柔らかな休日


(……まだ読んでるな)

休みに合わせて取ったエルジオンのホテルの一室。ごろごろとベッドに寝転び、セティーから借りた端末で映画を見ていたアルドは、少し離れた場所、ソファーに座るセティーの背中へちらりと視線を向ける。
ここのところ、休みの日は大抵、二人でホテルの部屋にこもってのんびり過ごすのが定番になっていた。
以前は何度か外に出てデートもしていたけれど、そういう時に限って必ず何かの事件に出くわし、お互い見過ごせないからデートそっちのけでそちらを追って休みが終わってしまう。更にはセティーは割と人の目を惹く顔立ちをしているからやたらと女の人たちが寄ってくるし、アルドはアルドで以前困っていたところを力になった人たちに声をかけられる事が多かったから、二人で外を歩いていても二人でいられる時間がほとんどない。
だったら最初から二人きりになれる場所でのんびりしていた方がいいと、休みの日はホテルの部屋にこもるようになったのだ。

一日中抱き合って過ごす日もあるけれど、そうじゃない時も勿論ある。お互い部屋の中で好きなことをして過ごしているうちに一日が終わる事もあって、たまたま今日はそんな日だった。
けっして喧嘩をしていたり、何か意地を張っている訳では無い。べったりとくっついて過ごさなくても、同じ空間で好きなことをして過ごす時間も案外悪いものではなくって、アルドは気に入っている。

セティーが昨日から泊まっていた部屋、アルドが早朝に訪ねれば既にセティーは読書をしていて、だからアルドも気になっていた映画の続きを見ることにして、会話もそこそこにお互い自分のしたいことをして過ごしていたのだけれど。
残念ながらアルドの方の映画はハズレだった。以前観たものは面白かったのに、続編はどうにも微妙で観ていると欠伸が出てきてしまう。既に飽き始めていたアルドは、映画の代わりにこっそりとセティーを眺める事にした。
未来の本は少し不思議で、紙ではなく端末の中に何万冊もの本がぎっしりと詰まっているらしい。セティーの目の前にずらりと並んだ文字の列が、手元の端末をぽんと叩く度に新しいものへと切り替わる。アルドの時代にはないその技術に、最初の頃に比べれば随分と見慣れたとはいえ、まだまだ物珍しさもあった。だからついつい、ページが捲られる様にぼうっと見入ってしまう。

しばらくそのままセティーと宙に浮かぶ文字を眺めていたけれど、ふと思い立ってアルドはベッドを降りてセティーの方へと近づく。読書の邪魔をするつもりはない。けれどその熱心に注がれる眼差しを眺めているうち、少しだけ、ちょっかいをかけたくなってしまったのだ。
すぐに接近に気づいてちらりとアルドの方を見たセティーに、どうかしたのかと聞かれたけれど、無言で首を横に振って振ってすとんとセティーの隣に座る。そうして「セティーは読んでていいよ」と告げてから、えい、とセティーの膝に頭を乗せてごろりと寝転んだ。
仰向けで見上げた視界の先に、こちらを見下ろす瞳が見えたから、視線を遮るように両手を掲げて「オレの事は気にしないで、本読んでてくれ」ともう一度促す。構われたいのではない、あくまでちょっかいをかけたいだけだから、読書を中断されるのは都合が悪い。
セティーはアルドの言葉に、仕方が無いなと言わんばかりの優しげな苦笑いを浮かべてから、視線をアルドから外して目の前、浮かんだ文字を追い始める。そんなセティーの行動にアルドは満足して、改めてまじまじとその顎先を見つめる。普段はこんな角度から恋人の顔を眺める機会なんてなかったから、とても新鮮だった。

以前、フォランが教えてくれたけれど、写真に写る時は、下からではなく上からの角度で収まるのがいいらしい。なんでも下からだと、ちょっぴり不細工に見えてしまうという。実際、アルドも上からと下から、両方の角度で撮ってもらえば、確かに上からの角度で撮られたものの方がよく写っている気がした。
しかし今、見上げたセティーはちっとも不細工には見えない。顎の形も綺麗だし、ちらりと見える鼻の穴の形まで整っているような気がするし、時折動く喉仏もなんだか色っぽく見える。アルドの顔は下から見るとちょっぴり間抜けだったのに、なんだか不公平だ、と釈然としない気持ちを抱きつつ、更にじっと隅々まで観察していれば、顎下の左奥、一本だけぴんと飛び出た髭の剃り残しを見つける。COAの制服を着た時はぴしっとして隅々まで身綺麗にしているセティーだけれど、アルドと二人で過ごす休日の時はよくこういう大雑把な所を覗かせる。セティーのそういう所を見つけると、それだけ気を抜いて貰えてる気がして、アルドは嬉しくなってしまう。
直前までの釈然としない、少しむっとした気分はすぐに吹き飛んで、一気に機嫌がよくなったアルドは、手を伸ばしてちょいちょいと剃り残しの髭を指でくすぐった。
セティーは視線はアルドに向けないまま、「こら」と短く呟くと、ひょいとアルドの指を避けてしまった。しつこく追おうとすると、ぺしりと軽く叩き落とされてしまう。しかしそんなセティーのつれない対応に、アルドの気分は下がるどころかますます楽しくなって、自然と唇が緩む。
時々、一方的にちょっかいをかけたくなる時があって、そういう時はいちいち構われるよりぞんざいにあしらわれて相手にされない方が不思議と楽しいのだ。以前はセティーも、アルドが何かすれば毎回きちんと相手をしてくれていたけれど、その度にアルドが少しがっかりした顔をしていたら、段々とそういう時のアルドのあしらい方を覚えてくれて、今ではアルドの気が済むまで放っておいてくれるようになった。

セティーの反応にいたく満足したアルドは、次は何をしようかな、とわくわくと考えてから、ごろりとセティーの腹の方を向いて腰に手を回し、ぎゅうっと思い切りしがみついた。そして顔を思い切り腹に押し付けて、ぐりぐりと何度も鼻先を擦り付ける。引き締まった腹はあまり柔らかくはないけれど、温かくて頬に触れる熱が気持ちいい。
そのまま顔を埋めていれば、心地よい温度に眠気を誘われそうだったから、ふーっと大きく息を吐いて腹を覆う布を湿らせて遊ぶ。そしてふるふると震えた布に思いついて、ぴったりと唇をくっつけてから、草笛を吹く時と同じ要領でぶるぶると唇と布、その向こう側のセティーの腹を振動させてみた。ぶおお、ぶおお、と響く低い音は案外大きくて、楽しくなったアルドはますます唇を激しく震わせる。
セティーの腹笛だ、と胸の内で勝手に命名して、更に気合いを入れて一際大きく腹笛を吹きならそうと深く息を吸い込んだ瞬間、セティーがアルドに覆いかぶさり、がっとアルドの腰を掴んだ。

「悪い子にはこうだっ!」
「ちょっ、セティーは本読んでろって、あはは、あはははは」

そしてアルドが反応する前に、わしゃわしゃと容赦なく腰を擽られる。たまらず身を捩って笑い転げ、ぺしぺしとセティーの手を叩いて逃げようとするも逃がしてはもらえない。

「ははは、参ったか」
「参った、参ったから、あははははは!」

笑いすぎてひぃひぃと息が切れ、目尻に涙がうっすらと滲んだ頃、ようやくセティーの攻撃が止まる。笑いの余韻でげほげほと咳き込み、息も絶え絶えになるアルドの目に映るのは、楽しげににやりと笑うセティーの顔。もっとセティーで遊んでたかったのに、と腹笛への名残惜しさはあったけれど、悪戯っ子のような表情のセティーの降りた前髪が、アルドより年下の子供みたいに見えてしまったから、あっさりと不満は引っ込んで、じわじわと先程までとは違った楽しさ、セティーと一緒に遊べて嬉しい気持ちが湧いてくる。放っておかれて一方的にちょっかいをかけて遊ぶのは楽しいけれど、こんな風に途中で反撃されてじゃれあうのも、結局は楽しくて好きなのだ。
お返し、とばかりにセティーの腰をわしゃわしゃとくすぐれば、またアルドの腰もくすぐられる。セティーはアルドほどくすぐったがりではないので、最後にはまたアルドが一人で笑い転げる羽目になってしまった。

ソファーの上で男二人、揉み合って縺れあってくすぐり合ううち、すっかり息が上がって、部屋の中に二人分の荒い息の音が響く。アルドばかりがしてやられてしまった気がするけれど、セティーの髪の毛もぼさぼさに乱れている。寝癖よりひどい有様に、アルドが仄かな満足感を抱いていれば、さっと手ぐしで髪を整えたセティーが、時計を確認してから口を開いた。

「そろそろ昼だな。何か頼むか、食べたいものはあるか?」
「ハンバーグ!」
「はは、好きだな、よしちょっと待ってろ」

ソファーから立ち上がって、フロントに連絡をしにいくセティーの後ろ姿を見守りながら、アルドはにんまりと笑った。昼食は行儀悪く、ベッドの上で食べないか誘ってみよう。お腹がいっぱいになったら、そのまま少し眠って、起きたらまたセティーと遊んで、一緒に風呂に入って、それから、それから。
まだ一日は半分以上残っている。それぞれに好きなことをして過ごすのも悪くないけれど、気分が変わってしまったから、昼からはセティーにいっぱい構ってもらおうと勝手に決めた。夜が来る前に、セティーと二人でしたいことが沢山あって、考えるだけでそわそわと心が浮き立ってゆく。

(早くハンバーグ、来るといいな)

アルドに向けるのとは違う、事務的な声で注文を告げるセティーの声を聞きながら、アルドはぽすんとソファーに頭を預ける。直前までセティーがいたそこは、ほんのりと温かくって、少しだけセティーの匂いがする気がした。たまらずアルドはマーキングでもするかのようにぐりぐりと頬を擦りつけ、混じった自分の体温とセティーの残り香に、ふっと頬を緩めて笑って目を閉じる。
閉じた視界、押し寄せた闇は、温かく柔らかな、セティーの微笑みの形をしていた。




「……ちゃん、お兄ちゃん! 朝だよ、起きて!」

遠くからフィーネの声が聞こえる。それはすぐに近づいて大きくなって、柔らかな闇から引きずり出され現実が近くなる。
薄く開いた目に飛び込んできたのは、見慣れた木の天井。何百年も先の建物とはまるで違うもの。
のろのろと体を起こして欠伸をすれば、フィーネが奇妙な顔をしてアルドを見ていることに気がつく。

「……お兄ちゃん、どうしたの?」
「どうしたって……ああ」

何を聞かれてるんだろう、不思議に思ったけれど、瞬きと同時にほろほろと目尻からこぼれ落ちた雫に、問いかけの意味を察する。
どうやら、知らず知らず泣いていたらしい。

「……すごく、幸せな夢を見たんだ」
「そう……二度寝、してもいいよ? 今日だけは、許してあげる」
「いや、起きるよ」

どこか気遣わしげなフィーネの声に、アルドは首を横に振ってベッドから抜け出した。もう一度寝ても、同じ夢が見られる気がしなかったから。
ふわりと体に残る柔らかな夢の気配が急速に遠ざかってゆくのを自覚して、せめて切れ端でもと噛み締めるように、記憶に残る残滓を頭の中で繰り返しては焼き付ける。直前まであんなにくっきりと細部まで浮かんでいたのに、瞬きをする度にぼやけてゆくのが寂しくて、けれど辛うじて留まってくれたセティーの笑顔が、愛しくてまた泣きたくなった。

長い長い時空を超える旅は、もう終わって随分と久しい。
次元の穴は閉じて、みんなそれぞれの時代に帰っていった。アルドはアルドが育った時代に、恋人は遠い未来の世界に。
二人で過ごす休日は、二度とやっては来ない。
優しい時間は、もう思い出の中にだけ。