秘密


「マイティってもしかしてさ、眠るの、あんまり好きじゃないのか?」

少しばかり無理をしている自覚はあった、ちゃんと。
前日の仕事では、想定していたよりもかなり深く夢魔が夢と結びついていて、ようやく穏やかな夢を取り戻せた時には既に夜は明けていた。それほど強い相手ではなかったものの、小賢しく立ち回りするりするりと逃げるのが上手い夢魔で、長引いた時間の分だけ体力も精神も磨り減っていた。
けれどまだやれると思った。もう少しくらいなら、いけると思った。あとちょっとなら、問題なく動けると思った。
だからそのまま仮眠をとることなく、アルドたちと合流して向かった青い扉の向こうの火山の中。
うまく隠していたつもりだったのに、中程にも進まないうちに不調を疑われてしまう。そんなことないよ、否定の言葉と共に首を振ったタイミングで、くらりと目眩がしてよろけてしまったのも良くなかった。
すぐさま慌てた様子のアルドがマイティを背負いながら、撤退の指示を飛ばす。反対する声は一つも上がらず、あっさりと退くことが決まった。
まだ大丈夫だよ、アルドの耳元で囁いたけれど、そうかと頷いてはくれなかった。調子が悪いのにすぐに気づかなくてごめんな、と逆に謝られてしまって、ううんと首を振るけれど、どことなく強ばったアルドの雰囲気は硬いまま和らいではくれない。
それでようやく、マイティは己の失敗を悟る。

(ああ、失敗しちゃったなあ……)

まだやれるというのは嘘じゃない。おそらくは無理を押せば、最奥まで進む事も不可能ではない。
だけどそれは、アルドたちに心配をかけてまで通す意地ではなかった。うまく不調を取り繕えないくらいには自身が消耗していた事を、ここに来てマイティはようやく認める。
一人なら問題なかった。顔色が悪くたって少しよろけたって、目的が達成できればそれでいい。万が一不調に足を引っ張られても、その影響を仕事に及ぼすほど緩んでいるつもりはない。せいぜい自分の傷が増えるくらいで、自業自得で済ませられる範囲。手痛い教訓として身に刻めばそれで終わる話だ。
だけど今は仲間がいる。もしもマイティが失敗すれば、その皺寄せを受け取るのはきっと、マイティ自身ではなくアルドか、他の仲間の誰かだ。マイティがそれを受け止める前に、誰かが当然のように庇いに入るだろうことは目に見えていた。自分の不手際で誰かに傷を負わせるなんて冗談じゃない。
それに、戦闘の事だけじゃなくて、もっと単純な話。
心配をかけてしまったのが、心苦しかった。
纏う空気は硬いままなのに、マイティをおぶって歩くアルドは、なるべく揺らさないようにとの気遣いかいつもより慎重に歩いている。太股に回った手は落とさないようきっちりとマイティを抱えているのに、締め付けすぎないように調整されていて、どこまでも優しい。全身でマイティの事が心配だと告げていて、撤退への心残りなんて欠片も見えないアルドの姿を視線からも触れた体温からも感じ、マイティはしゅんと肩を落とす。
表情までは見えないけれど、きっとアルドは難しい顔をしているのだろうと分かる。
でもそんな顔をさせたい訳じゃなかった。少しでも役に立ちたかったのに、笑ってほしいのに、こんなつもりじゃなかったのに。
口に出さない後悔をほつりほつりと胸に宿らせ、言葉にはしないままきゅっと奥歯を噛み締めて、一言だけ。
ごめんね、とアルドの耳元に囁いて、静かな歩みに合わせて微かに揺れる背中の上。後でもう一度改めてみんなに謝ろうと決め、ゆらゆらと薄い眠りに思考を浸した。


連れてゆかれたのは次元戦艦の仮眠室。
ベッドの上に丁寧に寝かされてブランケットをかけられ、ぽんぽんと胸のあたりを叩かれる。
ありがとうと礼を言い、手が離れていってから、寝返りを一つ、二つ、三つ。
そうして四度目、ごろりと身体を転がしたタイミングで。
未だ部屋に留まっていたアルドが、冒頭の言葉を口にしたのだった。

「……どうして? 微睡むのは、好きだよ~」

答えてから、しまった、と少しだけ後悔する。笑い飛ばせば良かったのに、躊躇いの滲んだ問いかけはまるでそれが図星だと言っているように響いたから。
急いで付け加えたのは、本当のこと。嘘偽りのない本心で、どれだけ掘り返されても自信を持って好きだと断言できるもの。
もしも重ねて何か聞かれれば、そちらの本当のことに焦点をずらしてしまえばいいと思って、身構えている事を悟られないようにマイティは柔く微笑んだ。

「ああ、うん。うとうとしてるのは、いつも気持ちよさそうだなって思ってるだけど。何ていうか、こうやって横になって寝るの、あんまり好きなようには見えなかったから」

けれどアルドは、それらを混同せずにきっちりと見分けて扱った。マイティの言葉を否定することはせず一旦同意してから、それでもともう一度首を傾げてみせる。
気のせいじゃないかな、と誤魔化すことは出来た。
度の過ぎたお人好しを体現したようなアルドだけれど、踏み込んで欲しくないとの意思を見せれば無理に暴くような真似はしない。マイティがそんな素振りを見せれば、気にする素振りはしつつも深追いはせずに引いてくれただろう。

「そうだね、深く長く、眠るのは苦手かも」

だけどマイティは、否定の代わりに正直な気持ちを口にする。
アルドがマイティに向けた視線があまりにも真っ直ぐで、そこには詮索や好奇心がちっとも滲まない、ただひたすらにマイティを案じる気配だけが浮かんでいたから。
本当のことを言っても、悪いようにはならないんじゃないと思ったから。
もしかしてどこかで、アルドなら大丈夫だと甘えに似た信頼も混じっていたのかもしれない。

「理由を聞いても構わないか?」
「……死んでるのか生きてるのか、分からなくなるから」

控えめな言葉の裏に、言いたくなければ言わなくていいんだぞ、との気遣いを読み取って、マイティは小さく笑う。あまりにもマイティが想像した通り、今まで見てきて内側に積み上げたアルドという人物像そのまんまで、アルドになら話しても大丈夫だと安心する気持ちが強くなる。
だから、話した。今まで誰にも話したことのなかった、秘密を。
言葉にして自分の耳で聞くのすら初めての気持ちを、音にしてアルドにだけ伝える。
アルドはマイティの言葉にすぐにはピンとは来なかったようで、どういうことだ? と不思議そうな顔を隠しもしない。
そういう正直すぎるところも、アルドを好ましいと思う部分の一つだった。もしも上辺だけ分かった振りで取り繕われれば、先を話す気が失せていたかもしれない。
そんなアルドの反応にまた安心感を得て、マイティは続きを口にする。

「周りの音を聞きながらうとうとしてる間はねー、半分寝ててもいろんな気配が感じられるから、そういう気持ちにはならないんだ。でも、そこより深いとこに沈んじゃうと、真っ暗に塗りつぶされた世界に意識が飲み込まれてしまうから。気づいたら時間だけがすぎていて、その間の記憶がぷっつりと途切れてる。ハサミで切り取ったみたいに、そこだけ何にも残ってないんだ。だから僕はもしかしたら、寝てたんじゃなくて死んでたんじゃないかって。そんなこと、思っちゃうんだよね~」

怖いというのは少し違う。
けれど幼い頃からずっと、長く眠って起きた後には言いしれない違和感がついて回った。
目を瞑って意識を失い、再び目を開ければ時間だけが進んでいる。その間の事を思い出そうとしても、何も残ってはいない。昨日と今日が真っ暗な闇で、あるいは闇すらも存在しない無そのもので塗り潰されたような気がしてしまう。消えてしまった時間が長引けば長引くほど、目覚めたあとに抱える居心地の悪さが大きくなる。
死ねば何も思わなくなる、何も見えなくなる、何も感じなくなる、らしい。それが眠りとひどく似ていると気づいてからは、ますます違和感は酷くなった。眠ろうとする度に本当に起きられるのか心配になって、目覚めた後も安堵の代わりに切り取られた時間に思いを巡らせてはすっと胸が冷たくなる、その繰り返し。
もしかしたら他の人たちはその闇を、夢で埋めて明日へと繋ぐのかもしれない。だけど夢を見ないマイティにとって、眠りはあまりにも死に近しくて、意識する度に底なしの闇を覗き込んでいるような心持ちになった。
完全に眠ってしまわない状態なら、なんとなしに過ぎる時間を感じることが出来るおかげで、目覚めた後の違和感が小さくなると気づいてからは、小刻みに微睡んで体力を回復させるようになった。周りが賑やかなら一層、その傾向が強いと気づいてからは積極的に音のある場所を探してうつらうつらと船を漕ぐようになった。

だから、外で微睡むのは好きだった。
響く人の声に背を預けて眠れば、完全に沈んでしまう事なくうっすらと外の音が聞こえる狭間で留まる事が出来る。
夢の代わりに、生き生きと暮らす人達の気配で今を明日へと繋ぐ事が出来る。
そんな彼らの何気ない日常の息遣いが愛しくてたまらず、守りたいと心底願って、胸に抱いた決意をより一層固く結ぶ事が出来る。
シータ地区の街角、スカイテラスのベンチ、シティ・イーストのオープンカフェ。仕事終わりに眠気に襲われたら、人の多い場所に行っては仮眠をとるのが習慣になっていた。
その後にスクールに顔を出しても、授業を受けながら机に頭を凭せて眠るのなんてまさにうってつけのシチュエーションで、なかなか起きていられない。絶えず響く教師の声が現実に繋ぎとめてくれるし、眠りすぎたって授業が終われば起こしてもらえる。おかげですっかりと一部の教師には目をつけられてしまい、遅刻せずに最初からきちんと授業に出ても単位を貰えない事もままあるけれど、止められそうにもなかった。
今日だって本当はアナザーダンジョンから出たあと、素材を確認がてら次元戦艦の一室でみんなで戦闘を振り返る最中に、微睡もうと思っていた。共有スペースにもなっているその部屋にはいつも誰かしらが出入りしていて、絶えず人の気配があると知っていたから。残念ながらその前に不調に気づかれてしまって、予定は大幅に狂ってしまったけれど。

それでも定期的には、纏まった睡眠を取らなければ身体が持たないのも事実だ。
たまたまそれが今のタイミングでやって来てしまっただけの事だ、とアルドに話すうちにある程度気持ちの整理がついたマイティは覚悟を決める。言い知れぬ不安が消えた訳では無いけれど、口に出して話したことで少しだけ胸が軽くなった気がして、いつもより目覚めた後の違和感が小さくて済むような予感がした。

マイティの話に黙って耳を傾けるアルドの表情は真剣で、何事か考え込んでいるように見えた。心配をかけたい訳じゃないし、どうせなら笑っていてほしい。だけど今だけはその、眉間に寄った皺の分だけ秘密を一緒に抱えてもらった気がして嬉しかった。
最後にそんなアルドの表情を目に焼き付けようとじいっと見つめてから、ゆっくりと瞼を閉じる。
そのまま数度静かに呼吸を繰り返したタイミングで。
瞼を透かしてもなお、僅かに明るい部屋の光が何かで遮られて陰った。
何だろう、目を開けて確認する前に、ガガガと床が擦れる音がして、ベッドの近くにアルドが座った気配があった。そしてブランケットからはみ出た手のひらが、温かいものでふわりと包まれる。
さすがに驚いてぱちりと目を開けば、マイティの手をアルドの右手が握っているのが見えた。動かした視線が宙で噛み合えば、アルドの目尻が下がり握る指に力が入る。

「少しは落ち着くかなと思って。ほら、こうしたら脈が聞こえるからさ」

アルドの言葉で意識を手のひらに移せば、どちらのものともわからない血潮の音が、とくんとくんと指先を震わせている事に気づく。
死んでたら心臓は止まっちゃうだろ、だから心臓の音が聞こえてれば死んでないって分かるんじゃないか、とマイティの手をやわやわと握りながらアルドが言う。

「やっぱり寝た方がいいと思うんだ、身体も疲れてるだろうし。でも、不安なのは良くないだろ?」

だからどうすればいいか考えたんだ、心なしか得意げに瞳をいたずらっぽく煌めかせながら告げるアルドは、まるで小さな子供みたいに無邪気な表情を浮かべている。
けれど目尻を下げてやんわりと微笑むと、途端に子供っぽさは消えて一気に大人びた温かさが滲んだ。
フィーネを見つめる時と同じ色、兄の顔をしたアルドがふんわりと優しい声色でマイティを包む。

「マイティが眠ってる間、ずっと手を握ってるよ。それで、ずっと見てる。マイティがちゃんと生きてるってこと、オレがちゃんと見張ってる」

それじゃダメかな、最後に少し自信がなさそうに付け加えて眉尻を下げたアルドの手を、ぎゅっと握り返した。
力を込めた分だけ、伝わる脈の音が大きくなる。どちらのものか分からない音が二つ分、とくとくとずれて指先に響くのを感じで、マイティはふにゃりと頬を緩めて笑んだ。
ダメじゃないよ、すごく安心する、と呟けば、下がった眉尻はそのままにアルドの口元が嬉しげに綻んだ。

「そうだ、人の声があった方がいいんだよな……ちょっと恥ずかしいけど、子守唄でも唄おうか? それとも何かの話の方がいいか?」
「ふふふ、どっちも聴きたいなあ」

そうしてしばらく、握った右手は離さないまま、空いた左手でぽすんぽすんとマイティの胸元を叩いていたアルドが、はっとしたように手を止めてそんな事を言い出したから、ついつい笑い声が漏れてしまう。
どちらも、の言葉に少し考え込んだアルドは、よし、と頷いて、ごほん、咳払いをした。直後に短い鼻歌が聴こえたから、どうやら子守唄を歌ってくれるらしい。
けれど満を持して開いた口から飛び出した歌い始めの音は、元々の曲を知らないマイティでも分かるくらい、盛大にひっくり返っていた。

「……やっぱり、話でいいか?」

すぐに口を閉じてしまったアルドの頬はほんのりと赤く染まっていて、照れているのがはっきりと分かる。思わず噴き出しかけたけれど、唇をきっと結んでどうにか堪えながら、勿論、と微かに頷いて促す。
マイティの返事にほっとしたように息を吐き出したアルドは、まだほんのりと赤みを帯びた頬のまま、穏やかな声色で物語を紡ぎ始めた。

むかしむかし、あるところに三人の王様がいました。

子守唄とは違って、静かに流れ出した語り口はひどく流暢で途中でつっかえることも無い。それこそまるで歌のように、滔々と編まれる言葉は耳に心地よく眠気を誘われて、もっと聞いていたいのに次第に瞼を開けているのが難しくなって、とうとう目を瞑ってしまう。
閉じた瞼の裏にはなぜか、今のアルドと幼い頃のアルドが交互に浮かんでいた。きっとフィーネ相手に語った物語を聞かせてくれているのだとぼんやりと理解して、握られた指先がますますじわりと暖かくなった気がした。
アルドの大事な想い出を、共有しているようだった。
その声に身を委ねるうちに脳裏に浮かんだ情景には、小さなアルドとフィーネがいて、その隣には小さなマイティまで行儀よく座っている。みんなにこにこ笑っていて、時折アルドの小さな手がフィーネの頭を撫でてから、マイティの頭まで撫でてくれる。
夢を見ることはないけれど、その想像はまるで夢みたいに甘くて優しかった。

そんな夢想もすぐにばらばらに解けてゆき、急速に膨らんでゆく睡魔に思考すらもままらなくなってゆく。
最後、現実と眠りの狭間の底。深い眠りに飛び込む手前で覗き込んだ深淵は、いつも通り黒とも白とも分からない無の色を称えてぱくりと口を開いていたのに。いつもなら、可能な限りそこを飛び越えてしまわないよう気をつけていたのに。
なぜだか今はそこが仄かに暖かくて、柔らかな気配に包まれているように見えたから。何も無いそこを、微かに聞こえるアルドの声が隅々まで埋めてくれているように思えたから。
もう殆ど意のままにならない身体、唇を僅かに緩めて微笑んだマイティは。
躊躇いもなく縁を蹴りつけ、深い眠りへと自ら飛び込んだ。