初恋泥棒


(あれ?)

古代から自分の住む時代へと帰る途中のことだ。次元戦艦はしばらくのメンテナンスに入っていたから、久しぶりに次元の狭間を経由する光の柱を通った際に、ふらりと立ち寄った時の忘れ物亭にて。みな一様にどこか茫洋とした客の中、見慣れぬ姿を見つけたアルドは思わず眉を顰めてしまう。
時の迷い子たちのために次元の狭間にあるこの店には、時代を超えて様々な集まった人々が存在している。彼らの多くはもう自分がどこから来たのかも忘れて、店の中で長い時間、もしくは止まった時間を過ごし続けているらしい。何か力になってやれればと思うけれど、忘れてしまった彼らが自分の時代に戻るためには、自分の力で思い出して帰ろうとしなければならないのだという。たとえアルドが手を引いて一緒に光の柱をくぐったとしても、迷い子の彼らは再びこの場所へと戻ってきてしまうのだ。それが定められた法則、悔しいけれど覆すだけの力はアルドにはない。

けれど見慣れないその顔、新しく増えた迷い子は他の客とは様子が違った。強ばった表情、落ち着かないようにきょろきょろと周りを見回す瞳は、不安で揺れてはいたけれど強い意思の光が宿っている。
違うのはそれだけじゃない。その迷い子は十歳ほどに見えるまだほんの小さな子供で、しかも面差しがアルドのよく知るある人によく似ていた。まるで彼をそっくりそのまま縮めたみたいに。

「なあ、もしかしてマイティの知り合いか?」

だからアルドは少年、マイティによく似た水色の髪の彼に声をかけることにした。なんとなく、彼はまだ間に合うような気がしたから。仮に間に合わなかったとしても、無関係というにはあまりにマイティに似すぎている少年を放っておくことなんて出来なかったから。
アルドがゆっくりと近づこうとすれば、少年はびくりと体を震わせて、警戒心をいっぱいに湛えた眼差しでぎろりとこちらを睨みつけた。

「だれ」

まだ声変わりも済んでいない高い子供の声、けれど吐き出された短い音は硬質で、ぴしゃりと打ち据えるような鋭さを孕んでいる。そこに怯えの色を見てとったアルドは、距離を詰める代わりに腰をかがめて少年に目線合わせる。全身の毛を逆立てて周囲を威嚇する仔猫みたいな子供を、少しでも安心させてやりたかった。

「きみの知り合いに、マイティってやついないかな?」

真正面から子供の顔を見つめたアルドは、彼がマイティの関係者であるとの確信を強める。毛先にゆくにつれて淡く黄色の混じる髪、ちょっぴり垂れた目尻、優しい雰囲気の顔立ちはよくよく似ていたし、何より。夜明けの空の青をそのまま写し取ったような瞳は、マイティとそっくり同じだったから。
だからアルドがマイティを知っていると分かれば少しは安心するかと思ったのに、少年の目つきは一層険しくなる。まるで夢魔に相対した時のマイティみたいな顔だ。

「……どうして、僕の名前を知ってるの」

そうして少年が警戒を隠すことなく身構えて尋ねた質問に、今度はアルドの方が驚いてしまう。マイティによく似た子供だとは思ったけれど、まさか名前まで同じだとは思ってもみなかった。

「……マイティの弟か親戚じゃないのか?」

もしかしたらマイティの一族では、兄弟や従弟同士で同じ名前をつけるのは珍しくないことなのかもしれない。夢魔狩りという特殊な仕事に一族で従事していると聞いていたし、変わった慣習の一つや二つあってもおかしくはない。

「マイティは……僕、だけど」

けれどそんなアルドの予想はまたしても外れ。警戒の中に困惑を滲ませた少年が、僅かに眉尻を下げて小さな手をきゅっと強く握りしめた。一体どういうことだろう、少年と同じく戸惑ってしまったアルドもへにょりと眉尻を下げて、うーん、首を捻る。

「ここは次元の狭間、あらゆる場所から様々なものが迷い込んでくる場所だ。人も、物も、時代を超えてね」

困った顔で見つめ合う二人の間に入ってきたのは、落ち着いた低い声。時の忘れ物亭のマスターだ。どうやら後ろから様子を見守っていたらしい彼は、諭すようにゆったりとした口調で語りかけてくる。
少年はますます困惑を深めたようだったけれど、アルドの方はそれで理解した。そうだ、だってここは過去とも現在とも未来とも繋がっている。アルドが行き来できる時代と場所はある程度決まってしまっているけれど、それ以外の場所から誰かが迷い込んで来る可能性だって当然ある訳だ。
ということは、つまり。マスターの言葉を信じるならば、目の前の少年はマイティの弟や親戚じゃなくって、幼い日のマイティ本人ってことだろう。多分。

「オレはアルド。未来のきみの仲間だよ」
「時代を、超えて……? 未来の、仲間……」

一気に現状を把握したアルドが、表情を緩めて笑いかけると少年、マイティの眉尻はこれ以上ないくらいに下がってしまう。聞いたばかりの言葉を小さな声で繰り返し呟いて、視線をアルドとマスターの間を交互にうろうろさせている。
まあそうだよな、マイティの反応にアルドは苦笑いを浮かべる。最初に未来に跳んでしまった時は、アルドだってしばらく信じられなかった。エルジオンが空に浮かぶ街だったせいで、見下ろす地上に否が応でも理解せざるを得なかったけれど、それでも数日は夢を見てるんじゃないか、寝て起きたらバルオキーの見慣れた天井が目に入って来るんじゃないか、ベッドに入って見たこともない材質の未来の天井を見つめるたびに思っていた。
アルドとマスターの言葉を難しい顔で反芻したマイティは、怖々と辺りを見回す。そしてもう一度アルドを見つめた少年は、今にも消えてしまいそうなか細い声で頼りなげにぽつりと呟いた。

「……僕、ちゃんとお家にかえれる……?」
「勿論だよ! オレはマイティの未来の仲間だって言ったろ? 未来のきみの事を知ってるんだ。ってことは、きみはちゃんと家に帰ってまだまだ大きくなるってことだ。そうだろ?」
「そうだね。帰りたいという強い意思さえあれば、大丈夫だ」

その綺麗な目に、じわり、今にもこぼれ落ちてしまいそうな涙が溜まり始めているのに気づいたアルドは、慌てて少年に語りかける。どうして幼いマイティがこんなところにいるかはさっぱり分からないけれど、アルドと出会った未来のマイティのことは知っている。彼と出逢えたということはつまり、少年はここに留まる事無く自分の時代に帰れたという事に他ならない。
マスターにも同意を求めれば静かに頷いてくれたから、ほらな、目の前の少年に笑いかければ、きゅっと唇を引き結んだマイティは少し上を向いてちょっと鼻を啜り、ごくり、喉を動かし迫り出しかけた涙を飲み込んでしまう。けして泣くまいと頑張って堪えているようだ。
そんな少年の健気な様子に笑みを深めたアルドは、偉いな、手を伸ばしてくしゃりと頭を撫でようとした。
しかし幼い姿とはいえきっとどこかには、それでも相手はマイティだという気持ちがあって、ついつい村の子供たちにするように気安くしてしまったけれど、まだ警戒を解いていない少年にとってそれは余計に怖がられてしまうかもしれない行為だとの認識が、アルドの頭からはすっぽりと抜け落ちていた。思い至ったのは、既に動き出してしまった後。水色の柔らかな髪に触れた瞬間、びくりと震えた細い肩を見てしまったとすぐさま後悔が湧き上がる。けれど伸ばした手が払いのけられることも、小さな体が後ずさることもない。どうしようかな、少しの逡巡の後にそのままそっと撫でてやれば、固く握られていた拳が僅かに緩んだのが見える。そうして手のひらを動かすうち、マイティを取り巻いていたツンツンとした空気からほんの少し棘が抜けた気がした。

「普通なら店を出て道なりに進んだ先に、その人が必要としている光の柱が立つ筈なんだが……ただきみは少し事情が違うようだね。体は置いたまま、心だけでここに来てしまったらしい。だったら、無理に戻るよりもいずれ体が呼ぶまでここで待つ方がいいだろう」

小さなマイティの纏う雰囲気が落ち着いた頃合を見計らったように、マスターが説明を付け加える。それを聞いて呆気にとられ、こころ、口の中で繰り返したのはアルドの方。だって手の中にはきちんとマイティの髪の感触があるのに、心だけで存在していると言われてもいまいち実感しにくい。

「ここは次元の狭間、あらゆる時代と繋がる場所であり、あらゆる夢に通じる場所でもあるからね」

ゆめ、短く呟いたのは、今度はマイティの方。夢はマイティにとって非常に重要なものであると知っているけれど、それは小さなマイティにとっても同じようだ。そうか、何か心当たりのありそうな様子の少年がが、納得したようにうん、と控えめに頷いたのを見たアルドは、良かった、こっそりと胸を撫で下ろす。
マスターの言ったことも、マイティが何に納得したのかもちっとも分かってはいなかったけれど、今大事なのはアルドが理解することではなく小さなマイティが安心できることだ。マスターの言葉でマイティが落ち着いたなら、それでいい。
何が起きているのかはよく分からないままだったけれど、小さなマイティの雰囲気が先程よりも一段と落ち着いた事を髪に触れた手のひらから感じ取ったアルドは、よく分からないけれど良かった、それで納得してしまうことにする。

「そうだな。しばらく彼とお喋りしているといい。そうすれば、気づいた時には戻れている筈さ」

続いたマスターの言葉に、小さなマイティがおずおずとアルドを見つめる。まだ完全に警戒の抜けきらない瞳は、戸惑いと逡巡でゆらゆらと揺れている。大丈夫かな、本当に信じていいのかな、迷惑じゃないかな、そんな気持ちが分かりやすく表情に出ている少年に、アルドは再びにこりと笑いかけて壁際に置かれた椅子を指さした。

「オレもちょうど暇だったから、きみが話し相手になってくれたら嬉しいな」

アルドの言葉に、小さなマイティはちょっぴり難しい顔をして考え込んだあと、難しい顔のままこくりと頷いた。


アルドのよく知るマイティもそれほど大きな方ではないけれど、幼いマイティはそんな彼より、当たり前のことだが、輪をかけて小さい。並んで座った椅子、ちょこんと膝を揃えて座る少年の足の裏は床につくことなくゆらゆらと宙に揺れている。手はきっちりと膝の上に置かれていて、この歳の頃の子供にしては随分と行儀が良い。大きいマイティは椅子に座るとすぐ舟をこぎ出すし、並べた椅子に寝転んですやすやと眠ってしまうことが多かったから、大人しく座っている小さいマイティの姿はとても意外で新鮮だ。けれど見下ろしたつむじの形は、大きなマイティも小さなマイティも同じだったから、ああ、本当にマイティなんだな、今になってじわりじわりと実感が湧き上がってくる。

「さっきも言ったけど、オレはアルド。マイティの、未来のきみの仲間だよ」

改めて自己紹介から始めれば、小さなマイティはアルドをまじまじと見つめてこてりと首を傾げる。

「僕の仲間ってことは、お兄さんも夢魔狩りなの? でも僕、お兄さんみたいな人、見たことないよ」
「いいや、オレは違うよ。たまに手伝うことはあるけどな」
「ふぅん」

けしてまだ信用されてはいないようだ。疑念と警戒があからさまに声色に宿っている。そう簡単には気を許しては貰えないらしい。
いつもほわほわと笑っているマイティらしくないように見えて、すごくマイティらしいな、アルドはこっそりと思う。誰に対しても穏やかでのんびりとした態度を崩さないマイティだけれど、あれでいて意外と警戒心は強い。にこにこと笑う顔の下で冷静に相手を観察して、のらりくらりとした態度で自分自身は掴ませないまま状況を推し量るのが上手いのだ。
だから隣の小さなマイティの態度はアルドにはとてもしっくりと馴染むもので、まだ警戒を隠す術を身につけてはいない幼さが余計に可愛く見えてしまう。明らかにこちらを探っていると分かるマイティから投げかけられる質問に、ほいほいと上機嫌で答えてしまうくらいには。
仲間ってどういうこと、いつも何をしてるの、どこに住んでいるの、夢魔狩りのことをどこまで知ってるの、僕はどうしてお兄さんの仲間になったの。
矢継ぎ早に飛んでくる疑問、一つ一つに答えを返す度、小さなマイティの表情がくるくると変わる。本当のことかな、信用できるのかな、悩んでいるのが手に取るように分かるその様に、マイティはかわいいなあ、うっかりと呟いてしまいそうになったけれど、さすがにそれを口にしてしまえば小さな彼の機嫌を大いに損ねてしまいそうな気がしたから、ぐっと飲み込んで堪える。

一通り質問が終わった頃には、どうやらアルドは一応それなりに信用していい分類に入ったようだ。少年の剥き出しの警戒心が、また少し薄くなる。そういうところも、まだ随分とマイティよりも幼い。マイティだったら、それと悟らせない態度で当分は警戒を続けることだろう。勿論、小さなマイティにわざわざそれを告げるほどアルドも大人げなくはない。
会話が途切れたタイミングを見計らって、今度はアルドの方から質問を投げかける。ここに来る前は何をしていたのか、体に不調はないか、今はいくつなのか。アルドから夢魔狩りのことに触れようとすると、目に見えて警戒が跳ね上がってしまったので、そこには触らないように。
ここに来る前に何をしていたか最初は答えてはもらえなかったけれど、アルドが特に気にした風もなく次の質問に移ると、小さなマイティは意外そうにぱちぱちと瞬きをした。そして今は九歳だと答えたあと、じっとアルドを見つめた少年は、あのね、改めて一つ目の質問の答えを口にする。

「夢に入る訓練をしてたんだ。それで気づいたらここにいて、びっくりしちゃったんだけど、さっきのおじさんが言ってたの、聞いたことがあったの」
「おじさんって、あのマスターか?」
「うん、そう。あのね、どこかに全ての夢に通じる不思議な場所があって、それで時々、僕たちの中にそこに行っちゃう人がいるんだって。もしもそこに行っちゃったら、あちこち行かずにじっと待ってなさいって、そしたら帰れるんだって」
「へえ。ああ、だからさっき、納得してたんだな」
「うん、おじさんのお話、僕が知ってるのと一緒だったから」

それでやっと、先ほどのマイティの態度が腑に落ちる。元々持っていた知識とマスターの言葉が重なったから、一先ず現状を受け入れることが出来たのだろう。
しかし九つか、聞いたばかりの年齢を胸の中で繰り返し、アルドは隣のマイティを見つめてしみじみとする。膝の上で握りしめたままの手も、頭も肩も何もかも小さいのに、この小さな体で彼は既に自分の使命と向き合っているのだ。短いズボンから覗く膝小僧はつるりとしていて傷一つないのに、アルドのよく知るマイティに繋がる道を少年は歩き出している。そう思うと愛しさと切なさの入り交じる気持ちがこんこんと胸の奥から湧き上がり、きゅうと心臓が締め付けられる。

「すごいな、マイティは。まだこんな小さいのにもう夢に入る訓練してるんだろ? オレがマイティくらいの時は、毎日ダルニスたちと遊んでたぞ」
「別に、すごくないよ」
「そうかな、オレからしたらすごいけどなあ。ああそうか、オレの仲間の大きいマイティが強くて頼りになるのは、マイティがいっぱい頑張ったからなんだな」
「……大きくなった僕、強くて頼りになるの?」
「ああ、すごく! いつも助けられてばっかりだよ」
「へえ、そうなんだー……」

だから、すごいな、と素直に思ったことを口にすれば、マイティがむうっと唇を尖らせる。もしかしたらマイティからしたら当たり前のことで、殊更に褒められるようなことではないのかもしれない。
それでもやっぱり、正直な気持ちを隠すことは出来なくって重ねて伝えれば、尖らせた唇はそのまま、マイティの視線がうろうろと落ち着かない様子であちこちを彷徨う。よくよく見れば、髪の間から覗く小さな耳はほんのり赤くなっている。どうやら照れているらしい。少なくとも、嫌な気持ちにはなっていないようだ。
そんなマイティの反応に気をよくしたアルドは、どれだけマイティが頼りになるのかを小さな彼に語って聞かせてやった。少年の態度に触発された部分はあったけれど、嘘は一つもない。全ていつもアルドがマイティに対して思っていることを、包み隠さず伝える。

「もう、分かったよー……。お兄さん、僕のことが大好きなんだね~……」
「もちろん!」
「ううう~……」

あの時はどうだった、この時はこうだった、どれほど語っても尽きることのないアルドが語るマイティの話に、ついに少年が弱りきった声で制止をかける。耳たぶはもう隠しようもないほど赤く染まっていて、頬も真っ赤になっていた。せめて、とでも言うように悔しさと恥ずかしさの滲んだ声で告げられた大好きを寸分置かずに肯定してやれば、少年は呻き声をあげて俯いてしまった。
まだまだ、聞かせてやりたいことの半分も語ってはいなかったのにな。中断された話をちょっぴり残念に思いつつ、照れて恥ずかしがっている彼にこれ以上追い打ちをかけるのも可哀想な気がして、残りを口にする代わりにぽんぽんと頭を撫でてやる。項垂れていた彼が、頭に触れた途端に微かに頭を動かして手のひらに押し付け、まるでもっと撫でてとねだるように擦り寄ってくるのがとても可愛らしくてたまらない。
しばらくそのまま小さな頭を撫でていれば、ハッとした様子でマイティが顔をあげてアルドを見る。

「ねえお兄さん、これって実はお兄さんの夢だったりしないよね?」
「うん? ああ、違うよ。とんでもなくって夢みたいな話だけどさ」
「良かったぁ~」

頬の赤みはまだ引かないまま、けれど真剣な顔つきで尋ねるマイティに、こくりと頷いてやるとへにゃりと表情を緩めてほっとしたように笑う。

「僕、まだ薄くするおまじない、上手に使えないんだー」
「薄くするおまじない?」

ぽつり、少年が呟いた言葉を拾い上げて繰り返せば、彼は警戒を再び取り戻すことなく安心した顔のまま話し始める。

「あのね、夢は無意識に繋がる道なんだ。だから僕たちは、気をつけなくっちゃいけないんだよー」
「どういうことだ?」

もう随分と気は許して貰えたらしい。少年の態度を嬉しく思いながら、アルドが聞けばマイティは、うーん、しばらく考え込む。

「ええっと、ケーキの夢を見たらケーキを食べたくなることがあるでしょ? それとおんなじでね、僕たちが夢に入ってこわいものをやっつけると、僕たちのことをすごいって思っちゃう人が出てくることがあるんだよ。そうならないように、夢のことは忘れないまんま、僕たちのことだけ薄くするおまじないがあるの」
「すごいって思っちゃだめなのか? オレならちゃんと覚えていて助けてくれた人にお礼言いたいけどなあ」
「んんん、えっとね、起きた人は、ケーキのことは知ってるけど僕たちのことは知らないよね。それでね、全然知らない人のこと覚えてたらびっくりしちゃうでしょ? だからダメなの」

そして小さな彼が教えてくれた話は、浮かれていたアルドの心を一気に地に引き戻すだけの十分な威力があった。
だってアルドはマイティが、どれだけ懸命に人々の夢を守ろうとしているか知っている。どんな相手にだって隔てなく、その夢と心を夢魔から守り通すべく駆け回っているかを知っている。日中どこでも寝てしまうくらい自身の睡眠を削って人に尽くしているのに、最初はアルドも誤解していたようにその姿が正しく理解されることはなかなかなくって、束の間に休息に微睡む姿に呆れた目を向けられる事も少なくはない。
そんなマイティの姿をただでさえもどかしく思っていたのに、助けた人達の記憶から自分の姿を薄くするおまじないなんてものまで存在していたなんて。そんなことをしたらますます、マイティや彼の一族の人々への献身は誰に知られることもなくなってしまう。あんなに努力をしているのに、誰かに認められることがなくなってしまう。
アルドにはそれがひどく悲しいことに思えてしまった。それをマイティが、こんな小さな頃から当たり前だと思っていたことが、やるせなくって悔しくてたまらない。

「大丈夫だよ、ぜんぶ消えちゃう訳じゃないからちょっとは覚えてるよ。なくなるんじゃなくって、薄くなるだけ。だから覚えてる人はなんとなく覚えてて、たまにありがとうって言ってもらえることだってあるんだって。だからそんな顔しないで、お兄さん」

よっぽど情けない顔をしていたのだろうか。マイティが慌てた様子で言葉を連ねてゆく。こんな小さな子供に気を遣わせてしまうなんて申し訳ない。けれどじゃあ安心だな、と頷いてやることも出来なくって、せめてもの気持ちを伝える。

「……もしも誰かが忘れてしまっても、その誰かの分までオレが覚えてるよ。マイティが沢山の人の夢を救ってること。マイティがどれだけすごいことをしてるのかってこと」

言葉だけではとても足りない。膝の上の小さな手をそっと両手ですくって握りしめ、抱く気持ちが余すことなく届くように願う。それでもまだ足りていない気がしたから、マイティの小さな手を包んだまま両手をそっと掲げて額につけた。
どうか、どうか、彼が夢の狭間で一人きり、寂しくて辛い思いをすることがないように。
どうか、どうか、祈りを捧げるがごとく。

ぎゅっと目を瞑って伝われ伝われと念じていると、ふっと空気が緩んでマイティが笑う気配があった。

「……えへへ、ありがとう、お兄さん」

そしてくすぐったそうな声でマイティがそれを言い終えたと同時。握った手の中、小さな手の感触がふっとかき消える。驚いて目を開ければ、さっきまでそこにいた筈の少年の姿が影も形もなくなってしまっていた。

「マイティ……?」
「どうやら、無事に帰れたようだね」

消えた少年がどこにいってしまったのか、焦ってきょろきょろと周囲に視線をやれば、いつの間近づいてきたのかすぐ傍に立っていたマスターが、穏やかな声音で少年の行方を示唆する。確信に満ちた音は、疑いを挟む余地なくそれが真実なのだと信じられるだけの説得力があった。

「そうか、帰れたのか……」

開いた両手を見つめて、アルドは呟く。不安に揺れていた少年の瞳を思い出せば、ちゃんと帰れて良かったなと思うのに、ほんの少しだけ。
跡形もなく消えてしまった小さな手のぬくもりが、名残惜しかった。




マスターを疑った訳では無いけれど、自分の目で確認しないと安心は出来ない。
だから次の日、マイティの仕事が終わって仮眠から起きた頃合を見計らって、IDAの寮の彼の部屋を訪ねたアルドは、眠たげな顔であくびをしながら変わらぬ姿で迎えてくれたマイティを見て心底安心したあと、時の忘れ物亭で出会った少年のことについてざっくりとかいつまんで話した。

実は小さなマイティに、一つだけ伝えなかったことがある。それはアルドにとってマイティは仲間であるだけでなく、恋人であるということ。嘘をついた訳じゃない。けれどさすがにまだ声変わりも済んでいない少年に対して、未来のきみはオレの恋人なんだ、とは言えなかったのだ。

最初のうちは相槌とも寝ぼけてるとも分からない調子でゆらゆらと頭を動かしながらうんうんと頷いていた寝ぼけ眼のマイティだったけれど、話が進むにつれて眼差しが真剣みを帯び始める。そうして無事小さなマイティが帰れたこと、マスターは大丈夫だと言っていたけれど心配だったから、念のために様子を見に来たことまで告げれば、うううう、マイティが小さく呻いてぼすりとベッドに倒れ込んで枕に顔を埋める。

「やっぱり覚えてたんだな」
「ううん、全然覚えてないよー」
「ええ? でも覚えてないにしては反応がおかしくないか?」

幼いマイティよりもずっと心を隠す事が上手になってしまったマイティが、明らかに動揺している様をみて幼い彼とアルドの邂逅の記憶が残っているのだと判断したけれど、当の本人はきっぱりと否定する。覚えているのを誤魔化しているにしては、様子がおかしい。嘘ではなく、本当に覚えていないようだ。
けれどただそれだけでもない、何か思うところもある、といったところだろうか。まだまだうまく躱されてはぐらかされてしまう事も多いけれど、恋人としてそれぐらいは見分けられるようになった。

「多分ね、次元の狭間から帰る時に僕の夢を通ったんじゃないかな……だから夢として処理されちゃって、覚えてないんだと思う……でも覚えてないけど、心当たりはあるんだよね~……」

枕に埋まったままぼそぼそと喋るマイティの言葉はひどく聞き取りにくい。耳を澄ましてどうにか全てを拾い上げながらゆっくりとベッドに近づいてゆけば、じろり、顔だけ枕から上げたマイティに睨まれてしまう。

「アルド、小さい僕にすっごく優しくしたでしょー……」
「そんなことはないと思うけど……普通に、迷子を相手にするみたいにしただけだぞ?」
「アルドの普通はダメだよ、優しすぎるもん……」

ぶすり、不貞腐れた声はとても不機嫌に聞こえるけれど、怒っている訳ではないようだ。ほんのりと赤く染まった頬が、それが照れ隠しだと教えてくれている。

「夢は、無意識に繋がる道なんだ」
「ああ、それ、小さいマイティも言ってたな」

そしてマイティが口にしたのは、少年が言っていたのとそっくり同じ言葉。やっぱり彼はマイティだったんだなと実感して、アルドが微笑めばマイティがつんと唇を尖らせる。その唇の形も、小さな彼と同じ線を描いている。
寝転がるマイティに近づいたアルドは、ベッドに腰かけるとむくれた彼の頭をよしよしと撫でてやった。尖らせた唇は引っ込まないままなのに、触れた瞬間ぐいと押し付けられる頭の動きも、やっぱり小さなマイティとそっくり同じ。

「……昔の僕にも、こういうことした?」
「うん、頭は撫でたけど」

特に隠すようなことでも無かったからすぐさま頷けば、マイティが呆れたようにわざとらしく大袈裟なため息を吐き出す。

「何も覚えてないけど、分かるよ。……昔の僕、絶対、アルドのこと好きになっちゃったんだよ。アルドの普通が、すごく優しすぎるせいで」
「ええっ?! さすがにそれはないだろ……」
「それがあるんだよ……」

確かに。時の忘れ物亭で出会った直後には分かりやすく毛を逆立てていた小さなマイティが、しばらくすればちょっぴり気を許してくれたような気はしたけれど、さして長い間一緒にいた訳じゃないし、それほど特別なことをした記憶もない。だからマイティが言うように、あの短期間で特別に好意を抱かれるなんてまさかそんなこと、ある筈がないと思うのにマイティの主張は変わらない。

そうだよね、そんなことある訳ないよね、と頷く代わりに尖らせた唇をますます突き出して、そして。
だって。拗ねた響きでもう一度、マイティが繰り返す。

――夢は、無意識に繋がる道なんだよ。

だから僕、じとっとした目つきはそのまんま、頬の赤みをますます増したマイティが囁くように呟いた。

――だから僕、初めて会った時からアルドのこと好きだったんだ。

そうして数秒置いた後。
ようやく意味を理解したアルドもまた、マイティと同じ色にかあっと頬を染めたのだった。