先生、あのね


(あら……?)

休日、アルドたちの旅に同行して思い切り体を動かしストレスを発散させた帰り。職員寮に戻る前に軽く何か食べてゆくことにして、しばらく訪れてはいなかったガンマ区画のバーへと足を運ぶ。
そこで意外な人物を見つけ僅かに目をみはったシェリーヌは、少しの逡巡の後、カウンター席の彼の隣に座る事にした。

「ごきげんよう、マイティくん」
「えっ、シェリ……先生?」
「今はシェリーヌでいいわ」
「はーい」

IDA内での教師としてのシェリーヌの顔でにこりと彼、マイティに笑いかければ、ぴたりと動きを止めた彼はシェリーヌの名前を口にしかけたあと、わざわざ先生と言い直す。察しのいい子だ。
マイティの前には、ハンバーグとパスタの乗ったプレートに、グラスに注がれた水。酒の類を飲んでいる様子はない。それを確認したシェリーヌは、教師の顔を外して砕けた口調で話しかける。

「こんな店にいるなんて、イケない子ね」
「あっ、そっか、お酒出す店だもんねー。ここのマスターがうちの一族の人でさ、仕事の前はよくここで腹ごしらえするんだ〜……お酒は、飲んでないよ?」

今のマイティの格好は、制服を脱いで青い外套を羽織っている。それがマイティの仕事に絡んだものだと既に知っていたシェリーヌは、でしょうね、と笑ってマイティのプレートに盛られているのと同じパスタを注文した。

マイティの仕事についてシェリーヌにも伝えられたのは、アルドの仲間としてIDAの生徒たちとも肩を並べて戦うようになって、しばらく経ってから。
元々、スクールのごく一部の教師には、深夜の外出許可をとる際におおよその背景について予め周知されていたらしく、そのごく一部の中に新たにシェリーヌも追加される事になった。もしも事情を知らず夜に出歩くマイティを見つければ捕まえて寮に帰そうとしただろうし、マイティもシェリーヌならそうするだろうと考えたらしい。アルドも交えてマイティの仕事についての話を聞いたシェリーヌは、以後は出来る範囲で教師としてフォロー出来る所はするようにしている。
軽口混じりに声をかけたのも、そのためだ。一応は確認したものの、まさか本当に酒を飲んでいるだなんて思った訳じゃない。
比較的行儀のいい客が多い店だと知っていたけれど、それでも万が一酔った客に絡まれる可能性がないとも言えない。だから店にいる間は、護衛するつもりで隣の席をキープしたのだ。魔獣や合成人間相手には年の割に凄まじい力を発揮する子供だと知っていたけれど、厄介な人間を相手するには少々過激な手段も取れるシェリーヌの方が適任だろうから。

食事を再開したマイティの邪魔をしない程度に会話をしているうちに、注文の品がシェリーヌの前にも置かれた。それに手をつけてしまう前にふと、隣のマイティの視線がちらちらと脇に逸れる事に気づいて、つられてそちらに視線が向いてしまう。そこにあったのは、ちょうどマイティとシェリーヌの間に置かれた一台の端末。
覗き込むつもりはなかった。けれどお行儀が悪いわね、と窘めることもしなかったのは、意図せず見てしまった画面に表示されていたのが、数式だったから。

「もしかしてお勉強してたの?」
「うん……実は、ちょっとヤバいんだよね〜。特に基礎科目がさっぱりで、今からちゃんとしとかなきゃ次こそ進級出来ないかもしれないからさ……」

時々スクールで見かけるマイティは大抵寝ていて、他の教師から聞いた話によれば珍しく出席した授業中でさえほぼ寝ているらしい。それだけでなく以前、進級のかかった追試を課された時ですらあまりやる気はなかったというから、失礼な話ではあるけれど、背景を知った今でさえもそれほど熱心に勉強をする生徒だとの印象はなかった。だからこそ、ちょっぴり意外だ。
マイティの話を受けてシェリーヌは、少し考えてから些かのお節介を差し出してみる。勉強そのもののアドバイスというのは、少し難しい。諸事情によって前準備もほとんど無く教師となった今、せめて嘘を本当に近づけるべく、シェリーヌ自身もあらゆる事を勉強をしている最中だったから。戦術理論ならともかく、他はきちんと教えられるか微妙なところだ。
だから差し出せたのは、別のアプローチからの選択肢だった。

「貴方の仕事を考えたら、通学するよりも通信制に切り替えた方が生活スタイルには合っているんじゃない? それにあえて留年して無理のないペースで単位を取りに行く方法もあるわ。あとは、そうね、アルドの旅に付き合う回数を減らす事かしら」

それは前々から思っていた事だ。学業と彼の仕事を両立させるには、あまりにも彼にかかる負担が大きすぎる。少なくとも、今の現状では。
しかしIDAの生徒の中にはマイティ以外にも仕事や特別な事情を持っている生徒もいて、申請さえすればそれぞれの生活に合ったカリキュラムを個別に組んでもらうことも出来る。登校しないまま画面越しに授業を受けるのも、進級や卒業に必要な単位を取得するのに何年かけるかも個人の自由で、その辺りのIDAの対応は非常にフレキシブルだ。だから今からでもそちらに切り替えれば、多少は両立が容易になるだろう。
一般的な生徒と同じ生活を送るには、マイティの抱える事情はあまりにも特殊だ。なのに普通の生徒と同じようなスタイルを選択しているのが不思議で、もしも知らないならといくつかの選択肢を提示してみた。
そうだね、と頷いたマイティの反応からして、知らない訳ではなかったらしい。けれどどこか困ったような空気で食事の手を止めた彼は、あのね、とぽつぽつ話し始める。

「学校には、出来れば通いたいんだ……来ても大体寝ちゃってるけど、学校の空気って賑やかで楽しいから好きなんだよね〜。……僕の守りたい人の心が、夢の続きの穏やかな日常が、ちゃんと目に見えるみたいで。そういうの、定期的に確認しておくのって案外大事なことなんだー」

困った顔はそのまま、しかし年齢に似つかわしくない大人びた眼差しをした少年の瞳には、憧れの混じった穏やかな光が浮かんでいる。それが彼にとって、何にも変え難い大切なものなのだと告げている。ならば無理強いは出来ない。

「アルドの旅にも、無理は出来ないけど出来る限り付き合いたいし。アルドの力になりたいのもあるけど、実はちょっとこっちの事情もあるから、そこも外せないんだよ〜」

そしてもう一つの方法も、やはり選択出来ないのだと告げられる。事情について詳しく語らなかったことからして、恐らくは彼の仕事に関係しているのだと予想して深くは尋ねなかった。

「単位は……うん、僕もね、前は留年するならそれはそれで別にいいやって思ってたんだ。僕は僕のペースで進むだけだし、IDAの中って生徒でもないと入りにくいから、僕としては仕事に都合がいい部分もあるしね。……でも……」

残った選択肢は、一つ。前の二つとは違って、すぐに却下される事無くマイティ自身も考えていたことなのだと告げられる。けれど、前は、とわざわざつけられている以上、今は違うのだろう。新たにそれを選び取れない事情が出来てしまったというところだろうか。
つくづく難儀な子ね、と思わずため息をついてしまいそうになったが、直前で飲み込んだのは何だかマイティの様子がおかしかったから。
それまではひどく大人びた、むしろ一端の大人の顔つきをしていたのに、でも、と一言呟いた途端、急速にそれがぽろぽろと崩れ落ち始めていた。うろうろと落ち着かなく視線をさまよわせ、ほんのりと耳たぶを染めて照れた素振りで、口を開きかけては閉じてを繰り返す。
初めて見た少年の、とても年齢に似つかわしい可愛らしい動揺を目の当たりにしたシェリーヌが、あえて声をかけることなく興味深く見守っていれば、やっと話す気になったのか開いた口から、フォランが、と一人の少女の名前を紡ぎ出した。

「フォランがさ、来年、みんなで卒業旅行に行こうって。フォランと僕とセヴェンとジェイド、あと卒業するか分からないけど、ルイナも一緒に。卒業したら、五人で旅行しようって誘われたんだ」

少女に続いたのは、彼と同じ学年に籍を置くアルドの仲間たちの名前。卒業旅行に誘われたのだと、もごもごと歯切れ悪く語ってから、一旦言葉を区切ったマイティは、おずおずと窺うようにシェリーヌを見る。ついさっきまで見せていた大人の顔とはまるで違う、彼らしくないひどく自信のなさそうな顔だ。
前の二つの判断については、きっと誰に助言されても揺らがないだろう。それこそが自分の道だと定めて、迷いなく選びとる目をしていた。
なのにこれだけは、あからさまに態度が違っている。本当にこれを選んでいいのか戸惑うような、果たしてそれは正しいのかと思い悩むような、そんな顔で縋るようにシェリーヌを見ている。罪悪感さえ滲んだ揺れる瞳は年相応どころか、年端もゆかぬ小さな子供のようだった。

もしかして、きっぱりと斬り捨てる事を望まれていたのかもしれない。
そんなのダメよ、旅行なんてまたいつでも行けるじゃないの。ただでさえ無理のある生活をしてるのに、たった一時の快楽に身を委ねてこれ以上の無理をするのは良い判断だとは思えないわ。
そんな風に、ありきたりの正論で叩き伏せて考え直すように説くことを願われていたのかもしれない。複雑な色で揺れる眼差しは、裁かれる時を待つ罪人の眼差しにほんの少し似ている。好きでも趣味でもないくせに、罰されるためだけに偽りを貼り付けシェリーヌの鞭を待つ下僕もどきが、よくしていた瞳だった。

だから、言ってやる。

「いいじゃない、旅行。楽しそうね」

だって、とても気に入らなかったし、何よりそんなのはシェリーヌの趣味じゃなかったから。その特殊な境遇により、きっと同年代の子供たちよりひと足早く精神的に大人になってしまった彼が、自身の将来さえ既に定めてどんな横槍を入れられようと揺らぐことの無いだろう芯を構築している彼が、そんな己の判断に自信が持てなくなるくらい心を揺さぶられて浮かれて楽しみにしているものを、諦めて手放す未来を選択に入れているのがどうにも気に入らない。
あれも、これも、何もかも。全部欲しいと欲張るくらいでちょうどいいのだ。それくらいの方が可愛げがあるし、しつけ甲斐もあってシェリーヌ好みだ。
シェリーヌの肯定を受けたマイティの瞳から、躊躇いの気配は多少は薄れたけれど、未だ罪悪感は拭い去られていない。それを選んでしまったら、間接的に仕事に支障が出るんじゃないかと悩んでいるのが眼差しだけでありありと伝わってくる。

「貴方自身の楽しい記憶が増えるって事は、それは守りたい日常が増えるって事に他ならないんじゃないかしら? 大事なんでしょう、そういうの」

だから、もう一押し。ついさっきマイティ自身が口にした言葉を借りて、更に背中を押してやる。
大きく目を見開いた彼は、ぱちり、ゆっくりと瞬きをして、ぱちりぱちり、しばらく呆けたように瞬きを繰り返す。そうするうち、やがてシェリーヌの言葉を咀嚼して飲み込んで、じわじわと理解が進んだらしい。そっか、と小さく呟いてから、へにゃりと破顔した。

「うん、そっか、……へへへ、うん、そうだね……、そっか……そうか……」

そっか、と噛み締めるように呟くたびに瞳からは陰が薄れてゆき、そうか、と吐き出す度に、声に安堵が滲んでゆく。少し強ばりの残っていた笑顔からは硬さが溶けて流れてゆき、すっかりと解れた唇で最後にもう一度、そうか、と口にした彼は、ふふふ、と息の音だけで笑ってから、あのね、とシェリーヌに話しかける。

「あのね、まだまだずっと先の話なのに、フォランはもう行先あれこれ考え始めてて、僕の仕事との兼ね合いも考えてくれててさ。セヴェンは自分だってサボってるのに、留年したら置いてくぞって言うんだよ。でもね、僕の苦手な基礎科目の要点まとめたレポート作ってくれるんだ。ジェイドは全然興味ないって顔してるのに、ついでだって言ってご飯作って寮の部屋までよく持ってきてくれるし、ルイナは小テストがある日や出た方がいい日を調べて教えてくれるし。……そこまでされてさ、留年する訳にもいかないよね」
「そうね。やれるだけやってみなさい」
「うん、頑張るよ〜。……あのね、フォランは東方がいいって言ってて、でもラウラ・ドーム近くの離れ小島をレンタルしてキャンプでもいいねって言ってて、それでね」

一度飲み込んでしまえば多少は吹っ切れたのか、年相応の顔をしたマイティが、切り捨てなかった選択の続きの話を始める。恥ずかしそうに、照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに。最後には自分自身に言い聞かせるように。
話すうちにどんどんと勢いづいてゆき、目をキラキラ輝かせて、あのね、と口を動かす彼は、シェリーヌがシェリーヌではなかった頃、施設で年下の子供たちが、大事な宝物を彼女だけにこっそりと見せてくれた時と同じ顔をしている。
とても大切だから誰彼構わず見せたりはしないけれど、でもやっぱり誰かに見て欲しい、聞いて欲しい、だってこんなとびきりの宝物なんだもの。いいでしょう、素敵でしょう、綺麗でしょう。
そんな顔をして彼は、友達と遊びにゆく未来の話をする。

「あっちこっちの小島巡りも楽しそうでさ、廃墟が残ってて観光地になってる場所あるでしょ? そういうとこ回っ、……」

かつての想い出を重ねて目を細めて耳を傾けていれば、話の途中で不自然に言葉を途切れさせてはっとした様子で口を噤んだマイティが、みるみるうちに頬を真っ赤に染め上げる。どうやらシェリーヌの眼差しで、夢中で喋る自身の姿に気づいて羞恥を覚えたようだった。もっと聞いていたかったのに、少し残念だ。
すっかりと黙りこくってしまったマイティに、すごく楽しみなのね、と囁きかけると、逡巡のあとに無言でこくんと小さく頷いて、長らく中断していた食事を再開する。横顔、覗く耳たぶは赤いままで、なかなか元に戻る気配は見えてこない。
そんなマイティの姿を見て、ふふふ、と唇に笑みを浮かべたシェリーヌは、マスターに一言断ってから席を立って店の外に出ると、端末を取り出してどこかへと連絡をとり始める。

「頑張るイイコにはご褒美をあげなくっちゃね」



「はい、これあげるわ」
「これは、連絡先? 誰の?」

店に戻れば、既にマイティは食事を終えていて、今にも席を立とうとしている所だった。シェリーヌの姿を認めて、じゃあそろそろ行くね、と声をかけて出てゆこうとするマイティの手に、連絡先を書いた紙をねじ込んでやる。

「足よ」
「あし……?」
「便利なタクシーみたいなものよ。ここに連絡すれば、どこに居てもすぐに飛んでくるわ。好きに使っていいわよ」
「え゛っ……」

残念ながらマイティからは、シェリーヌの下僕たちと同じご褒美で喜ぶような素質を感じない。ならばせめて役に立つものを、と思いついたのは、移動手段だった。最初の方に少し雑談した時に、今日はイプシロン区画とラムダ区画に向かうらしく、その際の移動はタクシーか、捕まらなければ徒歩でと言っていたのを覚えていた。
だったら、ちょうどいい足がある。シェリーヌの下僕は全区画に存在していて、一声かければすぐに駆けつけてくる。そのうちの一人にざっくりとした説明をして、マイティからのコールがあればすぐさま送迎を手配する算段をつけるよう言っておいた。広い車内では仮眠をとることも出来るし、途中で別に寄りたい場所が出来れば指示に従うようにも言いつけてある。
仕事の役に立つ良いものだと思ったのだけれど、しかしマイティの顔色はなぜか優れない。

「遠慮しなくていいわ。ちゃんとアタシがご褒美あげておくから、使えば使うほどあの子たちも喜ぶわ」
「えええ……」
「ちなみに今日の足はもう呼んであるわよ」
「え、えええぇぇ……」

遠慮してるのかしら。確かに他人の下僕を使うのは、ちょっと躊躇うかもしれない。シェリーヌだってわざわざ人のものを借りようとは思わないから分からないでもないし、下僕の主人がコロコロ変わるのもあまり良いことではない。だけどマイティは下僕を作るタイプではないと分かっているから競合はしないし、あくまで綱を握るのはシェリーヌのままだから、そこは気にしなくていいのに。
戸惑うマイティを促して店の外に出れば、既に車が待機している。運転手はシェリーヌの姿を見つけると、無言のまま目礼をしただけで余計なことは言わない。仕事の出来るイイコたちだ、あとでたっぷりとご褒美をあげることにしよう。
この期に及んでまだ遠慮しているらしいマイティを強引に後部座席へと押し込んだシェリーヌは、扉が閉まると同時にすぐさま発車した車がみるみるうちに小さくなってやがて見えなくなるまで見送ってから、にっこりと微笑む。

とてもいい仕事をしたと満足げに頷いたシェリーヌの機嫌は、すこぶる良かった。店に戻りすっかり冷めて固くなったパスタの対面しても機嫌は上向いたまま、綺麗に平らげてその日は良い気分のまま職員寮まで帰ったのだけれど、しかし残念なことにその後、シェリーヌの足たちをマイティが利用することはなかった。便利なのに、勿体ない。下僕たちも、役に立つ機会がなくて残念がっている。
けれど無理を押し付ける訳にもいかない。仕方がないのでマイティへのご褒美は、別のものを考える事にしよう。

(その気持ちだけで十分だよ……ほんとに、ほんとに、ほんっとうに!)

ふと、どこかからマイティの切実な声が聞こえた気がしたけれど。
気のせいね、とあっさりと結論づけたシェリーヌは、思いついた新たなご褒美案を実行するべく、下僕の一人に連絡をつけることにした。