ホットミルク、砂糖入り


だだっ広いリビングの中、明かりもつけないまま入口から一番近く、二人がけのソファーに深く座ったシャノンは、外した帽子と外套を隣に置くと、長い息を吐き出した。
ひどく、疲れていた。取り立てて何かがあった訳じゃない。いつものようにKMS社に出向いて、広報としての仕事を恙無く終えて、人と食事をして、帰ってきただけ。大きなトラブルもなかったし、小さなミスもしなかったし、面倒な相手に捕まってちくちくと嫌味を言われることもなかった。至極平穏に過ぎた一日とも言えるかもしれない。
けれど、どうしてだかいつもよりずっと、心が疲れきっていた。ソファーから立ち上がって、自室に戻る気力すら湧き上がってこない。

いつもは賑やかな家の中は、夜の帳に包まれてしんと静まり返っている。まるで一人だけ、別の次元に取り残されてしまったみたい。寂しくって、心細くって、たったそれだけのことで泣きたくなってしまう。
けれど明かりを落とした部屋を照らすのは、窓から入ってくる庭の灯り。夜遅くに帰ってくるシャノンのために、いつだって優しく灯されている柔らかな光。その明かりで微かに浮かび上がる部屋の中の様々なものの輪郭をなぞっていれば、少しだけ心が慰められる。
シャノンの家に住む人々は、朝も夜も早い。両親とシエルがとても規則正しい生活を送っていて、他の住人たちも自然と彼らに生活スタイルを合わせていった結果、日が上がると同時に目覚めて日付が変わる前にはみんな夢の世界に旅立っている、そんな暮らしを送っている。
例外は、今のところシャノンだけ。学生時代も時々遅くなることはあったけれど、KMS社に入ってからは皆が寝静まった頃に帰ることが珍しいことではなくなった。最初のうちは起きて待っていると譲らなかった両親も、同僚の人達と食事したり飲みにいったりしたいの、待っててくれるのは嬉しいけど、パパとママが気になって楽しめないわ、そんな風に説明をすれば納得してくれて、今ではちゃんと先に眠っていてくれる。

けして、全てが嘘じゃない。
KMS社自体の就業体系は非常にクリーンで、基本的には夕方には終業となる。それなのにシャノンが遅くなる日が多いのは、いろんな相手と食事に行ったり飲みに行くことが多いから。
けれど、全てが本当でもない。
なぜなら、それは。楽しむためじゃなくって、KMS社へと突き立てる爪を研ぐために、必要なものだからしてることだったから。

本当に、疲れた。今日、一緒に食事をしたのは、別のセクションの管理職の女性たち。さり気なさを装ってツテを作った彼女たちが元々開いていた集まりに、ようやく混ぜてもらえるところまで漕ぎ着けたのだ。
けれど。飲み食いをしてお喋りに花を咲かせながら、社内の情報や上層部の噂について興味本位を装って探りを入れたけれど、取り立ててこれというものは見つからなかった。だから今日は空振り。進展はなし、何もなかった一日。
それでも、だからといってがっかりした姿を見せる訳にもいかず、それぞれに話題を振って気を配って、好印象を残せるように最後まで気が抜けなかった。次もまた、誘ってもらえるように。大事な情報を、落としてもらえるように。

今日はすごく楽しかったわ。また一緒に食事に行きましょうね。

別れ際、彼女達のうちの一人、シャノンを集まりに誘ってくれた女性が上機嫌で口にした言葉は、そんなシャノンの努力が身を結んだ結果だと言えるだろう。けれど、彼女が浮かべていた表情、嬉しそうな顔、好意的な色を思い出すと、ずんと心が重くなってしまう。
こういう相手との食事のあとは、いつも以上に疲れる。相手の好意を利用しているようで、善良さにつけ込んでいるようで、あちらはシャノンに親しみを持ってくれていても、それは全てそうなるように仕向けたせい。まだ、下心が剥き出しの相手の方がマシだ。うまく利用するだけ利用しても、あまり罪悪感を抱かなくて済むから。
自分がとてもひどいことをしているようで、けれどやめることなんて出来なくって、でも心苦しさを消しさることも出来なくって、自己嫌悪で心が潰れてしまいそうになる。本当にこんなことをする必要があるのか、弱気が自問自答を繰り返し、足を止めてしまいそうになる。けして、こんなところで立ち止まってしまう訳にはいかないのに。

薄暗い部屋の中、ぼんやりと浮かび上がる家具や小物の輪郭を視線でなぞる。帰宅してすぐに自室に戻ることなく、一度リビングに立ち寄るのは、シャノンの習慣だった。朝とは違うクッションの位置、変わっている花瓶の花、新しく増えた住人手作りのぬいぐるみ。一日の中の変化、住人たちの暮らしの気配を感じられるものを見つけると、自分の中の一番大事なものが見えてくるから。家族が、彼らが、どこまでもいつまでも自由に暮らしてゆける世界。大事な人達の自由で穏やかで幸せな生活を守ることこそが、シャノンにとって一番大事なことだから。
彼らのためなら、家族のためなら、何だってできる。一人でだって、KMS社に抗ってみせる。絶対に、かつての灰色の世界に繋がるような思惑を実現させたりなんてしない。そのためだったら、何だって利用してみせる。

いつもなら、それで十分だった。一番大事なものを改めて確認すれば、どれほど疲れていたとしたって、明日も頑張ろう、心を奮い立たせられるはずだった。
なのに今日は、上手くいかない。何度視線を動かしても、なかなか気力が湧いてきてはくれない。柔らかなソファーにずぶずぶと沈んでしまった体は、一歩を踏み出して立ち上がるのを拒んでしまう。
もういっそ、ここで寝てしまおうかしら。いいえ、だめ、朝に誰かに見られたら、心配されてしまうもの。あと少しだけ休んだら、きっといつもの自分になれるから。だから、もう少しだけ。

すると、その時。開くはずのないリビングのドアが静かに開いた。
微かに動いた部屋の空気に、はっと振り返った先にいたのは、レンリ。監視のために、この家に滞在しているCOAの捜査員。
もしもこれが家族なら、シャノンはすぐに反応出来ただろう。大袈裟に酔ったフリをして、明るい酔っ払いを装って、どうして真夜中のリビングに明かりもつけずにいたのか、理由を問われてものらりくらりと躱して誤魔化してしまえただろう。だって家族はシャノンの一番大事なもので、一番守りたいもので、一番、何も知ることなく自由でいてほしい存在だったから。何よりも一番、シャノンの抱えた目的を知って欲しくはない人達だったから。
けれどレンリは、家族ではなかったから。血の繋がった家族と血の繋がらない新しい家族たちが暮らすこの家で、唯一家族ではない存在だったから。どんな対応をするのが一番適切なのか、疲労て鈍った頭では咄嗟に判断することが出来なかった。
そしてもう一つ。予想外の出来事への対応を考える前より先に、思ってしまったから。

――ああ、彼女に似ていたのね。

楽しかったわと告げた彼女とリビングに現れたレンリが、ほんの少しだけ似ていることに気がついて、いつも以上に重くてなかなか浮上出来なかった心の理由を悟る。
家族でもない、完全な味方でもない、きっと場合によっては敵対する可能性だって消えた訳じゃない。けれどこの家の秘密を暴くのではなく隠す事を選択して、共犯者になってくれたレンリ。そんなレンリに似た女性を謀るような真似をしたせいで、レンリと彼女、二人分の善意と好意を利用してしまった気がして、いつも以上に気が重かったのだと、理解してしまったから。

レンリは、すぐにシャノンに気が付いた。ちろり、視線をこちらへと向けて、薄闇の中のシャノンの瞳を真っ直ぐに見つめる。
けれど、ただそれだけ。何かを問うこともなく、話しかけることもなく、部屋に入ることすらせず、すぐにぱたりとドアは閉められてその姿は見えなくなってしまった。
混乱と理解で硬直していたシャノンは、そんなレンリの行動が予想外で呆気に取られてしまった。だって彼女は、お人好しなところがある。なにせシャノンたちの事情を理解して、黙認してくれるくらいだ。そんな彼女だからこそ、何かしらのアクションがあると思っていたから、何もせずに引いた彼女にすぐには理解が追い付かない。
もしかして、気を遣ってくれたのかしら。いつもと様子の違うシャノンを見て、察するところがあってそっとしておいてくれたのかもしれない。そう考えれば、ある程度は納得がいく気もしたけれど、釈然としない気持ちはもやもやと胸の中に残る。

だって彼女に、見捨てられてしまったようで。あれやこれやと尋ねられれば返答に困るくせに、かといってあっさりと去られてしまったら、寂しくって悲しくって仕方ない。矛盾しているのは分かっているのに、寂しいと呟く心を止めることが出来ない。
それに。背を向けたレンリが先ほど別れた彼女に重なって、責められているような心地にもなる。けして許されないことをしてしまった、そんな気持ちが胸の中を占めて、苦く重い塊が身体中にじわじわと広がってゆく。

一時の共犯者になってくれたけれど、それが全てではない。同じ家に暮らしているけれど、家族じゃない。アルドの仲間ではあるけれど、友達じゃない。それがレンリとシャノンの関係だ。

そんな相手に対して、こんなに弱気になってしまうなんて。今夜は、本当にどうしようもなく疲れて気持ちが落ち込んでいるようだ。
ますます重くなった体、ソファーから立ち上がるタイミングはまだ掴めない。いっそのこと少しだけ、眠ってしまおうかしら。朝になる前に部屋に戻れば、きっと誰にもバレやしない。

ぼんやりと考えていると、再び部屋の空気が動く気配があった。
今度はシャノンが振り返る前に部屋の中に誰かが入ってきて、あっという間にシャノンの沈むソファーの前に立つと、隣に置いた帽子と外套を脇によけてすとんとそこに座る。レンリだ。
まさか、戻って来るなんて。この短時間でもたらされた三度目の予想外に、反応すら出来ずってぽかんとしていれば、はい、短い言葉と共に何かを差し出される。
よくよくレンリの手元を見れば、そこには二つのマグカップがあった。ほこほこと湯気が立ち上っているそれを受け取らずに戸惑っていれば、「ホットミルク、砂糖入り」と再び端的にレンリが告げる。そうしてマグカップをこちらへと差し出したまま、反対側の手に持ったそれにふうふうと息を吹きかけるレンリがどことなくやりにくそうにしていたから、つい、受け取ってしまった。
レンリは浅くマグカップの縁に唇をつけると、少しだけ傾けて中身を口に注ぐ。こくり、飲み込む音が静かな部屋に響き、再びしんとした静寂が満ちる手前。ああ、と思い出したように呟いたレンリが、小さな声で言った。

「キッチン、借りたわよ」

この家のキッチンは、誰でも自由に使って構わない。それはレンリにも伝えているのに、毎回キッチンを使う度に律儀に報告してくるその生真面目さが、シャノンは嫌いじゃなかった。
至極、いつも通りのレンリだ。だからこそ、何を考えているのか分からない。だってシャノンは、明らかにいつも通りではなかったから、レンリも常とは違う方が自然な気がしてしまったから。
踏ん切りがつかなくって、本当に飲んでいいものか、飲んでしまったら何かが始まってしまうんじゃないか、疑って躊躇っていれば、またレンリが口を開く。

「冷めたら美味しくないわよ。……あのね、別に何か聞こうなんて思ってないから。そんなに緊張しないで」

まるで心の中を全て見透かしたような言葉に、シャノンが僅かに身を固くすると、レンリがはああ、と大きなため息をつく。けれどそれはけして、失望の意ではないらしい。

「どうしようもない時はね、甘いホットミルクを飲んでさっさと寝ちゃうのが一番よ」

少しだけ、優しくなった声色。温かくて甘い、それこそ砂糖入りのホットミルクみたいな声で、ゆったりと諭される。それは警戒で固く閉じていたシャノンの心の隙間を縫ってすんなりと奥まで届き、強張った気持ちを優しく解してくれる。
一気に緩んでしまった心、もう一度構えるのもなんだか馬鹿馬鹿しいような、勿体ないような気がして、シャノンは言われたようにそっとマグカップに口をつけることにした。
ホットミルクは、思っていた以上に甘かった。底には溶け切らない砂糖がじゃりじゃりと残っている気がする。そういえば甘党だったものね、隣のレンリの好みを思い出して、だけどだからといってこれは入れすぎじゃないかしら、そんな事も思って、これも予想外、これで四度目かしら、そんな風に考えれば、予想外の乱発がちょっぴり面白くなってしまって、ふふふ、笑い声が唇から漏れる。さやさやと空気を震わせる音と一緒に、胸の中に居座っていた重い靄が流れ出てゆく気がした。

言った通り、レンリは何も聞かなかった。会話すらせず、こくり、こくり、隣で一緒にホットミルクを飲むだけ。過剰に気を遣われて意識を向けられ、様子を伺われている気配もない。ごくごく自然体で、隣に座っているだけ。
そんなレンリの在り様が今のシャノンにはちょうどよくって、二人の間に存在する沈黙も気にはならない。むしろ終わってしまうのが寂しい気がして、傾けたマグカップの角度を少しだけ浅くした。
とは言え、引き伸ばしたって限界はある。しばらくすれば見えてきたマグカップの底、予想した通り溶け切らない砂糖がどろどろと溜まっていて、またシャノンはくすりと笑う。砂糖入りのミルクというより、ミルク風味の砂糖というのが相応しいそれを、舌の上に乗せて味わったシャノンは、ふう、息をつく。そして、まだ温もりの残るカップをぎゅっと両手で握りしめたあと。「ありがとう」独り言のように呟いたそれに、レンリが小さく微笑んだ気配があった。

随分と、調子は戻ってきた。頭もさっきより働いている。だからこそ、考えてしまったのはレンリへの口止め。まず一番に浮かぶのがそれである自分にがっかりはしたけれど、先ほどのように落ち込みはしなかった。だってそれは、シャノンが絶対に譲れないものなのだから。
けれど、さすがに脅すような真似はしたくない。誰かに、特に家族に告げられてしまうことだけは避けたいけれど、彼女がくれた優しさに対して可能な限り誠実でありたかった。

「……朝になったら、忘れてくれる?」

だから出来るのは、正直に頼むことだけ。お願いするだけ。
重くなりすぎないように、冗談っぽい響きを乗せて、極力いつも通りを装って。
きっとレンリなら、頷いてくれると思った。

「忘れていいの?」
「……いじわる」

なのに、返ってきたのはまたしても予想外。今夜だけで五回目となるそれに、シャノンはとうとう両手を上げて降参する。
ああ、駄目ね、今日は彼女に敵わない。ええ、もう、完敗だわ。
認めてしまえば、悔しさよりも笑いだしたい気持ちが上回る。
せめてと返した言葉には、責めるよりも拗ねて甘えるような響きが上乗せされていた。

だって、忘れてほしいけれど、忘れてほしくない。レンリが作ってくれたホットミルクの、甘さと温かさをなかったことにしたくない。心地の良い静寂を、消してしまいたくない。大事に胸の中にしまっておいて、時々思い出して取り出して眺めていたい。
そして、それはレンリにも持っていてほしい。日常の中、あっさりと流してしまってほしくない。ほんの少しだけ特別なものとして、覚えていてほしい。
そんな本心を全て見透かされるような言葉をかけられてしまえば、抗える筈がなかった。

「忘れなくていいから、ちょっとだけ、肩、借りてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」

だから、今日は特別。いじわる、囁いたのと同じ声で、隣の彼女に甘えてみる。きっと今度は、頷いてもらえる気がする。
そして返ってきたのは、ようやくの想定内。予想通り頷いてくれた彼女の肩に、こてり、そっと頭を乗せた。
どうやら彼女は、風呂上がりだったらしい。密着してようやくそのことに気がつく。彼女の周りの空気はほんのりと湿っていたし、ふわり、香る石鹸の匂いはシャノンの家のものだ。けれど湯の温もりは既に彼女から引いていて、その事実が少しだけ申し訳なくって、ほんの少しだけ嬉しい。

家族ではないひと。アルドの仲間ではあるけれど完全な味方とはいえなくって、状況によっては敵対する可能性だって消えた訳じゃない。
それに、友達ともいえない。いえないと、思っていた。
でも、だけど。もしかして、友達になら、今からだってなれるかもしれない。レンリと友達になれたら、きっとすごく、うれしい。きっとすごく、楽しい。友達に、なりたい。なってほしい。

ぽんと心に浮かんだ願いが、あんまりにも小さな子供みたいで、またおかしくなって笑ってしまう。友達になって、そう言えばレンリはどんな反応をするだろうか。
多分、ちょっと照れながら頷いてくれる気がする。それとも、もう友達みたいなものでしょってむっとした顔をするかもしれない。どちらもありそうな気がして、どちらでも嬉しい。そんな今度の予想も、きっと外れない気がした。

けれど答え合わせは急がない。
今はもう少しだけ、レンリの肩を借りていたかったから。もう少しだけ、甘えていたかったから。
預けた頭の重さの分だけ心に抱えた気持ちが軽くなって、ほんのりと漂う石鹸の匂いを吸い込んだ分だけ、肺の奥底に溜まっていた澱が溶けて消えてゆく気がした。