思ってたのと違う!


気づいた時にはもう遅い。

直前まで気配なんて微塵も感じていなかったのに、突如として隣にふっと現れる体温、肘の辺りの服を軽く引っ張る指の控えめな強さ。
それに反応を返す前、頬に熱が触れる。温かくて湿っていて少しささくれてもいて、けれどとびきり柔らかいもの、唇がむにゅりと頬に押し付けられる感覚。僅かな隙間から這い出してきた舌先、唇よりも熱くぬめったそれがちろりと頬を舐めると同時、ちゅっと小さな音がして軽く頬の肉が吸われ、触れた熱が離れていってしまう。
そこまで待ってようやく動くことが出来たセティーが、ばっと気配のある方に顔を向ければ、既に十分な距離をとってしまったアルドがいた。仲間として不自然でない近さで、セティーの歩調に合わせて歩いている。動揺した様子もなく、照れる素振りもまるでない。
けれど振り向いたセティーとばちり、目が合うと嬉しそうに目を細めてアルドが笑う。へへへ、そんな声が聞こえてきそうな顔、悪戯が成功した子供みたいな無邪気な顔で。

言いたいことはきっと、沢山あった。それは照れくささや気恥ずかしい気持ち、嬉しさだけじゃなくって、不意打ちに抗議したい気持ちだとかしてやられた悔しさだとか、なんとなく面白くないような釈然としないものも混ざっていた筈なのに、邪気のないアルドの顔を見てしまえばぶすぶすと燻った不満は一瞬で吹き飛んで消え去ってしまう。
残ったのは、くすぐったくてむず痒い気持ちだけ。素知らぬ顔を作ってみてももぞもぞと落ち着かなさが体を這い回り、誤魔化すように軽く肩を回してみてもなかなか平静は戻ってきてはくれない。
何度か唇を引き結んだまま擦り合わせ、それでも意図しない形に変わってしまいそうな口角にとうとう観念したセティーは、一度足を止めて下を向くと、はああああ、大きなため息を吐き出した。
すぐに気づいたアルドもその場に留まってセティーの方を伺っているのが、俯いた視界の端を掠める足先で分かったけれど、すぐには顔を上げる事が出来ずにもう一度深く息を吸って吐き出した。


表面を取り繕うのには慣れているつもりだ。たとえどれだけ内側が揺らいでいたとしても、相手にそれを悟らせずに微笑むぐらいのことは朝飯前。動揺はつけ込む隙を与えるだけだと分かっているからこそ、覆い隠す方法は一つだけでなくいくつも習得しているし、実際に一癖も二癖もある相手にそれらを武器に立ち回る中、底意地の悪い揺さぶりをかけられたって貼り付けた笑みが剥がれ落ちた事はない。

それなのに。
アルドはそんなセティーの武装を、あっさりと溶かしてしまう。手管というにはあまりにも拙い行動一つで。

そもそも、アルドはものすごく分かりやすい男だ。素直で正直で善良で嘘がつけなくて、感情と行動と話す内容にあまり齟齬がないからこそ、次に何をしでかすか予測も立てやすい。道端に困った顔の誰かがいれば、ああアルドなら声をかけて力になってやるんだろうなと予想がつくし、言い争う声が聞こえてくればすぐにアルドが仲裁に入るだろう姿が目に浮かぶ。そして、そんなセティーの予想が外れることは滅多にない。日々相手どっている狸や狐をわざわざ引き合いに出して比べるのが馬鹿馬鹿しくなるほど、彼らとは対極にある存在だ。
そしてそういうアルドの性分を分かっているのは、セティーだけに限ったことじゃない。アルドの仲間たちはおおよそ、そんなアルドの行動を予想することが出来るだろうし、場合によっては数度会っただけの人間ですらアルドの性質を察してああやっぱり、そんな顔をして彼を見つめている。さして親しくもない間柄でも、アルドらしいな、アルドだからな、その言葉だけでお互い言わんとすることが通じてしまうくらいには、とても分かりやすい、分かりやすすぎるほどの男だ。

けれどアルドは同時に、全く予測のつかない男でもある。こういう行動に出るだろう、こんな言葉を言うだろう、予想していたものをあっさりひょいと飛び越えてしまう。想定していた結果以上のものを、引き寄せて掴み取ってしまう。
しかしまた、それはイメージするアルドの姿から外れてしまうこともない。真っ直ぐではあっても猪突猛進一辺倒ではなくて、優しくても甘やかして先回りで手を出すばかりでもなくて、だけどやっぱり底抜けにお人好しである所はいつだって変わらない。きっと誰もが至極アルドらしい思うだろう姿そのままで、それ以上を連れてきてくれる。

分かっているつもりなのに、完全には分からない。油断していればするりと足をすくわれ出し抜かれてしまう。
それも含めて全てきちんと分かっているつもりなのに。
分かっていてもなお、動揺してしまう。心臓がひとりでに騒いでしまう。顔が赤くなってしまう。指先が熱くなってしまう。ときめいてしまう。
アルドからの不意打ちで心を乱されてしまうのはこれが初めてではなく、それどころか少なくとも十はとうに超えているのに。そろそろ慣れたっていい頃なのに。
それでも毎回毎回馬鹿みたいに意識してしまう。

なんとなくの流れでそうなった訳ではなく、しっかりと意識してアルドの恋人の座を狙って取りにはいったけれど、それで何かが大きく変わるとも思ってはいなかった。特に、アルドの方は。ただ単に恋人という肩書きが増えただけで、接し方は他の仲間と同じままだろうとも思っていた。それがアルドだ、とも。

実際、セティーの見立ては間違ってはいなかった。
付き合うことになった四日後、同行した旅先の戦闘中。恋人になったからだなんて理由でアルドがセティーを特別扱いすることも過度に気にすることもない。いつも通り、仲間誰にも見せる優しさと気遣いと信頼を、セティーにも仲間たちにも惜しみなく溢れんばかりに注ぐ。その姿に少しだけ寂しさと物足りなさを感じはしたものの、やっぱりと思った底にあった感情の中で一番大きなものは、安堵だった。

特別扱いはされたいけれど、誰にでも等しく優しいアルドのままでもいてほしい。仲間どころか顔見知りですらない、初対面の相手にも向けられるアルドの底抜けの優しさと親切が、もどかしくてたまらないと同時にどうしようもなく好きだったから。万が一それが僅かでも損なわれてしまっていたら、なんて想像すらしたくないほどに。
幾人かの少女たちからアルドに向けられた淡い好意の眼差しにも気づいていて、それでもなりふり構わず大人げなく、持てる全てを利用してその隣に在る権利をもぎ取りはしたけれど、依然としてある種の信仰にも似たアルドへの理想を変わらず抱いている自分が存在することも、セティーは理解していた。
セティーだけを見てほしくて、セティーだけを見てほしくない。
相反する二つの思いは、相殺されて消えることも片方に飲み込まれてしまうこともなく、胸の中に同時に存在したままだ。

だから予想通りのアルドの姿を見て、そんな訳がないと思いつつもどこかで強張り疑っていた心が、ふっと緩んで解けていった。恋人になったのに何も変わらないアルドの姿に、覚えた物足りなさを素直にため息に乗せて苦笑いに浮かべる余裕だって出来た。
分かっていたことだ。恋人になってそれで終わりじゃなく、まだようやくスタートラインに立ったばかり。これから徐々にアルドへ恋人としての距離感や振る舞いを刷り込んでゆけばいい。セティーからのアプローチに頷いてはくれたものの、具体的なことは何も分かってはいなそうなアルドに色んなことを教えてゆのは悪くないどころか非常に心を満たしてくれる事だろう。
手始めに今日の予定が終わったあと、もっと恋人として意識してもらえるように何か働きかけてみようか。ほんの束の間でもいい、二人きりで過ごせる時間をどうにか取れないものだろうか。今夜泊まる予定の街、アクトゥールに入ったらさりげなく声をかけてみようか。

そうやってあれやこれやと頭の中でしていた算段を、アクトゥールに足を踏み入れて数歩のところで全てあっさりと崩されてしまう。
何度訪れても美しい水の都に、自然と仲間たちの足が早まりはしゃいだ様子で駆けだした時。するりと気配もなく隣にやってきたアルドに、自然な手つきで軽く胸倉をつかまれて引き寄せられ、ちゅっ、軽く唇に柔らかいものが当てられてすぐに離れてゆく。
一瞬、真っ白になった頭はすぐに平静さを取り戻したつもりだったのに、その時には既にアルドはセティーから遠く離れ先を行っていた仲間たちと合流して何事もなかったように談笑をしていた。まるで本当に、何もなかったみたいに違和感のない自然な動作で。
まさか白昼夢でも見たのだろうか、疑ってそっと己の唇に指をやってみれば、舐めた覚えもないのにほんのりと湿り気を帯びている。
そのタイミングで、仲間と話をしていたアルドがちらり、セティーの方を振り返って小さく笑った。何か含みのありそうな、どこか得意げな顔で。
どちらか一つだけなら、まだ幻を疑ったかもしれない。けれど唇の湿り気、アルドの笑顔、合わさった二つがそれが幻覚ではなく紛れもない本当にあったことだと教えている。
それでようやく実感の湧いたセティーは、改めて一瞬触れたアルドの唇の柔らかさを思い出して、その場で立ち尽くしたまま遅れて赤面した。

どうやらセティーが思っていたよりもちゃんと、アルドはセティーと恋人として付き合っているつもりだったらしい。
明確に理解したのは、二度目の不意打ちのあと。
熱くなる頬につられて緩みそうになる頬を引き締めて、どういうつもりか尋ねれば何の気負いもない答えがあっさりと返ってくる。

「だって、オレとセティーは恋人だろ?」

至極当然、そんな顔で答えたあと、追加でちゅっと鼻先にキスをされて嬉しそうに笑われてしまえば、それ以上問いかける言葉なんて出るはずがなかった。
もしかしたら、きちんと理解できていなかったのはどちらかといえばセティーの方だったのかもしれない。アルドと付き合う前はキスもそれ以上のことも考えていた筈なのに、いざ付き合ってみればアルドから軽いキスをされるだけで柄にもなく動揺して舞い上がってしまう。キスの前にまずは手を繋ぐところから、段階を踏んで慣れてゆく必要があるのはどう考えてもセティーの方だった。


俯いて息を吐き出し上がった動悸を落ち着かせていれば、仲間たちに先に行っててくれるようにと告げるアルドの声が聞こえる。クロックとレトロも、彼らについていったようだ。
こういうところも、たまらなかった。しっかりとセティーを恋人扱いして戯れにあれやこれやと仕掛けてくるくせに、仲間の前であからさまにする訳でもなく分かりやすく特別扱いもしない。仲間たちに向ける顔は変わらないまま、誰も見ていない一瞬の隙をついて、クロックとレトロの視線すら掻い潜って、セティーにじゃれついてくる。勘の鋭い面々はもしかしたら気づいているかもしれないが、大半はアルドとセティーの間で交わされるやり取りに気づきもしていないだろう。セティーがけして損なってほしくないと願っていたアルドの形を保ったまま、仲間に変わらぬとびきりの優しさを注ぎながら、基本的にはセティーを他の仲間と同様に扱いながら、その上でセティーを恋人扱いもしてくれる。
今日の宿は、ユニガンの街。仕掛けるのはいつもそう。一日の予定が終わって、宿につく直前。街の外や聞き込みの最中にはけして恋人の顔は見せてこない。そういうところもちゃんとしている。
だから分かっている筈なのに、仕掛けられる前に心構えが出来ていて当たり前の筈なのに、毎回毎回しっかりと動揺してしまうのが情けない。けれどこれについては反論もしたい。セティー自身がアルドとの間にある特別を忘れてしまうほど、直前までアルドはいつも通りの仲間の顔をしていて、その挙動があまりにも自然だから急な切り替えに戸惑ってしまうのも仕方がない、ということにしておきたい。

ゆっくりとセティーに近づいてきたアルドは、俯いたままのセティーのつむじにちゅっと軽くキスをして、手の甲をちょんとセティーの指に当ててきた。それだけで落ち着きかけた胸の鼓動がきゅんと跳ね上がる。

「せっかくだからさ、ちょっとだけ遠回りして宿に行こうか」

優しげなアルドの声。けれど仲間に向ける優しさに加えて、とろりとした甘さが加えられた声色。指に触れたままの手の甲ですりすりと柔らかく擦られて思わず、ぐう、喉の奥からくぐもった音が漏れる。くすくすと小さな笑い声が響いて、もう一度つむじに押し当てられる唇の感触、セティー、かわいいな、うっとりと呟くアルドの声。

こんな筈じゃなかった。アルドは何も分かっていなくて、セティーが少しずつリードしていく形になると思っていた。何も分かっていなくても、セティーが全部教えてゆけばいいのだと思っていた。
なのにこの様だ。想定していたのとは、まるで逆。リードするどころか、積極的に仕掛けてくるアルドに翻弄されてばかり。
情けない、恥ずかしい、悔しい、こんな筈じゃ、こんなつもりじゃなかった。
何もかもが思うようには行ってくれない。
なのに、それなのに。
鹿みたいに楽しくて、胸が弾んで仕方ないのも本当だった。

触れあったままの指先で、するりと手の甲を撫でればくすぐったげにアルドが身を捩る気配がある。滑らせて移動させた人差し指を、きゅっとアルドの人差し指に絡めてみれば、同じ強さで握り返してくれる。
最早、己の鼓動が落ち着くのを待っている余裕もない。
がばり、勢いよく顔を上げて今度はこちらからキスを仕掛けてやろうと思ったけれど。
予想以上に柔らかで甘いアルドの瞳の色に絡めとられて固まってしまったセティーは、耳まで赤くして絡めた指に力をこめるだけに留まったのだった。

ああ、本当に。
情けなくって、楽しくってしょうがない!