セレナ海岸にて


陽が落ちてから辿り着いたリンデにて。
宿屋に部屋を取り、あとは朝まで各々自由にしてくれとのアルドの言葉で解散と相成った。
同室のミュロンは剣を研ぎに出すと告げて鍛冶屋へと出かけ、一人残されたシェイネは荷解きをしながらどうしようかな、とぼんやりと考える。リンデにつく前に休憩がてら軽く食事をしたためそれほどお腹は減っていない。けれどすぐにベッドに横になるにしてはまだ少し時間が早い気もする。
ちょっとだけ酒場を覗いてみようかしら、もしも賑わっていて男の人が多かったら散歩に切り替えればいいし。
そうと決めたシェイネが宿屋を出たところで、酒樽を担いだキュカとばったり出くわした。
驚いて思わずキュカと酒樽を交互に見遣れば、苦笑いを浮かべたキュカが口を開く。

「酒場で飲もうと思ったら、ミランダに捕まっちゃったのよ」

ちょうどこの街に来てたみたいなの、告げられたキュカの言葉にそう、と頷いたシェイネだったけれど、酒樽を担いでいる理由はちっとも分からないままだ。重ねて尋ねていいものか躊躇っていれば、キュカの後ろに続いてミランダがやってくるのが見えた。こちらもキュカと同様、しっかりと酒樽を肩に担いでいる。

「アンタも来てたのかい。ちょうどいいや、ほら、アンタも一緒に呑むよ!」
「えっ、ちょ、ちょっと!」

ミランダの方もシェイネに気づいたようで、ほらほらとシェイネを促してさっさと街の外へと歩いてゆく。話の流れについてゆけず、ぽかんとしてその背中を見送るシェイネだったけれど、「良かったらいらっしゃい。……来てくれるとすごく助かるわ」とキュカからも誘われたから、おずおずと頷いてから二人の後をついていった。

セレナ海岸の街道を行きがてら改めて二人から話を聞けば、わざわざ酒樽を抱えて街の外に出たのは、どうもミランダがリンデの酒場から出入り禁止を食らっている事が原因らしい。
「ちょーっと飲み比べで身ぐるみはいだぐらいで、ひどいと思わないかい?」とミランダは主張していたけれど、キュカの補足によれば一度や二度でなくしょっちゅう飲み比べ勝負を仕掛けては客から有り金を巻き上げていたせいで、酒場に苦情が殺到していたらしい。酒場の店主も困っていたようで、酒は売るがここでは飲まないでほしいと半泣きで懇願されたという。
それは仕方ないんじゃないかしら、とシェイネも苦笑してキュカの言葉に頷いて酒場の店主に同情しながら、灯りの絶えた道を進んだ。

しばらくして、前方に赤い光がゆらゆらと闇に灯った。あそこだよ、とのミランダの声にそれを目指して歩を進めてゆけば、やがて焚き火の横で釣竿を垂らすミュロンの姿が暗がりの中に浮かび上がってきた。どうやら目的地は川のすぐ近くにあったようだ。
あんたたちも捕まったんだ、と肩を竦めるミュロンの近くでは既に数匹の魚が木の枝に刺さった状態で焚き火の前に並んでいた。ミュロンも鍛冶屋に向かった帰り、ミランダに見つかって強引に巻き込まれたらしい。
ひゅう、と口笛を吹いたミランダは、ミュロンに礼を言いながらキュカが置いた酒樽の上に抱えていた酒樽を横たえると、てきぱきと口にコックをとりつけてどこからか取り出した大きな木の杯になみなみと酒を注いでゆく。
そうして四人に杯が行き渡ったところで改めて焚き火を囲んで座り、ミランダの陽気な号令で飲み会は始まりを告げた。

最初のうちは、当たり障りのない話が続いたと思う。
ミランダと酒の話から始まり、それぞれがミランダに引き込まれた経緯に移って、割といつも似たような流れで飲み会が始まることが知れた。最近アルドの仲間入りしたシェイネよりも前からいる三人は、アルドたちからもすっかり酒飲み仲間の三人組として認識されるくらいには、顔を合わせれば飲んでいるらしい。
あんまりみんな付き合ってくれなくてさあ、と残念そうに呟くミランダはその間も、杯をあおる手を止めようとはしない。シェイネもそれなりに飲む方だけれど、確かにこれに付き合うのはなかなか大変そうだわ、と思っていると、ミュロンやキュカからも似たような感想が飛び出していた。
時折、周囲の闇の中から殺気を感じで腰の剣に手が伸びる事もあったけれど、シェイネがそれを抜く前にミュロンが何気ない仕草で礫を投げつけて、短い悲鳴の後にさあっと気配が退いてゆく。見ればキュカやミランダの周りにも幾つもの石ころが確保されてあった。
すごいわね、と感心したシェイネが呟けば、慣れてるからね、とちらりと意味ありげにミランダを見つめたミュロンと何度も頷くキュカの様子からして、こうして外で飲む羽目になるのもさして珍しい事ではないようだ。
そんな二人の視線を受けたミランダは素知らぬ顔でそうだ、と膝を打って、脇にあった石ころのいくつかをシェイネに渡して礫の狙いを定める方法を語り始める。どうやら誤魔化す事にしたらしい。あからさまな話の逸らし方に二人分の大袈裟なため息が重なったけれど、途中からは二人も話に加わってきたので、それからしばらく礫の話で盛り上がった。

話の流れが変わったのは、一樽目がすっからかんになって、二つ目の樽を開けた頃。
かなりご機嫌な様子のミランダが、何の前触れもなく突然シェイネに水を向けた。

「シェイネはあれだろ? アルドの事が好きなんだろ?」

ぶふっ、と口の中の酒を噴き出さなかったのは奇跡だった。えっ、えっ、と慌てて意味もなくきょろきょろと視線を彷徨わせてから、すうっと深呼吸を一つ。「……どうしてそう思うの?」と恐る恐る尋ねてみれば。

「ん? そんなの、見てりゃあ分かるさ」
「み、みてれば、わかる……」

身も蓋もないミランダの言葉に、とうとういたたまれなくなってがっくりと肩を落として顔を俯ける。

「……そんなに分かりやすかったかしら?」
「あー、そうだな、気づくやつは気づいてるんじゃないか」
「安心して、そんなに多くはない筈だから」

それほどあからさまなつもりはなかったし、シェイネなりに秘めているつもりだった。けれど誰ともなしに呟いた言葉に、少し気まずげに答えたミュロンとキュカの言葉で、二人も気づいていたのだと分かってしまう。ミランダの勘違いではなく、本当に分かりやすく態度に出てしまっていたようだと知り、恥ずかしくて顔を上げられそうになかった。
そんなシェイネの様子にさすがに慌てたのか、ミランダがやたらと新しい酒を注いでくれようとして、ミュロンは焼けた魚を食べるかと聞いてくる。そしてキュカは。

「ここだけの話よ。私もね、結婚相手、探してるの」

少し潜めた声で、そう囁いた。
思わずばっと顔を上げれば、焚き火の向こう、人差し指を唇に当てて秘密よ、と付け加えるキュカと目が合う。ぱちぱちと乾いた音を立てて燃える火に、赤々と照らされたキュカのその仕草がなんだか酷く艶めかしく見えて、シェイネは仄かに頬を染めこくこくと何度も頷いた。少しだけ胸がどきどきしてしまって、ほう、と息を吐いてから杯を傾け、ちびりと舌を湿らせる。
キュカの秘密について、既にミランダとミュロンは知っていたようで、さして驚いた様子もなく話を続けていった。

「キュカはいい相手見つかったのかい?」
「うーん、いまいちね。少し親しくなっても、戦うとこを見られちゃうとダメなの。強すぎるのがいけないのかしら……」
「はっ、そんな腑抜けこっちから願い下げしてやんなよ。あたしは好きだよ、アンタの戦う姿。ミュロンも何かないのかい?」
「あたしは特にない」
「そっかー。あたしもなぁ、今は男より酒とお宝の方が気になるんだよねぇ」

ミランダが中心となって進んでゆく話題に、シェイネは時折相槌を挟みながら大人しく耳を傾ける。一通り三人に話が回ると再びキュカの結婚相手について話題が戻り、好みのタイプについて事細かく突き詰めてゆく。
年上で甘えさせてくれる人がいいの、の照れくさそうに笑うキュカに、ミランダがじゃあアイツはどうだいと仲間の名前を一人ずつ挙げていった。その度に同じ時代に生きる人がいいだとか、一緒に酒が飲める人がいいだとか、新しい条件が付け加えられてゆき、残念ながら仲間の中にはちょうどいい相手が見つからないとの結論に達したところで、ふいにミランダの視線がシェイネを捉えた。

「それでシェイネはアルドのどこが好きなんだい?」

まさかもう一度自分に話が回ってくると思っていなかったシェイネは、今度こそ酒精を喉に引っ掛けて、ごほごほと思い切り噎せこんだ。こら、とミュロンが咎めたけれど、ミランダはさして悪びれた様子もなく、ひょいと肩を竦めた。

「この間、フォランに教えてもらったんだよ。未来には女子会っていう女だけの集まりがあって、そこでは飲んだり食べたりしながら男の話をするって」

せっかくだから、たまにはそういうのもいいかと思ったんだよ、と笑ったミランダの言葉に、ミュロンは呆れたようにため息をついたけれど、意外にもキュカがついたのはミュロンではなくミランダの方だった。

「……あなたが嫌じゃなければ聞かせて欲しいわ。私、結婚相手を探してはいるし憧れてもいるけど、実は恋についてあんまりよく分かってないの」

控え目に、けれどどこか好奇心の滲む瞳を向けられて、シェイネの中に迷いが生じる。恥ずかしいけれど、キュカだって秘密を話してくれたし、と躊躇いながらうろうろと視線を彷徨わせる。
そうしてついに、無理はするんじゃないよ、とこちらを気遣うミュロンの言葉に逆に背中を押されて、ぐっと一気に杯に残った酒を飲み干し、勢いで話し始めた。

「アルドくんって、誰にでも優しいでしょう?」

口にすると、回った酒精のせいだけでなくかあっと体温が上がった気がした。
そう、アルドくんは優しいの、と自分の言葉に頷いて、先を続ける。

「好きな相手にだけ特別に優しい人は、結構いっぱいいるの。でもアルドくんって、そうじゃなくって初めて会った人にもすごく優しいじゃない? 誰が相手でも親身になって、心の底から力になってくれようとしてくれる。そういうのをね、外側から見てるとすごく安心するの。ああ、私だけじゃないんだって」

優しくされたことはある。魅了でおかしくなった男の人たちは、強引にシェイネに迫る人も少なくはなかったけれど、中にはとびきりの優しさを滲ませて接してくる人だっていた。
だけどそれが向けられるのは、シェイネにだけ。シェイネに優しく微笑んだその直後、周りの人にひどく冷たい顔で毒づいたり威嚇する姿を見せられるたび、すうっと心が冷えていった。

或いは、魅了が解けた直後。
たとえば恋人のいた誰かは、シェイネには目もくれず恋人だけが大事だと必死で囁いていた。それ自体は喜ばしいことで、シェイネも幸せな恋人たちの間にヒビを入れずに済んだことにほっと胸を撫で下ろしたものだった。
だけど、少しだけ悲しくて寂しい気持ちが生まれるのも、本当だった。
恋人への愛を告げるために、比較してどうでもいいと捨て置かれるシェイネについて、当たり前だと思いつつそんな場面に立ち会う度、がりがりと心が削られてゆく。
魅了で惑わしたシェイネに解呪後も好意的であり続けてくれた人達は、あまりにも少なかった。敵意の宿った視線を向けられ、魅了にかかって目移りした後ろめたさを誤魔化すように、殊更シェイネなんてどうでもいいと強調されるたび、良かった、当然だとほっとして納得する一方で、魅了の剥がれた自身の覚束無さにひゅうと足元が崩れ落ちたような心細さに襲われる。魅了がなければ私に優しくしてくれる人なんていないんじゃないかしら、心の柔らかな部分がぐしゃりと握りつぶされて硬く強ばってゆく。

「私だから、私だけに、優しいんじゃなくて。私にも、優しいの、アルドくんは。そういうところが、好きかなあ」

だけどアルドは、誰にでも優しかった。魅了が解けていなかった頃は、それすらも魅了のせいかもしれないと疑っていたけれど、魅了が解けた後でも変わらずアルドは優しかった。
そうしてそれは、シェイネにだけじゃない。他のみんなにも優しくて、シェイネに向けてくれるのと同じものを、他の人たちにも惜しみなく与えている。
特別でない優しさは、シェイネにとって新鮮で得難いものだった。誰かに優しくするアルドを第三者の立場で見ていれば、それが下心とは程遠い親切心や優しさで成り立っている事が理解出来る。それと同じものが自分にも注がれているのだと、客観的に知ることが出来る。
だから、アルドの誰にでも優しいところが好きだった。特別な誰か以外にも等しく優しさを向けることは、なかなか難しい事だと知っていたから余計に、そんなアルドの姿を見つめるのが好きだった。恋人でなくても、伴侶でも想う相手でなくとも、優しさを向けられるアルドの事が、好きだった。

「アルドくんを見てると、下心なんて全然なくても本当に優しい男の人っているんだって思えるの。私の見てきたものが全てじゃないって、信じられるの」

魅了が解けたあとでも、シェイネに言い寄ってくる男の人は存在した。とても不本意ではあるけれど、どうやら魅了は別にしてもシェイネの見目は男の人にウケがいいらしい。
彼らが向けてくる優しさは、魅了に囚われている時と本質的には変わらない。抱えた不安も、魅了がなければ優しくしてはもらえないんじゃないか、と思っていたのが、この顔じゃなきゃ、歳をとったら、に変わって依然として存在したまま。彼らはみんな、見返りを求めてシェイネに優しさを見せてくる。
だけど、アルドなら。シェイネがこの顔じゃなくても、歳をとっても、向ける優しさに変わりはない。そう確信させてくれるから、誰にでも優しいアルドが好きで、安心出来て、信じられた。
特別に好きである以上、アルドにも好きになってもらいたいと望む気持ちがないと言えば嘘になる。けれどそれで万が一アルドが変わってしまったら、と想像すると怖くって、まだしばらくの間は、みんなに優しいアルドを少し離れた場所から見つめていたかった。

「女の人にもね、呪いのゴタゴタで遠巻きにされちゃうことが多くって。呪いの話をしたら自慢してるつもりじゃないのに、そういう風に受け止められちゃったり」

だからこういうの、すごく楽しいの、ちらりとミランダたちと手元の杯に目をやってから、小さく呟いたシェイネの胸にじわりと温かなものが広がった。
男の人たちは長く一緒にいればいるほど、魅了の力でみんなおかしくなってしまった。
だけど、じゃあ、女の人たちがみんなシェイネの味方だったかと言えば、けしてそうでもなかった。
嫌悪や軽蔑の視線を向けられる事はしょっちゅうで、たまに親身になってくれる人はいたけれど、魅了絡みの騒動が続くうちに段々と相手にも疲れが見えて、疎遠になってしまう事も少なくはなかった。巻き込むのが心苦しくて、シェイネから離れた事もある。
だからこんな風に、まるで普通の女の子みたいに、女同士で何人も集まってたわいもないお喋りをするなんて滅多にした事がなかったし、ましてやシェイネ自身の恋の話をするなんて。初めての経験だった。
そういえば、女の人からあんな風に特別な秘密を打ち明けられたのも、初めてかもしれない、と先程のキュカの仕草を思い出したシェイネは、そうだったのかも、と一人納得する。火に照らされたキュカが色っぽく映ったのは本当だけど、どきどきと胸をときめかせてしまったのは、秘密を明かしてもらえたのがとても嬉しかったからなのかもしれない。

ミランダたちは誰も、シェイネの話に不快感を示さなかった。魅了の話をしても、自慢だと鼻で笑い飛ばさなかった。羨ましいとも贅沢な悩みだとも言わなかった。うんうんと相槌を打ちながら、最後まで耳を傾けて、そういうもんなんだねとあっさりと納得すらしてくれた。
それだけじゃなくって。

「何だい水臭いねえ、あたしで良けりゃいつでも付き合うよ」
「私もよ。いつでも呼んで」
「あたしもだ。ああ、そうだ、これやるよ」

シェイネの呟きをしっかりと拾うと、カラカラと笑って杯を掲げ、また飲もうと誘ってくれる。豪快に笑うミランダにも、柔らかく微笑むキュカの顔にも、嘘の色はちっとも見えなかったから、きゅうっと胸が甘く痛んで涙が出そうになる。あんまりに嬉しくても胸が痛くなるのだと、シェイネは初めて知った。
そしてミランダはといえば、ごそごそと腰の辺りを探ると、数枚の札を取り出してはい、とシェイネに差し出した。

「ええと、これは?」
「連絡用の符だ。それに伝言を書いて折って飛ばせば、あたしの所まで届くようになってる。あんまり長い言葉は載せられないけど、何かあったら飛ばしてくれ。なるべく駆けつけるからさ」
「なんだいそれ、便利だね」
「さすがに時空を超えるのは無理だけどね。あんた達にもやるよ、何かあったら呼んでくれ」
「あら、ありがとう」

伝言用の符だというそれを、大事にしようとそっと懐にしまい込めばまるで見透かしたように、「使い捨ての符だからじゃんじゃん使ってくれ。すぐに準備出来るものだから」とミュロンに念を押されて茶目っ気たっぷりにウインクまで寄越される。こくこく、と何度も頷くシェイネの横で、早速ミランダが符に何事か書き込んで飛ばそうとしていた。

「どうやって飛ばすんだい、これ」
「空に放り投げれば飛ぶさ」
「おっほんとだ! すごいねえ」

ミュロンの言葉に従ってミランダがひらりと符を放り投げれば、たちまちそれは鳥の姿に変わり、ひょいとミュロンの肩に飛び乗ると再び符の形に戻る。
しっかりと飛ばし方を覚えながらシェイネは、なんて伝言を送ろうかしらとわくわくと考えながら新たな酒を杯に注ぐ。
次の飲み会に思いを馳せながら杯を傾ければ、散々飲んだ筈の酒の味が、とびきり甘く胃に染みた気がした。

そして二樽目が空になり、とっぷりと夜が深まるまで。
女達の飲み会は、賑やかに続いたのだった。