彼とみる夢


それを悪夢と称するには、どうにも躊躇いがある。
悪いものと言うには悪意が微塵もなく、山も谷もなくひどく平坦で凪いだ闇しかないそれは、ただ恐ろしく寂しいだけの夢だ。
真っ暗に塗り込められた視界の中、意識だけがやけにくっきりと浮き彫りになるのは、風のない真夜中の砂漠の真ん中、ぽつりと独りで立っているような心地に似ていて、それよりももっと果てしない途方もない孤独に近い。
寂しくて心細くて不安で切なくて、なのにどこか懐かしくて温かくて、寂しさに耐えかねて早く夢から覚めたいと願うのに、目覚めてしまうのが名残惜しいとも思ってしまう、そんな不思議な夢だ。

幼い頃から時折見ているそれは成長しても変わらないまま、訪れはいつだって唐突で不規則に。良いことがあった日にもツイていない日にも見たことがあるから、どんな基準でその夢を見るのかは分からない。
けれど多少変わったことがあると言えば、夢を見る頻度が増えたことだろうか。以前はおおよそ月に一度程度だったのに、最近では週に一度の割合で見るようになっている。夢を見る回数が増え始めたのは、バルオキーから出て時空を超える旅を始めた時期と一致している。
夢の領域にはマイティが詳しいから、相談してみようと思った事がない訳では無いけれど、もしも原因が見つけられてしまって二度とその夢が見られなくなってしまったら、想像すれば二の足を踏んでしまう。
その夢をみた朝は寂しさで胸が潰れそうに痛くなるけれど、いらないものだと振り払う気にはならない。ぎゅつと握り潰されたようにひしゃげた心は悲鳴を上げるのに、どれほど痛くてもそれを手放した方がよほど取り返しのつかない事になってしまうような気がしてならなかった。

それを見る日は、なんとなく直前に気配を察する。
ベッドに入って目を瞑ったと同時に、ひたひたと足先から満ちてゆく睡魔が、いつもよりも形を持ってアルドの形をなぞってゆくのだ。そうして睡魔がぴったりとアルドの形に重なると、意識は夢へと引きずり込まれてゆく。
夢の中で見えるのは、闇だけ。見えていると言っていいのかも分からない。明かり一筋もなく、自分の輪郭さえ見えない、息苦しいほどの闇に何もかもが包まれて覆われている。そこに在るだけで嫌でも不安を掻き立てられるような、どろりとした重苦しい闇だ。
けれど夢の中のアルドは慌てない。随分と幼い頃は、闇が恐ろしくて泣きじゃくったり、大声を張り上げて駆け回ってみたりもしたけれど、そうすれば余計に恐ろしさは増すばかりだと知っている。
だからアルドはその場にしゃがみこんで、ぎゅっと自分の膝を両腕で掻き抱き、その膝に額をくっつけて目を瞑った。どれほど目を凝らしても何も見えない闇の中で何かを見ようとすれば、見えないことへの焦燥が募ってゆくばかり。だったら何も見ようとしなければいい。暗いのは、目を瞑っているから。そう言い聞かせれば、少し、不安が和らぐから。指先に伝わってくる自分の足の形が、境さえ溶けてしまったような闇の中、自分が確かに在るのだと知らしめてくれるから。

夢だから、だろうか。膝を抱える腕に力を込めるうち、ふとその手の中にあるものに、自分ではないものの気配を感じ始める。誰かを抱きしめているような、誰かに抱きしめられているような、不思議な気分になってゆく。
これがもし現実だったならば、もしかして恐怖を覚えたかもしれない。自分の形を確かめるためにかき抱いたものが、手の中で別のものに変わってゆくのだから。
けれどここは夢の中、不思議なことが起こって当たり前なのだ。そう夢の中のアルドが理解しているからなのか、恐怖は露とも現れず、恐れるどころかひどく安心してしまう。
心の中にじわじわと安堵が広がってゆくにつれ、少しだけ腕の力が抜ける。ふ、と吐き出した息には、誰かの小さな笑い声が混じっているような気がした。

けれどここで安心しきって、目を開いてはいけない。そうすればまた、何も見えない闇の中に取り込まれてしまうと知っている。これはそういう夢だ。
まだしばらくの間、終わることも無い。何度も何度も繰り返し見てきたから、その闇が晴れる事はけしてないのだとよく知っている。
だからアルドは目を開けて立ち上がる代わり、閉じた瞼の裏に大事なものを思い浮かべてゆく事にしている。

鼻歌を歌いながらシチューの鍋を掻き回すフィーネの後ろ姿、アルドの頭を撫でる爺ちゃんの皺々の大きな手のひら、珍しくアルドの肩に飛び乗ってすりすりと頬擦りをするヴァルヲの髭の形。
一発で獲物を射止めるダルニスの弓、鍛冶場で大きく振りかぶったメイのハンマー、微かに震えながらも皆の前に立って魔物の注意をひくノマルの鎧姿。
ピンク色の髪をぐるぐると回して胸を反らすリィカの光る瞳、バネのように飛び出して果敢に魔物へと向かってゆくエイミの背中、ケロケロと笑ってぷくりと膨れるサイラスの頬袋、仲間と話している最中に時折薄く弧を描くようになったヘレナの唇。
からからと陽気に笑ってアルドの背を叩くデニーの笑顔、ぐっと拳を握りしめきりりと引き締まったロキドの口から覗く牙、まるで踊るように戦うニケの刀の滑らかな軌跡、上機嫌にぴょんぴょんと跳ねるレレのとんがり帽子。うとうとと微睡むマイティのつむじからぴょんと跳ねた毛先、不"しゃしん"を撮る不思議な板を握るフォランの丸い爪、ゴーグルを装着して風の魔法を操るセヴェンの杖先、眼鏡をくいと上げる癖のあるクレルヴォのはためく白衣の裾。

一人一人、仲間の姿を浮かべていれば、ふいに奇妙な感覚に襲われる。瞼の裏に浮かべたのは確かによく知った仲間のものなのに、初めて見るようなおかしな感覚。
だからアルドは、少しばかりその仲間について心の中で詳しく語り始める。誰かへと向けて。

――この子はマリエルっていうんだ。回復魔法が得意で、猫が好きで、すごく優しい女の子だよ。ずっと神殿で暮らしてたらしくって、ちょっと世間知らずで心配になるところもあるけど、頼もしい仲間なんだ。最初の頃は……

誰に向けて語っているのか、アルド自身よく分かってはいない。けれど感じている誰かの気配が、アルドの見せる仲間の姿を楽しんでいる気がして、新しく仲間になった彼らの話をしてやるとじっと耳を澄ませて聞いている心地があって、もっともっと、何もかもを見せて聞かせてやりたくなってしまう。

――こっちは、シュゼット。魔界? 転生? よく分かんないけどそういうのが好きで、ちょっと変わってはいるけど、この子もすごくいい子なんだ。甘いものが好きで、お菓子を食べてる時はすごく幸せそうな顔をしてる。そういえばこの間……

アルドが仲間の話をするうち、二重写しのように感情に重なっていた知らない人間を見る気持ちが、よく知った仲間への親愛に馴染んで同化してゆく。それを実感するたびに無性に嬉しくなって、同じくらい、泣きたくなった。

――彼はブリーノ。ダークエルフで、ユニガンで騎士をやってる。ちょっと素っ気なくみえるところもあるけど、でもそれは危ないことに周りを巻き込まないようにしているからで、根は優しいやつだよ。そうだ、ブリーノっていえばさ、ソイラと……

そうして仲間たちの話をするうち、ふとアルドはおかしなことに気がつく。
夢を見る頻度は週に一度、けれどマリエルが仲間になったのはひと月ほど前のことで、シュゼットとブリーノだって前回この夢を見たより以前に仲間になっていた筈だ。
それなのにどうして彼らのことを思い浮かべた時、初めて見るような気がしたのだろう、疑問を抱いた瞬間。

かちり、音がして。
閉じた記憶の、鍵が開いた。

――そうだ。

夢の時間には限りがあって、いつもいつも、仲間をみんな紹介する前に終わりが来てしまって、なのにオレはいつもそれを覚えていられなくって、毎回夢を見る度に最初から始めてしまう。だから時間が足りなくなっちゃうのに、それを僕が思い出すのはいつも、夢の終わりが近づいてから。
……僕? そうだ、僕は僕だ。
抱きしめた腕の中、自分の形だと思っていたものは僕のものじゃなくて、僕の大事な、大事な。

急速に夢の終わりが近づいてくる。まるで全てを思い出すことを阻むように。
いつの間にか抱えた膝は消えていて、首根っこを掴まれたようにひゅっと体が持ち上げられ現実に向けて引き上げられてゆく。

待って、まだ起きたくなんてない、まだずっと彼と一緒にいたいのに。こんな闇の中に君を残してなんていきたくないのに。
だって起きたら僕は夢の大半を忘れてしまって、君の事を持っていけない。ただ、途方もない寂しさしか抱えてゆけない。
そうだ、君が僕の代わりに起きればいいんだ。
だって僕の形は君の形で、これは僕の夢で君の夢だから、僕じゃなくって君が起きたっていいはずだ。君の代わりに、僕がここにいたっていいじゃないか。
ねえ、ほら、僕の手に掴まって、はやく、はやく、はやく!

必死で彼に向かって語りかける言葉は、けれどもう、人の言葉になってはくれなくて。伸ばした前足は、虚しく闇を掻いて何も掴んでくれやしない。
せめて、せめて、最後に彼の名を呼べば。
押しつぶされそうな闇の中、にゃああ、猫の鳴き声だけが響いて消えた。



いつもの夢を見た。
寂しくて心細くて不安で切なくて、なのにどこか懐かしくて温かくて、寂しさに耐えかねて早く夢から覚めたいと願うのに、目覚めてしまうのが名残惜しいとも思ってしまう、そんな不思議な夢を。

「お兄ちゃん! 朝だよ、起きて!」

フィーネの声と共にカーテンの開く音がして、瞼を朝の陽の光がさあっと撫でた。目を瞑っていても分かる眩しさに眉を顰めると同時、つきつきと切なく痛む胸にぼやけた思考がみるみるうちに明瞭さを取り戻してゆく。
のろのろと体を起こして目を開ければそこにあるのは、見慣れた部屋。もう、夢の中ではない。それを認識した途端、胸の痛みがぶわりと膨れ上がる。まるで剣で刺し貫かれたように痛くって、狂おしいほどの寂しさが心をしくしくと締め付ける。ぐっと奥歯を噛み締めなければ叫び出して泣き喚いてしまいそうなほど、暴力的な寂しさの嵐が体中をかけめぐる。

けれど。

「おはよう、お兄ちゃん」

窓に向かっていたフィーネが、振り返ってたった一言、朝の挨拶を口にするだけで、すうっと胸の痛みが落ち着いてゆく。夢の残滓が引いてゆき、朝の光の中に連れ出してくれる。寂しい夢を、優しく終わらせてくれる。

「ああ、おはよう、フィーネ。……おはよう」
「二回も言わなくても聞こえてるよ、変なお兄ちゃん」
「ん? 二回言ったか?」
「言ったよ! もう、寝ぼけてるの?」

ほっと息を吐き出しながらフィーネに挨拶を返すと、くすくすと笑われる。自分ではちっとも気づいていなかったことを指摘されて首を捻れば、今度は呆れたように首を振られてしまった。
二度寝しちゃダメだからね、と念を押してから、フィーネが去った部屋の中。もう一度、おはよう、と呟いてアルドはまた首を傾げる。

どうしてか分からないけれど無性に、誰かにおはようって言いたくて仕方なかった。
それが誰かは分からない。多分、フィーネではなかった。爺ちゃんでもない気がする。仲間でも村人でもなくて、よく知っているような知らないような誰か。
その誰かを、朝日の光の中に連れ出して、おはよう、もう寂しい夢は終わったんだよって、伝えてやりたくてたまらなかった。



――おはよう、エデン、僕の大事なご主人様。

閉じ込められた無意識の底。
にゃああ、切なげに猫が鳴く。