とある酒場の店主の話


「おやじ! いつものやつを、フルコースで。大盛りで頼むぜ!」
「あいよ! ちょっくら待っててくんな!」

まだ客もまばらな夕暮れ時、店に入ってくるなり大声で注文をつけた男の言葉に、ユニガンの酒場の店主は即座に頷くと、給仕に店のことを任せて急いで厨房に引っ込んだ。
その男は、いつもの、で注文が事足りるほどには通い慣れた顔であると同時に、些か変わった注文をつける客でもある。
基本的に酒場に足を運ぶ客が求めるのはうまい酒とうまい飯だが、男はそのどちらにも当てはまらない。
男が頼むのはいつも決まって、甘い菓子の類。それも軽く十人前はありそうな量を注文しては、ぺろりと綺麗に平らげてしまう。


注文は変わっているけれど、悪い客ではなく、むしろ上客と言っていい。
金払いはいいし、怪しげな風体の割に行儀もいい。酒を飲んで暴れることもなく、ほかの客と諍いも起こさない。暴れる客がいればうまく言いくるめて宥めてくれ、助かったことも一度や二度ではない。たまに怪しい連中と一緒にいるものの、店に迷惑をかけることは滅多にない。何かあった時は何かあった時で、きっちりと迷惑料として大金を支払ってくれるので、文句のつけようがなかった。

大量の甘いものを注文するのが難点だと言えるかもしれないけれど、それも最近は問題ではなくなっている。
初めの頃、男に甘いものを注文された時に出していたのは揚げたパンに砂糖をまぶしたものがせいぜいで、男が来る度に慌てて店の人間に告げて追加でパンと砂糖を買いに行かせたものだった。
けれど男があまりにいい食べっぷりで、見ていて気持ちよくなるほど綺麗に平らげてしまうから。ついでに代金として置いてゆく金が、色をつけたにしては法外なほど多かったから。
段々と、揚げたパン以外にもメニューを増やしていった。
あまり時間をかけずに作れるものを考えては男が来る度に新作として提供するようになり、うまいうまいと男が豪快に食べる様を見ていれば悪い気はせず、また新しいものを考える。
それを繰り返すうちにすっかりと菓子作りそのものが楽しくなってしまって、男が来る来ないに関わらず日持ちのする菓子を定期的に作るようになった。一つ手の込んだものをを作ればより難易度の高いものに挑戦したくなり、酒場にやって来た旅人から異国の変わった菓子の話を耳にすれば、どうにかそれを再現したくなる。
終いには酒場とは別に作った菓子を売り出すようにもなった。売上はまずまずで、評判も悪くない。
ある意味では男のおかげて新たな商売を始められたようなものだから、問題どころか今は感謝の気持ちでいっぱいだった。

まあ、それでも。
一つだけ不満があるといえば、ある。
男の言ういつものやつのフルコースは、おまかせで出せる甘味をありったけ、の意味であると分かっている。だから厨房ですぐに出せそうな甘味をいくつか見繕って、最後の仕上げにかかりながら、酒場の店主は小さくため息を零した。
うまいうまいと出したものは何でも綺麗に平らげる男の姿に触発されて菓子作りに目覚めたけれど、手の込んだものを作るようにつれて実は男の舌があまり上等ではないのだと気づいてしまった。
隠し味にひと工夫加えても当然男が気がつくことはなかったし、さっと揚げたパンに砂糖をまぶしたものも、数日かけてじっくり仕込んだブランデーケーキも、同じようにうまいと評してさして時間をかけずにまるで流し込むように胃に収めてしまう。その食べっぷりは見ていて気持ちがいいけれど、手間をかけたものであればあるほど、もう少し味わって食べてほしいと思う気持ちがないとは言えない。改心の出来のものにはそれなりの反応をしてくれれば作り甲斐があるのに、男の反応は何を口にしても変わらなかった。

だからといって、男に出すものに手を抜くつもりはこれっぽっちも無い。
最初に出すのはシフォンケーキで、切り分けた上でホールまるごとの量を皿にのせ、添える生クリームを手早く泡立ててゆく。どうにも男はとびきり甘い方が好きなようだから、砂糖はたっぷりと。
程よい固さに仕上がった所で手を止め、しっとりと馴染んだシフォンケーキの隣に生クリームを添えて男に持ってゆけば、待ってましたとの歓声と共に男がフォークを手に取って躊躇いなくぶすりとケーキに突き刺した。
すぐさま厨房に引き返して次の品の用意にかかる前、店主は一旦足を止めてさりげなく男の様子を窺う。
どれを食べても同じ反応しかしない男ではあったけれど、それでもうまそうに食べてくれるのには変わりないし、思うところはあれどその食べっぷりを見る事自体は嫌いではない。
だからそれはある種の癖のようなもので、男が食べる姿を確認して相変わらずだなと苦笑いを浮かべ、厨房に戻って次を準備するのがいつもの事だった。

けれど、いつもならばくばくと勢いよく平らげてゆく男が、今日に限って一口食べた所でぴたりと動きを止める。
初めて見た男の反応に、店主は不安になって厨房に引っ込むことなく男の様子を見守った。
もしかして不味かっただろうか、いいやあれはとびきりの自信作で、他の客にも好評だ。シフォンケーキ自体は男が好むほど甘すぎはしないけれど、添えた生クリームには限界まで砂糖をぶち込んである。けして男の好みから外れてはいない筈だ。
ならばシフォンケーキ自体が苦手だっただろうか、いいやそんな事はない、前にも何度か出したことがある。その時は確かにうまいと言っていて、皿に残った生クリームもケーキで綺麗に拭いとって食べ切っていた。
つらつらといくつもの理由を頭の中に並べて男の反応の原因を探ろうとしたけれど、ちっともそれらしいものが見つからない。あまりにも心当たりが無さすぎたから、本人に理由を聞こうと店主が思わず口を開きかけたところで。

「……うめぇなぁ……」

しみじみと、男が呟いた。
いつもの声色とはまるで違う、深く染み入ったような声で、まるでこんなうまいものを食べたのは初めてだとでも言うような空気で、うまい、と男が口にする。
男はそのまま二口目を口に放り込むと、再び動きを止めた。よく見れば口元はもぐもぐと動いていて、噛み締めるようにじっくりと味わっているのが分かる。

「……うまい」

そうしてまた、ぽつりと一言。
店主はその声を耳にして、ぐっと胸が熱くなるのを自覚した。
今まで男が口にしていた、うまい、との言葉が嘘だったとは思わない。あれがこちらへのごますりの虚言だったら、ああも小気味よく平らげる事はできなかったろう。
しかし今男が口にした「うまい」は、いつものとは一線を画している。男本人に確認するまでもなく、その声を聞くだけではっきりと分かった。
付き合い自体はそれなりに長いものの、男については、変わった注文をする客で、怪しげな呪いの武器を探す商人だという以上のことを知らない。
けれど、きっと男に何かあったのだと、店主はなんとなく察した。酒場を営んでいれば、わざわざ話を聞かずとも客の纏う空気で何かあったと薄々悟る事がある。今の男にはそういった客特有の雰囲気があった。
おそらくは店主の知ることのない何かがあって、そして。
ようやく男に己の作った菓子の味が、過不足なくきちんと届いたのだ。
男の食べる速さは変わらない。一口一口大事に味わうように咀嚼して、感じ入ったように目を閉じてはうっとりと余韻に浸っている。口に運ぶ前にすんすんと鼻を蠢かせて匂いを嗅ぎ、しばし眺めてからぱくりとかぶりつく。
まるで舌だけではなく、五感全てを駆使して味わっているようだった。涙こそ流れてはいなかったけれど、うまいと呟く男が泣いているように見えて、知らず店主の胸が震える。

(良かったなあ)

男に対して、自分自身に対して、心の中でそう思った。
相変わらず男の変貌の原因については知る由もないけれど、良かった、と漠然と思って店主はぐっと拳を握った。
味の分からない男だと馬鹿にせず、毎回手を抜かず作ってきて良かった。あんなにもうまそうに食ってくれて、食えるようになって、本当に良かった。
良かった、良かったと馬鹿の一つ覚えみたいに何度も胸の内で繰り返して、じんわりと熱くなった目の奥を誤魔化すようにごくりと唾を飲み込んで緩く首を振る。

(こうしちゃいられねえ、もっとうまいもん出してやんなきゃな!)

何があったか、根掘り葉掘り尋ねるつもりはない。自分は酒場の店主で、男は客だ。話を持ちかけられれば聞く耳もあるけれど、きっと男が話すことはないだろうとの確信があった。
ならば今の自分に出来るのは、最高の『いつものフルコース』を出してやることだけ。最高にうまいものを、食わせてやることだけだ。

(見てろよ、んなちまちま食ってらんねぇくらい、とびきりうまいもん出してやるからな!)

もうちっと味わって食ってくれねえもんかね、と思っていたいつもとはまるで正反対の決意を抱いた店主は、さて次は何を出してやろうか、あれを出したらどんな顔をして食うだろうかと、どこかわくわくと胸を弾ませながら、勢いよく厨房へと飛び込んだ。