ツキハ
視線を感じて振り返った先、木陰からちらりと顔を覗かせてこちらを窺うノポウ族がいた。怖がりだという彼は、アルドや一部の仲間以外にはまだ慣れてはいないようでけして自分から近づこうとはしない。そんな彼がツキハを見ていることを少し不思議に思いはしたけれど、納得する部分もあった。
東方からの旅の最中、あちこちで出会ったノポウ族たちは皆揃って、ツキハの呪われた腕、けして生者に触れる事が叶わぬそれに惹かれて集まってくる素振りを見せた。人間ではないとは言え生ある者、触れてしまえば何が起こるか分からない。やけにツキハの腕に触れたそうに何かを訴えてくるノポウ族たちに出会う度、躱して振り切ったのはまだまだ記憶に新しい。
アルドの仲間、ポポロと名乗る彼はノポウ族としては異端ではあるらしいけれど、完全にノポウ族と別の存在になった訳ではなく、ノポウ族らしい仕草や習性は携えたままだ。だから彼ももしかしたら、ツキハの呪われた腕に興味があるのかもしれない。
「……この腕は、呪われた腕。けして触れてはなりませんよ」
道すがら会っただけのノポウ族なら、再び会う可能性は低いため振り切ればそれで終わる。けれどポポロはアルドの仲間で、ツキハもアルドの仲間だ。まだ当分は、道行を共にする心づもりでもある。
だからツキハは木陰に向かって語りかけた。あの小さな仲間が、けしてこの腕に宿った呪いの犠牲になることがないように。
突然声をかけられたポポロは、ぴゃっと飛び上がるとしゅんと木陰に引っ込んでしまう。けれど逃げてゆこうとはせず、少しの間を置いて恐る恐る顔を覗かせては、ツキハと目が合うとまたびくりと体を震わせて引っ込んでしまう。その繰り返し。
警告はしたけれど、必要以上に怖がらせるつもりはない。けれど怯える子を宥めるのが得意という訳でもない。重ねて声をかけても余計に怯えさせてしまう気がして、しかし放ってこの場を立ち去る気にもなれなくって、ツキハは無言でそんな彼の様子を見守ることにした。表情には出さなかったけれど、本当のところはツキハもまた、少しだけ困って弱っていた。
覗いて、隠れて、また覗いて。それを数度繰り返したあと、ようやく何事か決心した様子の彼が、ぴょこん、木陰から飛び出し俯いてもじもじと長く余った袖口を擦り合わせる。
「あの、触らないから、近づいても、いい?」
「……ええ、構いません」
風で揺れる葉擦れの音にかき消されてしまいそうなか細い声に一つ頷きを返せば、慎重な足取りでにじりにじりポポロが近寄ってくる。そしてちょうどツキハから数歩の位置でぴたりと止まった彼の視線が、ぴたり、ツキハの呪われた腕に吸い寄せられるのを見て、触れてはなりませんよ、先ほど告げた言葉をもう一度繰り返す。
「……ノポウ族は皆、この腕に興味を持つのですね」
「う、うん、お姉ちゃんの腕、すごく気になる」
それでも外れない視線にほうっとため息をつけば、びくりと体を震わせたポポロがわたわたと袖を振ってこくこくと頷いてから、あのね、と小さな声で付け加えた。
「でも、それだけじゃなくって。お、お姉ちゃんの腕、お母さんと、ちょっと似てるから……前のお母さんじゃなくって、変わってからの、お母さんに」
どうやって彼の興味を逸らそうかと考えていたツキハは、彼が口にしたお母さんの言葉でぴたりと思考を止めて、まじまじと目の前の彼を見つめる。そういえば、彼の身の上を思い出す。立場も経緯も種族も異なるけれど、彼もまた化生に身を堕とした母を討っている。ツキハと同じように。
「こ、怖かったけど、でも、お母さんはお母さんだったから」
その上で彼は、母をまだ慕っている様子だ。呪いの腕と似た気配を発していたという、化生となった母ですら。
ツキハはどうだろうか。少し考えこむ。まだ父と母の事について、完全に気持ちの整理がつけられたとは言い難い。二人の事を想うだけで、心がばらばらに千切れて壊れてしまいそうなほどに激しく乱れて冷静な思考もままならない。
けれど。
『ツキハ』
たとえ全ては嘘だったとしても。遠い昔、ツキハの名を呼んでくれた母の優しい顔が記憶に焼き付いているのは本当で、ツキハがそんな母の事が大好きだったこともまた本当だ。
完全に気持ちの整理をつけるには、まだまだ途方もない時間が必要だろう。けれど目の前のノポウ族の彼の言葉で、優しい記憶が残っていたことを思い出したから。
「……触れてはいけませんが、見るだけならいくらでもどうぞ」
「あ、ありがとう、お姉ちゃん」
そっと静かな声で告げると、ポポロの声色が僅かに明るいものになる。一定の距離から近づいてはこないまま、早速とばかりにじっとツキハの腕をどこか慕わし気な様子で見つめている。少し気恥ずかしいような、落ち着かない気持ちになりはしたけれど、けして悪い気分ではなかった。
それからだ。
ちょっぴり距離を置いてじっとツキハの腕を見つめるポポロと、そんな彼が見やすい位置に腕を移動させてやるツキハの姿が、時折、見られるようになったのだとか。