「ばっかじゃないの」


ふ、と。
風もないのにふわり、つむじの辺りを柔らかく撫でられたような気がして、アルドは何気なく後ろを振り返った。
そうして振り向いた先、見つけたのはセティーの姿。
じっとその目を見つめても、視線が噛み合うことはない。ごくごく自然な動作ですいと横を向いたセティーは、まるで最初からそちらを向くのが目的だったようで、アルドの事なんて見てはいなかったかに思える。実際、何度かそんな判断を下して、全てを気の所為で片付けたこともあった。

けれどそれでもアルドが視線を外さないでいれば、ちらり、横を向いたままのセティーが眼球だけを微かに動かして、アルドの方を見る。その瞳をがちりと捉えれば、動揺したようにセティーの瞳がせわしなく動いて、そして、瞬きを二度。
改めてアルドの方に向き直ったセティーは、どこか不機嫌そうに唇をきゅっと引き結んでいるようにみえる。
だけどまた二度、瞬きをしてから大きく息を吐き出すと、固く結ばれた唇がふっと緩んで眉尻が下がった。
気恥ずかしそうな、照れくさそうな、取り繕ってきりりとした表情を作るのを失敗したような、そんな顔で。
へにゃり、頬を緩めたセティーが目尻を下げて笑う。
いつもの、仲間に笑いかける顔とは全然違う、悪戯が見つかってバツが悪そうに笑う幼子みたいな表情で。
困ったように笑うセティーにつられてアルドもふっと笑うと、反応はますます劇的に。
驚いたように目を瞠って、ぴたりと固まった視線をアルドの顔に貼り付けて、それで。
ぱちり、瞬きを一つ。
そのまま僅かに視線を伏せて、じっと足元を見つめてから、再びアルドへと目を向けると同時に。
また、セティーが笑った。
照れくさそうなのは変わらない。けれどさっきとは違って、気まずさの色を取り払ったそれは、分かりやすく喜色で染まっていて。

アルドと目があっただけで、少し笑っただけで、そんな風に幸せそうに笑むセティーの姿を見る度に、言葉より雄弁に、噛み砕いた説明よりも分かりやすく、好きだと告げられている心持ちになる。
家族への愛情とは違う、友達や仲間への親愛とも違う。
特別な好意を向けられているのだと、身をもって理解してしまう。


恋人になってほしい、とひどく真面目な顔で告げたセティーの申し出を、アルドは一度は断った。
セティーのことは好きだったけれど、それは仲間みんなを好きなのと同じように好きなのであって、きっとセティーが向けてくれている好きとは種類が違うと分かっていたから。それに、アルドにはまだ、たぶん、恋というものがよく分かってもいなかったら。
好きな人はいっぱいいて、みんな大切で大事にしたいと思っているけれど、恋、となると途端に分からなくなる。物語の中や、実際出会ったことのある恋人たちを通じて、それが特別な気持ちである事は理解していたものの、アルド自身に心当たりがちっともないから本当のところ、具体的にどんな気持ちなのかさっぱりと想像がつかなかった。

だから、ごめん、そういうのはよく分からないから、と頭を下げたアルドのことを、セティーはけして責めなかった。そうか、とあっさりと頷いて、あまり気に病まないでくれ、なんてアルドの事を気遣ってさえくれた。
けれど、一つだけ。

「想うことだけは、許して欲しい」

にこやかに笑いながら、しかしどこか怯えを含んだ控えめな声で、告げられたセティーの言葉を、具体的に何を意味するのか分からないまま、アルドは戸惑いとともに受けいれた。
恋についてよく理解は出来ないものの、片想いは辛いものだと物語の中でよく語られていたからぼんやりと知っている。だからそれはセティーが辛いだけじゃないか、さっさと忘れる方がセティーのためなんじゃないか、そうも思いはしたけれど、セティーの心の中までアルドが縛り付ける権利はないとも考えたから。
報いれないことを申し訳なく思いつつ、セティーがそれでいいなら、と頷いた。

それからだ。
アルドが、自身に向けられたセティーの視線を感じるようになったのは。

もしかしたら今までも、同じように見つめられていたのかもしれない。アルドがそれに気づいていなかっただけかもしれない。
気に病まないでくれ、とは言われたけれど、やっぱりどうしたって心に引っかかるものはあって、前よりもセティーを気にする機会が増えた分、視線に気づく事が増えただけかもしれない。
それでも告白を契機に明確に、セティーの視線を捉える回数が格段に増えた。

それほどあからさまではない。気のせいか、で流してしまった事も多くって、ささやかにそっと向けられた視線はひどく儚げでいじらしい。
そんな控えめな視線にアルドが気づけばいつも、セティーは少し決まりが悪そうな顔をして、最後には恥ずかしげに笑うのだ。見つかってしまった、我慢が出来なかった、そんな風に唇を緩めて、柔らかく目を細める。
その表情を見る度に、アルドは理解を深めてゆく。
人を好きになるというのはこういうことなのかと、実感が薄い膜のように心の内に積もってゆき、言葉にならない感覚が、知らなかった特別な愛情の意味が、アルドの中で徐々に形作られてゆく。
養い親から向けられた慈しみに満ちた眼差しとも違う、街中で偶然出会った仲間が破顔して大きく手を振る時とも違う、全てと少しずつ似通っていて、まるきり性質が違うもの。

まだはっきりと、自分の言葉で説明はできない。これこそがそうだと、確信を持つことはできない。
けれど段々と分かり始めたそれを、たとえば眠る前、思い返して噛み砕いて飲み込もうとしてゆくうち、ちゃんと理解したいと向き合ううち、その眼差しに含まれた気持ちの一部がアルドにまで移ったような錯覚を覚え始めている。
ぱちり、交わった視線の先、セティーが瞬きをする度にざわりと胸が騒ぐ。堪えきれない喜びの滲んだ笑みを向けられると、むずむずと喉元がこそばゆくなって、アルドまで照れくさくなる。
見られている気がして振り向いても誰もいない事も増えてきて、セティーがいない時にまでその視線を意識するようになっている。同じ空間にいるのにその目にアルドが写っていないと物足りなくって、セティーがアルドを見つめるのと同じくらい、アルドもセティーを見つめるようになっている。


まだはっきりと、自分の言葉で説明はできない。これこそがそうだと、確信を持つことはできない。
それでも。
少しずつ少しずつ、変わってゆく自身の心の動き、行動一つ一つを積み重ねた先にあるのはもしかして、セティーが向けてくれた気持ちと同じものかもしれないから。
いよいよそうだと確信が持てたその時は、今度はアルドの方からセティーに好きだと告げてみようか。
視線の先にはにかむセティーの姿を捉えながら、ぼんやりと空想してみた未来の光景は、驚くほど違和感がなくって、どきどきと心臓の鼓動が速まった気がして、アルドはそっと胸を押さえた。
まだ十分ではない。でもきっと、もうすぐだ。
ぽっと心に灯った熱を意識して改めてセティーへ向けて笑いかけたアルドの顔は、多分。
セティーが浮かべた表情と、よく似ていた。






他人に好意を抱かせる方法を、知っている。
たとえば視線の動かし方、言葉を紡ぐリズム、適切な距離の取り方、指先の動き一つ。
どうすれば相手に好意的に見られるか、どう動けば誠実に見えるか、どう告げれば相手の心を掴めるか。
大雑把に理解したのは、スラムに移り住んでから、大人達の顔色を伺って生きるようになってから。身につけた技は大抵の相手に通用して、最悪の状況を多少マシにするだけの力を与えてくれた。
磨きをかけたのは、COAの捜査官の肩書きを得てから。聞き込みや潜入調査、尋問等の場において、相手の心に入り込む術は面白いほど有用だった。
心理学の論文や文献を読み漁り、過去の偉人や宗教家の手法を学習して、占い師やカウンセラーのやり方を模倣する。
科学的に裏付けされた人の好意を得る方法を貪欲に吸収して、実践してゆくうち、息をするようにごく自然に行動の端々にそれを忍ばせるのが容易になって、それなりに注意深い相手にすら気取られることなく信用させることが出来るようになった。

だから。
真っ直ぐなその青年の心を、こちらへ向けるのは赤子の手を捻るよりも簡単で呆気なく、故にじくじくとセティーの胸を苛んでゆく。

まず告白して、意識をこちらへと向けさせてから、意味ありげな視線を投げる。
ぶしつけにならないように、けれど意識は常にしてもらえるように、目が合えば相手の好感を得やすい類の笑顔を惜しみなく浮かべる。
たったそれだけで、アルドがセティーを見る視線が徐々に熱を帯び始めた。ちらちらとこちらを意識する素振りをみせるようになって、見つめると照れくさそうに笑うようになった。
あまりにも思惑通りに変わってゆくアルドの態度に、仄暗い優越感と独占欲を覚えて、同時にひどいイカサマをしている気もして、腹の底にずんと重りを呑み込んだような心持ちになる。
だってそれは、セティーが誘導した結果で、アルドが自発的に抱いた気持ちではないから。セティーが仕掛けなければ、アルドがけしてセティーには向けなかっただろう視線だと知っていたから。

ずぶずぶと沈む思考はやがて、己の心にすら疑念の刃を突き立てる。
アルドが特別で、自分だけのものにしたいと思ったのは本当だった。誰にでも等しく笑いかけるアルドの瞳に、自分だけを写したかった。
でもそれは、もしかしたら純粋な恋心とは対極にあるものかもしれない。
アルドの持つコネクションは驚くほど多岐に渡っていて、彼を頼って繋ぎをとって貰えば、より出来ることが増えると知っている。好きだと思ったのは錯覚で、自分の本心は彼の持つ力を利用することにあるんじゃないか、一度自分を疑えば本当にアルドの事を好きなのか、自信が持てなくなってくる。
思いのままにアルドの気持ちを誘導して、うまく自分に傾倒させて、今までの情報源や協力者たちと同じように。利用できるだけ利用するために動いてるのではないか、考える度に自分の本心が見えなくなってゆく。

視線の先、アルドが笑う。
初めのうちに見せていた、戸惑ったような、気まずさを誤魔化すような、へらりとした笑い顔とは違う。
過去にも何度も向けられた事のある種類のもの。それはセティーに好意を抱きつつある表情だと、嫌になるほどよく知っている。
つきん、胸がきゅっと痛んだのは、恋心か罪悪感か。
判断のつかないままセティーは、浮かべた笑顔を崩さぬよう細心の注意を払いながら、ぎゅっと拳を握りこんだ。


そうして。
「ばっかじゃないの。アルドといる時の顔、いつものアレと全然、全っ然違うわよ! デレデレしちゃって、見てるこっちが恥ずかしくなる……。あれが作った顔ですって? 鏡見れば? COAの腕利き捜査官が形無しの、だっらしない顔してるから」なあんて。
行きつけの酒場で偶々顔を合わせた同僚、アルドの仲間でもある彼女に酒の勢いでぽろりと自嘲めいた愚痴を零して。
呆れ顔の彼女にこてんぱんにやり込められて目が覚めるまで、彼の苦悩は続くのだった。