※魔剣2までのネタバレあり。フェルミナさんとミーユちゃんの過去捏造。

私の太陽


いたいつらいひもじいくるしいさみしいこわいかなしい。

もっともっと、今よりもずっと幼かったころ。私の中にはいろんな感情がぎゅっと詰まってぐるぐると渦巻いていた。
いつだってそれらは私から離れていってはくれなくって、逃げ出そうともがいて闇雲に駆けだしてもすぐに追いつかれて取り込まれてしまう。どれだけ一緒にいてもそれらは私にちっとも優しくなくって、薄くてちっぽけな体をふるふると震わせてお腹の奥をしんと冷たく凍えさせるだけ。
だから私は、そこから抜け出すために目の前に差し出されたものに必死で飛びついた。それ以外に、そこから逃げる方法なんて存在してなかった。少なくとも私の目に見えていた世界には、それしか縋るものが残されてなんていなかった。そうする以外、生きる方法を知らなかった。

縋った手の先にあった世界では、失敗すればもっといたい目にあうけれど、成功すればほんのひととき、ひもじい思いから解放されてこわい思いをしなくて済む。寒さに震えて遠くなる意識に、怯えなくて済む。
絶対に失敗しないよう、言われたことを正確にやり遂げることだけが私の全てだった。それが一番、くるしくないやり方だったから。
初めのうちはうまくいかないことも沢山あったけれど、それでも私には才能があったらしい。周りの人たちがみんなそう言っていたし、何より私は死なずに生き続けていたから。毎日のように見知った誰かが死んでゆく中、止まることなく動き続ける私の心臓だけが唯一の証だった。

様々な武器や毒の取り扱い、見た目を利用した取り入り方、バレない嘘のつき方、目標の懐に潜り込む方法。組織で生き抜くためにいろんなことを覚えて身に着けてゆくと同時に、私が覚えたのは何も考えないこと。何も思い出さないこと。何も感じないこと。
余計なことを考えれば、隙が生まれる。いたずらに思考を巡らせれば足をすくわれる。過ぎ去ったものを掘り起こしても、くるしくなるだけ。かなしい、感じてしまえば胸が痛くなってたまらなくなるだけ。躊躇いに足を止めてしまえば、私の心臓が止まってしまう。
そんなもの、全部無駄。全部いらない。
与えられた指令をこなしていれば、それでいい。そこに込められた思惑も事情も汲み取る必要もない。痛みを痛みとして認識しなければいたくない。何も考えなければつらくない。成功し続ければひもじい思いも二度としない。何も感じなければくるしくない。余計なものを持たなければさみしくない。心を殺せばこわくない。忘れてしまえばかなしくもない。

穴倉のような小さな寝床に押し込まれた同じくらいの年の子供たち、隙間風の吹き込む部屋の中少しでも寒さをしのぐためにぎゅうぎゅうに身を寄せ合って眠る。誰かがひとり減ってしまっても、いなくなった誰かの隙間の分だけ余計にくっつけば寒くない。
またひとり、またひとり、いなくなってゆけばその分だけ距離を詰めればいい、何事も無かったように。最初から誰かはいなかったみたいに。
たまに増えることはあっても減ってゆく方がずっと多かった事を覚えているのは、それが単なる事実だから、それだけ。特別な意味なんてない。ひとつひとつに感情を動かすことは、とうに忘れてしまった。

そうしてとうとう、私以外の誰もがいなくなった日。最後まで残っていたもう一人を、私自身の手で刺し殺した日だって。ぎゅっと膝を抱えて身を縮めれば寒くない。私の中から噴き出しかけた何かを握り潰して目を瞑って眠ってしまえば、それでおしまい。 
最初から私は一人だった。誰とも身を寄せ合って眠ったりしなかった。言い聞かせて、言い聞かせて。またしばらくすれば新しい顔が増えて、消えてゆく。何度も何度も飽きることなく繰り返されるそれをいちいち考えていたらきりがない。
それが正解。それが正しい。

だって、だって。
そうしなければとても生きてなんてゆけやしない。

いたいつらいひもじいくるしいさみしいこわいかなしい。

かつて私の中に存在していたもの。私を支配して脅かしていたもの。二度と思い出すつもりもない感情たちを、殺して心から全て追い出して消し去ってしまえば私の中にはもう何も存在はしていなかったけれど、それでよかった。

からっぽで、よかったの。
だって、そうじゃなきゃ、私は、わたしは。


とある任務の最中、少し失敗をしてしまった。
情勢を探るために送られたミグランス。適当な貴族の下働きとして潜り込んで情報を集めていたら、どこかからそれが漏れてしまったらしい。貴族の私兵に追われ捕縛されかけたところを寸でのところで躱して逃げだす。
相手に気取られるようなへまをした記憶はない。私兵の動きにも予兆はなく、捕縛の命は突然だった。私の動きが不審を抱かせたのではなく、外部から私の情報が持ち込まれたと考える方が合点がゆく。

心当たりもあった。恐らくは組織の誰かが私を売ったのだ。珍しいことではない、組織の中ではよくあることだ。先に潜り込んだ組織の者の情報を餌に相手の信用を買い更に深く懐に潜り込む手を使う者もあれば、単純に嫌がらせとして情報を売る者もいる。
与えらえる任務の質が変わり個人の部屋を与えられた頃から、こういった嫌がらせの手も増えてきた。特に驚くようなことでもない。
出し抜かれてしまったのは、私の手落ちだ。もし無事に帰ることが出来たなら、情報を売った者を探し出して息の根を止めておかなければならない。それだって、珍しいことではなく、形骸化した手順でしかなくなっている。

幸いにしてあらかたの情報は集め終えていた。このまま帰還しても任務の失敗の責を問われることはないだろう。それだけの物は既に手に入れ終えている。
けれどすぐさま離脱することも難しい。追手から逃れる際に打ち込まれた矢に痺れ薬が塗り込まれていたようだ。直撃は避けたものの、掠った右腕を中心にじわじわと右半身に痺れが広がっている。逃げながらある程度は傷口から吸い出したものの、既に身体に回ってしまった分まで全て取り出しきることはできなかった。
使われた薬におおよその見当はついていた。致死性は極めて低く、時間と共に効果が薄れる代わりに解毒薬がない。生きたまま対象を捕縛するのに向いた薬で、組織でもよく利用しているものだ。すぐさま痺れを消し去ることが不可能となれば、しばらくは追手に見つからぬよう身を隠すしかない。

街中は避けたい。私を売った組織の誰かの罠が仕掛けられている可能性がある。仮に罠を見抜いたとしても、ままならぬ体では避けることが難しい。どこに潜むか分からぬ以上、人の気配は極力避けるべきだ。
感覚だけを頼りに、人の気配も魔物の気配も少ない場所へと逃げ込んでゆけば、木々の生い茂る森へと辿り着いた。もう痺れは左半身にも及び始めていて、ろくに歩くことも出来なくなりつつあった。
それでもどうにか大きな樹の根本まで身体を引きずってゆき、樹の幹に背をもたせかけて座り込むことは出来た。

叶うならば適当な木のうろにでも身を潜めたかったが、探す余裕はなかった。木を登って枝葉の間に隠れるのもこの体では難しい。ならば背を守り周囲を見渡せるこの態勢が、今出来る最善だった。
もう一度、薬の影響で鈍った神経を限界まで研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。大丈夫、人の魔物の気配はないままだ。あまりに気配がなさすぎて、違和感を覚えてしまうほど。
けれど感じた違和感を検分代わりに体の力を抜いた私は、目を瞑ってしばしの休息をとることにした。


完全に眠っていた訳ではない。最低限の警戒は続けていたつもりだった。それでも気が付くのが遅れてしまったのは、あまりにそれに邪気がなく小動物に近い気配を発していたせいかもしれない。

「ようせいさん?」

透き通った声が響いたのと私が目を開けたのは、ほぼ同時だった。
そこにいたのは、小さな少女。組織ではどこかから幼い子供を連れてきてはあらゆる教育を施していたが、そんな組織の中ですら見たことのないほど幼い娘。
普段ならありえない距離、少女の足で数歩もない場所まで接近を許していたことに動揺が無かったとは言えない。
けれどそれ以上に私を戸惑わせたのは、少女の瞳だった。

「ようせいさん、きらきら! きれいね!」

怯えも陰りもない、喜びと興味で輝く瞳で真っ直ぐに私を見つめていたそれに、なぜか私の胸がどくり、大きく跳ね上がる。いつかの任務で腹を刺しぬかれ死にかけた時すら、冷たく沈黙していた心がごとりと動く。

「ごほんとおんなじ! しろいかみ、きれいね! ねえようせいさん、あなた、まいごなの?」

妖精さんと私を呼ぶのは、一目で分かる作りの良い上等な服に身を纏った少女。仮に貴族だとしてかなり上位の存在に間違いない、けれど私が集めた情報の中に彼女に該当する姿形をした子供は存在しない。
それでも予測はつく。組織にとって重要となり得る子供の中、その姿は厳重に隠されていて辛うじて人々の話から性別と年齢だけが分かるに留まった存在はたった二人だけ。今代ミグランス王の娘と、今代神官長の娘に限られいる。どちらも歳は近かったために目の前の少女にはどちらにも当てはまりそうだったが、着ているものから判別するに王女である可能性が極めて高い。

考えつく中でも、最悪な状況だった。おそらく私が逃げ込んだ場所は、王家が所有する森。しかも目の前には、あまりに幼い王女の姿。
いくら王家の庭のような場所だといえ、護衛もなしにこんな幼い王女が歩いている訳はないだろう。必ず近くには護衛の姿があって、すぐにやってくるに違いない。まだ完全に痺れが抜けていない体で、出し抜いて逃げ出すのは骨が折れる。かといって明らかに不審な自分が、見逃してもらえるとも思えない。

それなのに私の中に、焦りは微塵も浮かんでいなかった。逃げ出す算段も不思議と考えられなかった。
だって、少女を見ていたかったから。警戒心よりも彼女を見ていたい欲求が上回ってしまったから。きらきらと煌めく彼女の瞳に、怯えが走るのを見たくなかったから。
こんな眼差しを、誰にも向けられたことはなかった。組織の子供たちの瞳はいつも陰鬱な影を帯びていて、任務の対象となった子供は強張った瞳で私を睨むだけ。情報収集に利用する子供は、擦れている方が金で口止めをしやすい。
なのにそれが存在することは知っていた。遠くで笑いあう家族、腕に抱かれた子供が親や兄弟を見て笑う。その瞳は遠目にも分かるほどに煌めいていたことが、なぜだか記憶に焼き付いている。
けれどそれがけして私に向けられることがないことも知っていた。私が生きる世界の、向こう側にしか存在していないもの。私が壊す世界にしか存在できないもの。こちら側の私を見つめることはけしてない、手の届かないもの。

その筈だったのに。
遠い世界の特別だった無垢な光が捕らえるのは、今、私の姿だけ。

「ようせいさん、おけがしてるの? よしよし、よしよし」

私から目を離さないままちょこちょこと小さな足で私の周りをぐるぐると回った少女は、小さな手でそっと私に触れる。伸ばされた手は私の頬に触れて、慎重にそろそろと横に動かされる。接した面はほんの僅か、回復魔法をかけられている訳でもない。それなのに少女の触れた場所はひどく温かい。より近くなった場所から見える瞳は、曇りなく真っ直ぐ私を見つめていて、心臓がいよいよざわついてゆく。
こんな気持ちは、感じたことがなかった。捨て去って封じ込めた感情たちの中に、こんなものは存在していなかった。これに何と名づければよいのか分からなかった。それでも他の感情と同じよう、要らないものだと判断してすぐに捨てることが出来なかった。訳が分からなくて気持ちが悪いのに、ずっとこれに浸っていたかった。


少女と二人きりの時間は、さほど長いものではなかった。
すぐに近づいてくる足音がして、瞬時に身構える。ぴりり、警戒した空気を悟ったのか、ひゅっと引っ込められた小さな手にきゅっと心臓が締め付けられる。

「ミーユ! ミューフィルユ!」

そうして現れた人影は、想定以上に最悪だった。
護衛を引き連れたのはミグランス王その人で、王女の姿を見つけてほっと目を緩ませてすぐ、傍にいる私に鋭い眼差しを投げかける。更には護衛の中には、ミグランスの矛、ラキシスの姿まであった。相対して分かる。たとえ万全だとして、この二人を出し抜くのは私の力量では難しい。後ろの護衛の騎士たちも、じりじりと広がってゆき私を逃がさぬ包囲網を作りつつある。突破口は見えない。
いや、ただ一つだけ糸口はある。私の手の届く場所にいる少女。王女を盾に取れば、もしかして逃げ出せるかもしれない。王の血を引く子供は王女ただ一人。彼女を人質として立ち回れば、迂闊に手を出してはこれないだろう。

それなのに私の手は動いてはくれなかった。今までならきっと当たり前のように伸ばしていた手は、だらりと垂れたまま。痺れはまだ完全に抜けきってはいないとはいえ、小さな少女一人を捕まえるくらいのことは造作もない。
そうするべきなのに。任務を完遂させるためにはそれが最善のはずなのに、考えることなんてとうにやめたはずなのに、からっぽの私はただ任務をつつがなく遂行させる、そのためだけに生きてきたはずなのに。
それだけはしたくないと、考えてしまっている。少女に手を出さずにここを切り抜ける方法がないか、考えてしまっている。ずっと前に放棄したはずの、思考を巡らせている。どうしたって少女を使う以外ないと冷静な思考が囁いても、それでもと他の方法を探し続けることをやめてはくれない。


そうして。
考え込む私より、警戒する王より騎士たちより、先に動いたのは少女だった。

「いじめちゃ、めっ!」

私と王たちの間に立ちはだかり、彼らの視線から私を守るように小さな手をいっぱいに広げる。
なんて無防備。なんて好都合。その背に手を伸ばして抱え込むだけで、その背に後ろから隠したナイフを突きつけるだけで、王たちの動きをけん制することが出来る。私の前に王女がいるせいで、飛び道具も使えないだろう。

すぐに浮かんだ算段を、けれど実行には移せない。
まるで鈍器で直接殴られたかのように、心臓が震えていた。見えないものに、心を揺すぶられていた。私の目の前に立つ少女の背に揺れる金色の髪が、太陽のように光り輝いてみえた。

この気持ちを何といえばいいのか分からない。けれど一つだけ分かること。
きっといつかの私はこうしたかったのだ。死んでいった仲間たちの前に、彼女のように両手を広げて立ちはだかりたかったのだ。
折檻される仲間を見る度にもやもやと心に浮かぶ衝動を殺すことに必死で、それが何をしたがってるのか分からなかった。こわいいたいと泣き叫ぶ仲間を前に、締め付けられる心臓が何を訴えているのか分からなかった。こんな小さな少女でも知っているやり方を知らなかった。だから全部忘れて、知らないふりをした。何も感じないことにした。

けれど、でも、だけど、きっと。
こうすれば守れたのだと、今ようやく知った。

おそらく組織の中でそれが何の意味ももたないことも分かっている。無駄な抵抗として一蹴されて終わりだろう。
それでも。もしも少女のように両手を広げて庇うことが出来れば。彼女のように守ることが出来ていたならば。
私の心も、死んでいった誰かの心も、冷たいだけで終わらなかったかもしれない。
だって今、少女の背中を目に焼き付ける私の心は、ひどく温かかった。ひたひたと何かが満ちて溢れてしまいそうだった。正体の分からぬ温もりが、ただただ気持ちよかった。
彼女の背を見つめたまま死ぬのなら、それでいいかもしれないと思ったくらい。そうしたいと願ってしまったくらい。王も騎士たちも意識から外して、一心に少女の背中を見つめてしまったくらい。今まで生きてきた中で一番、安心して全身の力が抜けてしまったくらい。


どれくらいの時間が経っただろうか。

「退け」

鋭く短い王の言葉が響く。騎士たちは戸惑った様子だったが、反発することなく私に向けていた殺気を引っ込めて剣の柄から手を放す。

「……おとうさま、ようせいさんのこと、いじめない?」
「ああ、苛めないさ」

両手をぱっと上げてにこりと笑う王は、少女に向けた瞳と同じ目で私も見つめる。そこに警戒の色は既に浮かんでいない。わあっと歓声をあげてくるりと振り返り私を見た少女の瞳と王の瞳は、同じ色を宿していた。

「ようせいさん! あのね、おとうさまとみーゆと、さんどいっちたべるの!」

弾んだ声で私に近づききゅっと腕を握る少女の言葉に、微かに頷いてみせればますます少女の瞳がきらめく。騎士たちをその場に控えさせたまま、ラキシスだけを伴い私たちに近づいてきた王にはさすがに少し警戒してしまったけれど、くつろいだ様子でどかりとその場に座り込んだ姿は拍子抜けするほど隙だらけだった。先ほどまでとはまるで違う。意図的に私に隙を見せているのだとすぐに理解できるほど、それはあからさまだった。その膝にぴょこりと少女が座って、ラキシスが持っていたバスケットを茂る草に引いた布の上に置く。

「あのね、みーゆはたまごがすき!」

王の膝に落ち着いていた少女は、すぐに立ち上がってバスケットからサンドウィッチを取り出すと、にこにこ笑って私に差し出してくる。
不用意に物を食べるのは得策でない。どこに毒が仕込まれているか分からないのだ。組織の中ですら、自分で準備したもの以外は迂闊に口に出来ない。もしも差し出したのが少女でなかったならば、けして食べようとは思わなかっただろう。
けれど私は考えるより先に、自然と口を開いていた。断る言葉を紡ぐ前に、齧り付いて咀嚼を始めていた。食べ物の味なんて、よく分かってはいない。毒が入っているかいないか、判断基準はそれしか持っていなかった。何がおいしくて、何がおいしくないのか、ちっとも知らなかった。

「おいしい?」
「……ええ、おいしい、です」

それでも、笑ってきらきらと瞳を光らせる少女の言葉を、そのままに繰り返して呟く。おいしいがどういうものか分かってはいなかったけれど、口の中に広がる心地よさ、胸の中を占める温かさ、それがもしかしたらおいしいということなのかもしれないと、思えてしまったから。
痺れの残る手でぎこちなく少女からサンドウィッチを受け取って、ぱくり、もう一度噛みついてみる。不思議と先ほどより、口の中に広がる心地よさが少なくなったように思えたけれど、少女が新しいサンドウィッチを手にとって小さな口でかぶりつき、「おいしいね」私に笑いかければ、覚えたばかりのおいしさがまた膨れ上がる。

「あのね、ばあやにはないしょなの。ばあや、てでたべるの、はしたないって。だからひみつよ、ね、おとうさま!」
「ああ、秘密のピクニックだな」
「うふふ、ようせいさんと、みーゆと、おとうさまのひみつ。あっ、らきしすも!」
「……仲間に入れていただき、光栄です」

ちまちまと食べる合間、はしゃいだ声で少女が喋る。その隣で豪快に口をあけ、むしゃむしゃと食べる王も穏やかな声で相槌をうち、目を細めて少女と私を交互に見るからなんだかもぞもぞと身体を捩りたい気持ちになる。警戒が抜け落ちた王の気配は少女とあまりにも似通いすぎていて、どうやって相対していいのか分からない。
唯一、ラキシスだけは未だ警戒を宿したままにこやかな顔で同席していた。さりげなく王と私の間に陣取って控え、私だけに分かるようにちくちくと牽制の殺気を飛ばしてくる。私の基準からすれば王と少女の反応があまりに規格外であったから、むしろその殺気に警戒するよりもほっとしてしまった。

「……王女に手を出せば、その手を斬り捨ててやろうと思っていたが」

王と少女が楽しげに会話をする最中、ぽそりと囁かれた言葉に湧き上がるったものは安堵だけだった。
私がもしも少女を害そうとすれば、彼が必ず私を斬り捨ててくれる。あまりにも長く任務を遂行するためだけに生きてきたから、もしかして何かのきっかけで無意識に少女に手をかけそうになってしまうかもしれない。あるいは殺す気はなくても、あんなに小さくて脆く柔い体、加減を間違えて潰してしまうかもしれない。その可能性をけして否定はできない。

けれどラキシスがきっと止めてくれる。私から少女を守ってくれる。ちゃんと斬り捨ててくれる。彼の言葉はこの場においてはひどく心強かった。
脅しの言葉で、緊張する代わりに緩んでしまったせいだろうか。つまらなげにふんと鼻を鳴らしたラキシスは、以降は最低限の警戒を残したままにこやかな顔で王と少女を見守ることに徹していた。

少女はよく喋った。昨日はばあやと遊んだ、一昨日は騎士とかくれんぼをした、その前はかけっこをした、話す内容からして随分おてんばな少女らしい。護衛の騎士たちを撒くことも日常茶飯事のようで、もしも攫おうと思えば隙はいくらでもあるだろう、話に耳を傾けながらついそんな事を考えてしまう。無邪気な少女の話の中には、重要な情報がいくつもちりばめられていた。しかし王は止めることなく相槌を打つだけで、ラキシスもそんな二人を止めようとはしない。

やがて腹もいっぱいになり喋りつかれたのか、こくりこくりと少女が船を漕ぎ始める。もっと起きていたいとしばらくぐずっていたけれど、眠気には抗えなかったのかとうとう小さな寝息を立て始めた。
ラキシスに任せることなく自ら少女を抱えた王が、ひたりと私を見据えた。先ほどまでの柔らかな眼差しでもない、けれど殺気や警戒を宿しているわけでもない、強い光で見つめられて無意識に背筋が伸びる。

ああ、終わりだ。どこかでは予感していた。少女――大事に隠されていたこの国の王女のことについて、私は知りすぎた。この情報を持ち帰って組織に渡せば、必ず少女を脅かすものとなるだろう。そんなこと、許されるはずがない。
少女は王の手の中、近くにはラキシスの姿、遠巻きには控えた騎士たち。逃げられる気はしない。逃げる気もしない。眠る少女の姿を目に焼き付けたまま死ねるのなら、それも悪くない。抵抗するつもりはまるでなかった。
それなのに。

「この子を見つめるお前の目を信じることにしよう」

王は、私を殺すよう告げる代わりに信じられない言葉を吐き出す。思わず目を丸くした私とは対照的に、ラキシスは呆れたようにため息を吐き出した。まるでそうなるのが予め分かっていたように。

「お前は、この子の害になるような事はけしてしない。そうだろう?」

困惑に揺れていれば、念を押すように王の言葉が続く。厳しくもない。鋭くもない。声を張った訳でもない。けれど不思議と力強い響きを宿したその言葉は私の心にするりと潜り込み、気づけば深く頷いていた。
そうだ、私は選べるのだ。彼女を傷つけない選択だって出来る。彼女を守ることだって出来る。知りえた情報を、まるごと組織に渡さないことが出来る。
だって私はもう、考えることが出来るのだ。言われたことをただこなすだけでなく、自分で考えることを思い出してしまったから。少女のおかげで、思い出せたのだから。


「もしも足を洗いたいと願うなら、いつでもうちに来るといい。歓迎しよう」

去り際、私の抱える何もかを見透かした顔で、王から告げられた言葉。頭の中で何度も繰り返しながら帰路につく私は、分かっていた。けして今までのようにはいられない。考えることも感情の動かし方も思い出してしまった私は、同じように組織の中で動くことは出来ないだろう。与えられた指令を無感情でこなすことは出来ないだろう。何をするにしても、少女の面影がちらつくだろう。

考える。考える。考える。組織に少女のことを誤魔化して、少女の国に打撃を与えない程度に流す適度な情報量を精査することを。うまく足がつかないように組織を抜け出して、いつか彼女の元に再び訪れる算段を。今のまま無計画に身を寄せてしまえば、いらぬ魔の手を少女に向かわせてしまうかもしれない。そうならぬよう、彼女を巻き込まぬ形であの国に向かう方法を。

すぐには無理だろう。問題は山積みだ。
数年は時間がかかるかもしれない。途中で思惑を見抜かれて始末されてしまうかもしれない。組織を離れる際には姿かたちもある程度は変えなければならないだろう。幼い少女には別人と映るかもしれない。いずれ封じ込めた感情も噴出してしまうかもしれない。痛くて辛くて悲しくて、苦しさにのたうち回りたくなるかもしれない。殺していた記憶を思い返して、胸を掻きむしりたくなるかもしれない。

けれど、どれほど困難な道のりだと分かったとして。
いつもなら任務を終えて組織の拠点へと向かう時、心も体も冷え切っていたのに。今、私の心は赤々と燃えている。考えたこともないいつかの未来に目を向けてみれば、そこには金色の太陽が煌めいているような気がした。