愛しき光


己の生きる世界とは、なんてつまらないものなのだろう。
物心が着いた頃から既に、レオングランツェは世界に倦いていた。

遍く事象の大半はもうとうの昔に解明され尽くしていて、誰かの語る言葉は所詮過去の書物に記載されたものの焼き直しでしかない。初めて見たものでさえもどこかには既視感があって、何もかもまっさらで真新しいものなんてどこにも存在してはいなかった。
それもある意味では当然のことだと、諦観の中でレオングランツェは理解する。
天候すらも計算された空中都市の中、様々な物の根幹に座する人間にそもそも、想定から外れた驚きと目新しさを感じた事が無かったから。
初めて会った相手だとしても少し観察すればおおよその性格は掴めるし、多少会話をすれば大体の思考パターンは把握出来る。学問にまで昇華している人の心理と行動、統計的に導き出されたそれは大抵誰にでも当てはまり、それに則れば自らの望む方向へと人の行動を誘導するのは呆気ないほど容易だった。時に予想を覆されてもあくまで誤差の範囲、当初の筋書きの中、低い可能性として考慮には入れたものの一つ。想定外とは程遠い。

特別なことも、難しいことも何もしていない。観察から導いた結論により論理的に考えて行動しているだけだ。参考となるデータは十二分に与えられている。
だから幼い頃は誰しも出来る事だと思っていたけれど、周りを見ていればどうもそうではないらしい。恐ろしく非効率で不器用な人間関係を構築する周囲の人々を見る度にどうして最適なルートを適用しないのか不思議に思っていたレオングランツェは、それが己の才とも呼べるものだと理解した時、誇らしく思うよりも先に人々がそれを分かっていない現実に絶望した。
過去の書物で、日々流れる虚構の世界の中で、何度何十度と繰り返され与えられる情報を得てさえ、現実の世界の中でもそれを繰り返して発展しない。それが使い古しの既存のものである自覚すらない。自覚がないから、無為にそれを繰り返す。繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し。最早二番煎じにもならぬほどに擦り切れたものを、さも新しいもののように振りかざす。

ああ、世界はなんてつまらないのだろう。
太古の昔に書かれた書物の中に存在する人々と、さして変わらぬ人形劇を飽きもせず繰り返す周囲の人々を見て、レオングランツェは嘆息する。
あまりにも退屈すぎて、実験的に周囲の人間を思うように誘導する遊びも始めてみた。そこには己の思惑から外れて突き抜けた誰かを見つけだす試みも含んでいた。
けれど上手くはいかない。大多数は直接関わらずとも戯れに口にした噂話の一つであっさりと思うままに動いてゆき、そこから零れた例外も個別に対処すれば定めた目標まで導けないことは一度もなかった。途中から嘘をつかないという制約を課してはみたけれど、それでも何事も恙無く、事は思い通りに進んでしまう。

何もかもが己の思い通りにゆく世界の中。何もかも思い通りになってしまうことが、唯一思い通りにならないことであるという矛盾を抱えて、レオングランツェの心は退屈と絶望で緩やかな死に向かっていた。


だからこそ。
だからこそ、そう、だからこそ!
クロノス博士との出逢いはあまりにも衝撃的で、レオングランツェは生まれて初めて、感動で痺れて打ち震え涙を流すという経験をした。

初めてクロノス博士の論文を読んだ時は確か、まだ十にもなっていなかったと思う。
暇つぶしがてらデータベース上に公開された様々な分野の論文を読み漁っていた幼いレオングランツェは。
そこに展開された結論を一から十まで理解出来なかった。そう、何一つ、ちっとも!
己の持つ才をそれなりに心得ていたが故に、自身の持つ知識が完璧だなんて思い上がってはいない。けれど知らない分野でも、思考するための材料と結論と筋道を提示されれば、それなりに飲み込める程度には理解力はあるつもりだった。事前に必要な知識の触りだけは仕入れていたし、実際それで今までは理解出来ていたのだ。

けれどクロノス博士のそれは、そんなレオングランツェの中の常識から大きくかけ離れたものだったのだ。
悪文ではない。けして独り善がりでもない。むしろ理路整然としていて、無駄なものを削ぎ落とした簡素かつ分かりやすい言葉で綴られてゆく。読み漁った論文と比べても、非常に読みやすいものに分類される。
けれど、理解が出来ない。噛み砕いて説明されていることは分かっていても、次々と展開してゆく理論と思考の凄まじい飛躍のスピードについてゆくことが出来ず、途中で振り落とされてしまう。

何も理解できないという事実に横面をぶん殴られたような心地になってしばし呆然とし、そして何度も論文を読み返してようやく僅かながら理解が及び、それが自身の中のどこを探してもないものだと分かった瞬間。
レオングランツェの心にあったのは、未知の存在に出会った興奮と感動。気づけば頬は濡れていた。

クロノス博士は、異質の天才である。
既存の枠から大きくはみ出したいっそ荒唐無稽にも思える理論を、現実の枠の中で展開させて実現可能なものへと繋げてゆく。それは既知の理論を積み上げて導いた理論というよりも、天才がぽんと思いついた発想を今の技術水準に合わせて、今の枠組みで生きる人々にも理解が出来るように容易な言葉に翻訳したもののように思えてならなかった。
レオングランツェのように、既存の知識から最適解を導くだけではけして至ることの出来ない、遥か遠い高みに存在する天才。パラダイムシフトを引き起こす者、稀代の変革者。
ああ、ああ、なんて素晴らしい!

自分の才を理解していたレオングランツェは、理解しているからこそ己もまた既知の狭い世界の枠組みの中で生きる者だとよく分かっていた。
けれど、クロノス博士は違う。世界の枠組みなんてぽんと軽く飛び越えて、次元が違う発想や思考を新たに世界に引き入れようとしている。クロノス博士が見せてくれる世界は、何もかもレオングランツェの知らない形をしていた。過去の何ともどれとも酷似していない、真新しいものを次々と生み出してゆく。
退屈で色褪せた世界に、初めて差し込んだ鮮やかな未知の光。唯一無二の、強烈な輝き。
だからこそレオングランツェは、すぐさまその光に取り憑かれて夢中になり、崇拝といっていいほどにクロノス博士に心酔してゆく。

すぐさま世に出ているクロノス博士の論文を片っ端から取り寄せたレオングランツェは、寝食も忘れて夢中で読み漁った。どれもこれも輝く発想に満ちていて、一つ一つが煌めく宝のようだった。
一つの論文の中で、容易いことのように行われる数世代、数十世代を飛び越える技術革新の数々。しかしそれも、結論に到達するための手段にしか過ぎない。そうして目まぐるしく発展する技術の末に生み出されたものは、この時代においてすらオーバーテクノロジーと言って差し支えのないものばかり。まるで全く別の世界の、それも数千年は先を行く未来の技術を垣間見た心地だった。
更には古い論文になるほど、結論に至るまでの手段がより簡略化されていて、発想の飛躍が著しくなる傾向にあった。そこから推測されるのは、天才の思考はまるで提示された問題に対し途中の計算式を全て省いた答えのように、結論がぽんと置かれるのだということ。けれどそれでは常人は、天才にとっては省いても差し支えのない当たり前の過程を理解できないから、後期に至るほどに常人にでも分かるように過程への言及が増えてゆくのだろう。

だからレオングランツェは、クロノス博士の論文の、概要に目を通す瞬間が好きだった。理路整然としているのに、どうしてその結論に到れるのか全く想像のつかないものに触れ、いっそ暴力的と言っていいほど圧倒的に隔絶した天才の思考に、事前に想定した全てを根こそぎ葬り去られる瞬間がたまらなく好きで、興奮した。
そこから美しく展開してゆく本論、何一つ無駄なもののない研ぎ澄まされた言葉により紡がれるのは、クロノス博士本人にはおそらく必要ですらない、只人たちへの向けて噛み砕かれた天才の翻訳。それを無くしては彼の人の思考の欠片にすら理解が及ばないことがもどかしくて、けれど天才から齎された慈悲に従ううちに煌めく叡智の片鱗が形を表してゆくのを実感するのが、楽しくてたまらない。美しく展開される論理に乗って数十世代を一気に駆け抜け、遥か高みにある天才の思考の一部を共有しそこから覗く未知の世界を垣間見る瞬間は、何にも変え難い至高の時間だった。

そうして、その末に。大多数が既視感で占められた狭い世界の外側、未知の世界の存在が、それも一つではなく複数予測される事を知り、クロノス博士への崇拝を深めると同時に、知らない世界への憧れをどんどんと募らせてゆくようになる。

いつか、クロノス博士と直に話をしてみたかった。論文の越しではなく、本物の博士と言葉を交わして天才の思考に触れてみたかった。
そのためにレオングランツェは、己の行動指針の変更さえしてみせた。集団の中、あまりに突出して目立ちすぎればいらぬ面倒を呼び込むと分かっていたから、調整してほどほどに良く出来る位置にその身を置いていたけれど、さっさとスキップして教育機関を飛び出してクロノス博士の近くへと行くべく、猛然とその才覚を周りへと見せつけ始めた。予定では、それは数年後には実現する筈だった。

なのにクロノス博士は、最後まで予想の範疇に収まってはくれない。
ある日突然発表された、クロノス博士とその一家の失踪。彼は一切の痕跡を残さず、忽然と世界から消えてしまう。
彼の失踪については、様々な憶測が飛び交っていた。陰謀論、病死説、人々は天才の行く末を好き勝手に想像して囁き交わす。
そんな有象無象の言葉を流しながら、レオングランツェは深く絶望していた。かつて抱いていた絶望よりももっと深い、一度得たものを喪って出来た深い深い絶望の谷。

だって、彼だけが、レオングランツェに新しい世界を見せてくれたのに。彼だけが、知らない世界を教えてくれたのに。まっさらな未知に触れる喜びを与えてくれるのは、彼しかいなかったのに。

退屈で退屈で退屈で、死んでしまいそうだった心を、眩く強烈に照らしてくれた光を無くしたレオングランツェは。
生まれからこれで二度目、心が痛みを叫ぶままに涙を流すという経験をした。


そこからの数年は、以前にも増して味気ない苦痛の日々を過ごす事となる。
目新しさのない日々、使い古された情報、見飽きた何もかも、うんざりするほどの既視感で埋め尽くされた日常。絶望だけしていれば良かった以前とは違う。レオングランツェはもう、圧倒的な叡智の光に触れる喜びを知ってしまった。クロノス博士の過去の論文は未だ光を失ってはいなかったけれど、もう二度と新しいものに触れる事がないのだと思えば、体の内側をごっそり抉られたような喪失感に打ちのめされる。

けれど一度知ってしまったそれを、手放すことなんて出来そうにない。無味乾燥の生の中、ただ一つ見つけた甘露の味を忘れることなんて出来ない。
だからレオングランツェは、水を求める魚のように、クロノス博士の痕跡を探し求めた。そうしなければ、息の仕方さえ分からなくなってしまいそうだった。
世に出回っていないクロノス博士の研究成果の大半はKMS社が保持していると知れば、支障のない程度には家の力を使って潜り込み、己の才覚を利用して着実に中枢へと近づいてゆく。
その過程で、本当にクロノス博士は消えてしまったらしいこと、陰謀論や病気で亡くなったのではなく、おそらくは時空か次元を超えてこの時代、この世界から自らの意思で去った事が分かり、焦がれるほどの羨望と果てしない絶望に襲われた。レオングランツェは彼の人を追いかけることも、憧れた世界の外へと飛び出す方法も持ち合わせてはいない。突きつけられた事実は、容易くレオングランツェの心を改めて絶望の底へと突き落とす。
共に消えたという彼の家族が羨ましくて、彼を手放した世界が憎かった。クロノス博士の存在しない世界なんて何の意味もないんじゃないかとすら思え、ますます己の住む世界へと価値が見いだせなくなってゆく。


そんな鬱憤を晴らすように八つ当たりまがいに周りの人間を使ってゲームをしているうち、気づけば家の力に頼らずともKMS社の会長と頻繁に顔を合わせる位置にまで上りつめていた。
会長の孫娘の話は早い時分から耳にしていて、天才だと言われる彼女が身内の贔屓目でなく実際に優秀なのだとも、凄まじいスピードで教育課程をスキップしてゆく情報から理解していた。
けれど取り立て興味を抱いてはいなかった。勉強の出来る人間は、彼女以外にもいる。実際レオングランツェもそれをしていたために、特別なこととも思えなかった。

けれど、ああ!
希望は、失われていなかった。

戯れに会長が差し出した、孫娘のミドルスクール時代の自由研究だというある設計図。
何気なく目を通したレオングランツェは、レオは。
かつてクロノス博士に見た光を、その中に見た。
下手をすれば子供の夢想で片付けられそうな突飛なそれは、けれど夢で終わることなく細部まで計算されて作り込まれ、洗練され尽くしている。一足飛びにそれを作り上げるには未だ技術が追いついてはいなかったものの、走り書きのように添えられたメモに必要な技術を開発するに必要な過程が端的に添えられていた。

全く、ほんとうに、天才というものは素晴らしい。
会長に頼み込んで設計図のデータをコピーしたレオは、暇さえあればうっとりとそれを眺めた。見つめれば見つめるほど、それは美しい叡智の形をしている。
それ一体があれば容易く空中都市を消滅し得る凄まじい能力を搭載した機体。しかし天才は、それが世に生み出された時に与える影響と生まれる悲劇になんて一切頓着していない。思いついたから形にしたと言わんばかりの、いっそ無邪気すぎる異才の発現は、クロノス博士ですっかりと天才へのハードルが上がり並の才では満足できなかったレオの心を、すっかりと魅了する。
なんて無慈悲で、なんて暴力的な才能だろう。それは古いクロノス博士の論文を彷彿とさせる。
徐々に只人へと理解させるための言葉を増やし、世界に与える影響も考慮し始め、歳を経るにつれて丸くなってゆく彼の論文。それでも迸る天才の思考は枷を考慮しても余りあるほど魅力的で、そのおかげで幼きレオングランツェでも彼の人の思考の一端に触れる事が出来たのだけれど、でも。それがもどかしかったのもじじつだ。

なのに彼女の設計図と来たら!
そこに彼女以外のものは、誰も、何も、全く存在してはいない。己の姿しか見えていない、己の知を満足させる事しか考えてはいない、独り善がりの自己満足で構成された彼女の、セバスちゃんの設計図は、一度光を知った目にさえ翳る事無く、眩く輝く強烈な光として映った。

クロノス博士とはとうとう言葉すら交わすことも出来なかった。あの頃のレオングランツェは、天才に近づくには足りないものが多すぎた。
けれど今のレオなら、それが出来る。天才と言葉を交わし、間近で天才の思考に触れる機会を、もぎ取る手段をいくつも持ち合わせている。躊躇う理由なんて、一つもなかった。

会長に持ちかけた婚約の話は、トントン拍子に事が進む。てっきり突っぱねられるものだと思っていたけれど、レオの求めた光とは違えどKMS社の会長として君臨し続ける男、頭の回転は速い。セバスちゃんの才を守るための手段はいくつあっても良いと考え、家柄も才能もその盾と成りうる基準に達していていると見なされたレオは、あっさりと彼女の婚約者の地位を手に入れる事に成功した。

婚約を結んで、初めての顔合わせの時。
嫌そうな顔を隠しもせず場に現れたセバスちゃんは、そっぽを向いてちっともレオの方を見ようとはせず、不貞腐れている様を取り繕う素振りもない。なのにレオが少し挑発めいた事を口にすれば、すぐに反発して乗ってきて、可哀想なくらいに簡単に誘導される。
飛び抜けた叡智を宿す彼女は、その才を除いては酷く単純で脆く危なっかしい、幼いままの少女でしかなかった。

だからレオは、彼女の庇護者になることにした。
彼女が世界に視線を向けて、阿ることのないように。自らの思考の囁くままに研究が出来るように。誰かの言葉に誘導されて、惑わされないように。
クロノス博士のように、家族だけを連れて世界から消えてしまわないように。
その才がいつまでもいつまでも、輝き続けられるように。その輝きをずっと間近で眺めていられるように。
その煌めきから生み出される、今の世には不相応な力を自覚して、不要な罪悪感に駆られて縮こまる事がないように。常人の倫理と常識の枠に絡め取られてしまわないように。彼女が彼女のまま、自分の好奇心だけを満たすためだけに、自由に身勝手に独善的に振る舞い続けられるように。
挑発した方が負けん気をおこして発想に磨きがかかるとなれば、わざと彼女を怒らせる言葉を選んだりもする。窮地に陥れば陥るほど、突飛な発明が生み出されるとしれば、お膳立てをするのも厭わない。
研究の過程、普通ならばとうに捕まっていてもおかしくない所業をいくつも積み重ねていたけれど、わざわざ指摘するまでもなく揉み消した。そんな枷なんて、天才を締め付ける首輪なんて必要ない。
さすがに多少、手を焼くこともあったけれど、手を焼かされること自体が稀であったから、彼女に与えられる何もかもが楽しくて仕方がない。

クロノス博士の論文に触れた時と同等、いや、それ以上に。
セバスちゃんの隣で生きる世界は、喜びと発見、驚きに満ちていた。




猛然とキーボードを打ち始めたセバスちゃんの横顔を、レオは黙って見守る。
セバスちゃんの部屋を訪れてしばらく、邪険に扱われても気にすることなく会話をしていた最中、突然セバスちゃんの動きが止まり、ぶつぶつと何かを呟きながら自作の端末を取り出して、宙に展開した計算式の羅列に手を加え始めたのだ。
つい直前まで歯噛みをしてレオを睨んでいたのに、もう眼中にすらない。彼女の中にあるのは、己の閃きへの興味だけ。
セバスちゃんの意識から阻害され弾かれたレオは、再び興味をこちらへと向けようなんて馬鹿な真似はしない。その代わり極力気配を薄くして、彼女の横顔をそっと見守った。
次は何を思いついたのだろうか。展開する計算式の意味を朧気ながら理解したつもりでも、続く新たな式が予想を容易く覆し、一見すれば無節操にあちこちを飛び跳ねて、やがて一つに纏まり未知の世界へと向けて育ってゆく。

その美しい光景を、一番近くで見守る瞬間が、レオはたまらなく好きだった。
そして天才の思考に間近で触れる幸福を噛み締めながら、しみじみと思うのだ。

だからこそ。
セバスちゃん彼女の才を深く深く愛してやまないのだと。