揺り籠の少女たち
イスカの事は、率直に言って苦手だった。
まず第一に、白制服を着ているのがよくない。それはどうしたって、ジェイドの中の傷を浮かび上がらせてしまう。まだ痛みの治まらない傷を、じくじくと刺激して新しい血を噴き出させてしまう。直視するには生々しい友人の最期は、未だ優しい思い出に昇華出来るほどに飲み込めても受け入れられてもいなかった。
苦手な理由はそれだけではない。いつでも落ち着き払った態度も、好きではなかった。ひどく達観していて、老成しているようにも見えるそれは、人間味が薄く思えてどこかとっつきにくい。
けれどけして嫌なやつではなく、分類するならいいやの方に入るのだろうとも分かっていたから、そこも苦手だった。苦手だと思うこと自体に、後ろめたさを覚えてしまう。
サキの件で恩はある。アルドの仲間だから、一応はジェイドの仲間でもあるのだろう。
それでもやっぱり、イスカの事は苦手だった。
(どういうつもりだ)
そんな苦手な筈のイスカと、今、ジェイドはなぜだか、同じ席についている。
IDEAシティのカフェ、一番奥のボックス席。客の姿はまばらで、近くの席は全て空っぽ、聞き耳を立てる存在もいない。
そんな密談にうってつけの状況で、ジェイドはイスカとテーブルを挟んで向かい合っている。
特に約束なぞしてはいなかった。それどころか、サキがIDEAに所属するようになってから、直接顔を合わせるのはこれが初めてになる。
何度か遠くからイスカの姿を見かけたことはあったが、ジェイドから話しかけるような真似はしなかったし、アルドとの旅の道中で一緒になることもなかった。
今日はたまたま、放課後、IDAのH棟のエントランスで鉢合わせたが、ジェイドはそのまま気付かぬふりで通りすぎるつもりだった。わざと邪険にするつもりはなく、仲間として行動する事があれば受け入れたとして、個人的に親しくなる心積りはこれっぽっちもなかったからだ。
そんなジェイドを呼び止めたのは、イスカの方だった。わざわざジェイドの名を呼び、小さな声で二人で話したいことがあるのだと、そっと告げる。帰宅する生徒も多い中、ただでさえ目立つイスカが意味ありげに囁きかければ、とばっちりでジェイドにまで視線が集まってしまう。衆目の中、身体に突き刺さる視線を認識したジェイドは、思わず顔を顰めて舌打ちをしそうになった。
断っても良かった。けれどイスカの話に全く心当たりがない訳でもない。二人の間に存在する共通点はさほどなく、その数少ない共通点の大半はジェイドの中で重要な位置を占めるものばかり。
イスカの事は苦手だったが、こうしてわざわざ接触してきたという事はその共通点が関係しており、二人にとって必要があってのことだろうと判断し、ジェイドはイスカの言葉に頷いた。
お気に入りの場所なんだ、と笑うイスカに連れてこられたのは、IDAシティの外れ、閑散とした通りにある一軒のカフェ。慣れた様子で店に入ったイスカを、店員も慣れた様子で一番奥の席に案内する。なるほど、本当に通い慣れているらしい。
しかし注文した紅茶が運ばれ、湯気のたつ香りで唇を湿らせても、なかなかイスカは本題に入ろうとはしない。正確には、イスカの話は始まっていた。けれどその内容は、IDEAにおけるサキの活躍の話で、わざわざ二人きりで話したいと持ちかける類のものには思えない。
一体どういうつもりだ。
前置きにしては長い話に、イスカの意図が掴めず内心では苛立ちと困惑が募っていったが、遮ることなく話を聞いていたのは、それがサキの事だったから。既にサキ本人から聞いた話もあれば、ジェイドが見かけたものもある。けれど本人でも身内でもない第三者であるイスカの視点から見たサキの話は少し新鮮で、苦手な相手といえど褒められれば悪い気はしない。
とりあえず、サキの話が終わるまでは付き合ってやろう。そう決めて、ジェイドは仏頂面のまま、相槌も打たずにイスカの話に耳を傾けた。
「意外だな」
一通り最近のサキの話をしたイスカは、こくり、紅茶を一口飲んでから、小さく微笑んでジェイドを見つめた。
「キミには恨み言の一つでも言われる事を覚悟していたよ。キミなら彼女の意志を尊重するだろうけれど、キミ自身はサキがIDEAに所属することを好ましくは思っていないだろう?」
穏やかに紡がれる言葉は声音とは裏腹に些か不穏を孕んでいて、笑みの中の瞳にはどこかジェイドを挑発するような光が宿っている。
そんなの、わざわざイスカに言われるまでもないことだった。当然だろう。
サキがIDEAに勧誘されたと聞いた時はひどく荒れたし、渡されたという白制服を引き裂いて捨ててやろうかと何度思ったかしれない。まだぎこちない兄妹の形の中、どうにか絞り出した言葉を尽くし、何日もかけて止めておけとサキの説得にだってかかりもした。
確かに、サキの件ではイスカと、白制服の世話になったし、白制服を着た友人には、どれほど助けられたか分からない。
けれどジェイドにとってそれは、死の象徴でもあった。それも親しい相手、心を許した相手の、断末魔の叫びと共に赤に染まった、忌々しくて不吉な純白だった。
「彼女に白制服を渡したことに後悔はない。謝るつもりもない。……けれど、キミに対してひどく無神経な事をした自覚くらいはあるのさ、これでもね」
イスカは、ジェイドの友人が白制服を着ていた事を知っている。彼が、ジェイドを庇って命を落としてしまったことも、ジェイドが白制服を見るたびに瞳を陰らせることも、知っている。全て知っていて、サキに白制服を手渡した。ジェイドに対してはあまりにも残酷な仕打ちだ。
イスカがそれをサキに渡したと聞いた時には、ひどいショックを受けた。サキの夢意識では助けられ、アルドと同じく共に戦える仲間だと認識しかけていたからこそ、そんな彼女に手酷く裏切られた心持ちになって、苦手を通り越して憎悪に似た気持ちすら抱くようになった。サキとアルドの手前、抑えてはいたけれど、責めて糾弾して罵って、その綺麗な顔を一発くらい殴りつけてやりたい、それぐらいの気持ちは抱いていた。
それらを理解しているのだと、目の前の彼女は微笑みと共に口にしてから、さっと笑みを消してそっと目を伏せる。まるで責められるべきだとでもいうような、神妙な顔つきでジェイドの沙汰を待っている。
ここでようやく、ジェイドはイスカの目的を察する。
彼女はおそらく、ジェイドにひどいやつだと詰られるために二人きりで話がしたいなんて言い出したのだ。謝るつもりはないだなんて口にしたくせ、ジェイドの責めを甘んじて受け止めるつもりで、この場を設けたのだ。そうしてわざとIDEAのサキの話を聞かせて、煽るような物言いをしたのだろう。
イスカの事は苦手だった。
サキをIDEAに勧誘した事について、何も思わないと言えば嘘になる。消化しきれない苦々しい気持ちは依然として抱えていて、どう接していいのかもわからないままだ。
けれど。
苦手であるだけで、けして憎んではいないのだ、今は。
「……ある種のシェルターでもあるんだろ、あれは」
だからジェイドは、イスカの希望する通りに詰ってやる代わり、ため息と共にそれを吐き出した。
気づいたのは、サキがIDEAに所属してしばらく経ってから。
外部の介入を排除した治外法権状態であるIDA内において、発生した問題を解決するために存在する組織、という認識は間違ってはいない。その性質から、所属する生徒達が様々な資質に優れた生徒の集まるIDAの中でも、飛び抜けて優秀である事も否定しない
けれど、かの組織が持つ側面はそれだけではないのだと、ジェイドはサキが白制服を身につけるようになってまざまざと理解した。
以前サキの能力が暴走した事件について、公には真相は不明のままだとして処理されはしたものの、事件を知る一部の生徒達がサキを見る目には、恐怖と嫌悪が宿っていた。変わらず接してくれる友人もいたようだが、みんながみんな好意的に接してくれた訳では無い。
変わろうと前を向くサキの背中にめがけ、ひそひそと囁かれる心無い言葉、直接事件を知らぬ生徒達の間にも広がってゆく無責任な噂。妹が心配で度々こっそりと様子を見に行っていたジェイドがそれを耳にする事も少なくなく、実際はもっと何倍もの悪意がその小さな背中に投げつけられた事だろう。
それでも俯くことなく前を向くサキが誇らしくて、何も出来ない自分が悔しかった。守ると心に決めたのに、噂を消す方法の一つも見つけられない。悪意を口にする生徒に直接、忠告なんてしても駄目だ。余計にサキへの噂か面白おかしく脚色されてしまうだけ。一度、やり方を間違えてそれが悪手だと理解したジェイドは、せめて悪意が明確な形を持ってサキに襲いかからぬよう、密かに見守りやきもきとする日々を過ごしていた。
けれどそんなサキを取り巻く状況は、白制服を着るようになってから劇的に変化した。
事件の発生した現場で、白制服を着たサキが目撃されるようになる度、噂の内容が変化してゆく。
――あいつ、白制服らしいぜ。まじかよ、なんかすげえ能力もってんだろ? それなら白制服入りも納得だわ。
白制服だから、飛び抜けて異質な力を持っていても当然だ。白制服だから、いたずらに暴走して誰かを傷つける筈なんてない。
白制服に対する信頼がサキにも重ねられるようになり、やがて事件の現場で活躍するサキへの評価へと繋がってゆく。
――イスカ会長が目をかけているらしい。クロード先輩にも話しかけられてたよ。ヒスメナ様にも可愛がられてるんだって。すごい、いいな、私も仲良くなれないかな。
限られた生徒の目にしか写らない事件現場だけではなく、日常にもそれは介入してきた。IDEAの中でも特に名の知れたイスカやクロード、ヒスメナたちが、白制服のままサキの元を訪れ、親しい様子で言葉を交わす。それが当たり前になるにつれ、有名な彼らと肩を並べるサキへも注目が集まり、すごいやつらしいとの噂が広がってゆく。少し前までは呪われてるだの危ないやつらしいだの、無責任に悪意を投げていた輩までくるりと掌を返したのは業腹だったけれど、いつまでも不愉快な噂が蔓延しているよりはマシだ。
集まる目が増え好意的な視線が増えるという事は、よく知りもしないくせに噂に流された生徒の中に、薄く宿って根付いた悪意がふとした瞬間に形を持って、牙を剥くという状況が減った事に他ならない。あいつは悪いやつだから、ちょっとくらい傷つけても構わないだろう、なんてそんな反吐が出そうな動機で、サンドバッグ代わりにサキに手を出そうとする人間が、減ってくれるならそれ以上は望むべくもない。
サキを取り巻く全ての悪意が払拭された訳では無い。薄れた悪意の代わりに、新しく生まれた嫉妬の眼差しもちらほらと混じっている。
それでも、以前に較べればずっと、サキを取り巻く空気は風通しの良いものに代わりつつあった。
たかが布切れ一枚、袖を通すだけ。
たったそれだけのことで、異質の化け物を畏怖する眼差しが、特別な才能を支持するものに変わり、憧れと羨望を乗せるようになるのだと、サキを見守るジェイドは嫌という程思い知った。
それはもう、腹立たしいほどにあっさりと、簡単に。
おそらく、イスカたちはそういった側面についても重々承知していたのだろう。
謎に包まれたIDEA、なんて噂がある一方で、白制服については広く認識されていて、着ていれば嫌でも目立つ。事件の時やIDEAの活動の際は白制服を着ていても、普段はIDAの制服を着て授業を受けているとも聞いている。
それらを理解した上でわざわざ、人目のある所で白制服姿のままサキに接触したのは、白制服がサキと懇意であることを知らしめ、牽制していたのではないかと思っている。おそらくは全て分かった上で、サキに接触して、白制服を渡したのだろう。
サキがIDEAに所属すると決めてから改めて、イスカたち以外のメンバーについて調べてみれば、彼らの多くは異端の天才だった。戦闘訓練で力を暴走させ対戦用の機械を破壊してしまったもの、好奇心のままにIDAのプロテクトをハックして書き換えてしまったもの、尖った才能を見せつけて教室の中、孤立してしまった天才たち。
彼らはサキと同様、白制服に袖を通すことによって、居場所を得たように見えた。白制服だから、の言葉で飛び抜けた天才への畏怖が賞賛に変わり、異物として集団から弾かれる事無く受け入れられるようになる。まさしくそこは、異質の才を持つ生徒達のための、シェルターの役割を果たしているように見えた。
だからジェイドは、イスカに恨み言を言うつもりはないし、礼を言うつもりもない。
複雑な気持ちはある。もっと別な方法はなかったのか、もっと安全で穏便に、平和な日常が送れる方法はなかったのか、今だってずっと考えている。未だ夢に見る友人の最期、赤く染まった白制服がサキに重なり飛び起きた朝は既に両の手を超えていて、IDEAが出動したと聞けばいてもたってもいられず、現場へと駆けつけてしまう。叶うならば、危ないことはせずにいてほしい。
けれど、白制服がサキを悪意から守ってくれていることも知ってしまったから。以前よりもサキが楽しそうに笑う事が増えたから。諦念を湛え暗く沈んでいた瞳が、未来を見据え美しい輝きを放つようになったから。
それに、己の感情を優先して、羽ばたくサキの翼を毟り閉じ込めるような真似だけはしたくなかったから。潜む感情は違えどあの男のようにだけはなりたくなかったから。たとえ、どれほどジェイドの胸の傷が痛もうとも、長く抑圧され奪われ続けたサキの選択を、何よりも尊重してやりたかったから。
ならばジェイドに出来ることは、見守ることだけ。何かあれば、いいや、何も無いように影ながら守ってやることだけ。それ以外にはないのだと、既に腹は括ってしまった。
「……気がついていたんだね」
ジェイドの指摘に、イスカはぽつりと呟いて、少しバツの悪そうな顔をする。それこそが、ジェイドの予想に対する答えに他ならなかった。
隠された意図を察しても、イスカの事は苦手だった。
知らず憎悪を向けた事が後ろめたくて、けれど一言でも説明をしてくれればと恨めしく思う気持ちもあって、素直に受け入れる事が出来ない。
サキを取り巻く状況がこうなることが全て分かっていたかのようなイスカの、達観した笑みが癪に触って、どこか空恐ろしさも感じていた。
けれど、ああ、そうだ。
イスカに抱いていた複雑な気持ちと、僅かに感じた畏怖を思い起こすうち、ふと、唐突に。
ジェイドは、目の前の彼女も、そうであったことを思い出す。
「……お前も、守られたのか?」
「わたし?」
IDEAという形をとって、異端の天才たちを守っていた彼らのための揺り籠。その中には、当然イスカも入っている。
今でこそIDEAの会長という立場、IDEAのメンバーの中にも一般の生徒の中にも、彼女を熱狂的に支持する層はいて、秘密裏にファンクラブも作られているという話を聞いている。
しかしそれは、あくまでIDEAの会長であるイスカへと向けられたもの。
IDEAのメンバーですらなかった頃のイスカは、果たしてどうだったのだろうか。
頭脳も戦闘能力も、一際飛び抜けている。ジェイドの好みは別としても、客観的に見て姿かたちも美しいと言って差し支えない。異端の天才たちの中でも、群を抜いて異才を放っている天才だ。白制服を着ておらずとも、その姿はひどく目立って周りから浮いていたことだろう。
今と同じく、憧れの視線も向けられていたかもしれない。けれど、きっと、ジェイドが感じてしまったような、畏れも向けられていたのではないだろうか。
己がイスカに向けた気持ちが、サキを孤立させていた群衆のそれに通じる事に気づき、後悔と羞恥を覚えたジェイドの口から、意図せず零れ落ちた言葉に、イスカは驚いたように目を見開いた。
そして、言葉の意味を咀嚼するように、ぱちり、ぱちり、ゆっくりと瞬きをして。
ふわり、頬を緩めて、陽の差すような温かな笑みを浮かべた。
「ああ、それはもう。感謝してもし足りないくらい、沢山、たくさん、守ってもらったよ」
いつもの、落ち着き払った微笑みとは違う。
宝物を愛でるような、幸せな記憶を撫でるような、少しのくすぐったさと照れくささが滲むような、ひらひらと綻んだ花弁が散って見えるような、温度のある笑顔。
ふにゃりと蕩けた笑みを浮かべたイスカの頬は、薄く紅潮していた。そんな顔で、自分も確かに守られたのだと、嬉しそうに口にする。
イスカの事は苦手だった。
良い悪い、好き嫌いだけでは割り切れない複雑な気持ちを抱いていて、自身の不甲斐なさを八つ当たりする気持ちもあったけれど、その中でも根っこに近い部分にあったもの。
たとえばアルドや友人みたいに、心底のお人好しだと呆れてしまうような、心の中の善性と感情に従って突っ走る訳でもなく、冷静に状況を見極めて差し出される助けの手は、頼もしいと同時にあまりに意図が見えなくて、寒々しさも感じてしまっていた。アルドのように素直にありがとうと笑いかけることも出来ず、何か裏があるんじゃないかとちらりと顔を覗かせる、疑心と不可解さを湧き上がらせた。
「一人で戦わなくてもいいんだって教えてもらった。たまには守られていろって、庇ってくれた背は頼もしくて眩しかった。いろんなことから守ってくれて、すごく、すごく、嬉しくって心強くて……わたしも、そんな場所を作れたらって思ったんだ」
けれど、目の前でふにゃふにゃと嬉しそうに笑うイスカを目の当たりにして、それらがあっさりと霧散する。
いつもの達観したような、まさにIDEAの会長らしい微笑みとは違う、喜色だけを浮かべた笑みは、無邪気で年相応の少女のものにしか見えない。白制服でも会長でもないイスカという少女が、とっても嬉しかったの、とはしゃいで頬を染める様は、けして取り繕った嘘ではなく彼女の心の底に存在する本心のように見えた。
守ってもらえて嬉しかったから、わたしも守りたい。
至極単純なそれは、疑いを挟むにはあまりにも無防備で、どこか稚い。
イスカの事は苦手で、親しくなる心積りなんてこれっぽっちもなかったはずなのに。
砕けて飛び散った苦手意識の残骸の中、現れたのは、IDEAの会長の顔が剥がれ落ちた目の前の少女と、もっといろんな話をしてみたいという欲求、そして、出来るならばその無邪気な笑みを翳らせることなく守ってやりたいという淡い感情。
そんな、己の内に潜んでいたものに気づいた途端ジェイドは。
すこぶる動揺した後、うっすらと赤面した。