ゆめをみる


ぱちん。

部屋の照明のスイッチのオンオフを切り替えるみたいに、眠りから覚醒へと意識が移行した。
目覚めた直後は、真っ暗闇から突然強い光の下へと連れ出されたような感覚があって、少しくらりとしてしまう。もう随分と長く付き合っている感覚とはいえ、それだけはいつまで経っても慣れることはない。けれどぎゅっと強く目を瞑って目眩に似た酩酊感をやり過ごせば、すぐに波は引いてゆく。感覚そのものを変えるのは難しいけれど、立て直しまでの時間は昔に較べれば随分と早くなった。

そしてゆっくりと開いた瞼。すぐさま飛び込んできたアルドの顔に一瞬で心臓が跳ねて、反射的に目を瞑ってしまう。
ここはマイティの学生寮の部屋、それは間違いないとベッドの硬さ、頬に触れたシーツの感触が教えてくれている。どきどきと煩く騒ぐ心臓の上で拳を握り、深呼吸をして宥めるうち、眠る前のことを思い出してきた。

午前中に集中させた講義、珍しく全てに出席する事が出来た帰り。ラグナガーデンで昼食を食べていれば、たまたまIDAに顔を出していたらしいアルドとばったり鉢合わせた。どうやらIDEA絡みの事件に手を貸していたようで、ちょうどカタがついてさっきみんなと別れてきたばっかりなんだ、と笑うアルドの制服姿は、初めて見た時は違和感があって落ち着かなくって、まっすぐ見るのがなんだか気恥ずかしかったのに、今ではもうすっかりと馴染んでいた。まるで本当にIDAの生徒みたいに、いや、IDAの生徒になったのは本当らしいのだけれど、時代を巡る旅をすることなく本当に学生生活を送ってるただの生徒みたいに見える。注文も手馴れたもので、迷いのない手つきで機械を弄って昼飯を選択すると、当然の流れでマイティと同席した。
マイティの方はもう半分ほど食べてしまっていたけれど、食事が終わるのはアルドの方が早かった。アルドは食べるのが結構早い。早いけれど見苦しくはなくて、大きな口をあけてひょいひょいと放り込み咀嚼して飲み込み、うまいと笑う姿は見ていて気持ちがよいものだから、ぼんやりと眺めているうちに少し手元が疎かになっていたようだ。綺麗になった皿と共に満足げに息を吐き出したアルドを見てようやくはっとして、自らの食事を再開させる。
アルドは食事が終わっても席を立つことなく、マイティの食事の邪魔にならない程度にあれやこれやと話しかけてきた。それに相槌を打ちながらもぐもぐと口を動かすうち、ひたひたと睡魔が忍び寄ってくる。重くなった腹だけでも眠気を誘うのに十分なのに、アルドの声が心地よくって、ともすればスプーンを口に突っ込んだまま眠ってしまいそうになる。どうにか堪えて食事を終えはしたけれど、何度かがくりと大きく船を漕いだ姿は、ばっちりとアルドにも見られてしまった。
マイティの代わりに食器を返却してきてくれたアルドは、心配だから寮の部屋まで送るよ、と申し出てうつらうつら頭を揺らがせるマイティの手を引いてくれた。眠くて体温の上がったマイティの手のひらと同じくらい、握ったアルドの手のひらは熱くって、それが気持ちよくってますます頭が眠気に侵食されてゆく。
アルドに部屋まで連れてこられた時はもう殆ど寝かけていて、それでもどうにか鍵を渡して部屋に入ってベッドまで連れて行ってもらって、それで。

(ああ、そうだった……)

そこまで思い出したマイティは、心臓の上で握った手をますます強く握りしめる。騒ぐ心臓はちっとも落ち着かず勢いを増して、じわりと頬が熱くなる。

ベッドに横になっても、マイティがアルドの手を離さなかったのだ。半分眠った頭で、何度かアルドが困ったように手を離そうとしていた事は覚えていて、けれど温かなそれが離れてゆくのが嫌で、逃がすまいと固く握った記憶がぼんやりと残っている。
今はもう繋いだ手は離れていたけれど、寝入ったばかりのマイティはしばらく離そうとしなかったに違いない。それで多分、アルドはどうしようかと困って悩んで、こうなれば仕方ないと一緒に眠ることにしたのだろう。そこまでは見ていないけれど、予想はついた。

それにしても、アルドの顔が近い。当然だ、学生寮のベッドは一人用のもので、二人で寝る事を想定はしていない。アルドは意外とがっしりとした体つきをしているし、マイティだって平均より少しだけ身長は小さいけれど、女の子みたいに華奢な訳じゃない。そんな男二人が狭いベッドに無理やり一緒に並んで眠れば、必然的に距離が近くなるのは当然のことだ。

ちらり、視線を動かして、壁にかけた時計を見る。夜の巡回に出かける準備を始めるまでは、まだ三十分ほど時間があった。どうしようか、逡巡したマイティは、ベッドから抜け出すことなくそのままアルドの寝顔を眺めて過ごすことにした。

どうしたって落ち着かない。心臓の鼓動はあがりっぱなしで、火照った頬からは熱が引かないまま。だって仕方ない、同じベッドで誰かと一緒に寝たのなんて、もう朧げな記憶の向こうの幼い頃にしかない。家で眠る時は幼い頃に与えられた自室、一人分の気配しかない部屋のベッドの上で。きっとこの時代ではさして珍しいことでもないだろう。だからアルドと旅をするようになって、宿屋でみんなで泊まる時に、自分以外の気配がいくつもある部屋で眠るのにだって、最初は随分慣れなくって戸惑ったものだったし、アルドが今も養い親やフィーネと同じ部屋で眠っていると知った時は驚きもした。

実はまだ、誰かと一緒に眠るのには慣れてはいない。人の気配に包まれながらうつらうつら舟を漕ぐのは心地よくて好きだけれど、眠る人が近くにいれば夢魔への警戒を捨てきれなくって、ちょっぴり緊張してしまう。何度も起きては夢魔の気配がないことを確認して、夢魔よけの呪いを唱えなければ落ち着かない。
今だって騒ぐ心臓を押さえつつも無意識のうちに、夢魔がいないか探っている。一度では安心出来なくて、数度繰り返してやっとアルドに夢魔が取り憑いてはいないことを確信できて、胸にじわりと燻っていた不安をようやく詰めた息と共にほっと吐き出す事が出来た。

アルドの寝顔は、どこまでも穏やかだった。悪夢の気配は微塵もなく、いつもよりあどけなく見える顔ですやすやと寝入っている。
夢魔狩りという立場のため、マイティが見る機会のある他人の寝顔は、圧倒的に悪夢に苦しみ歪んでいるものが多い。夢魔を倒したあとにようやく戻ってくる安寧に満ちた寝顔に、束の間の達成感と安堵を抱いても、そうなれば長居する訳にもいかず次の夢魔を探しに去るのが常だった。そもそも夢魔に取り憑かれた誰かと直接相対することなく、夢魔の気配を頼りに離れた場所から夢に侵入することも多く、眠る誰かの傍にずっと付きっきりでいるケースはさして多くはない。
だから、こんな風に。他人の穏やかな寝顔をじっくりと、それもこうして至近距離から眺める機会は、ほぼ初めてのようなものだ。

大きな変化がある訳じゃない。すうすうと吸っては吐き出す息と共に、僅かに体を上下させながら眠る姿を、ただただ眺めているだけ。
けれどその規則的な呼吸を、夢魔に侵されることなく続くそれに耳を傾けているだけで、自然と唇が緩む。アルドがどこまでも穏やかに眠っている、その事実を認識するだけで、じわじわと胸の内に歓喜が広がってゆく。守ってきたもの、守りたいもの、全てが目の前の寝顔に詰まっている気がして、じわりと目頭が熱くなりすらした。

胸の鼓動はまだ早い。歓喜が混じったせいでますます落ち着かないそれは、夢魔狩りとしてだけではないマイティの個を教えてくれる。
覚醒の瞬間、飛び込んできたアルドの寝顔に心臓が跳ねたのは、誰かと一緒に眠ることに慣れていないせいだけじゃない。
それが、特別に好きな人のものだったから。仲間としても好きで、友達としても好きで、先達としても好きで、だけどそれだけじゃなくって。誰に抱くのとも違う、時々きゅっと胸に甘い痛みが走るような、特別な好き。それに相応しい言葉を探すならきっと、恋という言葉がぴったりと馴染む。そういう好意をアルドに抱いている事を薄々は自覚していて、早る胸の鼓動はそれを静かに肯定していた。

そんな相手とどうにかなりたくない訳ではなかったけれど、具体的にどうなりたいかと言えるほど、自覚した恋心に精通はしていない。幼い頃から考えるのは夢魔とそれに取り憑かれた人々の事ばかりで、そのために学んだ必要な知識の中には恋や愛に関するものもあったけれど、あくまで夢魔を狩るため、侵された人の心を癒して夢魔を引き剥がすための手段としての知識でしかなく、それを自身のために用立てる発想が根付いてはいない。
だから今は、これだけで十分だった。好きな人が穏やかに眠る姿を眺めるだけで、マイティの恋心はこの上なく満たされてしまう。

飽きもせず眺めていれば、あっという間に時間はすぎてもう十五分。視線を動かして見やった時計で、迫り来る終わりの時間を目で確認し、寂しさを感じながらも更にとアルドの寝顔を瞼に焼き付けて置こうと視線を戻せば、変わりばえのしなかった寝顔に変化が訪れる。

「……フィーネ」

むぐむぐと唇を擦り合わせ、ぺろりと舌を出して乾いた口を舐めたアルドは、小さく開いた隙間から彼の妹の名前を呼ぶ。

「こら、ヴァルヲ……爺ちゃんが光るだろ……」

どうやら夢を見ているらしい。きっと、バルオキーの夢だ。家族の名前をむにゃむにゃと呟きながら、夢らしく少し突飛な内容の混じるそれにマイティはくすくすと声を抑えて笑い声を漏らす。
アルドが夢を見ている。夢魔に侵されることなく、穏やかで平和な夢をマイティの隣で見ている。ただでさえ満たされていた恋心が、痛いくらいに締め付けられて新たな歓喜を叫び始める。夢魔狩りとしても、個人としても、この上なく幸せでたまらない。

けれど満ち足りていた心に、僅かに翳りが生じたのはアルドの唇が家族以外の名前を紡ぎはじめてから。
ダルニス、メイ、ノマル。彼の幼馴染たちの名前だけなら、まだアルドの夢の中に広がる平和なバルオキーの村を夢想しているだけでいられたのに。
アナベル、ロキド、ネロ。どうやら夢の中には、バルオキーの村人だけじゃなくて、アルドの仲間たちも出演しているらしいと分かった途端、胸を締め付ける痛みから甘さが引かれて、ぐるりと腹の底が重くなる。
コマチ、ブリーノ、ベネディト。随分と賑やかな夢だ。コマチが空を飛んでブリーノが池から現れ、ベネディトは普通で普通の木こりを全うしているらしい。楽しげな事は分かるけれど、どんな世界が広がっているか想像がつかなくなってゆく。
そして、アルドの唇が次の名前。ノノルド、アルドとは違う時代に生きる仲間の名前を紡いだ瞬間。
マイティはばっと自らの口を押さえた。そうしなければ、マイティ、と自身の名前をアルドの耳に、囁いてしまいそうだったから。アルドの夢にマイティも混ぜて欲しくって、マイティだよ、と自身の名前を刷り込んでしまいそうだったから。

夢魔狩りは、その力を使って夢魔に侵されていない夢に干渉してはならない。のっぴきならない事情があって本人や近しい間柄の人間からどうしてもと請われれば例外が生じる事もあるけれど、基本的には必ず守らなければならない夢魔狩りの掟だ。
夢に干渉が出来る夢魔狩りだからこそ、悪用しようと思えばいくらでも出来てしまう。たとえば毎夜夢に現れて、誰かの姿を見せる。たったそれだけで、その誰かを強く心に印象づけてしまえる。そこに各種の感情を付与してやれば、それが本心なのだと刷り込ませてしまえる。
だから、夢魔を狩る以外にけしてその力を使ってはならない。穏やかな夢を歪めるような真似をしてはならない。

先程のマイティは夢魔狩りの力を使おうとはしていなかった。ただ名前を囁くだけ。夢魔狩りの力を持たない人でも、誰にでも出来ること。
けれど夢魔狩りとして生きてきたマイティには、たったそれだけのことを、実行しかけただけで激しい罪悪感に襲われる。じわり熱くなった目頭は、先程とは違って甘さの混じらない苦味だけで染まっていた。

このままじゃだめだ、焦燥感を抱いて体を起こす。まだタイムリミットはやって来ていなかったけれど、ベッドから降りてさっさと支度を始めてしまおうと思った。そうでなきゃ、今度こそアルドに自身の名前を囁いてしまいそうだったから。

けれど、よりにもよって片足をとんと地面につけたタイミングで。

「……マイティ」

口にはしていない筈の名前を、マイティ以外の声が紡いだから、思わず振り返ってしまった。

「マイティ、……いくぞ」

そうしてもう一度。マイティの名前を呼んだアルドが、夢を見ながらふわりと微笑んだから。
かあっと頭が熱くなって、跳ね上がった心臓は胸を突き破ってしまいそうだった。未だ罪悪感の名残はあるのに、歓喜がそれを押し流して全身を駆け巡る。だって、アルドの夢の中にマイティがいる。迂闊に指を伸ばしかけて慌てて引っ込めたのに、触れなくてもちゃんとマイティを夢の中に混ぜてくれている。守りたいと願って、守ると決めた穏やかな夢の中に、マイティの姿がある。マイティの名前を呼んでアルドが微笑む、そんな夢がすぐ傍に存在している。
夢をみないマイティの代わりに、アルドがマイティの夢をみてくれている、そんな幻想すら抱きそうになる。

再度口を両手で押さえたのは、そうしなければ変な声が漏れてしまいそうだったから。自分でもどんな音になるか分からない、突き抜けた感情が音の形になって漏れだしてしまいそうだったから。
荒れ狂う感情の波をどうにかやり過ごして宥めれば、制限時間を一分超えていた。まずい、慌ててベッドを離れて支度を始める。 それほど時間はかからない。いつも出かける直前まで仮眠にあてられるよう、最低限で済むように予め取り計らっている。

少し慌てて支度を進めたせいだろうか。持つべきものを持ち、すぐさま外へと出かけてゆける格好になった時点で、いつもより五分ほど時間が早かった。
予定外に得た時間の使い道、ベッドで眠るアルドに視線をやったマイティは、アルドの寝起きの悪さを思い出して起こすのは無理だと諦め、伝言を残しておこうとメモとペンを手に取った。
最初に書いたのは、もしも目覚めたアルドが帰ろうとした時に、鍵をかけなくてもオートでかかるから大丈夫だよと言う趣旨のもの。
けれどマイティは最後まで書き終わらぬうちにそれを破り捨て、くしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込むと、新しい文章をつらつらと連ねてゆく。

『見回りに行ってくるね。朝には帰るから、好きなだけ居てくれていいからね』

寝顔を見つめるだけで満たされていた筈の恋心は、短い間にあっという間に成長してそれだけでは満足出来なくなってしまっていたから。居て欲しい、とは綴れなかったけれど、居てくれたらいいな、と願ってしまったから。帰宅を示唆する鍵の処遇の代わり、せめてもの希望を薄く混ぜた言葉をしたためて、音を立てぬようにそっと部屋を出る。

アルドはあれをどう受け止めるだろうか。
大雑把だけれど割と気遣いも忘れないところもあるから、家主のいない部屋に遠慮して帰ってしまうかもしれない。IDA内に部屋も借りていることだし、その可能性は高いだろう。

けれど、もしも。

知識だけで知っていたつもりの恋心の取り扱い方はまだよく分からない。何もかもが手探りで、何が正解で不正解か見当もつかない。
夢魔狩りとの兼ね合いもきちんと考えなければ、今度こそ失敗してしまうかもしれない。そんな訳にはいかない。だってマイティはどこまでも夢魔狩りであって、これからもずっと夢魔狩りだから。

けれど、もしも。
朝、帰った時、アルドがまだマイティの部屋に居てくれたなら。
その時は、もう少しだけ、手を伸ばしてみてもいいかなあ。それくらいなら、赦されるかなあ。

慎重に問いかけた心の中、誰も正解は教えてくれなかったけれど。伸ばした指先を、アルドが握ってくれる未来を浮かべただけで、心がほわりと暖かくなる。この温もりを胸に抱いていれば、真っ暗で冷たい悪夢の中ですら、何もかもを見失わずにいられる気がする。悪夢に泣く人の心に、もっと寄り添える気がする。
だから、もう少しだけ。願う心に、仕方ないなあ、と呆れたような笑い声が響いた気がして。

夢をみない夢魔狩りは、幸せな幻想ゆめをみて、ふわりと微笑んだ。