かなしい
しんと静まり返った暗がりの中、ベネディトは一人立っていた。
どれほど目を凝らしてみても、黒々と塗りつぶされた闇の向こうを見透かすことは出来ない。前も後ろも右も左も、全てが暗闇に沈んでいる。
けれどそんな光源の気配一つ感じられない場所にいるのに、なぜだか自身の身体だけは黒の中に、くっきりと浮かび上がって見えた。まるで陽の光の下で見た時のように、影一つかかることなく指先の爪の形まで、はっきりと視認することが出来てしまう。明らかに、おかしい。
夢だ。
現状を確認したベネディトが、不可思議さにそう判断を下したと同時、右手の中、いつの間にか皮膚とは違う硬いものが握られている。
ぎゅう、少し右手に力を込めて形を確かめてから、ぶうん、振り上げた手を無造作に振り下ろせば、風を切る鉄の音がした。使い慣れた得物の感触にベネディトは改めて、夢だな、と確信してそのまま、油断なく斧を構えた。
視線の先には相変わらず闇しか存在しなかったけれど、いつその中から一撃が飛んできても対処出来るよう、ぎりぎりに感覚を研ぎ澄ませる。闇に潜む何かの息遣いの気配一つ逃さぬよう、自身の呼吸を可能な限り詰めて、ぴぃんと耳をすませる。
それほど回数は多くないものの、それでも年に数度は夢を見る事があった。
内容はいつもほぼ同じ。闇の中から襲いくる何かと戦う夢だ。夢どころか、現実ともさして代わりばえのしない夢。
現実と違うところがあるとすれば、その何かがひどく強くて攻撃の種類が多岐にわたっていることと、負けてもそれで終わりではないことぐらい。
夢とはいえそれなりに自身の意思に従って動けるし、目覚めようと思えば次の瞬間には、夢は閉じて現実の瞼が開くと知っている。
しかしベネディトが目覚めではなく、武器を構えて夢に留まる事を選んだのは、これがある意味絶好の機会だと重々理解していたからだ。
現実では失敗すれば死ぬ。もう一度と乞える次は存在しない。
だけど夢の中なら、死んでも生き返る。殺されても死ぬ事は無い。いくらでも失敗できる。
滅多に見ることがない夢だからこそ、巡り会った時には、新たな戦法を模索する機会として、負ける経験を積める場として存分に活用する事にしていた。
あくまでも夢は夢。さすがに何もかも全てを現実にも適用させることは出来ない。それでも夢の経験がちらりと脳裏を掠めて命を拾った経験が何度かあったから、全くの無意味とも言えない。
夢の中の時間はあってないようなもの。千の失敗が現実で一度死から掬いあげてくれるならば、試さない道理はなかった。
いつもなら武器を構えてさほど経たずして、武器か魔法か、未知の攻撃が飛んでくるのが恒例となっていたが、しかし今回はなかなかそれがやっては来なかった。闇の向こうは変わらず無機質に沈黙を続けている。
それでもベネディトは警戒を解くことはしなかった。焦らしてこちらの気が緩んだ隙を狙ってくるのは、現実でもよく使われる手だ。
それを予見して、油断することなく構えを解かずにいれば。
どさり。
唐突に暗闇の中から、何かが放り出された。
それはベネディトと同じように闇の中で陰ることなく、輪郭をはっきりと切り取ったように黒の中に浮いて見える。
ベネディトからおおよそ十歩の距離、投げ出されて力なく横たわったそれは、人の形をしていた。
死体か。
それを見たベネディトの脳は、瞬時に判断を下した。
一目見て、もう息をしていないと分かる。死んでからかなり時間が経過していて、回復魔法をかけても手遅れだ。けして、助からない。
かといって、油断も出来ない。術師が背後にいて死体が動き出して襲ってくる事もあれば、身体に爆薬の類いを埋め込まれている可能性もある。この距離で爆発に巻き込まれれば、無事では済まない。
だから、もう少し距離を取った方がいい。
瞬きほどの短い間に、頭は結論を導き出す。
けれど、身体は思考に反してぴくりとも動こうとはしなかった。
なぜなら。
「……アル、ド?」
闇の中、投げ出されたその骸は。
ベネディトのよく知る、仲間の、アルドの形をしていたから。
ぞわり。
それがアルドだという認識が、現状への対処を決める思考と並行して脳内に浮かんだ途端。
身体中の毛穴が開き、ざざざぁと全身に鳥肌が立つ。ぐう、と首を締められた時のように息が苦しくなって、剣を突き立てられた時のように腹がキリキリと痛んだ。ひやりと心臓が冷たくなって、ごくり、飲み込んだ唾が妙に熱くて、毒を飲んだ時のようにじくじくと喉を焼く。
あちこちに生じた痛みに、知らぬうちに攻撃を受けていたのかと素早く視線だけを動かして己の身体を確認しても、傷らしい傷はついていない。血の一滴も流れてはいない。
なのに、ひどく痛かった。
痛みには慣れている筈なのに、痛みをただの事象としてしか認識しなくなって久しいのに。
それでも痛い。
身体の内側が、痛んで仕方ない。
臓物を抉られた時より、背を焼かれた時より、もっと、ずっと。
痛くて痛くて、痛くて。
痛くてたまらない。
(マリエルならあるいは……ポムなら蘇生を、プライが、そうだ、回復を、回復さえすれば……)
あれはもう助からない。
再び向けた視線の先、変わらぬ骸の形はうんざりするほど見慣れたものだ。重ねた経験が、その死をけして覆すことが出来ないものだと結論づけている。
分かっている。もう、助からない。
分かっているのに。どうにか生き返らせる事が出来ないか、頭が勝手に思考を始めていた。冷静な部分で無駄だといくら諌めても、助かる方法を模索する事をやめられない。
だって夢だから。夢だからこそ、死を無かったことにできる。ベネディトはずっとそうやって、夢の中では殺されても死なずに立ち上がってきた。だから、アルドだって。
なのに夢は、ベネディトの望みを叶えてはくれなかった。
どさり。どさり、どさり。
先程耳にした音が、三回。
マリエル、ポム、プライ。
思い浮かべた順、闇の中から放り出された彼らを目にしたベネディトの表情に、喜色が滲むことはなかった。
なぜなら彼らもアルドと同じ。
既に事切れて久しい、骸の形をしていた。
ひどく寒くてたまらないのに、焼けた鉄を押し付けられたように腸が煮えて仕方なかった。
覚えのある体格、知っている顔。
声の色も、戦場での振る舞いも、一人一人頭の中に再現する事ができるのに、彼らはもう動かない。二度とベネディトの名を呼ばない。誰も、助からない。
体の中をぞろぞろと虫が這い回るような気持ち悪さを覚え、いつしか得物を握った手はべっとりと湿っていた。
(クレルヴォ、ユナ、誰か)
別の仲間、回復の手段を持ち得る二人を思い浮かべればまた。
どさり、どさり。今度は背後から、二つの音。
振り返らなくても分かった。振り返らぬままベネディトは、つ、とこめかみから流れおちた汗を、肩口で乱雑に拭う。
法則は分かった。もう何も考えてはいけない。誰のことを思い浮かべてもいけない。
しかしそれでも、どさりどさり、ベネディトの周囲に音は響き続ける。心を無にしようと焦りを募らせるほど、音のする間隔は狭くなってゆく。
どれほど音が繰り返されても、ついぞ生者の気配はしないまま。
視界の内に徐々に増えてゆく骸は、全て。
仲間たちの顔をしていた。
仲間の骸に囲まれた己が、尋常でない自覚はあった。平静とは程遠いことも分かっていたし、混乱もしていた。
けれどベネディトの意識、自覚した混乱の内側。源にあるのは、仲間の死そのものではなく、それを目の当たりにして自身の中に発生した、不可解な反応。
死はいつだって、ベネディトの身近にあったものだ。
アルドと出会う少し前まで、ずっと組織の駒として生きていた。組織から任務が与えられれば、それに従うことが全てだった。
任務の内容の多くは命を摘み取るもので、自身の命をかけて相対するものだった。それらはうまくいくこともあれば、そうでない事もままあった。たとえうまくいったとして、任務の最中、組織の人間が数多死んでゆくことも珍しくはなかった。それが当たり前で、普通のことだった。
それなりに長く肩を並べて戦った相手だとして、死ぬ時は簡単に死ぬ。少しの油断でつい一刻前に言葉を交わした人間が、骸へと変わる。紙一重が生と死を分ける。
どれだけ強くとも、巡り合わせが悪ければ死ぬ。
負ければ死ぬ。失敗すれば死ぬ。
多い時は毎日のように、敵も味方もそれ以外も死んでいった。
特別なことじゃない。死は誰にだって訪れるもので、それはベネディトも例外じゃなかった。ベネディトが今生きているのは、たまたま死ななかったから、ただそれだけのこと。
だから人が死ぬのは、見知った人間が死ぬのは、特別な事でも何でもない、ありふれた、いつだって存在してた事実であるのに。
(どうして)
任務の途中、ベネディトのすぐ隣で誰かが凶刃に倒れても、戦力が削がれる以外では何の支障も生じなかった。心が揺れることも平静が乱れることもなく、思考を切り替えて欠けた穴を補い任務を遂行する過程を頭の中に描くことが出来た。
今だって本当なら、すぐさま体勢を整えるべきだと分かっている。アルドの、ベネディトの仲間たちは、それぞれに強い力を持っている。そんな彼らが揃って命を落としている現状、冷静に考えればベネディト一人で対処出来る可能性は著しく低い。
もしもそれが未知の敵によるものならば、迎え撃つにしろ逃げるにしろ、すぐさま対応できるようにしておかなければならない。
なのに、出来ない。動けない。
不自然に強ばった体の力が抜けなくて、気持ちの悪い感覚が内から出て行ってはくれない。
どん、どん、どん。
その時、暗がりの中に鈍く低い太鼓の音が響き渡る。撤退の合図だ。
どん、どん、どん。
追い立てるように短く刻まれるリズムは、緊急性の高さを示すもの。伝令を飛ばす猶予すらない際に、離れた場所にある駒たちに届けられるそれが鳴り響けば、何をおいても撤退しなければならない。たとえ任務の達成が目前に迫っていても、撤退を最優先に選択しなければならない。
どん、どん、どん。
組織にいた時にそう教えこまれた合図を、考えるより先に反射で身体が撤退を選択するほど染み付いた音を耳にしたのに、それでもベネディトの足は動かなかった。
(ここにいては駄目だ)
撤退をすれば、仲間の骸をここに置いてゆくことになる。連れてゆくにしては、数が多すぎた。
けれど一人でどこかへと去ることを考えればまた、気持ち悪さが喉の奥から込み上げる。ずきずきと頭が痛くなって、口の中がカラカラに乾いてゆく。
撤退しなければ。嫌だ、気持ち悪い、なぜだ。
置いてゆくしかない。嫌だ、気持ち悪い、なぜだ。
動け、動くべきだ、動けない。なぜだ、なぜだ、なぜだ。
(撤退を、嫌だ……いや、ああ、そうだ、撤退を。これは、夢だ。そうだ、夢だ)
夢ならば、目覚めれば終わる。
仲間の骸の扱いについて悩む必要もなくなる。そうすればきっと、この気持ちの悪さもなくなる。
ようやく現状を脱する糸口を見つけたベネディトは、夢の中、すうと大きく息を吸い込んでから、起きろ、閉じた瞼をこじ開けるべく、眠る自身に呼びかけた。
暗闇の中、最後、己に下した命令とは反対に。
視界を埋め尽くす仲間たちの骸の形を振り切るように、ベネディトは固く固く目を瞑った。
(……夢だ)
目覚めは夢と地続きに、少しも経たずしてやってきた。
薄暗い部屋の中、並んだベッド。その一つの上でぱちりと目を開けたベネディトは、起き上がりがてら近くに立てかけた斧を引っ掴み、油断なく周囲に警戒を走らせる。
まだ暗いとはいえ、夢の中とは違って何も見えない闇には包まれていない。カーテンの閉まった窓の向こうは仄かに明るく、ベネディトにも同じ部屋で眠る仲間たちも、不自然に浮き上がる事無く薄闇に包まれ陰っていた。
そのまま警戒を続けるも、部屋の中、生きた気配は眠る前と同じ数だけ。近くに殺気の類はなく、空気に変わった所もない。
それだけ確認するとベネディトは、少しだけ体の力を抜き、ふうと大きく息を吐き出して、そして気づく。
どん、どん、どん。
目覚めた筈なのに、戦場ではない筈なのに。
夢の中で聴こえた、撤退の合図が鳴り止んではいない。
瞬時に身を固くして辺りを見回し、しばらくその音の元を探して、ようやくベネディトは。
どん、どん、どん。
それが、己の心臓が自身の胸を忙しなく叩く音だと知る。
「……なぜ……」
一昼夜絶え間なく戦い続けた訳ではない。
ただ眠って、夢を見ただけ。
たったそれだけなのに、全力で限界まで駆けた後みたいに、心臓が早鐘のように打ち続ける意味が分からない。
夢は終わりを迎えたのに、おかしな現象が続いている理由が分からなくて、ベネディトは握った斧の柄を固く握りしめる。
だって夢の内容は、あんなものは、少し前まではいくらでも、ベネディトの周りに転がっていたものだというのに。
どうしてこんなに、心臓が騒ぐのか分からない。
あれが夢であったことを思えばほうっと腹の力が緩んで、同じ部屋、眠る仲間たちがきちんと寝息をたてている事実を確認すれば、強ばった指先に血の気が戻る。
なのに夢の内容を改めて思い浮かべれば、途端に背筋に冷水を浴びせられたかのようにひゅうと身体が冷えてゆく。一つ一つ、暗がりに転がった仲間たちの死に顔を浮かべるたび、喉の奥が焼けるように熱くなって、吐き気がこみ上げてくる。
その、不可解な自身の反応の根源が、理由が。
どこにあるのか、何であるのか、ちっとも分からない。
いくら自分の中を探しても、納得のいく答えが見つからない。
全然、分からない。何も、分からない。
けれど。一つだけ、分かっていること。
万が一それが現実になってしまえば、なにか取り返しのつかない事が自身に生じてしまいそうで、そうすれば喉元にせり上がった気持ちの悪い吐き気がベネディトの内側を食い荒らし、夢で感じた痛みが現実のものとなって、ついには耐え切れず狂ってしまいそうな気がしたから。
ベネディトは深呼吸で心臓の鼓動を強引にねじ伏せてから、ベッドから飛び降り音を立てぬように宿の部屋を出た。
強くても死ぬ時は死ぬ。だけど弱いよりは、多少は死が遠くなる。隣に並んだ仲間に向けられた致命傷を、跳ね返す腕を伸ばせる可能性が上がる。
「……よく分からないが、実現しなければいいんだろう」
分からないものを、見つからない理由を、いつまでも考えていても仕方ない。そういうのは、後で誰かに聞けばいい。ベネディトの知らないことを沢山知っている仲間たちなら、きっと誰かは知っているだろう。
ならば今のベネディトにできることは、強くなること。不意打ちで仲間に迫り来る死の気配すら振り払えるくらい、もっと強くなること。それぐらいしかない。
まだ少し早い心臓の音に急かされるように、ベネディトは早足で宿を出る。
しばらくして。
宿の中庭、朝靄の中。風を切る鉄の音が響いた。
身体に異常をきたした何か。
その感情の名前をまだ、ベネディトは知らない。