おやすみなさい、また明日


夜、一人きり、自分の部屋で眠るのが怖い。

透き通るような薄布を何枚も重ねて上から垂らした天蓋付きのベッドは、エルジオンの外れにある家具屋で一目惚れして購入したもの。猫足のデザインもシュゼットの好みにぴったりで、元々備え付けられていたベッドの処分も済まないのに、その日のうちに配送してもらった。天蓋の内側には蔓薔薇の彫り物がされていて、絡み合った蔓の作る形が美しい。肌触りのいいシーツに寝転がって視界を作り物の花畑でいっぱいにすれば、憂鬱な事があったってたちまち幸せな気持ちになれた。
何もかもお気に入りで埋め尽くした小さなお城の中、そのベッドの上はとりわけシュゼットの大好きな場所だった。

少し前までは。
その、とびきりの場所で眠る前、うとうとと微睡みながら空想に浸る時間が、一日の中で一番好きだった。想像の中ではシュゼットは何でも出来て、どこにでも行ける魔界のプリンセスだったから。
望めば生えてくる漆黒の羽で大空を駆け巡り、魔界への門を開く。日によって魔界の姿は様変わりし、花で溢れ妖精が飛び交う幻想的な光の園である事もあれば、瘴気の中に稲妻が光り崖の上におどろおどろしい城がそびえる魔の空間である事もあった。
全てはシュゼットの気の向くまま、好きなように作り替えられる。一番のお気に入りは魔界を駆け巡る空想だったけれど、舞台は魔界だけに留まらず、エルジオンに侵攻してきた不届きな魔の者を槍の一突きで蹴散らす事もあれば、地上に降臨して漆黒の救世主として崇められる事もあった。
そうして様々な幻想に身を浸したまま眠りの世界に誘われれば、時として夢の中にも空想の続きの世界が広がる。
もしかして本当に、夢が魔界と繋がっているのではとすら半ば信じかけていた。まだ力に目覚めてはいないから、あちらに渡ることは出来ないけれどいつか、夢の中で魔界に渡る扉が開いて、夢想したままの世界が現実になる日が来るはずだと、無邪気にも考えていた。より細部に気合が入ってゆく夢の世界に触れるたび、毛羽立った羽の感触がリアルになった分だけ、それは現実に近づいているのだと盲信していた。

けれど、シュゼットは闇のプリンセスではなかったから。
それはおぞましい自身の所業から目を背けるための逃避、仮初の妄執でしかなかったのだと知ってしまったから。

夜、一人きり、自分の部屋で眠るのが怖い。

だってもし、眠っている間に何かがシュゼットになっていたら。シュゼットと名付けられた人格が、きれいさっぱり消えてしまっていたら。
起きている間なら抵抗できるかもしれない。
誰かと一緒なら、異変に気づいてくれるかもしれない。それに最悪、知らない何かになってしまったとして、もしも暴走しそうになったらきっと、止めてもらえる。
けれど誰も知らないうち、一人で眠っている間、すり変わってしまったら。もしかしてまた、惨劇を引き起こしてしまうかもしれない。力が暴走して、辺り一帯を更地にしてしまうかもしれない。

あれは、消えてしまったのだと分かっている。
事細かに覚えてはいないけれど、知らないものが身体を支配して自分が消えかけた感覚と、そこから主導権を取り戻して何かをシュゼットで上書きした感覚、何かがぱちんと弾けて泡になってしまった手触り。外部から注がれたデータは、刻みつけられることなく記録されることなくただのデータのまま霧散していった。
思い出した記憶の中、詰め込まれていた知識と照らし合わせれば、ある程度の手順を踏まねばそっくりそのまま中身を取り替えてしまうことは出来ないと知っていた。外部のハードに蓄積されたデータを取り込んで焼き付けて、そして初めてストッパーが外されて、シュゼットの身体を制御するためのプログラムが送り込まれて稼働し始める。
だからたぶん、一度シュゼットの中に入り込んだあれは消えてしまったのだと思ってはいる。もう一度同じ手順を踏まない限り、同じことにはならないはずだと、遠い昔の記憶が教えてくれる。

知っている。知ってはいるけれど。
それでもやっぱり、夜、一人きり、自分の部屋で眠るのが怖い。

だって、本当に?
本当に、消えてしまったって断言出来るの?

もしかして、消えたふりでまだシュゼットの中に残っているかもしれない。機を見計らって表に出てくる心づもりなのかもしれない。シュゼットの知識にない方法で、身体の支配権を奪う術を持っているかもしれない。
寝ている間に上書きされてしまえば、ろくに抵抗も出来ない。気づかないまま、シュゼットの世界は終わってしまう。二度とアルドに、アルドたちに会えなくなってしまう。それが恐ろしくてたまらない。
それに、偽物はシュゼットの方かもしれないから。あれが本物で、シュゼットは仮初の人格で。だったらいずれ本物が元に戻って、偽物が消えるのが正しいのことかもしれない。正しくないものには、やがて綻びが生じて何もかも崩れてしまうかもしれない。
追い払っても、追い払っても、不穏な想像は次から次へと湧いてくる。眠ってしまえばもう何も考えなくても済むと分かっていても、眠ってしまえばもう戻ってこれないかもしれなくって。
楽しかった妄想の世界に逃げようとしても、裏側に隠れたものを知った今ではそれは対抗手段になってくれなかった。むしろ夢が現実に近づいている気がしていたのは、別のものに成り代わられる未来を示唆していたような気がして、余計に恐ろしくなってしまう。
眠りたい、眠りたくない、夢をみたい、みたくない。

だから、眠るのが怖い。怖くて怖くて、たまらない。
けれど眠らないとアルドたちに心配をかけてしまう。ふらふらと身体の軸が定まらなくなって、うまく槍を扱えなくなって、心配したアルドたちに休んだ方がいいよって言われて、結局、一人きりの部屋に帰されてしまう。予定していたよりもずっと早いタイミングで。そんなの、いや。
かといって、言ってしまうことも出来なかった。そうしたら、全部覚えている事も話してしまわなくちゃいけなくなるから。
嘘の苦手なアルドが、それでも必死で嘘をついて守ってくれたシュゼットの心、背負ってくれたシュゼットの罪。
その優しさを無駄にしたくなかった。これ以上心配をかけたくなかった。

それに、もしもこれ以上甘えてしまったら、きっと。
一人で立てなくなってしまいそうだったから。
怖くて、怖くて、不安でたまらなかったけれど、それでも。
アルドに寄りかかるだけの存在にはなりたくなかった。
パートナーだと言ったのは初めは、妄想を彩る言葉遊びでしかなかったけれど今では、本当にそうなれたらいいと思っている。与えてもらうだけじゃなく、その背中を守るに相応しい存在であれたらと思っている。
アルドの周りに集う仲間たちがそうであるように、一方的に依存するのではなくて、こちらからも手を差し伸べられる存在でありたい。すごいな、頼りになるなって言ってもらえる、本当の意味でパートナー足り得る存在になりたい。
それはアルドだけに限ったことじゃなくて、みんなにも言えること。
シュゼットの大事な仲間たちが困っていたら、手を差し伸べられるだけの、迷いなく背中を預けてもらえるだけの、揺るがない強さがほしい。
だから。


当たり前の事ではあるものの、夜は無情にも毎日決まって訪れる。
時計の針が進むたび恐怖は募っていって、本当は眠りたくないけれどそれでも、シュゼットは寝巻きに着替えてベッドに横になる。
体温が移る前の冷たいシーツにそっと肌を寄せ、恐ろしい想像が頭を支配してしまう前に、一つ。
胸の前、ぎゅっと結んだ拳、人差し指を一本たてて、そっと小さな声で呟いた。

「アナベルと、アザミとユーインと、もちょろけと、ラヴィアンローズでお茶会」

それは約束。仲間たちと結んだ大事な約束。
甘いものが好きな仲間たちと、みんなで一緒にシュゼットの大好きなお店に行く。楽しみねってアナベルが頬を赤くして笑って、アザミは今すぐにでも! と走り出しそうになっていて、ユーインは代わりにリンデの酒場でスペシャルメニューをご馳走してくれるって新しい約束をくれて、もちょろけは小さな目を糸のように細めてくるくると楽しげに踊っていた。
既に予約は入れていて、もちょろけを連れて入っていいとの許可も貰っている。来週の終わりに実現する予定だ。

「シエルと、エリナとお買い物。わたくしの、好きなお店で」

一つ。中指をたてて次の約束。
シュゼットの服が可愛いと言ってくれた二人が、そういう服も着てみたいって言ったから、お気に入りの服屋に連れていく事になった。シエルはきっと、柔らかな色合いのふわふわでレースたっぷりのお姫様みたいな甘めの服が似合う。エリナは案外、男装もいけるかもしれない。彼女の姉さまは残念ながらシュゼットには見えないけれど、男装姿のエリナと対になる服を勧めたら喜んでくれるだろうか。
試着させたい服を頭の中でピックアップして、二人と見えない一人に宛てがってみれば予想以上に似合っていたから、シュゼットは強ばった頬を緩めて少し笑う。

「ジェイドとセヴェン、マイティとルイナ、イスカとフォランと模擬戦。シェリーヌが審判してくれる」

一つ。次は薬指。
本来はIDAの生徒だけが使えるバーチャルシステムを利用した模擬戦に、シュゼットも参加しないかと誘われた。部外者が入って大丈夫かと躊躇っていたら、シェリーヌが許可の申請と引率を請け負ってくれた。いろんな相手と対戦する機会が増えるのは大歓迎だと、むしろ遠慮していたシュゼットを是非にと誘う勢いで押し切られた。
IDAの生徒達が優先だからすぐには無理なようだけれど、シェリーヌのみならずイスカも張り切っていたから、遠くないうちに実行されるだろう。

「アルドと、ダルニスとフィーネ、メイとノマルと、バルオキーの池で釣り」

一つ、小指の約束。
釣りに使う餌やシュゼットの住む時代には見かけない、奇っ怪な形をした魚がどうにも苦手で、ついつい敬遠しがちだったけれど、アルドたちが今度バルオキーの池で釣りを教えてくれることになった。初めから大物狙いは大変だけれど、簡単なところからやってみれば楽しいんじゃないかというアルドの提案で。
餌や魚はやっぱり苦手だけれど、アルドたちが昔から遊んでいたという池でする釣りは少し楽しみだ。もしかして本当に、釣りが好きになってアルドより上手になってしまうかもしれない。

「ミーユとジルバー、ソイラとネロと、ダンスの練習。もっときちんと踊れるように」

一つ、今度は親指。
物語の中でみたダンスパーティーへの憧れを口にすれば、それが夢物語ではなく本当にあるものだと教えてくれたミーユが、実際にダンスを教えてくれる事になった。上手く踊れるようになったら城で開催されるダンスパーティーに参加してみたらいいと言われていて、その際にはジルバーがエスコートしてくれる約束だ。
ミーユは立場的に難しいらしいけれど、ソイラとネロが付き添ってくれる事も決まっている。
ステップがなかなか難しいけれど、定期的に開かれる練習を兼ねた小さなダンスパーティーで足を踏む頻度は減ってきた気がする。

一つ一つ、約束を口にして確認するうち、片手の指が全て約束で埋まってしまう。
けれどそこで止めることなく、更にともう片方の手の指を使って一つ、また一つ、結んだ約束を確認してゆく。

「サモラとエイミとコマチとキュカと一緒にお料理の練習。試食はナギ」
「ルーフスとアルドとアカネと一緒にお勉強。先生はクレルヴォ」
「ポムの実験にヘレナとロベーラとサイラスと付き合う」
「マリエルとオトハ、レレとフィーネ、ビヴェットとシオンとリィカを猫カフェのバーチャルショップに連れていく」
「ロキドとチヨと、花冠を作る練習。シーラには秘密」

結んだ約束は沢山あって、もう片方の手もすぐに埋まってしまった。そうしたら今度は一つ一つ数えながら、開いた指を折り畳んでゆく。
アルドと、アルドたちと、みんなと結んだ大事な約束。
以前のシュゼットは持っていなかったもの。
アルドと仲間になってから少しずつ増えては果たされて、それでも終わることなく次の約束に繋がって増えてゆき、シュゼットの中の寂しさを埋めていってくれたもの。
一つも漏らさないように抱えて、よすがにしている大切なもの。


やがて一度開いた両の手がきっちりと結ばれたところで、とろとろと眠気が意識を浸してゆく。
夜、一人きり、自分の部屋で眠るのが怖い。
その恐怖を乗り越えられたとはまだ言えなくって、変わらず怖いままではあるけれど。夜が近づくたび、ひたひたと冷たいものが胸の底から込み上げてはくるけれど。
恐ろしい想像に支配されてしまう前、交わした約束で思考を埋めれば少し、恐怖が薄れる気がした。繋いだ約束を抱えて夢の世界に飛べば、もしも何かが蠢いたとしても最後の最後まで抵抗出来る気がした。
だって約束を交わしたのはシュゼットだから。他の誰でもない、シュゼットそのものが繋いだものだから。
何の根拠もなかった空想とは違って、確かに現実に繋がるものだから。

ちらり、頭を掠めた恐ろしい想像を、呟いた約束で上書きする。
そうすれば一人で眠っていても、一人じゃないと思えるから。
約束の数だけ、強さを分けてもらえた気がするから。
今はまだ、恐ろしさに負けそうになることもあるけれど、積み重ねた約束を結んでいけばいずれ、迫り来る恐怖を笑って退けられる日が来る気がしているから。
その時こそは胸を張って、アルドのパートナーだって、みんなの仲間だって言える予感がしたから。

「アルド、と、いっしょに……」

明かりを落とした暗い部屋の中。
小さな呟きのあと、しばらく。
まるで悪夢とは縁遠い、すうすうと穏やかな寝息が響いた。