父のこと


フィーネの力によって蘇ったというかつての魔獣王、ギルドナを新たな仲間としてアルドに紹介された時。ロキドを見るなり驚いたように見開かれたギルドナの目がやけに印象に残った。
そのような目を向けられる理由に、心当たりは全く無い。蘇ったギルドナと顔を合わせるのはこれが初めてで、ミグランス城での戦いにおいてはアルドと共に魔獣王に相対したものの、今のギルドナにその時の記憶はないという。そもそも記憶の中の魔獣王も、ロキドを見て特に驚く様子は無かったから、ますますギルドナの反応の意味が分からない。
もしかしたら魔獣と人間の間に生まれたロキドが珍しかったのだろうか。しばし考えてみても全く見つからない心当たりにふと、よくよく馴染んだ己への反応についてようやく思い出す。
アルドの仲間になってから、ごくごく当たり前のように仲間として扱われることに慣れてゆき、アルドの仲間たちもロキドをアルドの仲間として扱い、至極自然に接してくれるからうっかりと失念していたけれど、魔獣でも人間でも、己という存在を知ればまず最初に向けるのは、驚愕や恐怖、そして異物を見つめる眼差しだ。アルドの仲間というだけで、無意識のうちにそれを除外していたけれど、若返ったとはいえかつての魔獣王、ロキドに何か思うところがあっても仕方がない。
それに驚いてはいたけれど、ギルドナのその瞳には嫌悪や軽蔑は宿っていなかった。ならばそれで十分だ。共に時間を過ごすうち、己の存在にも慣れてくれればいい、と。自身を納得させたロキドは、蒸し返して考えることもなく、ギルドナの反応をそのまま受け入れることにした。

そんな己の想像が、完全な誤解であったと分かったのは、顔を合わせて半月ほど経ってからのこと。たまたま宿で同じ部屋、二人きりになった時に、静かな声でギルドナがロキドに話しかけてきた。

「――という名に、心当たりはないか」

突然、告げられた名にすぐさま答えを返せるような心当たりはない。しかし知らないと首を振るには、やけにその名が懐かしいような気がして、ロキドはじっと考え込む。
いつか、遠い昔にその名を、耳にした気がする。優しい顔で誰かが、口にしていたような気がする。宝物を慈しむように誰かが、柔らかな声でロキドの耳にそっと囁いてくれた気がする。
幼いロキドに与えられた優しさは、全て母で出来ていた。だから柔らかな記憶は全て母との想い出の筈で、その誰かも母でしかありえない。だというのに、それが母とのものだと断言できず、ぼやけてしまった優しい声にロキドは愕然とする。

けれど、ああ、そうだ。
気付かぬうちに零れ落ちていた想い出に衝撃を受けつつも、ロキドはある事を思い出した。
幼いロキドにとって父は絶対的な悪で、母は一方的に貶められた被害者で、父が優しく誇り高い男だったなんてものは、ロキドを悲しませないための母の優しい嘘でしかなくて。
だからこそ有り得る訳がなかった。
母が、父の名を優しい声で呼ぶなんて。
憎い筈の男の名を、飴玉でも舐めるような蕩ける声で紡ぐなんて。
けして、あってはならないことだった。
だからそれは父の名ではない。無意識のうちにそれを忌避したロキドは記憶の奥底にそれを封じ込め、努めて見ないようにしてきた。忘れ去ったはずの、遠い過去の想い出だった。
きっと、ギルドナに問われるまでは、忘れていたことすら忘れていた、いつかの記憶。
長く黙り込んだロキドに、ギルドナは急かすような真似はしなかった。しかし知らないなら構わないと止めることもせず、静かにロキドが答え出すのを待っていた。

「恐らくは、俺の父の名、だと思う」
「だと、思う?」
「俺は随分と長い間、父を誤解し厭っていたからな……母が語る父の話に耳を傾けようとはせず、父の名も、ろくに覚えてはいなかった……が、母がその名を口にした幼いころの記憶を、たった今、思い出したのだ。……そうか、それが俺の父の名か……知らせてくれて、感謝する」
「そうか、やはりな」

断言を避けた言葉に、ギルドナは腕を組み訝しげに片眉を上げた。しかし続けてロキドがその理由を説明すれば、少し難しい顔でぽつり、ギルドナが呟き、それきり口を閉ざして黙り込む。

「なぜ俺が、父の子だと?」
「よく、似ている」

しばし部屋に落ちた沈黙を、破ったのは再びロキドの方。おずおずと問いかければ、すぐさま答えが返ってきた。じっとロキドを見つめる瞳の奥には、誰かを懐かしむような色が深々と湛えられている。

「それほど、似ているだろうか?」
「ああ、俺の知るあいつに、生き写しだ。アルドに引き合わされた時、あいつが仲間にいるのかと驚いた。……そんな筈、ある訳がないというのにな」

ロキドが会った父は、ロキドよりも随分と体格がよく、毛だって父の方が長かった。似ているといえば、それなりに共通点はあるだろうが、そっくりとも思えない。しかし懐かしげに目を細めたギルドナの言葉で、ロキドはそれが十六年前の父の事を指しているのだと、ようやく思い至る。
もしも、仮に父の真実を知らずギルドナと相対していれば、その言葉に大いに憤っただろう。そもそも、いくらアルドの仲間とはいえ、ギルドナを受け入れる事すら難しかったに違いない。
けれどロキドはもう、父の本当の想いを知っている。憎悪で歪み塞がれた視界は開け、ようやく見えた父の姿を尊敬し、誇りに思っている。
だから若い頃の父に生き写しだと言われ、思わず頬が緩んでしまった。

「今、あいつはどうしている?」

けれどそれも長くは続かない。
次いで問うてきたギルドナの言葉に、ロキドは表情を暗くし、小さな声で、死んだ、と呟いた。

「そうか、やつも死んだか……」

ギルドナは、驚かなかった。
どこか予想でもしていたように、一つ頷いてから、しばし目を瞑る。そんな彼の口から独り言のように零れた、やつも、との言葉を聞いて、ロキドははっとした。
ミグランス城の戦いで一旦小康状態になったとはいえ、それまでの人間と魔獣との戦いは激化を辿る一方で、その最中で人も魔獣も多くが命を落とした。きっとその中にはギルドナの知己も、大勢いたことだろう。
気づけば知らず十六年の時が過ぎていて、見知った顔の多くは既に死出の道へと旅立っている。己に置き換えて考えずとも、恐ろしく心細く、ぞっとする状況だった。
何か言わねば、咄嗟にロキドは思った。
父の事を覚え、懐かしんでくれたこの男に、何か言ってやらねば、そう思った。父の名を教えてくれた恩に報いたかった。
けれど上手い言葉が見つからない。こんな時アルドなら、己を救い上げてくれたように、心を砕いて親身になってやれるのだろうけれど、生憎とロキドにアルドの真似は出来そうにもない。

「良ければ、父の話を聞かせてはくれないだろうか」

そうして頭を悩ませたロキドがやっと口に出来たのは、ギルドナを気遣う代わり、父を知りたいと請う言葉。すぐにもっと上手い言葉があっただろうと、己の欲求を突きつける言葉に自己嫌悪に陥ったけれど、ギルドナはそれをロキドの身勝手だと受け止めなかったらしい。
ぱちり、驚いたように瞑った目を開き、まじまじとロキドを見つめ、ほっとしたように小さく笑ってから、そうだな、と記憶を探る素振りを見せる。

「情に厚い男だった」
「俺よりも五つ、いや六つか、上の男でな。昔はよく、手合わせをした。強い男だった」
「面倒見の良いやつで、俺も幼い頃は世話になった事がある。あまり饒舌な方では無かったが、子供には慕われる性質だった」
「数年前……いや、もう二十年ほど前になるのか。ふつりと姿を見なくなってな。どうしたのかと思っていれば、しばらくして、人間の女と駆け落ちしたらしいとの噂が流れた。おまえの母の事だろうな」
「最近、……いや、これももう、十六年前のことになるのだな。人間と魔獣との融和を説くやつの姿が、各地で目撃されているらしいとの話は聞いていた」
「穏やかで口数の少ない男だったが、人間と戦う事に否定的ではなかった。仲間を守るために率先して戦場に立つことも多かった。その背に憧れを抱く魔獣も少なくなかった。……けれどそれが一転して、人との融和だ。間違いなく、おまえの母の影響だろう」

懐かしげに目を細め、父を語るギルドナの声は穏やかだった。親しい友について語るような柔らかな口振りに、自然とロキドの心も暖かくなる。
初めのうちはぽつりぽつり、庇から水滴が落ちるような語り口だったのが、次第に川のように滔々と流れるようになり、話に合わせて顔を顰めたり舌打ちをしたり笑んでみせたり、浮かべる表情も豊かになってゆく。

「ロキド……そうか、ロキドか」

話の途中、何か思い出したのか突然、何度もロキドの名を繰り返して、ギルドナは納得したように頷いた。

「どこかで聞いた名だと思ったが、確かそれはあいつの祖父の名だった筈だ」
「父の……?」
「ああ。俺は会ったことは無いが、強く誇り高い魔獣だったと聞く。お前の名は彼から貰ったのだろう」
「だがしかし、父は俺が生まれた事すら、長く知らなかった筈だが……」
「フン、子が生まれる前から名を考える親など珍しくもないだろう? それとも、やつがお前の母に一族の話をしていたのか……どちらにせよ、ロキド、良い名だ」
「そうか、そうなのか……ありがとう」

どうしたのかと尋ねれば、楽しげに唇を吊り上げて笑ったギルドナが、ロキドの知らなかった名前の由来を教えてくれた。
ロキドも母から聞かされてはいた。それはロキドの曽祖父から貰ったものだと。けれどそれが父方の、魔獣の方の曽祖父の事を指すのだとは今の今まで知らなかった。だからロキドはずっと、それは母方の曽祖父の事だと思い込んでいた。母もあえてどちらのと明言した記憶はなく、もしかして父を激しく拒絶していた幼い頃のロキドの心を慮ってのことだったのかもしれない。
己の名が、曽祖父と、父の祖父と同じである。
その事実は父と母が確かに心を通じあわせた証のようにも思え、二人が自身の家族についてまで語り合うほどに近しい存在だったのだと、自身の名が見える形として示してくれているようで。
幼いロキドが嘘だと断じた、母が語った優しく誇り高い父の話は、けして嘘ではなく全て本当だったのだと改めて理解し、じんと胸が震え少しだけ泣きたくなった。

ロキドの父の想い出を話すギルドナが、ロキドへも注ぐる眼差しは、どこまでも穏やかだった。ギルドナにとって己は、アルドの仲間であると同時に、かつての知己の息子でもあるのだろう。どこか母の眼差しと似たその瞳の温度がくすぐったくて、むずむずとした気恥しさを覚えたロキドは、その眼差しから逃れるように目を伏せて俯いた。

一通り、ロキドの父の話を終えてから。
ふっと息を吐き出したギルドナは、しんみりとした口調でぼそりと呟いた。

「馬鹿なやつめ、あと少しで貴様の望む人間と魔獣が共存する未来が、実現したかもしれんのに……待たず死んでしまうとは、本当に馬鹿なやつめ……」

本当に、と、頷いた言葉は音にならず、喉の奥で消える。
馬鹿なやつめ、ギルドナの言葉はそのまま、ロキドの心へと突き刺さる。
馬鹿なやつなのは、父ではなく己なのだ。
もう少し早く、魔獣城に辿り着いていたならば。あの時、瀕死の魔獣相手に油断さえしなければ。もっと早く、父の言葉を信じていれば。
父は、死ななかったかもしれないのに。もっと、父と子として、いろんな話が出来たかもしれないのに。アルドとギルドナ、人間と魔獣の二人が背を預け合い戦う姿を、その目に見せてやれたかもしれないのに。
決意を新たにしたとして、後悔がない訳では無い。もっとああしていれば、もっとこうしていれば、けして取り戻せはしない過去を、何度だって夢に見て魘される。
未だ父の死はずきずきと心を締め付けて、悲しくてやるせなくてたまらない。けれど父の死を心から悼んでくれる目の前の存在に、僅かばかり慰められるのもまた、事実でもあった。

「……月影の森に、父と母を弔っている。いつか、訪ねてやってはくれないだろうか」
「ああ、そうだな。案内してくれ」

だから考えるよりも先に、それが口をついて出たのは自然なことだった。きっと父も、そして母も、喜ぶことだろう。それに、父の知己に訪ねてもらえれば、何よりロキドが嬉しい。
すぐさま了承の意を示してくれたギルドナは、それがけして口先だけの約束でないとでも言うように、早速アルドを通じて月影の森に行きたい旨を合成鬼竜に告げておこう、と口にしてから、思いついたように、そうだ、と口を開く。

「今度、おまえがコニウムに来た時には、魔獣の弔い方を教えてやろう」
「魔獣の……?」
「そうだ。それで二人を送ってやればいい」

ふっと小さく息を漏らして笑ったギルドナは、どこか吹っ切れたように晴れ晴れとした表情をしていた。

「魔獣と人間との共存を願って死んだ男と、その男が好いた女だ。魔獣と人間、二つのやり方で弔ってやっても怒りはするまい」

彼の中から、人間への憎悪が消えたわけでは無いと聞いている。この短い間に既に何度か、人に向ける剣呑な視線を見たこともある。
けれど、それでも。
彼はきっと、二度と魔獣王への道は歩まないだろう。
彼の言葉を聞いたロキドは、遠くない未来、父の望む世界が実現する希望の光を幻視する。

そして、そっと閉じた瞼の裏。
睦まじげに寄り添い、嬉しそうに笑う、父と母の姿を見た気がした。