泡沫の邂逅
ひやりと冷えた夜の空気の中、流水の音だけが響くアクトゥールの街。張り巡らされた水路に沿って、ゆっくりと歩く一人の男の姿があった。時折指で宙に何かの文様を描きながら、注意深く水面を観察するその男の目元は仮面で覆われている。周りからレイヴンと呼ばれる男は、その名が示す黒い鳥のように、ひっそりと夜の闇に溶けて馴染んでいた。
道連れどもは、未だ夢の最中。レイヴンも少し前までは彼らと同じ部屋で眠っていたが、元々あまり睡眠を長く必要とはしない性質、ただ漫然と眠ってやり過ごすには夜は些か長すぎる。やつらに付き合って陽が顔を出すまで寝ている気にもなれず、ひと足早く目覚めたレイヴンは、街を眺めて時間を潰す事にした。
アクトゥールの水路には、以前から多少の興味があった。昼間は人の気配に紛れているけれど、水路からは微かな魔法の気配がしていたから。
恐らくは街の守護に関するものだろうと当たりをつけていた通り、人気のなくなった街の中には、魔物避けの効果を有する魔力の香りがうっすらと漂っている。それ自体にはさして惹かれなかったが、街を巡るうちに水路そのものが大きな陣となっていると気がつけば、話は変わってくる。
足で辿った水路の形を宙に魔力で書き出して繋げ出来上がったものは、知識にある様々な効果を備えた魔法陣とは、成り立ちからしてまるで違っている。辛うじて思い当たるのは、失われてしまった過去の魔法に関するもの。しかしさすがに何の文献も資料もあたることなく、この場で詳しい解析するのは骨が折れそうだ。
魔力で編んだ陣を懐から取り出した紙に焼き付けて記録してから、レイヴンは一先ず宿へと戻ることにする。短い夜の散歩の割には、なかなか悪くない収穫だった。仮面に隠れた顔色は変わらぬままだったが、レイヴンの機嫌はいたく良かった。
けれどレイヴンの上機嫌が続いたのは、宿が見えるまでのほんの短い間のことだった。
宿の前を流れる水路の前、精霊の火の灯る街灯の下。一人の男の姿を見つけたレイヴンは足を止め、仮面から覗く瞳に警戒心を宿らせる。
もう少し近づけば、それが知らぬ誰かではなくアルドだと分かる。しかしレイヴンの警戒は緩むことなく、瞳に灯る光はますます険しさを増すばかり。
なぜなら、それはアルドの形をしているのに、アルドではなかったから。声をかける前から、レイヴンは確信していた。アルドの魂の気配はするものの、ぼんやりと立ち尽くすその男の発する雰囲気がアルドのものとは違うと直感で悟ったレイヴンは、男に近づきすぎることなく離れた場所から鋭い声を投げつける。
「貴様は、誰だ」
大声を出したつもりはない。けれど静かな街の中、それは真っ直ぐに闇を切り裂いて男の元へと届けられる。
アルドの形をした男は、振り向いてレイヴンの姿を認めると、こてりと首を傾げてぽつりと呟いた。
「僕は、ぼくは……誰だろう、分かんないや」
「ふざけているのか」
「ふざけてないよ。ほんとに、わかんないんだ……」
アルドではないのは間違いない。男の素振りから判断したレイヴンは、返ってきた言葉に表情を歪める。なんとも舐めた答えだったが、嘘をついているようにも見えない。どこか困惑したようにレイヴンを見つめる男は、まるで迷い子のような頼りない顔をしている。
アルドによく似た男を見つけたレイヴンがまず疑ったのは、オーガベインのこと。つい先日のオーガとの戦いの中で、オーガベインがアルドの体に入り込み主導権を奪おうとしたのだとの話を聞いていたから。そして一度あることは、二度三度あってもおかしくはない。かの存在がまた何か良からぬことを企んでるのではないかと思ったからこそあれほど警戒していたのに、どうにも様子がおかしい。
オーガベインが演技をしているにしては、目の前の男が浮かべる表情は、稚く無防備だった。無防備なのは表情だけではない。立ち姿からして、男は隙だらけだ。油断を誘うためのわざとらしい隙ではなく、戦い方を何一つ知らないような、それこそ幼子のような無防備さは、オーガベインどころか馬鹿みたいにお人好しで愚か者のアルドよりも危うく見える。
不安そうにしているくせに、レイヴンに危害を加えられるとは欠片も思っていない。夜の闇の中から、悪しきものが襲ってくる可能性を微塵も考えてはいない。オーガベインの擬態と判断するには、あまりにも何もかもが足りてはいなかった。
「どうやって、そいつに入った」
「うーん? ええと、気づいたら……?」
もう少し距離を詰めても大丈夫そうだと判断したレイヴンは、数歩近づく。男が逃げる素振りはない。そして近づけば近づいた分だけ、新たなものが見えてきた。アルドによく似た形をした男の手の甲には、昼間の戦闘でついたかすり傷がある。大したことないからと、治療すらせずに放っておいたもの。
元よりアルドの魂の気配を纏った男、その可能性は低いと踏んでいたが、これで人ではない魔の類がアルドの姿を写している線が消える。ああいったものは、上っ面の姿を借りても細かな傷まで取り込むことは基本的にしない。つまり目の前の男の中身はともかく、その体はアルド本人のものであると考えてまず間違いないだろう。
面倒なことになったなと、仮面の下で渋面を作ったレイヴンは小さく舌打ちをする。オーガベインでもない、魔でもないとなれば、残った可能性の中で最も確率が高いのは、何か、おそらくは霊が、アルドに取り憑いているというもの。しかもその何かの言葉を信じるには、本人ですら自分の状況を把握してはいない。こういう手合いは、体から追い出すのが面倒くさい。
更にはネクロマンサーであるレイヴンをしても、それとアルドの魂の境目を感じ取る事が出来ない。注意深く探れば微かにアルド以外の魂の気配を感じるのに、いっそ不自然なほど自然にアルドの魂と混ざりあって馴染んでいて、強引に引き剥がす事も難しい。
どうするか、レイヴンはしかめ面のまま考え込む。放っておくという選択肢はなかった。
奇妙な扉の向こうで出会った、強烈な光と生の気配のする魂をしているくせに、その道行きに常に闇と死の匂いがつきまとう男。相反するそれらを内包した男が果たしてどんな末路を迎えるのかと興味をそそられ、旅を共にするようになった筈だったが、アルドの愚かしい行動を目の当たりにするうち、いつしか自身もまた愚か者になりつつあるらしい。少なくともこのまま正体の分からぬ霊にアルドが取って代わられるのを許容出来ない程度には、アルドとの旅を悪くないものだと思ってしまっている。全く、何とも愚かで馬鹿馬鹿しいことだ。
「大丈夫だよ、安心して。分かんないことばっかりだけど、分かることもあるんだ。たとえばこのこが、僕にとってもすごく大事な存在だってこと」
だからこのこに危害を加えるようなことは、絶対にしないよ。
黙り込むレイヴンに何を思ったのか、とんとん、と胸を叩いてアルドの体を指し示したそれは、へにゃりと笑って見せた。やはりアルドの笑い方とは違う。アルドよりも少し気弱な影がちらついていて、顔も体もアルドのものなのにどこか線が細く見える。
このこ、とアルドを指し示すそれの口振りには親愛が滲んでいて、何も分かっていないとは言いつつもアルドの事を以前より知っている風があった。
しかしそれだけでは、それの正体を掴むには至らない。なにせアルドだ。放っておけばよいものを、すぐに何にでも首を突っ込んでゆく愚かな男だ。そのせいでこの時代で生まれた訳でもないくせにやたらと顔が広く、街を歩けば以前助けた誰かに親しげに声をかけられ改めて礼を言われるなんて珍しくもない。アルドのこと、それが死霊にまで及んでいても、驚くどころかまたかと呆れるだけで済んでしまう。
「多分、だけどね。陽が昇ったら、ちゃんと僕からこのこに戻ると思う。そんな気がするんだ」
続いた正体不明のそれの言葉を、何もかも信じた訳じゃない。けれどそれの言い分にも一理あった。
死霊たちの力が増すのは夜の闇の中で、総じて陽の光に弱い。無理に引き剥がそうとして、今のところ大人しくしているそれが変質しないとも限らない。ならばこのまま朝を待つ方が良いだろう。
「……仕方ない、朝までは見逃してやる」
「ありがとう。それで、あの、……陽が昇るまで、僕とお話してくれないかな?」
「……貴様と話すことなど、何も無い」
「うっ、ううう……えっと、ええと、……あっ! じゃあね、このこの話、聞かせてほしい。……それもダメ?」
見やった街の外、山の端が白む気配はまだない。それから目を離すつもりはなかったが、親しくするつもりもなかった。下手に言葉を交わして、この世に未練を持たせても面倒だ。沈黙も特に苦にはならない。
だからこのまま、朝まで無言を貫くつもりだったのに、それはおどおどと話しかけてくる。
聞き入れてやる必要はなかった。けれど気弱な風に見えるのに、すぐに諦めることなく食い下がったそいつの相手をしてやることに渋々決めたのは、死霊を成仏させる術の一つに、心残りを無くす方法があったから。構って未練を持たせるのも厄介だが、相手をせずに心残りを抱えて居座られても都合が悪い。
チッと舌打ちをすれば、それの肩が跳ねる。くしゃりと歪んだ顔は、今にも泣き出しそうだった。けれどレイヴンは特にそれを気遣う言葉をかけることもせず、さっさと街灯近くの石段に腰を下ろす。
「……さっさと来い、そいつの話をしろと言ったのは貴様だろう」
「えっ! ……うん、ありがとう!」
突っ立ったままのそれを促せば、ぱあっと笑って駆け寄ってくると、隣に座ってにこにこと笑う。現金なそれの様子に呆れ、呑気な笑顔に苛つきはしたけれど。つい先程まで浮かべていた、アルドにはまるで似つかわしくない怯えた顔つきよりは、そちらの方が幾分かマシだった。
不本意で始めた話だったが、しかし案外悪いものでもなかった。
レイヴンから見たアルドのこと、度し難い愚か者の愚かな旅路について、悪態混じりに話してゆく。饒舌ではないし、過度に賛美したりもしない。あくまで事実に基づいたアルドの行動は、改めて振り返ってもやはり愚かだとしか思えず、記憶の中のレイヴンもそれを語るレイヴンもうんざりしている筈なのに、不思議と途中で話をやめる気にもなれない。
もしかして、話を聞くそれが静かに耳を傾けていたのがちょうど良かったのかもしれない。煩く騒ぎ立てることもせず、けれど程よく相槌を打って控えめな感嘆の息を漏らし、時折くすりと小さく笑う。話をするのがそれほど好きではないレイヴンをして、話しやすいと思わせる空気があった。
じろり、途中で一度、横目で見やったそれは、ひどく穏やかで凪いだ笑みを微かに口の端に浮かべ、細めた瞳に柔らかな光を灯している。その大人びた表情は、先刻、幼子のような稚い様を見せたそれと同じものとは思えない。
掴みきれない雰囲気にますます油断が出来ないと思う一方、どうしてか警戒心を剥き出しにする気にもなれなかった。認めるのは非常に不本意で業腹ではあるけれど、アルドとは確かに違うそれの細めた目に宿る光が、フィーネを見つめるアルドと同じ色を。警戒するのも馬鹿馬鹿しくなるような、底抜けの愚か者と同じ顔つきをしていたせいだ。
紡ぐ言葉と共に時間は過ぎてゆき、やがて朝が近づいてくる。ちょうど三つ目の話を終えた頃、僅かに暗闇が白み始め、振り返れば夜の中に淡く稜線が浮かんでいた。
それの言葉を信じるならば、もうそろそろだろうか。
口を噤んだレイヴンが隣の様子を窺えば、思い出した、と、静かな声でそれは言う。
「僕は、ずっとこのこの中にいたんだ」
突然の告白に、どういうことだ、尋ねる前にそれは先を続ける。
「あなたの話に覚えがあって、どうしてだろうって考えたら、このこの中から一緒に見てたからだって気がついた」
そこでそれは一旦言葉を区切り、レイヴンを見つめて小さく笑った。
「前にこのこと僕が一つになってまた別々になった時に、僕の欠片がちょっぴりこのこに混じったんだ。欠片の僕はすっかりこのこになったつもりだったから、混じってる事にすらちっとも気づいてなかったんだけどね」
もしや、とここに至ってようやく、レイヴンはそれの正体に行きあたる。抽象的にも思える話は、以前アルドから聞いた話、アルドが消えた時間の事を思い起こさせた。
妙にアルドの魂と馴染んでいたことについても、その説明で合点がゆく。憑いたのではなく混じっていたのなら、境目が分からないのも道理だろう。感じていた不自然さと違和感が、そのままそれの話に真実味を与え、すとんとレイヴンの中に落ちついた。
「この前、このこの中に黒くてどろどろしたものがいっぱい流れ込んできたんだ。その黒いものに弾かれて奪われてかき乱されてるうちに、僕の欠片の一部がこのこから離れちゃったみたい」
そこまで話すと、それは少しバツの悪そうな顔をする。そっと目を伏せて、小さな声で恥じるようにぽそりぽそりと囁いた。
「……このこに代わるつもりはなかったんだよ。だけどこのこと少し離れちゃったから、気づいたらぽんって僕だけが表に出ちゃってて……。何にも分かんなかったのも、嘘じゃないよ。表に出た衝撃で、自分が何なのか忘れてたんだ」
オーガベインのように、それがアルドに成り代わろうと目論む可能性は十分にあった筈だ。ほんの欠片であれば成り代わるには魂が足りずとも、企むことは出来る。それの言葉が真実だとの保証は何も無い。
けれどレイヴンは、それの言葉を疑うことはしなかった。
なぜなら。
いよいよ明るみ始め、はっきりと見えてきた街の形。
そろそろだ、と呟いたそれは、最後にレイヴンを見て笑ったのだ。
「このこのこと、よろしくね」
――僕の、とても大切な仔だから。
もしも。もしもそれが最後に自身の事に触れれば、疑ったことだろう。疑うことが出来たことだろう。
けれどそれが告げたのは、アルドの事だけ。フィーネを見つめるアルドと同じ瞳で、我が身も省みず愚かにも何もかもを救おうとする手の持ち主と同じ顔で、アルドの事を頼むとそれだけを託してゆく。
既にレイヴンは、知っていた。そんな顔をした愚か者は、見ていて腹立たしくなるほどに、誰かのことしか考えていないことを。自らの保身と誰かの安寧を天秤にかけ、迷うことなく後者を選びとることを。嫌というほどに、思い知らされていた。疑うことすら馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるほどに、何度も見せつけられてきた。
初めのうちはアルドとはまるで違う顔をしていたくせに、そういうところだけは吐き気がするほどそっくりだ。
最後の一音を口にしたと同時、太陽が顔を出し一際強い光が街を照らし、それががくりと崩れ落ちる。石畳に転がった体はやがてしばらくしてもぞもぞと動き始め、はっとした様子で体を起こした時はもう、それはアルドに戻っていた。
「ええっ?! な、なんでオレ、こんなとこに……あっ、レイヴン! なあ、どうしてオレがここにいるか知ってるか?」
「……ふん、寝惚けたんだろう」
一瞬、何もかも明かしてやろうかとは思ったが、素知らぬ顔で誤魔化すことにする。既に探ってもそれの気配はどこにもなく、アルドの中に戻ったのか、本体とやらに還ったのか、それとも形もなく消えてしまったのか、判断がつかない。レイヴンの見立てでは、それは殆どアルドに馴染んでいて、他の何かと繋がっている気配はなかったから、捉えたとして本体の居場所は掴めない筈だ。
しかし告げてしまえば、確実にアルドは動く。幽冥の刻に現れた泡沫のようなそれを、躍起になって掴もうとして、ありもしない幻影を追いかけることだろう。無駄だと分かっていて振り回されるのはごめんだ、面倒くさい。
……けして。真実を告げられたアルドが万が一、思い悩んだ末に亡霊のような影に自身を渡す決断をする可能性を、忌避した訳じゃない。恐らくは表では長く人格を保つことすら出来ないだろう薄い魂の欠片のそれに、全て渡そうとして上手くゆかず無駄に魂を傷つけて、場合によっては今度こそオーガベインに隙をつかれて何もかも呑み込まれてしまう。そんな、アルドもそれも不幸にしかならない結末を迎える未来を、危惧した訳じゃない、けして。
しばらくは不思議そうに首を傾げていたアルドだったけれど、仕舞いには「レイヴンが言うなら、そうなのかもな」と頷いてあっさりと納得してしまう。誤魔化したのはレイヴンだが、さすがにもう少し疑ったらどうかと呆れてしまった。全く、本当に。どうしようもなく、愚かな男だ。
一応の理由が見つかれば、気が抜けて睡魔が襲ってきたらしい。ふわあ、と大口を開けて気の抜けた欠伸をして、もう少し寝てくるな、と既に半分とろりと意識の飛んだ声で告げたアルドの、宿へと戻る背中をじっと見つめる。
それの気配は変わらず見つけられず、どこへ行ったのかは分からないまま。
消滅している可能性も少なくはない。けれどもしも、アルドの中に戻ったそれがまだ存在しているのなら。またいつか、何かの折にひょいと顔を出したなら、その時は。
(エデン、だったか)
それの名を呼んでやるのも、悪くはないかもしれない。アルドに聞いたそれの本体の名を脳裏に浮かべながら、気まぐれを思いつく。
何の意味もない、戯れのようなものだ。本体からはぐれた欠片であるそれに呼びかけたところで、何かが変わる訳じゃない。本体へと影響を及ぼすこともなければ、アルドがずっと探している目的の場所が見つかることもないだろう。
けれど。おそらく、あれは笑うだろうから。アルドと全く似てはいなくて、忌々しいほどよく似ていたあれは、名を呼ばれて嫌な顔はしないだろうから。
なんとも馬鹿馬鹿しい話だ。いかにもアルドが好みそうな、くだらない行為だとも思う。愚か者に毒されて、随分と愚かになったものだとレイヴンは自嘲する。
しかし皮肉げな笑みを浮かべる唇とは裏腹に。
仮面から覗く瞳は、どこか楽しげな色を湛えて朝の光に煌めいていた。