追憶


じっと注がれる視線を感じ、ばっと振り返れば不自然に目を逸らした少女の姿があって、ユーインはまたかと苦笑いを浮かべる。

そう、また、だ。ここ最近なぜだかユーインは、仲間の一人であるナギから、熱い眼差しを注がれている。
心当たりはなかった。共に戦えばそれなりに言葉も交わすが、大した話をした記憶はないし、懐かれるような事をしたつもりもない。
なのに少し前から急に、ユーインの後ろをちょこちょことついてきては、じいっと見つめてくるようになった。

一応、隠してはいるつもりらしい。ユーインが振り返れば、そっぽを向いて見ていない振りをする。けれど身体はユーインの方を向いたまま、真横を向いた顔の角度はあまりにも不自然で、全く誤魔化せてはいない。何もしない方がまだマシなくらいだ。
そんな下手くそすぎる誤魔化しが微笑ましくて、ついつい素知らぬふりで放っておいたけれど、さすがに少しばかり焦れったさも覚え始めていた。折り良く、今日はもうこれで予定は終わり。あとは次元戦艦に乗って、それぞれの時代へ帰るだけだ。ならば、話を聞くには丁度いい頃合だろう。
そうと決めたユーインは、早速行動に移る。皆で次元戦艦に乗り込んでからも距離を開けて後ろをついてきたナギの、振り向いた瞬間に不自然に反らされた顔を、今回ばかりは見逃してやること無く、逃げられる前に大股で一気に距離を詰めた。

「よ、嬢ちゃん」

近づくユーインに気づいたナギは、顔の向きを正面に戻して、僅かに目を見張った。けれど逃げ出す素振りはない。それはナギの目の前に立ったユーインが、腰を屈めて視線を合わせても変わらない。見開いた瞳には緊張の色が浮かんでいたけれど、いつものようにそっぽを向いてしらばっくれることなく、真っ直ぐにユーインの目を見つめ返してくる。

「何か俺に用があるんじゃねえのか?」

瞳は何かを語りたがっていたものの、残念ながらそれを汲み取ってやれるほどに親しい間柄ではない。だから本人から言葉で説明してもらうべく、ユーインが促すように声をかけてやれば、はっとしたナギが、ごそごそと触手の一つの内側に手を突っ込んで、小さな壺を取り出して差し出した。

「これ、あげる」
「なんだ、そりゃ?」
「海ぶどうの壷漬け。おいしいよ」
「おお、また渋いもんを」

唐突な贈り物を貰う理由はユーインの中にはなく、一体どういうことだと訝しく思いつつも、一応は受け取った。これでも武器商人の端くれ、対価の分からない品物のやり取りは仲間内とはいえ気が進まなかったが、受け取らねば話が進まないようだったから。
ユーインの手の中に小さな壺が収まったのを見届けたナギは、うん、と満足そうに頷くと、再び別の触手の内側をごそごそと探り、今度は一冊の本を取り出した。

「それあげるから、これ、読んでほしい」

それは、一冊の薄い絵本だった。本来の年齢は知らないものの、ナギの見た目は十代前半から半ばの少女に見える。けれどナギの手の中の絵本は、もっと幼い子供に読み聞かせてやるような類のもののようだった。
しかしユーインは、そのちぐはぐな組み合わせを指摘することなく、分かった、とあっさり頷いて適当な場所に移動しようと提案する。理由を尋ねることなく頷いたユーインに、むしろナギの方が驚いた顔をした。
どうして突然、ナギがユーインにそんな頼み事をしてきたのか、与えられた情報だけで何もかも分かった訳じゃない。けれど絵本を両手で握りしめ、ユーインに向けて差し出すナギの瞳が、迷子の幼子のようにひどく稚く、張り詰めているように見えたから。
それだけで、ナギの頼みを受け入れるには十分だった。


連れ立って向かったのは、近くにあった船室の一つ。先にユーインが中に入り、適当な椅子に座って手招きを呼べば、ととと、とナギも走り寄ってくる。
ぺんぺん、と膝を叩いて座るか? と尋ねたのは、半分は冗談だった。しかしさすがに嫌がるかと思ったのに、ナギはきらきらと目を輝かせてユーインの膝と顔を交互に見つめる。

「……いいの?」
「お前さんが嫌じゃなきゃな」
「嫌じゃない……ありがとう」

年頃の娘を膝に乗せるのは少々外聞が悪い気もしたけれど、そんなに喜ばれては今更嘘だなんて言えようはずも無い。それに、いそいそとユーインの膝に登って、もぞもぞと動き座り心地のいい体勢を探すナギは、やっぱり見た目よりも随分と幼い子供のようにしか見えなくなっていたから、まあいいかと好きにさせることにした。

絵本の内容は、暴れん坊の海魔王を海底人の勇者がこらしめて、最後はみんなで手をとりあってめでたしめでたしで終わるもの。見た目から判断した通り、幼い子供に向けた平易な言葉で綴られていて、それほど長い話でもない。さして時間もかかることなく最初から最後まで読み終えれば、もう一回、とねだられる。
それを、三度繰り返してから。ふう、と満足そうな息を吐き出したナギが、ぽつり、と小さな声で呟いた。

「オトヒメ様が、昔、こうやって読んでくれた」

なんとなく、予想はしていた。しかし改めてナギの口から語られて、予想が確信に変わる。
ナギがアルドたちの仲間になったのはユーインよりも前のことで、ナギたちと竜宮城に纏わる顛末については伝え聞いた話でしか知らない。それでもオトヒメと名乗った男がナギを拾ったこと、紆余曲折を経て彼と決別したことくらいは聞きかじっていた。
彼と対立する道を選んだのはナギ自身だとはいえ、共に過ごした期間は確か、十年近くもの間だった筈だ。そう簡単に割り切れるものではないだろう。

「パンドラの匣に取り憑かれてからは、あんまり話もしてくれなくなったけど、でも、昔は私にいろんな事を教えてくれた。パスタも作って食べさせてくれた。美味しかった。……また、食べたい」

ぽつぽつとオトヒメについて語るナギの声には、恨みの色は宿っていない。懐かしさと恋しさと寂しさが入り交じる、しんみりとした声音だった。
匣に異様に傾倒してゆくオトヒメを止めようとしてから、関係は悪化してしまったようだけれど、それまではそれなりにオトヒメもナギを可愛がっていたらしい。思い出の大半は食べ物に纏わるものだったものの、あれを作ってくれた、これも作ってくれた、と料理の名前を並べてゆくナギの声は分かりやすく弾んでいて、時々、ごくり、と唾を飲み込む音まで聞こえてくる。一度はぐるると腹の音まで鳴った。
見かねてつい先程貰ったばかりの海ぶどうの壷漬けを勧めてやれば、対価だからと一度は遠慮したものの、重ねて勧めれば二度目はあっさりと頷いた。そして待ちきれないようにぽいぽいと口の中に漬かった海ぶどうを放り込んでゆき、壺が空になると悲しそうな顔で中を覗き込む。あんまりに悲壮感漂う表情に吹き出しかけたユーインが、試しにと懐からいくつか甘味を取り出してやれば、涎を垂らさんばかりにじっと見つめていたから、包みを剥いて渡してやった。
ユーインの携帯甘味を三分の二ほど腹に収めたところでようやく、満足そうに息を吐いてぽんぽんと腹を叩いたナギは、ちらりとユーインを見上げて、ありがとう、と囁いた。
これくらい大したことじゃねえよと笑えば、ううん、と首を振ったナギがもう一度、ありがとう、と今度ははっきとした口調で告げる。

「ユーインはオトヒメ様とちょっとだけ似てるから、絵本読んでくれたの、懐かしくて嬉しかった。ありがとう」
「ああ。……ちなみにどんなところが似てるんだ?」
「裸なところ。あと、髪が長いところ」
「裸ってお前な……まあ構わねえけどよ」

些か誤解を招くナギの言葉に、ひくりとユーインの口元が引きつったけれど、ナギの表情にからかいの色は見えない。
そう言えばアルドたちは、竜宮城にまつわる話をする時、オトヒメのことをしょっちゅう半裸の男呼ばわりしていた。半裸の男が女の人達を誘拐した、と聞いた時は、どこの変質者の話だと思った記憶がある。
それと同じ扱いは正直いって遠慮したいところだが、ナギの心做しか嬉しそうな顔を見てしまえば、湧き上がりかけた文句を胸先に収めるくらいの度量はあるつもりだ。

「オトヒメ様、元気かな……元気だといいな」

しばらくユーインの顔を見上げて、ここが似てる、あそこも似てる、ここは似てない、と共通点を探していたナギが、ふっと表情を陰らせて、遠くを見つめる瞳でぼんやりと呟いた。
オトヒメはアルドたちとの戦いから、瀕死の体で逃げ出したと聞いている。オトヒメ様がよくない事をしてたのは分かってるけど、と言い訳のように前置きをしたナギは、それでもやっぱり元気でいてほしい、会いたい、と、きゅっとユーインのマントを握りしめながら、痛みを堪えるようにひそりと呟いた。その表情からは先程までの幼さが拭い去られ、ひどく大人びた憂いが色濃く浮かんでいる。

「生きてりゃあ、いつか会えるだろうよ」

ユーインは、話に聞くオトヒメの事しか知らない。だからナギにかけてやれる言葉なんて、殆ど無いに等しいのだけれど、それでも。
生きてさえいりゃあ、いつか会える。
しみじみと呟いた言葉には、意図せず悔恨と羨望が滲んでいた。すぐさま笑って取り繕おうとしたけれど、うまくいかなくて少し、唇が震えた。
そんな、ユーインの纏う雰囲気の微妙な変化に気づいたのか、マントを掴む手の力がますます強くなる。気取られぬようにナギをこっそりと見れば、不安と心配の入り交じる顔でじっとユーインを見つめていたから、ぐしゃぐしゃと自身の頭を掻きむしり、ついでにナギの頭もぐりぐりと乱暴に撫でてやる。

「それまでは俺がまた、絵本でも何でも読んでやるよ」

半分は沈みかけた空気を変えるための言葉。けれど半分は、本心で形作られているそれを耳にしたナギは、途端にぱっと表情を輝かせると、微かに目を細めてユーインの掌にぐっと頭を押し付けてきた。もっと撫でてと言わんばかりに、ぐいぐいと突き上げるナギの頭を、よしよしと撫でるうち、その表情に少年の顔が二重写しのようちらりと過ぎる。
それは、憎らしくて許せなくてやるせなくて、だけど捨てることも出来ず、遠い昔に染み付いて住み着いたままの、幼いユーインの顔をしている過去の亡霊だ。
何もかもを失い絶望に沈み、途方にくれた迷い子のような顔をしたその少年が、ナギの微笑みに重なり、一瞬、くすぐったそうに笑ったように見えた。
まるで親に甘える子供のように、幸せそうに、嬉しそうに。
きっと彼を許せる日は来ないだろうけれど。
欠け落ちた心の虚ろが、ほんの少しだけ埋まった気がした。