幸福の朝のこと


眠りから覚醒に近づき、ぷかりと表層に浮かび上がりかけた意識が、自身の体のすぐ近く、誰かの体温を察知すれば瞬時に思考は回転を始め、体は警戒するようにびくりと震えて強ばったあと、いつでも飛び起きて戦闘態勢に入れる準備をする。それはすっかりと習慣になってしまい体の芯に染み付いた反応で、セティーが考えるよりも早く無意識が必要だと判断して為されるもの。
けれど、いや、だからこそ。
覚醒と同時に纏った無意識の警戒の鎧が、その体温の主を認識して、ふっと解けて力が抜ける瞬間を自覚するのが、例えようもなく好きでたまらない。

それがアルドだ、と思うと、意識して力を抜こうとする前に、勝手に体が警戒を解いてしまう。ひどく無防備なことだ。もしかしたらそれは、アルドの形をした別のものである可能性だってゼロではなくって、きちんと確かめる前に油断してしまえば、ぴったりと密着した体、逃げる前にあっさりと命を奪われる事だって起こりうる。
けれどセティーが難しく考える前に、意識して再度警戒をするまでは、体は無防備にアルドへとさらけ出されて相対したまま。
そんな自身の状態をどこか客観的に眺める朝の時間が、セティーはひどく好きだった。

今の立場を手に入れるまで、何もかも真っ当な手段でやってきたとはとてもじゃないが言えやしなくって、人の好意を手玉に取ったことも、誰かを騙して出し抜く真似も日常茶飯事で、その中でもセティーが一番多く騙してきたのはおそらく、自分自身。

これくらい大したことない、何も感じない、必要なことだ、罪の意識なんて感じてはいない、辛くない、寂しくない、平気だ、大丈夫、大丈夫、これっぽっちのこと、何の傷にもなりやしない、大丈夫、まだやれる、大丈夫、大丈夫、悲しくなんてない、大丈夫、まだ、大丈夫。
そうやって何度も繰り返し嘯いて囁いては、渋って怯んで縮こまる心を言いくるめて宥めてきた。

己の心の内や思考パターンを一番に理解しているのはセティー自身で、だからこそ自分を騙すのは容易いことだった。手の内が分かっているからと油断している自分の足を掬うのは、きっと赤子の手を捻るより簡単なことで、何よりセティー自身が騙されていたいとどこかで願っていたからこそ、大抵の嘘は上手く馴染んで染み込んだ。

けれど、ふとした瞬間。
たとえば身分を偽り潜入捜査で向かった先、おぞましい悪事を笑いながら話す誰かに向けた愛想笑いを、形作る前に隠しきれない嫌悪で微かに唇が強ばったり。情報を抜き取るべく取り入るために、うっとりと頬を染める娘相手に甘い言葉を囁いて髪をすくった指先が、捨てきれない罪悪感で躊躇うように震えたり。
己を騙す事に慣れ切った日常のほんの一瞬、覗く反応が隠しきれない本心を現しているようで、忌々しくて苦手だった。他の誰に気づかれず完璧に演じてみせても、最後の最後、騙しきることの出来ない己の反応はしかし、克服せねばならない弱点であると同時に、最後の拠り所でもあった。
あまりにも嘘を重ねて進んで己に騙され騙してきたせいで、どれが自分の本心か自分ですら見抜くのは難しい。信念だけを心の真ん中に打ち立てて邁進し、それ以外は取るに足らない事だと切り捨ててみせても、それすらも強がりなのか本心であるのか、判別がつかなくなってしまっている。

だからこそ。
アルドと共にいる時、考えるよりも先に動く自身の体の反応を眺めるのが、好きだった。
だってそれは、未だセティーが克服しきれない弱点であり、本心を教えてくれる最後の手段だったから。
考えれば考えるほど分からなくなる想い、アルドの事をちゃんと大事に想って心を許している、それがけして自分とアルドを騙すための嘘じゃないことを教えてくれる、アルドと二人、同じベッドで眠った日の目覚めの直後の自身の反応を、確かめるのが一等好きだった。

そろり、伸ばした手でアルドの頭を撫でれば、手のひらに伝わる癖毛の感触はきちんとアルドのもので、ベッドの中、セティーの方へと顔を向けて眠るアルドの鼻をつんつんとつついてみれば、むっと眉を顰めてむにゃむにゃと唇を動かすけれどけして起きようとはしない。それもセティーのよく知るアルドの反応そのままだ。
さわりさわり、触れる指先から伝わる温度でアルドが確かにアルドのままだと確認して、セティーはふっと笑う。
頭の中ではあえて、まだ油断出来ないぞ、外側はアルドの形のままでも中身が変わっているかもしれない、と戒めるような事を考えてみても、緩んだ唇はそのままで、さっさとベッドから出て眠るアルドから距離をとる気にもならない。アルドに触れる度に溶けて輪郭を失ってゆく警戒心がくすぐったくて、もう一度固めてしまおうとは思わないくらい、幸せな気持ちがじわりと触れた指先から体中に広がってゆく。

さて、どうしようか。
くるりと丸まった癖毛を指に絡めながら、考える。
きっとアルドはまだ当分起きないだろう。だったらアルドが寝ているうちに朝食を作ってやるのも悪くない。きっと目覚めたアルドは、すごく喜んでくれることだろう。うまいうまいとセティーの作った食事を口に運び、嬉しそうに笑うアルドを想像するだけで、唇に乗せた笑みが顔中に広がり、だらしなく頬が緩んでしまう。
けれど、もうしばらくアルドの寝顔を見つめていたい気もする。二人でのんびりと過ごせる朝はそう滅多には訪れない機会で、終わらせてしまうのはあまりに惜しい。
飯を作る機会は他にもいくらでもあるし、アルドが起きてからデリバリーを頼んでもいい。少し行儀は悪いけれど、ベッドから抜け出さないまま、食事をするのも楽しそうだ。よし、そうしよう。

しかしセティーがこのまま、アルドの寝顔を見つめていようと決めた瞬間。
ピリリリリリリリ、ベッドサイドに置いてあった端末が、無情にも幸せな時間の終わりを告げた。
さっと手に取れば、そこにあったのは緊急の出動要請。確認する前から予想していたセティーはふうっと一つため息をつくと、すぐさまベッドから降りて身支度を始める。
名残惜しさがないと言えば嘘になる。けれどそれはセティーにとって譲れないもので、己の理想を実現するための最優先事項でもあったから、きっぱりと名残惜しさを捨てて行動に移ることに躊躇いはない。恋人にかまけてそこまで腑抜けたつもりはないし、アルドだってそんなセティーを望みはしないだろう。
着替えをこなすと同時に、隣の部屋で充電していたクロックとレトロを起動して、手短に出動要請が入ったことを告げる。クロックはすぐさまデータベースにアクセスを始めて必要な情報を見繕い始め、レトロはせっかくのオヤスミだったのにと大声で騒ごうとしてすぐ、アルドが隣の部屋にいることを思い出したか、ひそひそと小声で文句を言いつつセティーの着替えを手伝ってくれる。

準備が整うまで、およそ十五分。髪のセットとネクタイは現場に向かいながらやればいいだろうと決めたセティーは、節約した時間を利用してベッドルームのアルドに会いにゆくことにした。既にレトロの予備機体に本体から僅かにリソースを割きアルドへの伝言を頼んでいて、目覚めればセティーに仕事が入ったことを伝えてはくれるだろうが、せっかくだ。キスの一つくらい、していっても許されるだろう。
時計を確認していつもより準備が早く終わったことを確かめたセティーは、それを言い訳にしてアルドの元へと向かった。

「……セティー?」
「悪い、起こしたか? 仕事が入った、行ってくる」
「ん、オレも、手伝える……?」
「いや、今日は必要ない。好きなだけ寝ていっていいぞ」
「うん、わかった……」

てっきりまだ夢の中だとばかり思っていたのに、ベッドルームに戻ったセティーの目に飛び込んできたのは、珍しく目を覚まして上半身を起こしているアルドの姿だった。まだ半分寝ているような心地でぐしぐしと目元を擦りながら、部屋に入ったセティーに気づいて話しかけてくる。手短に用件を告げれば、うんうんと頷いたアルドの頭はぐらぐらと危なっかしく前後に揺れていて、未だ夢の中で舟を漕いでいるようにも見えた。
近づいてさり気なくアルドの体を支えながら、セティーは少し考え込む。眠るアルドにキスをしてから出かけようと思っていたけれど、起きているアルド相手に改めて切り出すのは少し気恥ずかしい気もする。それに散々手管として気障な事はしてきたけれど、アルドを相手にそのまま使い古した手練を実行すれば、せっかく実感した本心を嘘で塗りつぶしてしまいそうで、怯む心がちらりと顔を覗かせた。

すると、黙り込んだセティーに何を思ったか、アルドがふわぁ、と欠伸をしながら、ん、と両手を広げ、躊躇うセティーぎゅっと抱きしめる。そのままわしゃわしゃと頭を乱暴に撫でて軽く頬をくっつけ、背中をぽんぽんと叩いてから離れてゆき、セティーの顔を見てへにゃりと笑った。

「怪我しないように気をつけてな」

恋人に向けるにしてはひどく穏やかな、まるで家族を送り出すような柔らかな親愛の滲む挨拶に、セティーの胸がぐっと熱くなる。たまらなくなって今度は自分からアルドを抱きしめて、キスの代わりにすりすりと擦り付けるように頬擦りをすれば、短く伸びたアルドの無精髭がちくちくと当たって痛い。その痛みは遠い昔、幼いセティーが経験したことのあるもの、楽しげにセティーに頬擦りをする父の事を思い出させたから、つんと鼻の奥が痛くなった。
感傷に浸る時間がないことは分かっている。
最後にぎゅうっと強くアルドの頬に自身の頬を押し付けてから、ぱっと離れたセティーは名残惜しさに後ろ髪を引かれる前に、すぐさま部屋を出ようとした。
けれど何も言わずに出てゆくのは躊躇われて、部屋から一歩、踏み出す瞬間。振り返ったセティーは、口を開く。

「早く帰ってくるから、夜は一緒に食べような」

何を言うかも決めていなかったのに、するりと零れ落ちたもの。
けして意図したつもりはなかったけれどそれは、昔、仕事に向かう父が、母とセティーに向けて毎朝口癖のように繰り返していた言葉と同じだった。実際に早く帰ってきたことなんて数えるほどしかなかったけれどそれでも、仕事に向かう父のその言葉がセティーは好きだった。忙しい父が、ちゃんとセティーたちのことを気にかけてくれている事が分かったから。
だからいつか大人になったら自分も、愛する人にその言葉を告げて仕事に向かうようになるのだと幼心に思っていて、けれど嘘で自分も他人も騙すうちに、そんな未来が来ることはないのだとどこかで諦めてもいたのに。

自身の無意識が見せてくれる、アルドへの本心を客観的に垣間見るのが好きだった。
それを眺めて、自分がちゃんとアルドの事を好きだと実感するのが好きだった。
けれどもしかして、セティーが実感していたよりもっと、自分はアルドの事が好きで、深く愛してしまっているのかもしれない。
その事実はちかちかと警告めいて頭の隅で光るのに、だってアルドとセティーの間にあるのはいつか来る別れ、時代を超えた離別だと分かっているのに、それでも。
突きつけられた事実はあまりにも、切なくて甘美で柔らかな幸せの色をしていて、その時が来る前に自ら手放してしまうにはきっともう、何もかも遅すぎる。

「どうしたのセティー?」

胸の内からせり上がる感情の波に、歯止めをかけたのはレトロの言葉。はっとしたセティーの目に、レトロとクロックがどこか心配そうにじっと見つめる姿が飛び込んでくる。

「何でもない、行くぞ」

すぐさま頭を切り替えたセティーは、二体を急かして現場に向かう。
そうだ、今は感傷に浸っている場合ではない。いずれ、いつかの未来に目を向けて、自覚したばかりの本心、想像していたより膨れ上がりすぎた気持ちに、きちんと向かい合い折り合いをつけなければならないだろうけれど、今はその時ではない。
まずは目の前、緊急要請に応えるのが最優先だ。

それに、アルドに告げた言葉を嘘にするつもりはなかった。仕事に向かう父の言葉だけで十分嬉しかったけれど、たまに本当に父が早く帰ってきてくれて、一緒に食卓を囲んだ時は飛び跳ねて回りたいくらい嬉しくてたまらなかったから。
だから、今は考えている暇すら惜しい。
故に。

「ちょ、セティー?! 速い、速いよーっ!」

そんなレトロの悲鳴を遥か後方に置き去りにして、全速力で走って駆けつけた現場にて。居合わせたCOAの同僚たちにRTAエージェントの異名を囁かれるほどの獅子奮迅の活躍を見せたセティーは、見事夕方までには全てに片をつけて自宅に飛んで帰り、待っていたアルドと無事夕食を共にすることに成功したのだった。