おつかれセティーさん
「あれ、アルド、唇切れてるよ」
コリンダの原の片隅に現れたという新たなヒクイドリについて、どう対処すべきか話し合っている最中。ふと視線をあげたフォランに指摘されて、ああ、とアルドは頷いた。
「最近、ルチャナ砂漠の釣り場に行きっぱなしだったからかな」
「ああ、乾燥してるもんね、あそこ。ちょっと待って、いいもの持ってるんだー」
唇が切れるのはさほど珍しいことではなく、さして気にもしてはいなかったけれど、フォランはそうではなかったらしい。うわあ、と痛ましそうに眉を顰めてから、ぽんと手を叩いて、近くにあった鞄をごそごそと漁り出す。そうして取り出されたのは、小さな丸い箱。
「じゃーん。リップバーム!」
「りっぷばぁむ?」
「うん、唇に塗るんだよ。ほら、こうやって」
フォランがその小さな箱の蓋をくるくると回すと、中にたっぷりと詰まった軟膏のようなものが見えた。薬だろうか、とアルドが中身について推測をしていれば、一緒に鞄から取り出した濡れた紙できゅっきゅと指先を拭いたフォランが、人差し指で軟膏をすくって自らの唇にぺたぺたと塗りつけてみせる。
ほらアルドも、と促されて、フォランのやった通り濡れた紙――うぇっとてぃっしゅと言うらしい、で指先を拭き、ちょいと軟膏を指先につける。唇に塗る前、くんくんと匂いを嗅いでみれば、仄かに花のような香りがした。
なるほど、これはいいと思ったのは塗り込めた直後。ぴしぴしと乾いてひび割れた唇がたっぷりと潤って、しかも舌で舐めた時みたいにすぐに乾いてしまわない。ちょっぴり大きく口を開けてもひび割れが広がる気配はなく、突っ張らずに滑らかに動いてくれる。
けれど満足したのは一瞬のこと。口を閉じると、べちょりと上唇と下唇がくっつく感触がなんとも気持ちが悪くて仕方なかった。我慢できずに舌でぺろりと舐め取ろうとすれば、甘い花の匂いに反して苦さが口の中に広がったから、うえぇ、と眉を顰めて舌を出す。
「あー! 舐めちゃだめだってば!」
「いや、でもなんか気持ち悪くて……」
「分かるけどさー。我慢だよ我慢」
すぐさまフォランに見咎められてしまって、我慢だと言われたけれどやっぱり気持ちが悪い。うぇっとてぃっしゅを貰えないかと視線をやれば、さっと隠されてしまって、そのうち慣れるからと宥めるように言い聞かされる。
さっさと取り去ってしまいたかったけれど、フォランがアルドのためにとしてくれたことは分かっているから、無理に拭い取るのも躊躇われた。
(仕方がない、我慢しよう……)
そう決めたアルドは、諦めて受け入れる事にした。
しかしそうは言っても、気持ち悪いものは気持ちが悪い。唇が気になって落ち着かない。
口を開いたり閉じたりして、どうにかならないかと試行錯誤を繰り返した結果、ちょっと唇を突き出す形が一番違和感がないと分かった。拗ねた子供みたいにむうっと唇を尖らせると、上唇と下唇がべたべたくっつかなくてちょうどいい。フォランにはなぁに面白い顔してんのと笑われてしまったけれど、背に腹は変えられない。
しばらくはこのままでいようと思ったその時。
カシャリ。
突然何かの音が部屋に響いた。
驚いて音のした方を見れば、いつの間に現れたのか、そこにはセティーがいた。
それについては特におかしなことでもない。アルドたちがいるのは次元戦艦の中、廊下の途中の開けた場所にある休憩所の一つで、誰かが通りかかるのはよくあること。
しかしセティーの様子は、普通ではなくちょっぴり、いや、大分おかしかった。
カッと大きく目を見開き、まじまじとアルドを凝視しているその手元には、小さな端末。どうしたんだろう、とアルドがぱちぱちと瞬きをすると、またパシャシャシャシャシャシャと音がした。
「えっ、なに撮ってんの? しかも連写? えっ意味わかんない……まじ意味わかんない……」
アルドと同じく驚いたらしいフォランの言葉でようやくそれが、フォランもよく撮っている写真のことだと分かる。そういえばフォランが写真を撮る時にも音がしていたなあ、と思い出して納得したアルドが、どうしたんだよセティーと声をかけようとすると。
「キ、スまちが、お……だと……?」
「は?」
「誘ってるのか……いや、都合が良すぎる……そうか、夢、夢か……ならいいか……」
「え、え、え?」
ぼそぼそぼそっと何か、小さな声でよく分からない言葉を呟いたセティーが、目をかっ開いたままふらりふらりと近づいてくる。アルドたちの方へと力なく持ち上げた手を伸ばしどこか覚束無い足取りはさながら幽鬼のようなのに、瞳だけはやけに強い光を帯びているのがちぐはぐで、正直に言えば少し不気味だった。
尋常でないその様子に、思わずアルドがフォランを背に庇いつつ、じりりと後退りした瞬間。
ゴッと鈍い音がしたかと思うと、ふらりとセティーが床に崩れ落ちた。セティーの後ろからものすごいスピードでやってきた白い弾丸、もといレトロが、セティーの後頭部に勢いよく激突したせいだ。
全く展開についてゆけぬまま混乱するアルドだったけれど、セティーが倒れたことだけはどうにか認識できたから、慌てて駆け寄ろうとすれば、ぱたぱたと飛び上がったレトロと、ようやく追いついたらしいクロックに道を塞がれる。
「違うんだよアルド! セティー、ちょっと寝不足なんだよー! 眠くて変になってるだけだからね! 三徹、三徹が全部悪いのーっ! だからちゃんと寝てって言ったのにぃいぃっ! バカっ、セティーのバカっ!」
「う、うん、よく分かんないけど、とりあえず落ち着いてくれ……。それより、すごい音したけど大丈夫なのか……?」
「バイタル確認。健康状態、睡眠不足、他、問題なし。頭部への衝撃による影響、皆無。……大丈夫のようです。全くポンコツ、やり方を考えなさい」
「だってだってー! イッコクを争うとこだったよ、あのままだと危なかったよ!」
「それはそうですが。……ああ、気にしないでください。セティーはこちらで部屋まで運んでおきます」
違うの違うのと必死に言い立てるレトロの勢いに押され、意味も分からぬまま頷くうち、クロックがセティーの状態を確認して大丈夫だと告げた。そしてアルドがよかったと胸を撫で下ろす間もなく、倒れ伏したセティーをよいしょよいしょと二体で引きずってゆく。手伝うよ、と声をかければ「またセティーが寝ぼけたら困るからアルドは来ちゃダメ!」と遠慮ではなく、どうしてもアルドには手伝ってほしくないとの強い意志を伴う拒絶を突きつけられてしまった。
そうして嵐のように来て去ってゆく一人と二体をただ呆然と見送る羽目になったアルドは、彼らが廊下の角を曲がって姿が見えなくなってようやく、恐る恐る一緒に見守っていたフォランに声をかける。
「一体、なんだったんだ……?」
「……さあ……?」
さっぱり訳が分からない、と首を傾げるアルドと同様、フォランも困惑の表情で肩をすくめる。
しかしフォランの方がアルドよりも何か察するところはあったようで、「よく分かんないけど、なんか嫌な予感がするから、アルド、やっぱりこれ塗らない方がいいかも……」と、そっとうぇっとてぃっしゅを差し出してくれたので、よく分からなかったものの、これ幸いと唇の軟膏をごしごしと拭き取った。
さっぱりとした唇に、ほっと息を吐いてから改めて、先程のセティーの言葉について考えてみる。
(すまちがって何だろう……サカナの名前かな……)
しかし残念ながら、もしくは幸いにして、最初と最後の一文字を聞き落としていたアルドには、ついぞその意味を解き明かすことは出来なかった。
一方のセティーはというと。
数時間の仮眠から目覚めた後、レトロとクロックにより一連の顛末を聞かされ、頭を抱えて一頻り悶えることとなり、少々無理を押し通しすぎたここ最近の生活習慣について深く反省し、最低限の睡眠をとることを決意することとなる。機械音声ながらどこか声に呆れを滲ませていたレトロとクロックも、それを聞いて少しだけほっとしたような、和らいだ雰囲気を纏わせていた。
なおそれがセティーに睡眠をとらせるための二体の虚言ではなく、どうあがいても事実でしかない証拠として突きつけられた写真の数々については、消去することなくしっかりと複数の媒体に移され、厳重にロックをかけて保存されている。
アルドの前で情けない姿を晒してしまった事については、時々思い出して「あああああ」と蹲り頭を掻き毟りたい衝動に駆られるセティーだったが、一人きりの部屋でこっそりと写真を見返すたび、「あの時の俺よくやった。特に連写はいい判断だった」と密かに過去の自分へと賞賛を送っていたりする。