、分からないでもない。本当に演技なのか疑わしい面々が思い切り舞台の上で暴れまわる様は痛快で、予想もつかない展開には最後まで目が離せない。特に何人か、進行を無視してやりたいように好き勝手しているようにしか見えない面々には、個別に熱心なファンが付き始めている。
無論、滅茶苦茶な劇ばかり演じられる訳ではない。見る者の心をぐっと引き込む迫真の演技をする者たちもいて、彼らも彼らで人気がある。あとは単純に、男女共に見目のよい者も多い。
そんな中、肝心のミグランスの英雄の評判といえば、今一つである。
けして悪い訳ではない。いつだってきちんと脚本通り進めようとしているところは、評価に値する。けれど自由に暴れまわる他の面々に比べれば刺激が足りず、かといって物凄く演技が上手いという訳ではない。せいぜい村の宴会の余興で披露するのにちょうどいい程度のもの。他の達者な面々と比べてしまえば、素人くささが抜けきらない。
顔はけして悪くはない。しかしそれも、周りに美形が多いせいでどこか地味にも見えてしまい、きゃあきゃあとはしゃぐ娘たちが上げる美丈夫たちの中に彼の名前を聞いた事はあまりなかった。
それでも。老人はもう一度ふんと鼻を鳴らす。老人が見に来ているのは、そのミグランスの英雄その人であった。
無難で素人くさくてあまり目立たずとも、老人は彼のファンだった。このような劇場で目にするより前からずっと。
魔獣王がミグランス城に攻め入った直後のことだ。無事を確認するためにリンデの孫娘たちに会いに行った帰りの、ユニガンへの道中でのこと。護衛を雇うほどの距離でもないと油断していた老人の前に現れたのは、気が立った数体の魔物。
逃げる余裕すらなかった。ただ茫然と、迫りくる牙を見ているしか出来なかった。ああ、自分はここで死ぬのだと、諦念と共に命を手放しかけた時。
「無事か?!」
魔物と老人の間に割って入ったのは、一人の青年だった。少し荒い呼吸、老人を助けるために全力で駆けてきたのだと分かる彼は、あっという間に魔物たちを切り伏せてゆく。
すぐには何が起こったか理解できず、ぽかんとしているうちに全ては終わってしまう。大丈夫か、と尋ねる彼の言葉にすぐに返事が出来ないでいれば、さきほどまでの勇ましい様子とは一転、心配そうに眉を寄せて怪我はないかとこちらの体を心配してくれた。そして老人の腰が抜けて立てないと分かれば、躊躇う素振りもなく背負ってくれ、そのまま街まで連れて行ってくれ、礼も受け取らぬまま笑って去っていった。
それからしばらく経って、彼がミグランスの英雄その人であると知った時には、大いに驚きはしたものの、妙に納得して誇らしい気持ちになった。
故に彼の劇場での評判がはかばかしくない現状が、少々面白くはないものの当然だと思う気持ちもある。
あの日の彼の姿。老人を助けるため、迷いなく魔物の牙の前に身を晒した彼の背中。繰り出される剣の軌跡、戦闘の最中も常に老人を守るように動いていた彼の立ち回り。
あの時の彼よりも、光り輝くものを老人は知らない。まるで太陽のように強烈で、月光のように柔らかな光。
だから面白くないとは思いつつも、心の奥底ではどこか得意な気持ちにもなっている。
当然だ、彼が輝くのは舞台の上じゃない。人を守る時こそ、一等強烈に輝くのだ。そしてそれを自分は、しっかりと目に焼き付けている。
しかし、そうはいってもやっぱり面白くないものは面白くない。心配でもあった。かの英雄はそんな狭量な人間には見えなかったが、観客の盛り上がりが他の面々に比べて少なければ、良い気持ちはしないのではないだろうか。
だから老人は劇場に通う。一番前の席を陣取って、彼の英雄を応援するために。
そろそろと近づいてきた開演時刻、足元に置いた荷物からハチマキを取り出した老人はそれをきゅっと頭に巻いて、一緒に取り出した布切れを取り出してがばりと広げる。
ちょうど顔ほどの大きさの白い布、そこには『あるど君江。がんばつて下さい』と筆で流暢に書かれていた。
なお、会場のあちこち、老人と同じくミグランスの英雄にひとかたならぬ思い入れのある観客たちが、老人と同じようにミグランスの英雄を心配してそれぞれに思い思いの形で声援を送っていて、老人が思っているよりミグランスの英雄、劇場でのアルドも結構人気があったりするのだが、いつも一番前に座る老人には預かり知らぬ事である。