彼の眼差し
「なんだか、寂しいな」
「何がだい?」
エアポートのコンテナを占拠した合成人間の集団を追い払ってほしいとの依頼を達成した帰り道。ふと、地上を見下ろしてぽつりと呟いたアルドの言葉を、近くにいたクレルヴォが拾い上げた。
誰かに聞かせるつもりではなかった独り言に、反応があったことに少し驚きつつ、隠すことでもないかとアルドは正直に胸に過ぎった想いを口にする。
「オレたちの時代から随分時間が経ってるのは分かってるけどさ。もう地上にバルオキーはないんだなって思うと、やっぱり寂しいもんだなあって」
眼下に広がる地上には、バルオキーどころか800年前の地形の面影すら殆どない。人々が空に移住する際には地上にあった大地もいくつか浮上したと聞いていて、そのせいか次元戦艦から見たアルドの時代の世界とは随分と形が変わってしまっている。
バルオキーのあった場所もぱっと見ただけでは分からなくなっていて、誰かに教えて貰って分かったとしてもそこにはもう誰もいない。
それが寂しいんだ、と告げたクレルヴォの反応は、アルドの想像していたものと少々違っていた。
「アルド。今日の夜、時間はあるかい?」
クレルヴォなら、そうだねと頷いてそのまま地上の植物の話になるか、それともあっさりと話を打ち切って口を噤むかのどちらかと思っていたのに、飛び出したのはアルドの予定を尋ねる言葉。
一見してまるでアルドの話とは無関係に思える確認に、戸惑いながらも時間はあるよと答えれば、うん、と満足そうに笑ったクレルヴォが、笑みを浮かべてこう言った。
「僕の研究室に招待するよ。いいものを見せてあげよう」
「アルド、こっちだ」
待ち合わせは、エアポートの片隅で。
あの後一旦別れた後、夜まで待って指定された場所に行けば既にそこにはクレルヴォがいて、ふわふわと浮いている小さな箱に乗るように促される。詳細は聞かされていなかったけれど、どうやら研究室は空に浮かぶ小さな島の一つにあるらしい。
次元戦艦で行けばいいんじゃないかと言えば、あれだけ大きな戦艦が近づくには些か小さすぎるとの答えがあった。実際、クレルヴォの操縦する二人乗りの箱で辿り着いた島の敷地は、バルオキーのアルドたちの家より少し大きいくらいの広さくらいしかなく、建物は更にこぢんまりとしたものだった。
招かれて入った建物の中は、ゼノドメインにあった部屋によく似ていた。生活感の欠片もなく、液体の入った容器の中に浮かぶ植物が部屋の中に所狭しと並べられている。
しかし見せたいものはそれらではなかったようだ。
うっかりと何かを蹴飛ばしてしまわないよう恐る恐る足を進めるアルドとは対照的に、すいすいと部屋を横切ったクレルヴォが壁に何か打ち込むと、ガコンという音がして部屋の真ん中、人一人分がやっと通れるくらいの小さな穴が開く。ろくな説明もないままクレルヴォがその穴を降りていく様を見守ったアルドは、ちょっと躊躇ってから後に続いた。
その後は同じように、部屋をいくつも通り過ぎた。見た目とは違って、中は案外と広さがあったらしい。
更には奥の部屋に進む度に、入口が分かりにくく偽装されるようになってゆく。本棚の裏、標本の下、継ぎ目一つない床に突然現れる入口。段々と秘密めいてゆく雰囲気に、アルドは少しだけ緊張を募らせながらクレルヴォの背中を追った。
そして、とうとう辿り着いたのは最後の部屋。通り過ぎた他の部屋と違って、中に何も無いがらんとした小さな部屋の中、ようやく足を止めたクレルヴォは、アルドの方を振り向き眼鏡のつるを指で押し上げながら、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「アルド、高いところは平気だったね?」
「え? うん、まあ……って、うわっ! なんだこれ!」
唐突な確認に頷くとほぼ同時。ぱちり、クレルヴォの指が何かのボタンを押すと、突然足元の床が消えて眼下に宙が広がった。
慌てて近くの壁に縋ったけれど、床が無くなったのに落ちてゆく気配はない。どんどんと何度か足踏みすれば、きちんと硬い床の感触は残ったままだ。
「大丈夫、ガラスみたいなものだ。透明なだけで落ちる事はないよ」
「うん、それはなんとなく分かるけど。でも、ちょっとおっかないな……」
「すぐに慣れるさ」
床が抜けた訳では無いことを理解しても、しばらくは落ち着かずその場から動く事が出来なかった。けれどクレルヴォが平然と部屋の中を歩き回る姿を見て、クレルヴォが平気そうなら大丈夫かと肩の力を抜く。
壁から何かの機械を取り出してから、部屋のちょうど真ん中ですとんと腰を下ろしたクレルヴォは、アルドに向けて手招きをした。それに従いクレルヴォの隣に座り込めば、ぱちりと部屋の明かりが落とされる。
「クレルヴォ、何が始まるんだ……?」
「きっとすぐに見つかる。下を良く観察するといい」
暗闇に包まれた部屋の中、恐る恐るアルドが尋ねればとんとんと指で床を叩く音がした。
昼間に見下ろしても暗い色で染まっている大地は、今は殆どが暗闇に飲み込まれてその全容がちっとも見えない。しかし所々仄かに白く光る場所はあって、その光に月影の森に生えていた発光する植物の存在を思い出し少しだけほっとする。
全部消えた訳じゃなくて、あの植物たちは生き残っているのか。もしかしてクレルヴォはそれを見せたかったんだろうか。
淡い光にアルドのいた時代の名残を見つけて、そうだったのかと勝手に納得していると。
光のない筈の闇に包まれた大地のどこかに突然、ぽつり、赤い光が発生した。
見間違いだろうか、ごしごしと目を擦って改めて確認してみても、赤い光は消えなかった。それどころか、ゆらゆらと闇の中に揺らめいているようにすら見える。
「……明かり?」
思わず声に出して呟けば、隣からくすりと笑う息の音が聞こえる。そうするうちに、光がもう一つ増える。最初のものより随分と離れた場所、バルオキーとリンデくらい離れた距離に生じたものは、やや黄色がかっていて初めのものより揺らぎが少ない。けれどその分だけ、強く光っているようにも思えた。
なあ、あれってさ、たまらずクレルヴォに声をかければ、うん、と頷く声がして一拍。
「僕達はあれが、自然の発する光ではないと考えている」
「じゃあ、もしかして」
「ああ。人間、か或いは別の知的生命体。彼らが作り出した明かりだというのが有力な説だ」
まさか、もしかして、アルドの中に浮かんだ予想をそのまま肯定する答えが帰って来た。
慌ててもう一度、赤と黄色のそれをまじまじと眺めれば、一つはアルドたちも馴染んだ火の明かりに、一つは未来で見た懐中電灯とやらの明かりに思えてくる。
ずっとあった訳じゃなく、闇の中に突如発生したということはつまり、あの下には誰かがいるのだろうか。想像すると、とくとくと鼓動が速くなったような気がした。
「でも、地上は汚染されてて人の住めない場所だって」
「そうだね。それは嘘じゃない。防護服を着ても活動限界は三十分程度で、合成人間やアンドロイドならもっと短い。彼らの動力に使用しているゼノ・プリズマが地上では暴走してしまうんだ。だから艦を地表近くまで降ろすのも難しいし、その分手間をかけなくてはいけないから、ほんの一握りのサンプルを手に入れるだけで莫大な資金が必要になる」
未来ではアルドたちのいた大地は人の住めない場所になっていると散々聞かされていたから、どういうことだと聞けば穏やかな声がそれも本当の事だと説明する。防護服が何かはよく分からなかったけれど、人が生きていくには難しい環境だというのはその端的な説明でアルドにも分かった。
じゃあどうして。アルドが改めて聞き返す前に、クレルヴォの話は先へと続いた。
「けれど彼らは、あそこにいる。おそらく普段は地下で暮らしているんだろう、ああ、もしかしたら海の底かもしれないね。人でなく魔獣かもしれないし、魔物かもしれないし、全く未知の生き物かもしれない。分からないことばかりだけど、ひとつだけ分かっている事がある。僕達の感知出来ないどこかで、確かに生きている命があるんだ」
初めは落ち着いていた声は、言葉を重ねるにつれ熱を帯びてゆく。微かに震えた言葉尻に、クレルヴォの内に秘めた想いが滲んでいるようだった。
もしかしたら君の村の末裔かもしれないね、そう付け加えられた言葉に、まるで音を伝って熱が伝染ったかのように、ぐわりとアルドの胸まで熱くなる。
少し寂しいなと感じるくらいでそこまでの拘りはないと思っていたのに、いざあの下にいるのが自分たちの村に連なる存在かもしれないと想像すれば、嬉しいのに鼻の奥がツンとして少し泣きたくなるような、言葉にしがたい感情が胸の中にぶわりと膨らむ。
アルドに難しい事は分からないけれど、そうだったらいいなと期待を込めて小さな明かりを見つめるうち、そういえば、ともう一つ不思議な事に気がついた。
「だけどさ、ニルヴァとかエアポートとか、夜に何度か歩いた事があるけど。あんな明かり、一度も見たことないぞ?」
「一般市民には伏せられているからね。街はどこもドームで覆われているだろう? あれは透明な素材に見えるが、実際は状況に応じて不都合なものを覆い隠して見せたいものだけを映すスクリーンの役割を果たしているんだ。だから夜の街から地上を見下ろしても、あの明かりが反映される事はない。大規模なシステム障害が起これば一時的に制御不能になる事はあるようだけれど」
小さな粒のようなものとはいえ、周りは真っ黒な闇ばかり。そこに明かりが浮かべば、嫌でも目立ってしまう。けれどアルドは今の今までそれに気づいた事はなかった。
どうしてだろう、純粋に疑問に思っただけのものをクレルヴォに投げかければ、想像していたより不穏なものが提示されてぎょっとする。
身を固くしたアルドに気づいたのか、一概に悪い事とは言えないんだよ、とクレルヴォが苦笑いする気配があった。「彼らの実態が掴めない以上、闇雲に市民の不安を煽らないという観点から見れば有用な手段だ」と説明されれば、そういうものなのか、分からないなりに一応は納得して、ふっと息を吐き出す。しかし最後に、「まあそれに従ってやる必要も感じないけど」とぼそりと付け加えられた言葉に、再びアルドはびくんと身体を固くした。
そっと隣を伺ったものの、暗い部屋の中、その表情まではよく見えない。しかしなぜかアルドには、クレルヴォが唇を釣り上げ不敵な笑みを浮かべているように思えてならなかった。
その辺りを深く聞くのはやめよう。首の後ろにそわそわと冷たいものを感じつつ、アルドはこっそりと思う。
たとえばその、伏せられている筈のものがクレルヴォの研究室で見れる理由とか、この部屋にたどり着くまでいくつもの部屋を経由してだんだんと隠し部屋じみていったこととか、まるでこの部屋が誰かの目から隠れるように存在していることとか。
聞かないことにしようと決めて、空気を変えるようにクレルヴォに新たな質問を投げかける。
「本当に何も分かってないのか? 地上に残ってるかもしれない人達のこと」
「ああ。残念ながら、あちらに僕達はよく思われてはいないようでね。ナチュラルのメンバーの一人が秘密裏に何度か交信は試みているみたいだけれど、良い反応が返ってきたとはまだ聞いたことがない。無遠慮に望遠鏡で覗こうとすれば、まるで何かに守られているようにノイズが入って何も見えなくなる。おそらくは彼らが妨害しているんだろう」
誰だって一方的に見られるのはいい気がしないだろうから、呟いたクレルヴォの声は先程とは打って変わって寂しげで、アルドは慌てて言葉を連ねた。少しぴりりとした空気を変えるつもりで口にしただけで、クレルヴォを落ち込ませるつもりではなかったのだ。
「でもオレはクレルヴォたちの事好きだぞ」「きっと地上に残ってる誰かの中には、クレルヴォたちの事好きなやつだっている筈だ」と必死で主張すれば、くすくすと楽しげな笑い声が闇の中に響く。
そうしてひとしきり笑ったあと、ありがとうアルド、と前置きしてから、でも仕方ないんだ、と呟いたクレルヴォの言葉は諦めを示すものに聞こえるのに、声はどこかからりとした空気を含んでいた。
「大陸が浮上する際の資料は残念ながらあまり残っていないんだ。当時は記録を残す余裕もあまりなかったようだし、何か残っていたとしてもこちら側に都合よく改竄されたものが多くてね。けれどその少ないものの中から推測するに、汚染の少なかった大地を持ち出した上に、浮上の影響で残った大地は加速度的に汚染が進んだと考えられる。ここに住む僕らに彼らが良い感情を抱かないのは仕方の無いことだ」
語る内容とは裏腹に、きっぱりとした口調でそこまで言い切ったクレルヴォは一度言葉を区切り、すうっと息を吸い込んでから、囁くように吐き出した。
「だからこそ。これ以上あの痛ましい大地から、彼らから。何一つ、奪うような真似をしてはならないんだ」
まるで自分自身に言い聞かせるような小さな声は、柔らかく室内に響いて闇に溶ける。決然とした空気を纏いながら優しげにも聞こえる声は、ふわりとアルドの背中を撫でて消えた。
その音が何かに似ている気がしてアルドは首を捻る。そうして少し考えて、一つの心当たりに行き当たった。
(ああそうか、爺ちゃんの声に少し似てたんだ)
悪戯をすれば叱られるし、危ないことをすれば厳しい声で咎められる。けれどその声にはいつだってアルドやフィーネを想う気持ちがひしひしと滲んでいて、どれだけ村のいじめっ子たちに拾い子だとからかわれても、養い親から向けられた愛情を疑ったことはなかった。
クレルヴォの声は、そんな爺ちゃんの声に似ている気がした。勿論声の高さも太さも全然違ったけれど、慈愛の滲む柔らかな色合いが、ひどく近しいものだったように思う。
そうか、とアルドは唐突に理解した。
クレルヴォの研究にかける熱意は知っていたし、すごいなあと感心もしていた。けれどその熱意の源にあるものはよく分かっていなくて、研究の内容についても漠然としか理解してはいなかったように思う。
けれど下に広がる世界に向けられたクレルヴォの声が、幼い頃からアルドが受け取ってきた愛情の色によく似ていると気づいたから。
そういうことか、暗闇の中、アルドはにこりと笑って頷いた。
クレルヴォの研究への理解が劇的に進んだ訳では無いけれど、一つだけはっきりと分かった事があった。
その根元にあるのは、きっと愛だ。
汚染されてしまった大地を、そこに根付く植物や存在するかもしれない生き物を、失われてしまった自然を、心底愛しているのだ。たとえ嫌われたとしても注がれ続け、陰ることなく柔らかに包み込むような愛情を、アルドはクレルヴォの中に見つける。暗がりのせいで確認することは出来なかったけれど、その瞳はアルドたちを見つめる養い親と同じ色をしているに違いないと確信して、アルドはゆるりと目を細めた。
地上に光る明かりの存在は、わくわくとアルドの胸を高鳴らせてくれたけれど、それ以上に隣にいる仲間が抱えた愛情の深さがじわりと心が暖かくする。
アルドにとって養い親である村長がくれた愛情はかけがえのない宝物で、その姿はいつかあんな風になりたいとの憧れでもあったから、それと同じ種類のものを胸に抱くクレルヴォへの尊敬の念がますますと大きくなる。そんな彼と出会えたことが、抱えられたそれに気づけたことが、嬉しくてたまらなかった。
すごいなクレルヴォは、と声に出して言ってしまおうかと思ったものの、躊躇ってから喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。一心に大地を見つめているであろうクレルヴォの邪魔をするのは、気が引けたから。
だから最後に、一言だけ。
「いつか、会えるといいな」
「……そうだね、いつか、きっと」
明かりの落ちた部屋の中で交わした言葉は、それで終わり。
ぽつり、ぽつり、闇の中に灯る明かりは消えてはまた別の場所で灯り、増えては減ってを繰り返し、ちかりちかりと星のように光り続ける。
やがて小さな点のような明かりが一つも見えなくなって、陽の光が差し込み眼下が白み始め、光の中に汚染された大陸の形がくっきりと浮き出るまで。
心地よい沈黙の中で二人、遠い光をただただ見つめ続けた。