「困ったな」


悪気はなかった。試すような気持ちも、下心だってない。けれど完全な無意識からの行動という訳でもない。そうしようと思いついて、実行に移した。
それにあえて言葉を当てはめるなら、魔が差したというのが一番近いように思う。

フィーネの兄であるアルドは、フィーネ以外の仲間に対しても兄らしい振る舞いをすることがよくある。特に年下の子供たちに対してはそんな傾向が顕著で、頭を撫でて褒めてやったり、休憩の際には一緒に遊んでやったり、好奇心で目を輝かせて元気いっぱいにどこかへと駆けてゆく子供たちが危ない目に遭わないようにと気を配ってやったり、彼らの保護者の顔をしているところをよく見かける。
そんなアルドと仲間たちの姿を見るのは、けして嫌いじゃなかった。当たり前のように差し出される手、穏やかな笑みはどこにでも普遍的にありそうなごくごく普通のものに思えて、その実どこにでも転がっているものではないと知っているから。危機に陥ってさえ、常に背中に誰かを庇うように立ち回るアルドのそれが、体の芯にまで染み付いた習慣のようなもの。それも誰かに取り入ったり機嫌をとるための手段ではなくて、呼吸や歩行と同じレベルのものなのだと傍から見ていればよくよく分かってしまうから、そんなアルドを外側から眺めるのが好きだ。
それに、子供たちも。セティーの時代においてはまだまだ庇護されるべき年齢である子供たちが、既に武器を手にして魔物との戦いに身を投じている。そういう現実だってまた、特別でも珍しいことでもなく、ままあることだとは重々承知しながら、けれどどこかではやるせなさや歯がゆさも感じていたから余計に、彼らがアルドと一緒にいる姿を見るのが好きだった。
過剰に子供扱いする訳でもなく、過度に気を遣う訳でもなく、ちょうどよい距離で兄貴分の顔をするのがアルドは上手い。たとえばセティーの前では、まだ慣れぬ様子で少し取り繕った顔をする彼らが、アルドには肩の力が抜けた顔で笑いかける。きっと彼ら本人も気づかないうちに、アルドの隣で子供の顔をする。
子供が子供としてあれるという普通のことが、当然のようでそうでないこともまた、セティーは身に染みてよく知っていた。そういう立場の子供が、大人から向けられた過剰な優しさに必ず救われる訳ではないとも知っている。敏い子供はこちらが気を遣っていることを察して、相手と同じかそれ以上に気を遣うことだってある。大人として接したい相手の機嫌をうかがって、必要以上に子供らしい皮を被って見せたりもする。時に子供は、大人以上にそういった人の心の機微に敏感だ。
だからアルドの、ごくごく自然な振る舞いを見るのが好きだった。相手を萎縮させ身構えさせるような角も含みもない当たり前の顔で、村で幼い子供たちの兄貴分として振舞っていた日常が見えるような、頭を撫でる優しげな手つきが好きだった。少し不服そうにしつつも、仕方ないなと言わんばかりにその手を受け入れる子供の、僅かに緩んだ頬やむずむずと唇を擦り合わせて恥ずかしげにしている様を見つけるのが好きだった。媚びるための張りぼてじゃない、アルドの態度につられるように引き出された自然さで、年相応の顔ではにかむ子供たちの姿が好きだった。そんな優しい日常がどこにでも転がっていると錯覚出来るような特別さを感じさせない自然さで展開される、彼らのやり取りがとても好きだった。

それは今日も、変わらず存在していた。
戦闘のあと、ぴょんとアルドの腰に飛びついて夢中で何かを話しているレレに優しげな顔で相槌を打ちながら、そんな二人をちらちらと見ていたデューイを手招きして呼び寄せる。そうしてレレとデューイ、二人と言葉を交わしてから、破顔してぐしゃぐしゃと二人の頭を撫でた。嬉しそうな顔のレレと、慌てた声を上げるデューイ。けれどそのデューイも、すぐさまアルドの手から逃げ出してゆこうとはせず、ほんのりと頬を赤くして受け入れている。
一通り頭を撫で終わったら、今度は二人の背中をぽんと押してやる。先に駆け出したのはレレで、途中で振り返って彼女に名を呼ばれたデューイも、弾かれたように駆けて行く。並んだ二人が再び走り出す前、ちらりと後ろを振り返ったデューイが、アルドをみて小さく笑ってぐっと親指を立ててみせる。それに応えるようにアルドも親指を立ててから、二人を見送るように手を振った。

「なんだったんだ、今の」
「うん? ああ、前にデューイがレレと話してみたいって言ってたの思い出したからさ。ほら、デューイも不思議な水の技を使うだろ? だからレレの魔法にすごく興味があるみたいなんだ」

さして強い魔獣の存在しない地域、恐らくは平気だとは思うが念の為、レトロとクロックに二人を上空から見守り万が一の時は知らせるように告げたセティーは、彼らが十分に距離をとるのを待ってから、アルドに話しかける。そして返ってきた言葉、当たり前のように為されたそれに、セティーはほんの少しだけ、胸の奥をさわさわと擽られたような心地になった。
きっと、村でもいつもそうしていたのだろう。それが当然であるかのように相手が口にした希望を覚えていて、機会が巡ってくればこれみよがしに振りかざして恩を着せるでもなく、自然な手つきでそれを差し出してみせる。
そういうものが当たり前にあるアルドの村の暮らしを想像すると、おとぎ話の絵本でも読み聞かされているような心持ちになってほわりと胸が暖かくなり、ほんの少しだけ恥ずかしいような、むず痒いような、甘酸っぱいような、どれとも言いがたいような、不思議な感覚がちろちろと心臓を撫で回す。

だからそれは、生まれた感覚を振り払い洗い流す目的もあった。それはけして嫌いではないけれど、長く浸っていると落ち着かなくなる。
もう一つの理由は、ふと思い出したから。よく兄貴分の顔をしていて、年上の相手にだって時に兄のような寛大さを見せるアルドが、意識をしなければセティーと同じくらいの歳だと錯覚しそうになる彼が、まだ二十にもなっていなかったことを。セティーの時代に合わせるならば、彼もまた子供のくくりに入ることを。
時代が違えば、大人と子供の区切りも変わる。早くに大人として扱われるようになれば、自ずと心の有り様だって大人に近づくだろう。
けれどそれでも、セティーの時代においてはまだ子供の歳であることも事実だ。なら、少しくらい子供扱いしても問題ないんじゃないか、ちらりと思ってしまった。アルドなら、たとえその子供扱いが適量ではなくったって、うまく受け止めてくれるだろうとの信頼もあった。

二つの理由を携えたセティーは、おもむろにアルドの頭に手を伸ばし、そのつむじ辺りにぽんと手のひらを置いてゆるゆると前後に動かす。髪質は結構硬いし、少しパサついてごわごわもしている。けして触り心地が良いとは言えないのに、妙に手のひらにしっくりと馴染むような気もして、癖になりそうだ。
さて、アルドはどんな反応をするだろうか。予想では、少し驚いたあとに苦笑いを浮かべるか、ちょっぴり照れ臭そうにしつつも受け入れて微笑むか。
けれど実際のアルドが見せたものは、そのどちらでもなかった。
俯いてセティーの手のひらを受け入れているアルドの顔は、なかなか上がらない。驚いているにしても時間が長くないだろうか、不思議に思ったセティーが少し身を屈めて下からアルドの顔を覗き込んでみれば。
そこには、顔中を真っ赤に染めたアルドの姿があった。ちょっぴり照れ臭そうなんて、可愛いものじゃない。頬だけじゃなく、額から鼻先、顎から耳にかけて、どこもかしこも肌を赤で埋めつくしたアルドは、伏せた瞼の下でうろうろと落ち着かないように瞳を動かしている。そして覗き込んだセティーに気づくと、びくりと体を震わせて開いた唇を戦慄かせた。

「ち、違うんだって」

まるで想像もしていなかったその反応に呆気にとられていれば、慌てたようにアルドが言い募る。

「だってオレ、フィーネの兄ちゃんだし、村でもチビたちの相手すること多かったからさ。その、こうやって改めて頭を撫でられるって、あんまりなかったから、びっくりしちゃって」

顔の赤みは引かないまま、早口で捲し立てられたアルドの必死の弁解は、すぐにスピードを落として不明瞭になってゆき、ううう、気まずげに唸ってがっくりと肩を落として再び俯いた。

「小さい頃は爺ちゃんが撫でてくれたけど、もう頭を撫でられるような歳でもないし。酔っ払いのおじさんたちには、わしゃわしゃってされることは今もあるけど、こういう風に……優しく撫でられるのって、最近はなかなか無かったから」

そうか、その言い分に頷いたセティーもまた、常にないアルドの姿に動揺していたのかもしれない。話を聞いている間、頭に添えた手をそのままにしていた事にそこでようやく気付いた。しかし慌てて離れるのもおかしい気がしたから、極力不自然にならないようにそうっと手を離す。
ところが。俯いていたアルドが、セティーが手を引っ込めようとした瞬間、がばりと顔を上げる。そしてどこか名残惜しそうな表情で、宙に浮いたセティーの手を見つめた。
もしかして、思うことがあって引っ込めようとしていた手をまたアルドの頭の上に戻せば、アルドの顔の赤さが一層増した。が、避ける素振りはない。

「アルド、……もしかしてお前、頭撫でられるの、好きなのか?」

尋ねれば返事の代わり、ぐうううう、唸る声がする。どうやら図星らしい。
試しに頭に置いた手をゆるりと動かしてみれば、恥ずかし気に身を縮めているくせ、僅かに手に頭を押し付けてくる。まるでそのままもっと撫でてくれとでもねだるかのように。
笑って冗談にすることもできた。軽い調子でからかって、うやむやにしてしまう事だって出来た筈だった。
けれどセティーはそれを選ぶことなく、神妙な顔つきでよしよしとアルドの頭を撫でてやることにした。だって触れた瞬間、身の置き所がないという様子で縮こまっていた体の強張りが、ふっと緩んだその反応が、あまりにも素直で正直で、稚かったから。
もしかしたら。アルドがよく子供たちの頭を撫でているのは、アルド自身がそれを好きだからなのかもしれない。好きで、気持ちいいと思っているから、人にもしてやっているのかもしれない。そうして誰かの頭を撫でながら、どこかでは自分も撫でられたいとずっと思っていたのかもしれない。
そんな風に思ってしまえば、なんだか目の前の青年がひどくいじらしいように思えて、頭を撫でてやる、それ以外の選択をすることは、とてもじゃないが出来なかった。

しかし、改まって人の頭を撫でる、というのも案外気恥ずかしいものだった。撫でながら何を言えばいいかもわからず、無言で手を動かすしかない。それでもすぐに止めてしまう事がなかったのは、俯いたままのアルドの唇が、微笑みの形にゆるりと動いたのが見えたから。目を細めて今にもごろごろと喉を鳴らしそうなほど、気持ちよさげにしているのがひしひしと伝わってきてしまったから。
そうは言ってもいつまでも撫で続けている訳にはいかない。どこかでは区切りをつけて切り上げなければならないだろう。
だが。

「……すごく、昔。……爺ちゃんに会うよりもっと前にも、こうやって撫でられてた気がするんだ……」

ちろり、瞳だけを動かしてセティーを見たアルドの口から零れたのは、きっと彼の大事な記憶。大切に抱きしめている想い出。彼の真ん中、芯に存在するもの。セティーの中の、家族の記憶のように。
そんなものを見せられてしまったら、区切りなんてつけられそうにない。気の済むまでいくらでも撫でてやりたい気持ちになってしまう。
これはきっと、アルドが誰にも見せない部分。誰にでも等しく笑いかけて手を伸ばす青年が、心の奥底にそっと隠している柔らかな部分。本来ならセティーだって触れられなかっただろうそこが、動揺で剥き出しになって、束の間、曝け出されている。あっさりと手放してしまうのは、あまりにも惜しい。
それに、アルドだって。セティーのそれに触れたのだから、触れさせたのだから、セティーだって触れても構わないだろう、そう思う気持ちもどこかにはあった。

結局、区切りは外からやってきた。近づいてくるデューイとレレのはしゃぐ声に、はっとしたアルドがセティーから距離をとる。撫でられている間はあんなにうっとりしていたくせに、つれない態度に少し腹が立つような残念なような気持ちになったが、それを二人に見せることなくセティーの記憶だけに留めて独り占め出来るのだと思えば、悪くはない。
それに。

「あの、さ! その……」

デューイ達が帰ってくる前、またらしくもなく口ごもって何か言いたげな視線を向けてくるアルドに、セティーはにっこりと笑ってやった。察しは悪い方じゃない。

「また、いつでもどうぞ?」

はっきり何とは言わずに、気取った物言いと共に軽く手を動かしてみせれば、ぱあっとアルドの表情が輝く。察したつもりの内容は、けして的外れの独り善がりではなかったようだ。
嬉しそうな顔はそのままに、ちょうどその直後に駆け寄ってきたデューイとレレ、更にはいつの間にか二人と合流していたらしいレトロとクロックの相手をするアルドから少し距離をとって、セティーはその横顔をさりげなく見つめる。
胸の中に生まれたむず痒さは、少し前までは正しくそれだけの意味しか持たなかった。眩しくって、羨ましくって、微笑ましくって、心強くって、人の善性を信じられるような、己の理想を肯定されたような、そんな気持ちをひっくるめて混ぜ込んだ、一言では説明しがたい不思議な感覚、ただそれだけ。
それなのにそこに急速に新たなものが混ぜこまれてゆく。元々あったアルドへの好意、仲間の範疇に留まっていたものが、先程のアルドの姿を見てむくむくと育ちあっというまに囲った境界線を突き破って膨れ上がってゆく。
おいやめろ、理性は囁く。仲間としてだって、好意が大きくなりすぎないよう意図して調整していたのに、そんな努力を嘲笑うように気持ちが急激に育ってゆく。
止めなければいけない。思ったつもりで、しかしそれを既に放棄もしている。だってそれを止めるなら、先程触れたアルドの特別も遠ざけなくてはいけなくって、青年のそれを再び閉じ込めさせてしまうのも、他の誰かに触れさせてしまうのも、どうしても受け入れ難かったから。
本当に止めたいのなら、最初から触れるべきではなかった。そして触れてしまえば、手放せる訳がない。仲間として抱いた好意に自ら手を加える必要があった時点で、警戒が必要なほどにはアルドに惹かれてしまっていたということは、よくよく分かっていた筈なのだから。

困ったな、誰にも聞こえないよう、小さな声で呟く。
アルドをこれ以上好きになるつもりなんてなかったのに、本当に困った。

「あれ、セティーどうしたの?」
「何がだ?」
「すっごく楽しそうでワルい顔してるー!」
「……気のせいだろ」

アルドから離れて近寄ってきたレトロに、指摘されたセティーはばっと口元を押さえた。なるほど、笑っている。
だって、仕方ないだろう。
意図的に作った苦笑いで口元を覆い隠したセティーは、困ったな、今度は口に出して呟いた。

本当に困った。嘘じゃない。
アルドを仲間以上に好きになるつもりはなかったのに、あっさりと境界線を超えてしまったし、再び閉じ込めてしまうには偶然触れたそれがあまりにも大きすぎる。
だから困る。手放さずにいるには、手に入れなくてはいけなくって、そのためには偶然触れたアルドの特別に、どのタイミングで手を伸ばすのが一番有効か、じっくりと考えなければいけないのだから。

ああ、本当に。
困って、燃えて、腕が鳴って仕方がない!