その時彼は


(失敗した……!)

もう随分と久しく唱えていなかった、他人の夢に入るための呪文を紡ぐ。言葉のようで言葉ではないそれを、魔力のこもった音にして吐き出してゆらゆらと宙に漂わせ、夢と現の境目にそろりそろりと這わせてゆく。
伸びた力の先、ちょうど夢の領域に踏み入れようかという場所で、こつりと硬いものに阻まれた。結界だ。
そのままぐるりと結界の表面を探ってみたが、どこもかしのもつるりとしていて、隙間の一つも存在しない。

(どこか、入れる場所……ない、見つからない……!)

ちょうど一周したところで、想像以上の結界の堅牢さに動揺して集中力が切れてしまう。
舌打ちの一つでもしたくなるような激しい焦燥に駆られたマイティは、ふっと大きく息を吐いて荒れた心を鎮めようとした。あまりに心が揺れていては、うまくいくものもいかない。相手が精神を主体とする生き物だからこそ余計に、対峙する時は平静でなければならない。

けれどなかなか、うまくはいかなかった。
なぜなら目の前には、眠るアルドの姿。
それだけなら良かったのに、今の彼には夢魔が取り憑いている。
彼の精神を利用して、数多の夢魔を狩ってきたマイティですら打ち破るのが難しい強力な結界を張って、今にも彼に成り代わろうと目論む夢の悪魔が。

もう一度、初めから。
幼い頃から子守唄代わりに耳にしてきて、すっかりと慣れ親しんだ夢へと渡る呪文を紡ぐ。
今では手順を踏まずとも、大抵の夢魔の結界は破る事が出来るようになったけれど、アルドに張られたそれは一から手順を踏んでさえ、刹那の綻びを生じさせるのすら難しい。
それはアルドに憑いた夢魔が特別強力な個体だからではなく、おそらく。アルドの精神が、恐ろしく強靭であるからこそ。

(どうして、連れてきちゃったんだろう……!)

目の前の結界を破る事に集中しなければと思うのに、ほんの一瞬、頭に過ぎった悔恨で、部屋の中に満ち満ちていた魔力のうねりが一瞬で霧散した。無駄に散らした魔力の分、どっと疲労が押し寄せてくる。
けれど、眠るアルドが起きる気配はない。結界が揺らいだ様子も、微塵も。失敗したのだから、当たり前だ。
つっと、背中に嫌な汗が伝う。
状況は刻一刻と悪くなってゆくばかり。
徒に消耗してゆくだけのマイティとは対照的に、夢魔の結界は取っかかりにするための僅かな窪みすら見つからないほど、完璧なままだった。

アルドが夢魔にとって格好の的になることなんて、最初から分かっていた。
苦境に立たされても折れない精神は夢魔にとってはこの上ない力の源になるだろうし、困っている人間がいたら誰であれ声をかけずにはいられないお人好しだから、約束を取り付けるのも簡単に違いない。
マイティだって、そんな事は分かりきっていた。
ある意味では夢魔と相性が抜群によくって、ある意味では最悪のタイプだと、出会ってすぐの頃、アルドについてそっと心の中で判を押した記憶がある。
それが分かっていて尚、アルドを連れてきてしまったのは。
どこかでアルドなら大丈夫だと根拠のない思いがあったのと、もう一つ。
たぶん、きっと。
認められたのが、嬉しかったから。

元々、夢魔狩りの一族に産まれたとはいえ、この仕事をしているのはあくまでマイティが望んだ結果だ。
一族に産まれれば、たとえ素養がなくて直接夢魔を狩る事がない者でも、幼い頃から夢を見ない訓練を行なう。マイティ自身、物心ついた頃から夢をみた記憶はない。眠りはいつだって、真っ暗な闇に包まれていた。
だからこそ。
夢魔を狩るためとはいえ、触れた人の夢はどれも美しくて、綺麗で、賑やかで、楽しくて、暖かくて、柔らかくて。
それこそまさしく夢みたいに素敵なそれを、守りたいと願ったのはマイティ自身だ。
誰かに強制された訳でもないし、誰かに褒められる為にやっているものじゃない。

けれど。
アルドに仕事の一端を見られて、受け止められて、認められて。
嬉しいと、思ってしまった。そんなつもりでやってきた事じゃないのに、理解を寄せられて心が浮き立ってしまった。一族でも仕事相手でもない存在に、分かったよと自分の事を認められるのは、思った以上に心に甘く響くものだった。
そうしてある程度の事情が分かっているアルドに、仕事が終わったあと、お疲れ様って言ってもらえたら。
自分のしてる事を、知ってる誰かに傍にいてもらえたら。
そんな風に甘えた結果が、今の最悪の状況を引き起こしてしまった。

ホテルの中を警戒して確認しながら回る途中、ふと夢魔の気配を感じた方向が、ちょうどアルドの泊まる部屋と同じと気づいた時から嫌な予感はしていた。
一瞬感じた夢魔の気配が、たちまち感じ取れないほどに薄くなった事に気づいてからは、ますます予感は悪い方へと膨らんでいった。
借りたマスターキーで入った部屋の中、眠るアルドからは夢魔の気配が感じられなかったから、安心したのは束の間の事。念の為にといつものように夢に渡ろうとすれば、どうしてだかちっともうまくいかない。
何度繰り返しても成功しない渡りに、マイティは状況を理解してさっと顔を青ざめさせた。
間違いなく、アルドには夢魔が憑いている。それも夢魔の気配を完全に覆い隠すほどの、強力な結界を携えて。


己の失態に暗く陰る心を奮い立たせて、マイティは再び口を動かした。
夢魔狩りの時に使うのは、アルドたちと旅をする時に使うのとは別、特別に誂えた夢に寄り添いやすいもの。
床に突き立てたそれの真ん中あたり、こつりと額を当てて目を瞑り、意識を集中させる。練った魔力をうねらせて、夢の結界を探ってゆく。
未だ夢魔には気づかれていないみたいだから、警戒させてこれ以上結界の強度を上げられないよう、細心の注意を払って慎重に。けれど突破口を見つけたらすぐにでも潜り込めるよう、先端を鋭く尖らせて。夢魔に悟られないぎりぎりのラインを見極めながら、結界の表面を丹念に探ってゆく。

魔力を練って、探って、探って、何も見つからなくて、焦りで歪んで霧散して。
また、練って、探って、霧散して。
霧散して、霧散して、霧散して、霧散して。
見つからなくて、見つからなくて、見つからなくて、何も、見つけられなくて。

ぼたり、手首に大粒の水滴が落ちたのにびくりとして、ようやく目を開ければ、杖を握る手のひらにも、額にも、背中にも。
全身に、汗がびっしょりと滲んで滴っている。
けれど変わらず、夢魔の結界は破る手がかりは見つからないまま。
アルドの夢には繋がらないまま。

また一から呪文を唱えて魔力を練ろうとすれば、一瞬視界が白く染まり、ぐらりと身体が揺れた。咄嗟に杖を支えにしたおかげで倒れずには済んだけれど、想像以上に消耗が激しい。
このまま同じ方法を繰り返しても結界を潜る突破口を見つけるどころか、マイティの方に先に限界が訪れる事は目に見えていた。

(僕の力だけじゃ、無理だ。アルドを、助けられない)

とうとうそこで、マイティはその事実を認めて受け入れた。
思わずぐっと噛んだ唇からは、鉄錆の味がする。
力が足りない事が、悔しくてたまらなかった。
どこかで、何が起こっても自分とアルドなら大丈夫だと慢心していた己を、ぶん殴ってやりたかった。
しかし今は悔いるよりも、アルドから夢魔を追い払う方法を見つけるのが先だ。反省している時間すら惜しい。

(内側からも繋がりを作ってもらえば、きっと)

方法は、ない訳ではなかった。
マイティはやった事がないけれど、夢を渡る力が弱い夢魔狩りは、夢魔のターゲットになってしまった相手との間に縁を結んで、夢魔の結界にも隔てられない繋がりを作るらしい。そうして内側からも働きかけてもらって、内外で協力して結界を破り夢を渡るのだ。
マイティは夢を渡る能力に長けた方で、普段なら詠唱や動作を省いても結界を越える事が出来たから、さして必要のない知識だった。
けれど今はそれが、唯一の拠り所になりつつある。

(明日、アルドに目印をつけて、それで、名前を。僕の名前を、橋にすれば)

必死で記憶の底を浚って、やり方を思い出す。目印の付け方、縁の結び方、幼い頃に習った全てを一つも見逃さないよう、丁寧に掘り出して洗ってゆく。
そうして一通りの手順と、明日の予定を脳内で練り上げてから、マイティは再度杖を強く握って、初めから順に呪文を紡いでいだた。
既に結界に綻び一つ無いことは分かっている。
一応の打開策も見つかって、それに賭けるしかない現状も、今すぐに状況を好転させるのが難しい事も、嫌というほどに理解はしていた。

それでも。
何もしないままではいられなかった。
浚った記憶の底。
必要な知識と一緒に拾い上げてしまった、幼い頃のこと。
夢魔に成り代わられて意思が消滅してしまった人間がどうなるか、教えられた先に見たものは、一族の管理する病院の中、機械に繋がれて昏昏と眠り続ける人の姿だった。
彼に成り代わった夢魔はすぐに退治されたのに、その人は目覚めなかった。定期的に彼の夢に潜って消えた精神を探しても一向に見つからないまま、十年近く眠っているのだと語った一族の人間の、固く握った拳が震えていたことがやけに強く印象に残っている。

(そんなの、絶対に嫌だ、絶対に!)

機械に囲まれて眠る記憶の人の姿が、アルドと重なってひやりと心臓が冷える。今ならあの、震える拳の意味がよく分かった。
あれは、己の力の無さを悔いるものだ。助けられなかった事が悔しくて、悲しくて、歯がゆくて、赦せなくて。見つけられない精神を探すためにいつまでもいつまでも夢に潜り続けるほどの、後悔そのものを握りしめた拳だ。
あれを思えば、黙って明日を待つことなんて出来なかった。同じ拳を握る未来を、迎える可能性を回避するために出来ることは何でもしておきたかった。たとえ可能性が低くとも、ギリギリまで手がかりを探しておきたかった。
ふらつく身体を鞄から取り出した栄養剤で叱咤して、何度も、何度も。
繰り返し、夢を渡る呪文を紡ぐ。失敗したら、もう一度。もう一度、次こそはと試み続ける。

紡がれた言葉のようで言葉でない音の隙間には、しゃんしゃんと微かに金属の擦れる音が混ざっていた。
繰り返す何度目の失敗かのあと、薄目をあけて音の発信源を探したら、それは。
杖を握る手がカタカタと震えるのに合わせて、揺れて擦れる鎖の音だった。

分かりやすく表面化した自身の動揺に思わず眉を寄せて、握る手に力を込め金属音が止まったのを確認してから、またもう一度。
微かに部屋の中は白み始めている。
夜明けはもう、すぐそこまで迫っていた。