推しは増やすもの


抜けるような青空の下、暗澹たる空気を纏った一人の男がいた。
ニルヴァの博物館の近く、小さな公園のベンチに腰掛けて項垂れたその男は、手にした端末にちろりと視線をやると、大きなため息を吐き出した。
画面に写るのは、誰かのSNSのアカウント。そこにアップされた一枚の写真には、一人の男と一人の少女が写っていて、まるで仲睦まじい恋人のように少女の両腕は男の腕に絡められている。
写真と一緒に添えられたコメントは「お兄ちゃんと?」となっていて、その文字を暗い目で追った男はぐううと低いうめき声を上げ、空いた方の手でがしがしと頭を掻きむしった。

男は写真の少女、正しくは少年のファンだった。彼がニルヴァの楽団に所属していた頃からずっと追いかけていて、楽団を辞めてからもこうして彼のSNSをチェックしているくらいには、熱烈なファンだった。
だからこそ昨晩SNSに投稿された写真は少なからず男にショックを与え、夜が明けて朝になってもなかなか衝撃が抜けきらない。
同じように彼のファンである仲間たちも軒並み衝撃を受けているようで、彼らと繋がっているメッセージアプリの中は阿鼻叫喚の地獄と化していた。その中には少なからず少年への批判めいたものや恨み言まで混じっていて、ショックではあったものの少年を責める気持ちは毛頭無かった男は、彼らの言葉を見るのは苦痛でしか無かった。
故に仲間と衝撃を分かちあって現実逃避することが出来ず、かといって仕事もろくに手につかず、家に閉じこもっていればますます気が滅入ってしまうために外に出てみたものの、一向に気は晴れない。

(うらやましい……)

お兄ちゃんの文字を視線でなぞった男は、正直な気持ちを胸の中で吐露しながら天を仰ぐ。太陽が眩しい。
少年の、シエルのファンが呼んでもらいたい呼び方No.1のお兄ちゃん(男の脳内調べ)。それをあっさりと許している写真の男が、正直羨ましくてたまらない。しかもシエルから抱きついているように見える。羨ましすぎる。
誰に対しても人懐っこく天真爛漫に振る舞うシエルだけれど、誰にでも馴れ馴れしくスキンシップをはかるタイプではないと長く彼のファンをしてきた男はよく知っていた。つまり写真の男はそれだけシエルに気を許されているのだと分かってしまう。くそ羨ましい。
もしかして実の兄なのではと思いたいところだけれど、シエルの姉であるシャノンが以前KMS社広報用のSNSで、兄弟は弟が一人で後は全員妹だとぽろりと漏らしたのを知っているから、その線は薄い。

(こいつ……やっぱりあいつだよな……)

そして男には、写真の男に心当たりがあった。
蜂起した合成人間たちの首魁であったガリアードを倒したというハンターエイミと共に戦ったらしいというその男は、何度かニュースの記事で見かけたことがある。妙な格好をしていたから、記憶に残っている。
そしてそれだけではない。ニュースになっていたその男を、以前、街で見かけたことがあるのだ。特に話した訳でもなく、ただすれ違っただけだったけれど、はっきりと記憶に残っているのにはその印象が強烈だったせいだ。それも悪い意味で。
そいつは一人ではなく、何人か同行者がいた。それが全て、直視することもはばかられるような薄着の女性たちばっかりだったのだ。水着のような際どい格好の女性をはべらせて歩く男の姿はよく目立ち、控えめに言ってタチの悪い変態ハーレム男にしか見えなかった。

だから、男はこんなにもショックを受けて思い悩んでいる。
シエルのファンの中にはガチ恋と呼ばれる、本気で彼に恋をしている層が男女問わず存在しているけれど、男はそうではない。お兄ちゃんと呼ばれてみたい気持ちはあるけれど、単純に彼が笑っていればそれだけで幸せな気持ちになれる、ただのファンだ。彼が誰と親しくしようと、彼が納得しているならそれだけで満足で、冗談めかして羨んではみても本気で自分がそこに取って代わりたいなんて思ってはいない。
けれど。

そもそも男は、彼の歌に救われた過去があった。
学生時代、長く続く合成人間との争いで暗雲立ちこめる未来に全く希望が抱けず、漠然とした不安と絶望に苛まれ、陰鬱とした日々を過ごしていた。そんな中、たまたま手に入れたニルヴァの楽団の公演のチケット、暇つぶしがてら観に行ったそこで、男は天使と出逢った。
スポットライトの照らす舞台の真ん中、堂々と立つ彼が歌い上げたそれは、音楽や芸術なんてちっとも分からない男の心を強く揺さぶり、一節が終わる頃には自然と涙が流れていた。細かな技法なんて知らないけれど、それは光の矢となって男の胸を貫いて、ひねて斜に構え何を見ても無感動に息を止めていた心を、強烈な感動で一色に塗り替えた。
もうぐだぐだと無為に日々を消費している訳にはいかなかった。彼の歌を何度でも聴きたい。そのためには漫然と過ごしているだけではだめだ。チケットを買うための金を稼がねばならないし、彼の歌を聴くのにだらしない格好では失礼だと身だしなみにも気を遣うようになった。そうすると以前より声をかけてくる人間が増え、幾人か気の合う友達も出来た。やがて溢れる彼への気持ちが抑えられず、彼をイメージしたアクセサリーをデザインするようになるうち、それが人々の目に留まり趣味としてだけでなく仕事として生計を立てられるようにまでなった。
もしもあの時、シエルの歌を聴いていなかったらきっと、あのままずっと死んだような毎日を送っていただろう。まともに職にありつけてたかも怪しい。
つまり、今の男があるのは全てシエルのおかげなのだ。男は心底そう思っている。

だからシエルには、幸せになってほしい。あの輝く笑顔を、いつまでもその顔に浮かべていて欲しい。
シエルが楽団を辞めた時もショックだったけれど、それが彼の選択なら見守るまでだと納得した。彼のSNSを追いかけてはいるけれど、見ているだけで良かった。彼のしたいことをして、自由に羽ばたく姿を垣間見れるだけで十分だった。
そもそも彼は、アイドルのように可愛らしいけれど、アイドルではない。彼をそのように扱うファンには苛立ちを抱きこそすれ同調するつもりは毛頭なく、彼が誰と仲良くしようが不満を抱くつもりはない。仮にいつか彼に恋人が出来たとしたってそれが男であれ女であれ、祝福出来ると思っていた。思っていたのに。

(どうしてよりによってこんな男と……)

シエルの交友関係に口を挟むつもりも、そんなことが出来る立場ではないことも重々承知しつつ、思わずにはいられない。
確かに、ハンターエイミと共に合成人間との争いに区切りをつけてくれたのなら、男にとっても感謝すべき相手であるのだろう。けれど一度見かけた彼の姿のイメージが強烈すぎて、悪い想像ばかりが膨らんでいってしまう。

(あんな変態と付き合ってたら、いつかシエルたんまでい、いいいいかがわしい格好をさせられるんじゃ……はっ、まさかお兄ちゃん呼びもあの男に強制されて? あああ、心配だ、騙されてるんじゃないか……)

既に脳裏では男に泣かされているシエルの姿が浮かんでいて、心配で心配でいてもたってもいられない。けれど自分ではどうすることも出来ない無力さに苛立ち、再びがしがしと頭を掻きむしっていれば。

「大丈夫か? もしかして具合でも悪いのか?」

不意に誰かから声をかけられ、のろのろと視線を上げた男はぎょっと目を瞠って体を強ばらせた。
だってそこには件の男、まさしく今の今まで頭に浮かべていたシエルの「お兄ちゃん」がいたのだから。

「ひどい顔色してるから、心配でさ。本当に大丈夫か?」

まさかの事態に頭が真っ白になって動きを止めていれば、目の前の彼は気遣わしげに眉を寄せて男の顔を覗き込んでくる。驚いてのけぞれば、不思議そうに首を傾げた後、「そうだ、オレの仲間に回復魔法が得意なやつがいるんだ、待ってて、呼んでくるよ」と駆け出そうとしたから、どうにか言葉を絞り出して大丈夫だからと告げた。
彼はそれでも男の前から立ち去らず、腕を組んでしばし考え込んだ後、ぱっと懐に手を入れて何かを取り出し男に差し出した。そのラベルを見た男は、再びぎょっとして目をひん剥いた。赤いナースキャップをかぶった女性の意匠があしらわれたそのマークの栄養ドリンクは、効果が高く人気があるにも関わらずIDAの外ではなかなか手に入らないもので、その稀少さから裏では高値で取引されているらしいとの噂もある有名なものである。持ち込むとこに持ち込めば、かなりの値がつく筈だ。

「元気が出る飲み物なんだ、これ。オレも飲んだけど本当に元気が出るからさ、良かったら飲んでくれ」

それを彼は、全く惜しむ素振りもなく初対面の見ず知らずの男に差し出した。受け取って良いものか逡巡していれば、「大丈夫、不味くないって、甘じょっぱくて美味しいよ」と男を安心させるように目を細めて微笑んだ。
何か裏があるんじゃないか、もしかして受け取った瞬間とんでもない金を請求されるんじゃないかと疑っていた男だったが、その笑顔についつられて受け取ってしまい、大丈夫の言葉に背中を押されてぐいと口に含んでしまう。
それでも彼の口から金の話は出てこない。「おっ、ちょっと顔色がましになったな」と男の体調を案じる言葉だけを口にして、安心したように破顔したから男は混乱のままに全て飲み干してしまった。

訳が分からない。だって彼と男の間にあるのは一度街中で男が見かけただけの関係、つまり赤の他人でしかなく、こんなに心配される理由がない。試しにどこかで会ったことがあるのかと尋ねてみれば、きょとんとした顔で初対面だと答えたから、彼が男を一方的に知っているという可能性も潰されてしまった。ますます意味が分からない。

「ど、どうしてこんなによくしてくれるんだ……」
「え? あはは、大したことはしてないよ。それに顔色の悪い人がいたら誰だって心配になるだろ?」
「ででで、でも、俺、女じゃないし……」
「うん? ごめん、よく分からないんだけど……顔色の悪さと男か女かなんて関係なくないか?」

思わず口をついた疑問にも、彼は特に後ろめたさもなくあっさりと、当たり前の事を告げるがごとく答えてくれる。変態ハーレム男のイメージがあったせいで女には優しいのかと思ったけれど、彼の口ぶりでは男でも女でも関係ないらしい。
既に男は絆されかかっていた。
だって、彼の当たり前は、全然当たり前じゃない。誰だって心配すると言ったけれど、朝からベンチに座っていた男に声をかけてきたのは、それも心配してくれたのは、彼が初めてだった。
致し方ないことだとは思う。ふらふらと家を出てきた男の格好はだるだるに伸び切った部屋着のままで、掻きむしってぼさぼさになった頭も併せて傍からみれば不審者にしか見えなかったことだろう。誰だって心配するではなく、誰だって近づきたくないが正しい。
なのに彼は男を厭う素振りもなく、心配して稀少な栄養ドリンクまで差し出してくれた。絆されるなという方が無理がある。
しかも、だ。

「なあ、もしかして何か困ってる事があるのか? オレが出来ることなら手伝うよ」

男を見て何を思ったか、そんな事まで言い出してくる。どうして、ともう一度尋ねれば、「困ってる人がいたら、何か力になりたいって思うのは当然だろ?」と優しげは微笑みと共に口にしたから、もうダメだった。

(こ、こいつ……すごくいいやつだ……!)

つい先程まで、頭の中であんな男呼ばわりしてたのに、そんな事はもう出来そうにない。
既に男の悩みの種はほぼ消えてしまったようなものだったけれど、社交辞令ではなく彼は本気で男の力になってしてくれているようで、男の隣に腰を下ろすとにこりと笑いかけられた。
どうしよう、まさか彼のことを変態ハーレム男だと思っていただなんてさすがに本人には言い出しにくい。少し躊躇してから、気晴らしに話し相手になってほしいと告げれば、全く嫌がる気配もなく二つ返事で了承される。

彼は聞き上手で、話し上手だった。
ぼそぼそと話す男の話はけして滑らかでも面白いものでもなかったのに、いちいち驚いたりうんうんと深く相槌を打ってくれたり、おざなりに聞き流されているのではなく本当に男の話に耳を傾けてくれるのが分かる。そして男が何か尋ねれば、打てば響くようにあれやこれやと身振り手振りを加えて自分の話をしてくれる。
男の仕事のこと、彼の仲間のこと。気づけば名前はぼかしたままシエルに救われた過去のことまで喋っていた。初対面の男のことなのに彼は、救われた事を知ると心底嬉しそうな顔をしてそんな人と出逢えて良かったなあ、と微笑んでくれる。
逆に男が彼に尋ねた話の中で、それとなく例の薄着の彼女たちについて聞いてみれば、「そんなおかしな格好だったか?」と首を傾げられて、そこには後ろめたさなんて微塵も浮かんではいなかった。そういえば彼自身奇妙な格好をしているからコスプレなのかと問えば、困ったような顔で「こすぷれ……それよく言われるんだ、そんなに変かな? オレの村だと普通の格好だったんだけど……」との答えがあった。
彼の言う村に心当たりはなかったけれど、この短い間でも彼が嘘が苦手なことは男にもよく分かった。答えられないことになると、心底弱り切った顔になってあからさまに視線が泳ぐ。
だからそれも嘘ではなく本当のことなのだと伝わってくる。男が知らないだけで、東方の周辺にはもしかしたら小島に集落のようなものがあるのかもしれない。例の薄着の女性達も、彼と同じようにどこかの民族衣装のようなものだったのかもしれない。少なくとも彼が強制して着せている訳ではなさそうだったから、男は心底安堵してほっと胸を撫で下ろした。


気づけば随分と長く話し込んでいて、赤が差してきた夕暮れの色に男が慌てて引き止めてしまったことを謝り話を切り上げようとすれば、彼はからからと笑う。

「オレも楽しかったよ、付き合ってくれてありがとうな。……うん、顔色も良くなったし、ちょっとでも気晴らしになったなら良かったよ」

もうほぼ完全に彼に向けて開かれていた男の心には、そんな彼の気遣いはトドメだった。今ならシエルが彼をお兄ちゃんと呼んでいた気持ちが分かる。男も彼のことをお兄ちゃんと呼びたい気持ちになっていた。
彼は勢いよく立ち上がって伸びをすると、それじゃあまたなと告げてあっさりと去っていこうとする。またな、の言葉ににやけそうになる頬を引き締め、男は慌てて彼の背に声をかけた。

「あ、の! 名前……!」

こんなに長々と付き合ってもらったのに、肝心の彼の名前を知らないままだ。ニュースで流れていた名前は覚えていなくって、シエルの写真ではショックで名前を調べるまで頭が回らなかった。帰って調べればすぐに分かるだろうけれど、叶うならば彼本人から名前を聞きたい。

「あれ? ごめん、名乗ってなかったな。オレはアルド、また困ったことがあれば何でも言ってくれよ!」

彼は振り返って意外そうにぱちぱちを瞬きをしてから、にかっと笑って名前を告げる。そしてぶんぶんと手を振ってから、足早にどこかへと駆けて行った。
小さくなってゆく彼の背中を見つめながら、男は心の中で彼の名前を噛み締める。

(アルド……アルドきゅん……お、推せる……!)

シエルが男の天使であることは、何があっても揺らぐことが無いと断言出来る、絶対的な事実だ。今の男を構成する、核そのものも言っても過言ではない。
けれどそんな心の真ん中に鎮座する天使の隣に、新たに彼の席も用意されてしまった。だって仕方ない。天使のお兄ちゃんもまた、天使であるのは道理であったのだ。

こうしてはいられない。男は立ち上がり家路を急ぐ。
シエルへの溢れる想いが形となった結果、アクセサリーをデザインする仕事に就く事となった。そんな彼に新たな推しが発生すれば、どうなるか。

(早く、早く、形にしたい……!)

答えは、衝動が新たなアクセサリーの姿となって脳内に現れる、である。
アルドをイメージしたデザインと、アルドと一緒に笑っていたシエルを改めて思い出して浮かんだデザイン。それらを全て描き出してしまいたくて、ともすればもつれそうになる足を必死で動かしながら、男は一心不乱に走り続けた。久しぶりに全力で走ったせいで、帰宅後、息が切れてなかなか仕事に取り掛かれなかったのは余談である。


後日、新進気鋭のアクセサリーデザイナーから、新作が発表される。かねてより彼の代表作であった「エル」シリーズと併せてお披露目された、新たな「アル」シリーズ。
優美で華やかな「エル」シリーズと比較すれば、素朴ながら少し奇抜な形をした「アル」シリーズは今までとは違う新たな客層を開拓することとなり、デザイナーの二枚看板として長く天空都市で人々に愛されてゆくこととなる。