真夜中のおしゃべり


「ねえ、シュゼット。起きてる?」

アルドの仲間になって初めて、自身が生きるのとは違う時代に同行した日の夜のこと。
リンデの宿、アルドたち男性陣とは別れて、フォランとの二人部屋。しんと静まり返った夜の気配の合間、ざざぁ、ざざぁ、と打ち付ける波の音に耳を傾け、何度目になるか分からない寝返りを打った頃。
隣のベッドで眠るはずのフォランから、小さな声で話しかけられた。
起きてますわ、囁き返してごろり、再びの寝返りでフォランの方を向けば、薄暗い部屋の中、きらきらと光る瞳が見えた。
眠れなくてさ、フォランの呟きに、わたくしもですわ、頷いて返す。すると少しの沈黙の後、ちょっと話さない? おずおずと持ち出された提案に、ええ、と頷きを重ねれば、ありがと、とフォランが薄く微笑んだ気配で、ふわりと部屋の空気が揺れた。

しかし自分から言い出したくせして、なかなかフォランは続きを口にしようとはしなかった。何かを言いかけては口を閉じ、躊躇って言葉を選ぶ素振りが伝わってきて、シュゼットも落ち着かなくそわそわと視線をさ迷わせる。
仲間とはいえ、それほど親しく話した事はない相手。眠れなくてつい返事をしてしまったけれど、何を話せばいいかなんてちっとも分からない。けれど黙っているのも気まずくて、流れる沈黙がどんどんと重くのしかかってくる。
そうして、やっぱり寝たフリをしようかしら、シュゼットが悩み始めたタイミングで。
潜めた声で、ぽつり、フォランが話し始めた。

「あのさ、あたし、今日、初めて。魔物と、戦ったんだ」
「……わたくしも、そうでしたわ」

とつりとつり、暗闇の中流れたものはそのまま、シュゼットの眠りを妨げていたものと同じだったから、気づかれぬようぎくりと身体を強ばらせ胸の前でぎゅっと手を握る。慎重に絞り出した相槌の言葉は微かに、震えている気がした。

「うん。それでさ……柔らか、かったよね。刃が、ずぶって肉に、沈んで」
「……ええ」
「刺したとこから、血が吹き出してさ。苦しそうに唸ってた」

フォランの声は、昼間に耳にした明るく弾んだものとは違い、奇妙なまでに落ち着いていて、抑揚がなく平坦だった。淡々と並べられてゆく事実に、握った手の中、体温のある肉を斬りつける生々しい感触が蘇る。

突き出した槍の先端が、抵抗の少ない柔らかな肉に埋まるそれ。引き抜く時、そこからぶしゃりと赤いものが吹き出す勢い。鉄錆のような、血の匂い。耳の奥に残る、断末魔の叫び。ふっと糸が切れたように地に伏して、二度とは動かなくなった魔物の骸。

うまく、やれると思っていた。
来たるべき日に備えて、鍛錬は欠かさなかった。バーチャルの世界、仮想敵に据えられたサーチビット相手に無傷で戦闘を終えるなんて朝飯前で、タイムアタックのスコアでは競い合うライバル達の中、かなりの上位に食い込んでもいた。
だから、実戦になっても、仮想の世界と同じように。
颯爽と敵を倒して、みんなからすごいなと称賛を浴びる姿を夢想していた。これくらい造作もない事ですわと胸を張り、単騎で敵を蹴散らす自身の姿を描いてわくわくと胸を踊らせてすらいた。
なのに、実際は。
流れた赤い血を呆然と見つめ、手負いのまま向かってくる魔物相手にろくに身体を動かすことも出来ず、その牙が届く寸前、間に割って入ったアルドとデニーによってあっさりと敵は切り伏せられた。シュゼットはそれを、ただただ、見ていただけだった。
大丈夫かシュゼット、心配そうなアルドの言葉にはこくこくと頷くのが精一杯で、それから出てきた魔物にも、うまく立ち回ることが出来ず仲間たちに庇われてばっかりで。
だって、あんなの、あんなもの。

「サーチビットも、合成人間も、学校の授業とかバーチャルで戦ったこと、あったけどさ。あいつら、みんな硬いじゃん。刺したって血も流れないし、機能停止したあとも、機械が壊れた時とおんなじ。もっと無機質で、プログラムで動いてるだけで……生き物って感じ、全然してなかったから」
「……ええ、ええ」
「だから。……生きてるものを傷つけるのが、あんなにこわいことだなんて、知らなかった」
「わ、たくしも」

まるでシュゼットの心の内を代弁するように、フォランの告白は続く。
仮想の世界に据えられた敵も、現実の世界、ハンターたちの末席に加わって合成人間退治に出かけた時も。シュゼットにとって相手は、あくまで機械でしかなかった。硬い部品も、剥き出しのコードも、切りつけても何の液体も飛び出してはこない本体も、ばちばちと火花を散らせて停止するその時まで全て。何もかも命の宿らぬ、無機質な機械を相手にしているつもりでしかなかった。
だから。
魔物とはいえあんな風に、目の前で命が散ってゆく様をまざまざと見せつけられるのは、記憶にある限り初めてのことだった。
初めて体験するはずのそれが恐ろしくて、だけどなぜか妙な既視感もあるような気がして、余計に怖くて怖くてたまらなかった。

もしもこれが、昼間、明るい陽の光の下だったなら。同意する事無く、なけなしの見栄をかき集めて、ちっとも怖くなんてありませんでしたわ、と強がりを押し通したかもしれない。
けれど今は、静かな夜の中。青ざめた顔も、ぎゅっと握った手の震えも、きっと気づかれはしないから。ざぶりざぶり、規則正しく寄せては返す波の音が、柔らかく背中を押してくれたから。
シュゼットは、フォランの言葉を否定することなく、控えめに頷いて同意する。
わたくしも、同じ。伝えればほっと安心したようにフォランが息を吐き出す音がして、良かった、あたしだけじゃなかったんだ、独り言のような囁きに、冷たく強ばっていた指先が少しだけ暖かくなる。

怖かったのは自分だけじゃないか、不安だったところまでシュゼットも同じだった。
だってアルドたちには、躊躇いがなかったから。
向かってきた魔物を全て斬り捨てた訳じゃない。脅しつけて逃げてゆけば、けして深追いはしなかった。
けれど逃げずに向かってくる魔物に対して、手を抜くこともしない。どれを倒してどれを見逃がすか瞬時に判断して、特に人への激しい敵愾心を見せる魔物は確実に仕留めていっていた。剣先が魔物の身体にめりこんでも怯むことなく、流れる血に慄きもしない。
仲間たちはみんな、それをごく当たり前のこととして受け止めているように見えた。シュゼットと魔物との間に入ったみんなの背中が頼もしくて、眩しくて、少しだけ怖くって。一人だけ、取り残されたような気持ちになって。
目の前の出来事を追いかけるのに精一杯で、フォランも同じだったなんて気づく余裕すら持てなかった。

「あたしさ、昔は結構厳しい修行してて、ばーちゃんもめちゃくちゃ怖くって、あれ以上怖いものなんてないって思ってた」

シュゼットの同意で幾分明るくなったフォランの声が、懐かしむような音で言葉を紡ぐ。けれど険しさが和らいだのはほんの一瞬、すぐさま暗く陰の差した声で、ぽつぽつと先を続けた。

「あいつらより絶対、ばーちゃんの方が強いって分かってるのに。ぴりぴり、気迫みたいなもの? それもさ、ばーちゃんの方がずっと、凄かったのに。……でもあいつらさ、あたしたちのこと、殺そうとしてたよね。殺気っていうのかな、あれが。どろっとして、ねばねばして、気持ち悪くて、すごく怖かった。弱いのに、すごくすごく、怖かった」

うん、うん、声を出さないままシュゼットは何度も頷いた。
仮想世界、ベリーハードに設定したサーチビットの群れより、ずっとずっと弱かった筈なのに。平坦な機械音と共に攻撃を開始するそれらからは感じなかった、魔物から向けられるぴりぴりとした空気に、ひゅっと心臓が縮み上がって萎縮した。ざくりと身体を貫くぎらつく視線が恐ろしくって、見返すのが怖くって、戦闘の最中にも関わらず、思わず目を瞑りそうになった。
生々しい殺意の重さを思い出して、かたり、指先が震えそうになる。ぎゅっと握りこんで震えを押さえれば、ぎしり、ベッドの軋む音がして、少し気恥ずかしそうなフォランの声が部屋に響く。

「あのさ。……そっち、行ってもいい?」
「……かまいませんわよ」

一つ間をあけて頷けば、えへへ、と照れくさそうに笑ったフォランが起き上がる音がして、少しも経たないうちに枕を抱えて移動してきて、シュゼットのベッドにするりと潜り込んだ。
外気に触れて冷えた中の空気は、あっという間に二人分の体温で温められ、心地よく指先を包んでくれる。
しばらくはごそごそと身を捩っていたフォランは、ようやく落ち着く格好を見つけたのか、シュゼットの方を向いて横向きになり、ぱちりぱちり、ゆっくりと瞬きを二回してから。
気まずそうにふっと目を伏せると、ねえ、と息の音だけでささやかに呟いた。

「手、握ってもいい?」

ひそひそと空気を震わせた慎ましやかな音に、つられて恥ずかしさを覚えたシュゼットは、言葉で答える代わり、胸の前で結んだ手をそっとフォランの方に差し出しせば、無言のまま柔らかに握られる。
触れた手は温かくて、とくりとくり、血の流れる音がした。
昼間、魔物から流れ出るそれを見た時は恐ろしくてたまらなかったのに、今、それが巡る音を感じていれば、不思議と心が落ち着いてくる。
あったかい、無意識のうちに呟けば、あったかいね、フォランも同じように呟いて、かちりと合った視線が数秒。どちらともなくくすくすと笑い出して、二人の間に横たわっていたぎこちなさがゆるゆると解けていった。

「あれも、びっくりしちゃった。休憩中にさ、ダルニスが鳥、狩ってきて、さくさくって捌いて。なのにだぁれも驚いてなくて、当たり前の顔してたの」
「……わたくしも、驚きましたわ。おかげで何にも食べられませんでしたもの」
「あはは、やっぱお腹すいてなかった訳じゃなかったんだ。あたしも、なんか怖くって食べる気しなくってさ。でも、アルドたちはみんな、ああいうのが普通なんだね」

そうだ、と思いついたようにフォランが話し出したそれも、シュゼットが感じていたものと同じで、うんうんと何度も頷いて同意する。カルチャーショック? ジェネレーションギャップ? びっくりだよね、とおどけた口ぶりで付け加えたくせして、握る手にきゅっと力が入ったから、シュゼットも重ねた手を握りかえして、本当ですわ、と頷いて口元に淡い笑みを浮かべる。
きっと、アルドたちとは共有できない感覚。
同じ時代に生きる者同士だからこそ通じる、不安や驚き。
身の回りのもの、口に入るもの、その殆どが工場で作られているシュゼットたちの時代とは違って、人間以外の命が数多溢れる時代だからこそ根付いている価値観に習慣。良い悪いで語れるものではない、だけど簡単に呑み込むのが難しいもの。
一つ、口にすれば、分かると嬉しそうに頷かれて、一つ、耳を傾けて同じですわと呟けば、その分だけ胸が軽くなる気がした。
あれも、これも、代わる代わる順番に連ねていって、ひとしきり抱えたものを吐き出しあったあと。
ふいにきゅっと唇を引き結んだフォランが、握りあった手をじっと見つめながら、でもね、と口を開いた。

「ほんとは全部、怖いけど。なんでだろう、ここで離れたらだめな気がする。あたしに何が出来るかわかんないけど、アルドたちの旅はあたしたちの時代に繋がってるから。待ってるだけじゃなくて、あたしも、あたしの大事なものを、守りたいから」
「……わたくしも。わたくしも、やめませんわ」

きっと、アルドは無理強いをしない。これ以上戦うのが無理だと伝えれば、分かったと頷いてシュゼットたちを仮初の平穏へと帰してくれるだろう。
けれどその道を選ぶつもりはないと、直前まで不安を吐露していた時とは違って、強い口調できっぱりと宣言したフォランの手をぎゅうっと握って、シュゼットも大きく頷いた。
不安を共有しても、怖いものはやっぱり怖いまま。また魔物に対峙すれば恐ろしさで足が震えるだろうし、噴き出す血潮に慣れる日が来るなんてとてもじゃないけど思えない。
でも、逃げ出したいとは思わなかった。
シュゼットがいなくてもアルドたちの旅は続くだろうけれど、その途中、あの魔物たちのように。命の灯が燃え尽きるのは、アルドたちの方かもしれないから。シュゼットがもしかして、それを救けることが出来るかもしれないから。
魔物に立ち向かうよりも、知らないうちにアルドたちがいなくなってしまう方が余程恐ろしい。シュゼットの守りたいものの中には既に、アルドたちも含まれてしまっている。知らない頃には戻れない。
だから逃げない。逃げられない。逃げたくない。

固く手を握りあい厳かに誓いあって、薄暗い部屋の中、眼前に迫った互いの生真面目な顔にまた、ふふふっと吹き出してから。一つ一つ、胸の内に積み重なった凝りをさらけ出しあってゆく。
怖いもの、驚いたもの、慣れないもの、困るもの。
今日まで二人きりで話したことはなくて、ちっとも親しくはない相手だった筈なのに、何を話せばいいか分からないと悩んでいた少し前のことが嘘みたいに、いつまでもいつまでも話は尽きる事がない。
やがていつしか話はシュゼットたちの住む時代の事に移ってゆき、今回の事が終わったら一緒にカフェでお茶をしようねと約束したところで、ようやく昼の疲れが身体を巡り始め、だんだんと瞼が重くなってゆく。もっといっぱい話をしていたいのに、口を開いても途中で言葉が溶けてぼやけてしまって、うまく喋れない。
それはフォランの方も同じで、そうだ、と紡ぎかけた言葉はむにゃむにゃと不明瞭なまま途切れて、沈黙の中にすうすうと寝息が混じり始めていた。
二人して半分眠りの世界に飛びかけながら、はっと目を見開いて口を開いてはまた眠りかけて。それを何度も繰り返し、とうとう会話を諦めて、そろそろ寝ようかと苦笑いで目を瞑る寸前。
ふわふわとした声で、フォランが切れ切れに呟いた。

「また、こうやってさ、はなし、しようね。いろんなこと、いっぱい」
「しかたないから、つきあって、さしあげま……」

返事は、うまく届いたか分からない。最後まで口にする前に、瞼も唇も持ち上がらなくなってしまったから。けれどぴくり、握りあった手が動いた気がしたから、微睡みの中シュゼットも微かに指に力を込めた。

とろりとろり、優しく二人を包む眠りのヴェールの中。
夢の淵に飛び込んだのは、きっと。
手を繋いで二人、せえので一緒に。