愛し子よ


(珍しいわね)

ケルリの道、上空をぐるぐると回る小さな火の鳥を見つけたトゥーヴァは、首を傾げて逡巡した後、それに向けて指を伸ばす。傍目にはただの鳥にも見えるそれは、どこかの火の精霊からの使いだと一目見て分かった。

人の生から外れて長く生きるうち、人以外の存在へと触れる機会も触れ、彼らの習慣にもある程度は詳しくなった。精霊たちは人とは違う独自の連絡手段を持っていて、眷属を作って送り出したり、ああして使いの形をとって何かしらと接触を取ろうとする事があるも知っている。それ自体は珍しいことではない。
珍しいのはそれが、火の精霊のものだったから。
好奇心が旺盛な風のものや、人間に対して深い情を寄せる水のものはしょっちゅう見かけるし、自分からは動かずとも頼られれば大らかに耳を傾けてやる土のものとは違って、火の精霊たちはサラマンダーを筆頭に基本的に他のものへの興味が薄い。強い力を持つ存在にはそれなりに興味を傾けるものの、そうでなければ人であれ精霊であれいくら周りをうろつこうが気にすることなく、無いものとして扱うことが多い。ある意味では一番、自然に近い有り様をしている。
その気質から、自ら何かへと接触を持とうとする事が極端に低いと知っていたから、火の精霊からの使いだと思われる火の鳥があるだけでも珍しいのに、それがどこかを目指す事無く上空に留まっているということはつまり、個へ向けてではなく不特定多数に向けて何かの言付けを託しているということになる。そんな事態、まず無いことだ。少なくともトゥーヴァにとっては、長い生において初めて経験する事だった。

異質は、変異の前触れだ。
もうとうに己の生への執着は捨ててしまったけれど、世界が終わってしまうことは望んでいない。大事な親友が眠るあの地が荒らされるようなことは、けして起こってほしくない。
だからトゥーヴァはそれに手を伸ばした。それが世界の終わりの予兆を告げる前触れであることすら覚悟して。

『人の子の糧は何だ』

しかし。トゥーヴァの元まで降りてきた使いが告げたのは、世界の存亡をちらつかせる予言ではなく、全く予想もしていなかったもの。どういうことかすぐには理解出来なくて、ぽかんと呆気に取られていれば、小さな火の粉が飛んできてぽんぽんと火の使いの身体へと飛び込んでゆく。

『恐らくは幼体だ』
『火の気ではよくないらしい』

そして追加された言葉たちも、先のものと変わらない。人の子の糧は何か、尋ねるものばかり。そこに何か含みがありそうな気配はない。

『ふむ、魚か。ならばヴァシュー山岳に適当な溶岩溜りがあったな』
「待って」

その意図を図りかねて困惑していたトゥーヴァだったが、次いで飛び出した独り言のような呟きには些か慌ててしまった。ヴァシュー山岳に魚が生息していることは知っていたが、あそこに人が食べることの出来る魚は殆どいない。食べられる種類のものですら、手を加えて調理をしなければ口に入れる事すら難しい。
一旦考える事をやめて言葉の通りに受け止めることにしたトゥーヴァは、記憶を探って幼い子でも食べられそうなもの、火山の周辺にあった果物の類を使いに告げる。幸いにして昔、親友と共に魔法教室の先生をした事があったから、ある程度の知識はあった。
使いにそれらを託して放てば、少しも経たないうちにそれは戻ってくる。

『感謝するぞ、人間達よ。また頼む』
「……本当に、珍しいわね……」

短い謝礼の言葉と共に、使いは小さな火の玉へと変化してトゥーヴァの傍に寄り添った。同時にふわり、火の気配が腕の飾りを包む。火の加護のようだ。火の根源であるサラマンダーのものではなかったが、かなり高位の火の精霊のものだと分かる加護は、滅多に人に与えられるものではない。しかし使いの口ぶりからして、トゥーヴァだけではなく他にも使いに接触した幾人かの人間にも、同様に与えられたのだろう。
天変地異の前触れではなかったけれど、それに等しいほどの前例のない出来事に戸惑いつつも、腕の飾りは外すことなくそのままにして、甘んじてそれを受け入れることにした。

詳細は、さほど経たないうちに知れた。
トゥーヴァに与えられた加護を見た風の精霊の眷属たちが、好奇心いっぱいに近寄ってきてくすくすと楽しげに笑いながら好き勝手におしゃべりをして聞かせていったから。
火の精霊の一体、焔竜ヴァシュタルに一人の幼子が贄として捧げられたこと。普段は贄には見向きもしないヴァシュタルが、何の気まぐれかその幼子を拾い上げて育て始めたこと。
会ったことはなかったけれど、焔竜ヴァシュタルの名はトゥーヴァも知っていた。古くから存在する火の精霊で、過去の文献に何度か名を記されている。一部の人間たちからは神として崇められても加護を与えるでもなく気に留めることも無い、非常に火の精霊らしい気質をしめいる精霊だ。

そんなヴァシュタルが人の子を育てているらしい現状は好奇心旺盛な風の精霊たちの興味を大いにひいたようで、さやさやと空を舞う彼らはしばらくは口々にヴァシュタルとその贄の子の事ばかりを話していた。
しかしさしても経たないうち、風の精霊たちの話す内容が変わる。
『火の子に近づけない』『結界を張られちゃった』『火の子が風を防ぐ火の壁を使うの』『つまんない』『火の子で遊べない』『ヴァシュタルばっかりずるい』
不満げに文句を漏らす風の精霊たちのおしゃべりを耳にして、トゥーヴァはふっと苦笑いを浮かべた。風の精霊たちは好奇心が強く、そして悪戯好きだ。おそらく興味を引かれるままに贄の子を見に行って、散々ちょっかいをかけて遊んだのだろう。
しかしそれをヴァシュタルが気にして対策をしたということは、いよいよ気まぐれは本当らしい。多少の事なら無いものとして扱う筈の彼が、風の精霊たちを追い払ったということは、それだけ贄の子に目をかけているのだと分かる。

それは風の精霊たちから聞いた話でなく、与えられた火の加護を通して定期的にヴァシュタルから届けられる言葉たちからも窺えた。

『贄の子がまた一つ火の力を覚えたぞ』
『さすがは我らの贄の子よ』
『まだまだ強くせねばなるまい』

圧倒的に多かったのは、子供の成長を告げるもの。あれが出来るようになった、これも出来るようになった、告げる言葉が響くと同時に加護を与えられた腕の飾りからぱちぱちと小さな火の粉が舞う。流れる言葉は平坦な音で綴られるけれど、ひらひらと揺れ踊る火の粉はまるで喜びを示しているように見えた。

『贄の子の皮が小さくなった』
『新しい皮が必要だ』
『皮はどこに行けば手に入る』

そして定期的に訊ねられる、人間の子の育て方、人の子に必要なもの。服も、食糧も、本来なら精霊には無縁のものだ。人型をとる精霊ですら、最初から服を着た人間の姿を模すためにわざわざそれを調達する必要が無い。だからそれは全て、ただ贄の子にのみ与えるためのもの。
火の加護を与えられたのは、トゥーヴァだけではなかった。故にヴァシュタルから人に必要なものについて尋ねられる全てを、トゥーヴァが答えた訳ではなかった。何があったかしら、と考えているうちに、感謝する、と告げられる事も少なくはない。
そういった時に、何もせずとも対価としてトゥーヴァにまで追加の加護が与えられる。感謝する、人間達よ、毎回必ずそう告げるヴァシュタルにとって、加護を通じて繋がる人間に個の区別はなく、一纏めにして人間という種としてしか見ていないからだ。そういう所は、ひどく精霊らしい。
あまり火の気が強くなりすぎれば、死霊たちにも影響が出る。だからトゥーヴァは適当に増えた火の力を散らしながら、けれど腕飾りを外してしまうことはしなかった。

『贄の子の口が悪い』
『我らをジジイと呼ぶ』
『どこで覚えたのか』
『知らぬところで風が悪さをしたのではないか』

半身に等しい親友を喪った寂しさは、未だ埋められないまま。以前のように世界を巡る気も、誰かに会いにゆく気もおきない。世界が色を失ったようで、何をしても現実感がなく、つまらなくて、寂しくて、寂しくて、寂しくてたまらない。
ただ息をして、瞬きをして、死んだようにただぼんやりと残りの生を消費する日々の中。ちらちらと舞う火の粉、贄の子、贄の子、囁くヴァシュタルの声は、再び立ち上がる気力までは与えてはくれずとも。
束の間、唇に笑みを浮かべるほどの慰めにはなっていた。


『贄の子が熱い』
『どうすればいい』
『清浄な火の気ではない澱んだ気が贄の子を取り巻いている』

ある日やってきたそれは、いつもと様子が違った。
加護の火は護り包むもので、基本的に何かを燃やしたりはしない筈だ。しかし腕飾りからごうごうと燃え上がる火は熱く、とても身につけていられるものではない。
急いで腕飾りを外して地面に置けば、ますます大きく立ち上る火柱が震えるように揺らめいた。

『どうすればいい』
『我らの火の気で澱みを吹き飛ばしてやろうとしたがうまくいかぬ』

矢継ぎ早に飛び込んでくる追加の火の気配に、火柱は勢いを増してゆく。それはまるで苦しげに身を捩る、人の姿のようにも見えた。

『どうすれば』
『贄の子が苦しそうだ』
『どうすれば』
『贄の子が消えてしまう』
『贄の子が』
『贄の子、我らの愛し子』
『我らの愛し子が』
『ああ、ああ、愛し子よ』
『ガリユ、ガリユ』
『助けてくれ』
『我らの愛し子を、ガリユを助けてくれ』

ヴァシュタルが、贄の子を特別に扱っている事はよく分かっていた。
けれど同時にどこかでは、あくまで精霊の気まぐれの範囲のものだとも思っていた。
たまたま火の適正がある子供を見つけて、たまたま興味を持って火の魔法を叩き込み、強いものに育てる。火の精霊は力を好む。その力をぶつけ合い、高め合う事を好む。その一環で、いずれ育てた贄の子と戦うための気まぐれなのではないかと、どこかでは疑っていた。その他の人間と区別はつけていても、あくまで贄という区分でしかないのだとも思っていた。それがトゥーヴァの知る、火の精霊というものだったから。
分かっていて、そのままにした。精霊に捧げられた贄は、精霊のもの。人が荒れ狂う雨風に逆らえぬよう、照りつける太陽を遮れぬよう、覆し得ぬ自然の摂理と等しいもの。
だからトゥーヴァもまた、それを贄として認識していた。それがこの時代での、当たり前だった。

けれど矢継ぎ早に流れ込んでくるヴァシュタルの言葉を聞いて、トゥーヴァは自らの思い違いを悟る。
彼の精霊にとって既に贄の子は贄という区分すら飛び越えて、愛し子としてあるのだ。人間でもなく贄でもなく、ただ唯一の個として認識しているのだ。まるで人の親のように、ただ一人の愛し子としてその名を呼ぶのだ。
それはあまりに温かく、苦しくて、懐かしい。トゥーヴァが失ってしまった、半身へ向けた情へとよく似ている。
それを自覚した途端、トゥーヴァもまた、贄を贄として認識出来なくなってしまった。もうそれはただ一人の、火の精霊に愛された子供でしかなかった。

いつしか頬が濡れていた。目頭が熱くなるのは久方ぶりで、かつての思い出をなぞっても揺れる事すら忘れかけていたトゥーヴァの心が、強く動く。
気づけば立ち上る火柱に向け、知る限りの病への対処法を告げていた。死なせたくない、死ぬべきではない、見たことも無い火の愛し子に半身の姿を重ね、生きていて、と空へ向けて祈りを捧げる。

やがて火柱が落ち着きをみせたのは、それからおよそ一日ほど経過してから。小さく揺らめき、感謝する、人間達よ、いつも通りの言葉を囁いて増した加護の火に、ようやくトゥーヴァはほっと肩の力を抜いて、祈りの形に握りしめた手のひらを解く。
束の間の慰めであった彼らが、ほんの少しだけ、特別なものになった日のことだった。

それからもしばらくの間続いたヴァシュタルからの託けは、さしても経たないうちに終わりを告げた。
子は育つ。長く生きるトゥーヴァからすればほんの瞬きのような時間で、あっという間に育ってしまう。
『巣立った』との短い言葉を最後に、ヴァシュタルからの便りは途切れ、加護の火はゆるゆると小さくなってゆき、やがて消えてしまった。
やってきたのは、以前と同じ静寂。
寂しいわ、オルフィア。
ぽつりと呟く声に、割り入る火の粉が飛んでくる事はもうきっと、二度とない。
以前と変わらぬ孤独の中に、新たな喪失を付加して抱えたトゥーヴァは人の気配の無い土の上、そっと目を瞑る。
いつかやって来るだろう、終わりの時。
それだけが彼女の希望で、救いだった。



しかし希望は、望んだ形とは別の姿でやってくる。
不思議な扉の向こうで出会った青年は、快活に笑って躊躇うことなくトゥーヴァの手を取った。
初めは、オルフィアのため。奇妙な館の中、僅かの間に見えた老人に、殺された未来を救けてほしいと望まれたから。青年の行く末が、世界の存亡を左右するのだと理解したから。オルフィアの眠る世界を終わらせないために、青年の旅に同行することにした。

けれどいつからか、目的が変わってゆく。
からからと楽しげに笑い、胸を貫くような真っ直ぐな信頼を向け、人の気持ちに寄り添う青年と共にいるうちに、死に絶えて凪いでいた感情が、少しずつ息を吹き返し始める。
青年が、アルドが笑えばつられて微笑んでしまい、アルドがしゅんと肩を落とせばこちらの胸まで痛くなり、背中を預けられれば気分が高揚して、新たな地へ向かう彼の隣で未知のものへの好奇心を募らせる。まるで、オルフィアと旅をしていた時みたいに。
息をつく暇もなく目まぐるしく何かしらに巻き込まれてゆくアルドについてゆけば、寂しさを感じる暇もない。気づけばトゥーヴァは、笑っていた。

アルドを通じて、仲間たちも増えてゆく。彼らと触れ合う度、また新しく感情が蘇ってゆく。オルフィアにも見せてあげたかった、そう思えるものが増えてゆく。どこか感傷の混じったそれは、けれど絶望に侵されてはいない。
もう数十年近く、土の下で眠る彼女に会いに行けてはいなかった。アルドと出会う前、もしも彼女に会いに行けば、寂しい、寂しい、そんな言葉しか聞かせてあげられそうになかったから。彼女を悲しませてしまいそうだったから。
今は違う。いつかそう遠くない未来、オルフィアに会いに行って、いろんな話を聞かせてやりたい。いろんな話を聞いてもらいたい。
最初は多分、彼女の喪失を嘆いてしまいそうだけれど、その後はきっと。彼女が楽しそうに笑ってくれる話が出来る。予感があった。
そんな彼女に話して聞かせるための出来事を、一つ一つ心の内に連ねてゆくのは。ほんの少し切なくって、けれどほわりと胸が温かくなるような、穏やかな希望の色をしていた。


そしてまた一人、仲間が増える。

「あら、その子は……?」
「ああ、ガリユって言うんだ。って、おいガリユ、待てってば!」

次元戦艦、足を踏み入れた瞬間から、懐かしい気配を感じていた。
四大精霊が消えて以来、緩やかに世界から精霊たちの気配が消えていっていた。そう遠くない未来、彼らは全ていなくなってしまうだろう。
彼らの喪失を予期したと同時、浮かんだのは以前、僅かの間に触れた火の精霊と愛し子のこと。仕方の無いことだとは思いながら、彼らの事を思い出して寂寥に沈んでいたここしばらく。
だから初めは感傷が生み出した錯覚かと思ったけれど、中へと進む度に気配は強くなってゆくばかり。

そうして辿り着いた先。アルドと、一人の青年の姿があった。
身の内から溢れ出る気配は、焔竜ヴァシュタルの加護と同じもの。いや、それとは比べ物にならないほど、強い火の気配がぐるぐると彼を取り巻いている。
ヴァシュタルの愛し子。一目見てそれと分かった。

アルドが彼を紹介しようとしたけれど、彼はトゥーヴァを一瞥すると興味が無さそうにふいと視線を逸らし、ずんずんとどこかへと歩き去ってゆく。慌てたアルドがその背中を追いかけるも、振り返る気配も止まる素振りもない。
そんな二人を見つめ、まあ、小さく呟いたトゥーヴァは、くすくすと笑う。
きっと彼の中でのトゥーヴァは、ただの人間、あるいはアルドの仲間、ただそれだけでしかないのだろう。そういう所は、人間達よ、と囁く彼の精霊ととてもよく似ていた。

いずれヴァシュタルも消えてしまうことだろう。けれど彼の精霊の力は、愛し子の中で生き続ける。まるで人のように、親から子へと受け継がれてゆく。

小さくなってゆく、愛し子の背中。
オルフィア、また一つあなたに話したいことが増えたわ。
胸の中で呟いて見守る彼女の眼差しは、慈愛に満ちた柔らかな色をしていた。