慟哭


「大丈夫だ、すぐに二人とも見つかる」

月影の森の手前、ダルニスに声をかけたのは警備隊の副隊長を務める男。ダルニスの父とも親しい彼は、警備隊の見習い時代にダルニスの面倒を見てくれた男だった。
滅多なことで気休めのを口にしない彼が、素っ気ない素振りながら口にした、大丈夫だ、との言葉に、ダルニスは無言で頷いてみせる。
とうに日は沈み、淡い月明かりの照らす夜の中、松明を手にダルニスたちは月影の森へ向けて歩を進めていた。目印は、複数の足跡。さほど強くはない小雨のおかげか、柔くなった地面に残る足跡は、雨粒に洗われて消えてしまうことなくくっきりと残っていた。


アルドに村の中の見回りを任せ、カレク湿原の街道の見回りに向かったダルニスが、夕刻、村へと帰った時。
待ち受けていたのは悪夢のような現実だった。

複数の魔獣が村へと侵入したこと。村人が一人、殺されていたこと。村長が傷を負ったこと。フィーネが攫われたこと。そしてアルドが魔獣を追いかけ一人で村を飛び出して行ったこと。アルドもフィーネも未だ戻らないこと。

酒場に集まった村人や警備隊員たちからあらましを聞いたダルニスは、すぐさまアルドの後を追いかけようとしたものの、慌てた周りに引き留められ数人がかりで押さえ込まれてしまった。
相手は村人を一人、殺した魔獣たちだ。迂闊に追っては危ないと諭すように口にする隊員に、じゃあなぜアルドを一人で行かせたのかと、言い返した語気が随分と荒くなったのは、仕方の無い事だと思う。
しかし、殺された村人が見つかったのはアルドが飛び出して行ったあとで、それまではみんなどこかで、アルドなら大丈夫だ、アルドならすぐにフィーネを連れて帰ってくると思っていたと言われれば、憤慨しつつも理解できる部分もあった。
警備隊の見習いという立場であるとはいえ、単純な強さで言えば、アルドの剣の腕は村で一、二を争う。村の周辺の魔物がそれほど強くはないこともあって、平穏に慣れ切った村人たちが、恐ろしいと噂に聞く魔獣についても、アルドなら勝てると根拠の無い信頼を抱いてしまうのは無理もない。
人死にが出てようやく相手の脅威と事の深刻さに思い至るほどだ。それまではおそらく、せいぜいその辺のゴロツキと同じようなものだと認識していたのだろう。
焦燥と苛立ちを覚えつつも、彼らを一概に責める気にはなれない。すっかりと後手に回った拙い対応でも今まではどうにかなっていた程度には、長らく平和な村だったのだ。

それでも、いくら村人達に引き留められ諭されようと、ダルニスがアルドを追わない理由にはならなかった。
幼少から訓練を積んだ剣の道を捨て、弓を手にしたのは、アルドの背中を護るためなのだから。
アルドだけを死地に追いやり、自分は安全な場所で帰りを待つために選んだ道ではない。
今、弓を手にアルドの元へと駆けつけず、いつ駆けつけるのか。
弓を手にした理由をアルドに告げたことは無かったけれど、自分自身に誓ったもの。臆病風に吹かれて村に閉じこもっていれば、アルドだけでなく己の心にも顔向けが出来ない。
最悪、隙をついて一人二人、止める村人達を殴り倒してでもその背中を追いかけるつもりだった。

そんなダルニスの決意を悟ったのだろう。
警備隊の副隊長の男が呆れた顔で首を振り、ダルニスを押さえ込む男達に離してやるように告げ、せめて一人ではなく俺も連れていけと言って、やれやれと大袈裟にため息をついてみせた。
すると彼に続いて数人、警備隊員の中からアルドとフィーネの捜索に出向くと名乗りを挙げる者が出てくる。その中にはノマルの姿もあったものの、まだ警備隊の訓練を始めたばかりの彼を連れてゆくのはさすがに躊躇われ、村を守ってほしいと言い含める。悔しそうな顔をしてはいたけれど、我を通す余裕のある場面ではないと理解したノマルは、すぐさま引いてくれた。

ダルニスを含めて全部で五人、ヌアル平原に続く入口の近くの警備小屋にて、てきぱきと夜の森へと向かう準備を整える中、村人からいくつか新たな情報がもたらされた。
一人だと思われたアルドは、村の人間ではない誰かと共にいたこと。その誰かはアルドと共に魔獣と戦っていたこと。
その誰かの正体は気になるもの、少なくともアルド側の戦力が想定より多いのは悪い知らせではない。
けれど安心する間もなく告げられたもう一つの話は、村の外れで気を失い倒れるアルドたちを目撃した村人がいたこと。アルドたちはすぐに意識を取り戻し、魔獣の後を追って月影の森へ向かったらしいが、状況から考えて一度魔獣との戦いに負けた可能性が高い。
想定以上の最悪の状況に、一気に青ざめたダルニスはすぐさま駆け出しそうになったけれど、周りの隊員達に夜の闇を舐めるなと一喝され、ぐっと堪えて彼らに従い、先走ることなく連れ立って村の入口へと向かう。
アルドの背中を護ると決意したけれど、何もかもから護り通すには、未だ圧倒的に己の力が足りてはいないことも自覚していたから。



柔くなった地面に残る足跡は、村人から聞いた通り。二体の魔獣らしきものと、二人分の靴の跡。一つはアルドの靴跡に似ていて、もう一つはアルドのものより僅かに大きかった。誰のものか分からないそれは、少なくともフィーネのものではない。
歩いて森へ向かう魔獣たちのものとは違い、随分と引き離された距離を詰めるように、走る歩幅で続く靴の跡からして、村の外れでアルドたちが倒れていたというのも間違いではなさそうだ。最悪が裏付けられ、知らず、松明を持つ手に力がこもる。
ヌアル平原の終わり、月影の森の入口まで二種類の足跡に変化は見られないまま、森の中へと続いていた。

そうして踏み入った月影の森は、平素とは違う異様な雰囲気をしていた。
しんとした森の空気は、夜とはいえやけに静かすぎる。普段なら聞こえる筈の虫の声も、獣の唸り声も聞こえず、神経を研ぎ澄ましても森から生き物の気配が感じられない。
そのように感じたのは、ダルニスだけではなかったらしい。共に来た警備隊員達も戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見回し、表情を険しくして警戒を強めた。

次の異変が見つかったのは、森の奥へと進んでから。
それまではおそらく、二体連れ立って歩いていた魔獣の歩みが分かれ、一つは数歩先に行ったところでぷつりと途切れていた。更によくよく地面を見れば、何かの陣のようなものが描かれている。

「……こりゃあ、とんでもないものだぞ」

唸るように呟いたのは、隊員のうち魔法が得意な男。以前ユニガンで魔法について学んだことのある彼の言い分によれば、それは古い文献にあった送還の陣によく似ているという。
勿論、元々月影の森にあったものではない。おそらくはフィーネを攫った魔獣が用意したものだろう。

「送還の陣っつうなら、これを使って追いかけらんねぇのか?」
「いや、これはもう何の効力も持っていない。対になる召喚の陣も破棄されているだろう。こういうのは二つ揃って効果のあるもんなんだ、それが力を失っていると言うことは……」

そこまで口にして男は、沈痛な表情で俯く。皆まで言わずとも彼の言葉の先を予想したダルニスたちの表情も暗く翳る。
魔獣たちには何事か目的があってフィーネを攫ったらしい事は、目撃した村人達からの話で分かっていた。
その魔獣がフィーネを連れて向かった先にあった送還の陣が使用済みであると言うことは、既にフィーネがこの先に連れ去られてしまった可能性が高い。
畜生、誰かの呟きが静まり返った森の中に響き、ダルニスはぐっと唇を噛む。

殺されてはいないはずだ。
フィーネを魔獣城に連れてゆくと、魔獣が言っていたらしいから。攫われたけれど、生きている。ならば助けに行けばいい。アルドなら必ず助けに行くだろうし、ダルニスも共にゆけばいい。フィーネはアルドの大事な妹であると同時に、ダルニスにとっても妹のようなものだったから。攫われたままになんてしてはおけない。

それにまだ、もう一体の魔獣の足跡だって残っている。もしかしてその先に、アルドもフィーネもいるんじゃないか、僅かな希望に縋るように落とされた誰かの言葉にはっとして、改めてそちらを追うことにした。

そして見つかったのは、最後の異変。
先頭を進む副隊長の男の鋭い制止の声に足を止めたダルニスは、辺りの様子にひゅっと息を呑んだ。
そこにあったのは、激しい戦闘の痕跡と、血の痕、そして唐突に出現した、大きな大きな獣の足跡。アベトスやゴブリンのものとはまるで違うそれは、子供の背丈ほどありそうなほど大きく、深く抉れた地面は巨大な体躯の重量を想起させるもので、月影の森に住む獣のものではないのは明らかだった。

そしてその、異常に大きく重い獣が、何かを追いかけるように駆けていっていて、その、大きな足跡の間には、踏み潰されて荒らされた二人分の足跡が。
まるで何かから逃げるように広い歩幅で走る二人分の足跡が残っていて。

「何、だこれは……」
「おい、待てダルニス!」

ふらり、ふらり、吸い寄せられるようにダルニスは足跡を辿る。副隊長の制止の声にも、足は止まらない。
途中、なぎ倒され折れた木が、獣の巨体とそれの力の強さを示していて、誰かが、獣の体躯では通れない木の密集した場所を潜り抜けて逃げようとしたのに、目論見が上手くゆかなかった名残をまざまざと見せつけられているようで。――月影の森に住む、特に大きなアベトスの個体に追いかけられた時は、木々の間を縫って逃げればやつらはついて来られないと、アルドに教えたのはダルニスだった。

やがて開けた先、獣の足跡がある場所で足踏みを始める。見れば反対側からも同じ種類の獣が走ってきた跡が見えて、二体の魔物はまるで何かを挟み込むように、示し合わせて一点で止まり、何かに飛びかかる前のように、一層深く地面を抉った足跡はあるのに。ここまで続いた歩幅よりも随分狭い間隔で、もう目的は終わったとばかりに、のしのしと歩いて森の更に奥に向かう、獣の足跡は見えるのに。――続いていた二人分の足跡はそこから先、どちらにも伸びてはいなかった。
飛び移れるような木は近くになく、先程みた送還の陣のような名残も見つからない。
何の痕跡もなく、ぷっつりと、そこで途絶えていた。
まるで、どこかへと消えてしまったように。

「あ……」

がくがくと身体が震え、立っていられなくなったダルニスは地面にがくりと膝をつく。後ろから追ってきた誰かが、何事か口にしながら手から松明を取り上げたけれど、ろくに反応も出来ない。
と、呆然とするダルニスの視界の端、白い布切れが見えた。ひどく嫌な予感がするのに、のろのろとそちらに伸びる手を止めらない。
恐る恐る摘み上げたそれがぱさりと広がって、見えたのは赤い糸で縫いとられた『アルド』の文字。ハンカチにフィーネが刺繍をしたそれは、アルドがいつも持たされているものだ。ダルニスもよく、知っているもの。

この後に及んでダルニスはどこかで、二人分の足跡がアルドに関するものとは限らないと思い込もうとしていた。確かに一つはアルドのものによく似ていたし、状況からしてアルドのものである可能性が高いけれどそれでも、もしかしたら違う人間のものであるかもしれないと、信じたかったのに。

「ああ、あ……」

消えた二人分の足跡。人一人くらいぺろりと丸呑み出来そうなほど巨大な体躯を思わせる魔物の痕跡。刺繍入りのハンカチ。姿の見えないアルド。森の中から出てこない幼馴染。消えてしまった弟分。

見つけた手がかりを繋げてしまいたくないのに、頭が勝手にぱちぱちと答えに向けて道筋を立ててゆく。
逃げられる場所なんてなくて、逃げられた形跡もなくて、もしもここから抜け出せたとするなら、空に飛んで逃げるくらいしか方法がなくて、まさかそんな事が起こる訳も無いことくらい承知していて、だったら、消えてしまったアルドたちは、どこに。
フィーネはきっと、送還陣の向こう、魔獣たちの城に。
じゃあアルドたちは、アルドは、どこに。
どこに、どこに、どこに。

知りたくない、理解したくない、嫌だ、嘘だ。
けれどダルニスの頭は、一番高い可能性を無情にも導き出してしまっま。

――そんなの、魔物の腹の中しか、ないじゃないか。

「あああ、あ、あ……」

アルドなら大丈夫だと、根拠もなく思い込んでアルドを一人で行かせた村人達に苛立ったくせして、ダルニスだって思っていた。
アルドなら大丈夫だ。もしも勝てない相手だって、月影の森のことはアルドだってよく知っていて、逃げおおせるくらいは出来る筈だ。魔獣たちの隙をついてフィーネを奪い返して、二人で村に帰ってくる事くらい、アルドなら出来る筈だ。
こんな時間まで帰ってこなかったのは、魔獣に見つからないようどこかに隠れてやり過ごしているからで、探しに来たダルニスたちに気づけば、ひょいと現れる筈だ。
そうしたら、一人で無茶をしたことを叱って、今度はちゃんとダルニスも連れてゆくよう言い含めようと思っていた。
万が一、フィーネを取り戻すことが叶っていないならば、その時は取り返しに行けばいいと、その際にはダルニスも着いてゆくのだと思っていた。
なぜならダルニスはアルドの背中を護るべく、弓を手にしたのだから。


そう、思っていたのに。
残されたいくつもの手がかり示すのは、甘い見通しを手酷く裏切る現実しかなくって。

「ああああああああぁぁぁあああ……っ!」

そして、月影の森の奥。
青年の、絶望の咆哮が響く。