胸を叩く鼓動の意味は
「ダルニス!」
まだ太陽が昇りきっていない朝も早い時分。
既に狩人の父は森の見回りに出掛けている。ダルニスも井戸の水で顔を洗って軽く身体をほぐし、朝飯までの間に少し獣の皮をなめしておこうかと納屋に向かおうとした所で、朝靄の中に聞きなれた幼なじみの声が響いた。
あまり朝に強くないアルドが、こんな時間に起きているなんて珍しい。一体何があったんだと訝しく思いつつ足を止めれば、少しもしないうちに息を切らせたアルドがダルニスの目の前までやってきた。
「ダルニス、あのなっ! これ、これ!」
おそらく家から全力で駆けてきたのだろう。大きく肩を上下させ、ぜえひゅうと息をしつつ握った右手を差し出しながら、これ、これ、と短く繰り返すアルドに落ち着けと声をかけ、ぽんぽんと背中を摩ってやった。
先の春頃に声変わりを終えた幼なじみは、随分と背も伸びて大人に近づいたとはいえ、まだまだ随分と子供っぽいところがある。今だって呼吸が落ち着くのを待ちきれないようで、もどかしげに何度か深呼吸をしてから、まだ上がった息のまま差し出した手のひらをぱっと開いてダルニスの目の前に突き出した。
「見てくれこれ! 昨日酒場で吟遊詩人のおじさんに貰ったんだ! 持ってると強くなれる魔法の石だって言ってた! すごいだろ!」
アルドの手の上にあったのは、褐色の石ころ。魔法の石だと告げるアルドの目はきらきらと輝いていて、心底それがそうだと信じきっているようだ。こういうところもまだまだ、子供っぽいと感じてしまう要因でもある。
思うままに喋るせいであちこちに散らかったアルドの話をまとめると、昨日の夕方、外から旅人がやって来ていると聞きつけたアルドは酒場に遊びに行ったらしい。いつものことだ。そうして居合わせた吟遊詩人にあれもこれもと外の話をねだって、最後にはその石を貰ったという。強くなれる魔法の石だなんて、いかにもな胡散臭い言葉と共に。
ダルニスは、魔法の石の正体に心当たりがあった。その心当たりによれば、それは残念ながら魔法の石ではない。
しかし本当のことを告げてしまうのには、少しだけ躊躇いもあった。
ダルニスにも貸してやるな、そうだ二人の石にしよう、そしたらダルニスもオレも一緒に強くなれるぞ、と頬を真っ赤にして興奮した様子で捲し立てるアルドがあまりにも楽しそうにはしゃいでいたから。朝に弱い筈のアルドが、こんな早くに訪ねてきたという事はおそらく、昨日の晩からダルニスに見せたくってたまらなくて、わくわくそわそわと落ち着かない気持ちのまま、あまり眠れなかったからだろうと予想がついてしまったせい。
けれど結局、言ってしまうことにしたのはダルニスが告げずともいずれ誰かによって知らされるだろうと思ったから。
「こんなすごいものくれるなんてあのおじさんすごくいい人だ!」ときらきらした瞳で吟遊詩人を褒め称えるアルドにむっとしたからではない、と思いたい。
「アルド、それはカーネリアンの原石だ。多分な」
「かーねりあん……魔法の石じゃないのか?」
「磨けば飾りにはなるだろうが、そういう力はない筈だ」
「えええ、なぁんだ、そっか……魔法の石じゃなかったんだ……」
アルドの思い込みを否定する言葉を吐き出した瞬間、ちりりとダルニスの胸が痛む。きらきらと輝く瞳が陰ることを想像して、ぐっと胃の腑が重くなった。気の済むまでアルドの話に付き合ってやれば良かったと、早速後悔が滲む。
けれど意外にも、アルドの反応はダルニスが想像したよりもあっさりとしたものだった。残念そうにちょっと肩を落としはしたけれど、なあんだと息を吐いて簡単にダルニスの言葉を飲み込んで、納得した素振りを見せる。
ぽん、と石を上に放り投げては手のひらに落としながら、じゃあノマルにあげたら喜ぶかな、となんとも早い切り替えを見せるから、ダルニスの方が焦ってしまった。
「オレが言うのもなんだが、そんな簡単に信じていいのか? オレじゃなくてその、吟遊詩人の方が正しい可能性もあるだろう」
そんな言葉を続けたのは、どこかに後ろめたさがあったせいかもしれない。カーネリアンの鉱石であるのはおそらく間違ってはいないだろうけれど、絶対かと言われれば自信がないし、何より。
告げたダルニスの内側に、何にもやましい気持ちがなかったと言えば嘘になる。ほんの少しだけとはいえ、見知らぬ吟遊詩人の事を楽しげに語るアルドの姿が、面白くなかったのは本当だ。八つ当たりじみた嫉妬が滲んでいなかったと、自信をもって言うのは難しい。
なのにアルドは、そんなダルニスの問いかけに心底不思議そうな顔で首を傾げ、ぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、だって、と口を開いた。
「だってダルニスが言うなら間違いないだろ」
まるで当たり前の事実を告げるかのように、躊躇いなく。
間違いがあるなんてちっとも思ってないような、力強い口調で。
常々誰に対してもあけすけな好意を隠さない方ではあると知っていて、そんなアルドの性質に比較的慣れている方だとはいえ、こうもきっぱりと繕うことのない剥き出しの信頼を真正面からぶつけられれば、受け止めきれずに動揺してしまう。咄嗟に返す言葉が思いつかずぐっと黙り込むダルニスに向けて、更にアルドの言葉は続けられた。
「ダルニスはオレに嘘つかないもん。オレよりずっといっぱい、なんでも知ってるし! そりゃたまにからかう事はあるけど、そういうのはちゃんとオレにも分かるように言ってくれるしさ」
だからこれは魔法の石じゃないんだろうな、と頷いたアルドの口振りに、未練がましいものは欠片も残っていない。むしろ確信めいて自信たっぷりに断言されて、いよいよダルニスの胸は落ち着かなくざわざわと騒ぎ始めた。
後ろめたさのせいだけじゃない。もっと別のなにかが、ひょいと胸の中に居座ったかと思うと、ぐるぐると心を掻き乱す。
どくどくと脈打つ心臓に合わせるかのように、体中に血が巡って指先がかあっと熱くなってゆく。口の中がカラカラに乾いて、べとりと喉の奥がくっついて閉じてしまう錯覚すら覚える。真っ直ぐに向けられた瞳に、じりりと皮膚が焼かれるような気すらした。
「……オレだって間違うし、嘘ぐらいつくぞ。お前の気づかないうちに、お前を騙すことだってある」
「そうか?」
ひりついた喉の奥からどうにか絞りだした言葉には、隠しきれない苦々しさを含んでいた。
確かにアルドに積極的に嘘を教える事はないけれど、だからといって常に正直である訳でも無い。今だって何もかも全て口にしてはいないし、なぜだかやたらと騒ぐ胸の鼓動のことは、けして教えてやるつもりはない。
だからそんなに、簡単に信じてくれるな、と。
願うように吐き出したそれを受けたアルドは、少し真面目な顔を作ってうんうんと考え込み始める。
(そうだ、それでいい。ちゃんと疑ってくれ)
アルドに疑いの眼差しを向けられる事を想像すると、つきりと胸が痛くなるけれど、それでもあのてらいのない信頼を向けられるよりはまだ心臓に優しい。
もしもあの、一瞬にして指先まで染め上げた熱が、それでも止まる事無く全身を巡り続けてしまえば、果たしてその先どこへ向かうのか分からなくて恐ろしかった。
自分の中で治まればまだいい。万が一それが指先から溢れて、アルドへと向かってしまったら。想像するだけでぶるりと背筋に冷たいものが走るのに、熱く脈打つ指先はなかなか冷えてはくれなくて、腹の奥に何か塊のようなものがせり出して鎮座する。
何気なさを装って開いた手のひらを朝の空気にかざせば、火照った肌に冷たい風が心地よかった。
そうしてしばらく。
ようやく徐々に熱が引いてゆき、腹の中の塊の輪郭が薄く滲み、上がった鼓動が比較的落ち着きを見せ始めた頃。
まるで見計らったかのように、ぱっと顔を上げてへらりと笑ったアルドが。
「ダルニスがオレに分かんない嘘つくの、あんまり想像出来なかったけどさ」
ぽりぽり、と頭を掻きつつ吐き出されたもので既に、心がざわりとさざめきかけたのを必死で抑えたというのに。
それでもさ、と続けられる言葉は止まらない。
「ダルニスになら、オレ、騙されてもいいや」
そうして。
嘘が一つもない晴れやかな笑顔で、そんな事を笑って簡単に口にしてしまったから。ダルニスの諸々の努力はあっさりと無に帰した。
かっと火がついたように腹の底が熱くなって、ぐわりと一瞬で身体を巡った熱があっさりと許容量を突き破り、まるで何かに操られたかのように勝手に腕がアルドへと伸びてしまう。
笑った口元に指先が触れる寸前、ぎりぎりで理性を総動員して方向を転換させて頭に乗せた。誤魔化すようにぐりぐりと乱暴に動かして撫でてやれば、子供扱いするなよと拗ねたように唇を尖らせたアルドだったが、目元は満更でもなさそうに緩んでいる。
(あ、危なかった……)
そんなアルドとは対照的に、ダルニスの内側は激しく混乱していた。もしかしてアルドに聞こえてしまっているのではと心配になるくらい、全身がどくどくと煩く脈打っている。
あのまま唇に指が触れてしまえば、どうなっていたか。想像すれば耳の奥、まるで拳で殴りつけたかのような鈍い音が、ばくんばくんと響いて大きくなってゆく。
「ダルニス?」
「あ、ああ、何でもない……」
わしゃわしゃと無言で頭を撫で続けるダルニスを、さすがに不審に思ったらしい。名前を呼ばれてはっとして手を引っ込めたダルニスは、すうっと大きく息を吸って胸いっぱいに冷たい朝の空気を取り込んで心を落ち着かせる。油断すればまた、腕が勝手にアルドへと伸びてしまいそうになったから、ぐっと拳を握りこんで堪えた。
「ダルニス、ダルニス」
そんなダルニスの様子を見て何を思ったのか。
ちょいちょいと手を動かして身振りでその場にしゃがむように指示するアルドに、迂闊に触れてしまわないよう自制しながら従ってみれば。
「へへ、お返し!」
せっかくダルニスが気をつけていたのに、アルドの方から触れてきて、さっきダルニスがやってみせたのより丁寧に頭を撫でてくるから、どうにもならなくなった。
身体が熱いのは勿論のこと、高鳴る心臓の音が大きすぎてアルドの声がろくに聞こえない。そもそも互いの身体に触れることはそれほど特別なことじゃなくって、もっと気安い事だった筈なのに、今に限ってはやたらと緊張して、恥ずかしくて、擽ったくてたまらない。
ぱちぱちと弾けて膨れ上がる熱の意味は、すぐそこまで答えが出ている気がするのに、煮立った頭ではあと少しが掴めなくって、するりするりと指先をすり抜けてゆく。
とりあえずあとで頭から井戸水をかぶろう。
心に決めてダルニスは、髪を梳く幼馴染みの手の感触にしばし身を預けてしまうことにする。
気恥ずかしさは抜けないけれど、ゆるりと頭を擽るアルドの指が心地よいのも事実だった。
変わらずどくんどくん、脈打つ胸の音は。
まるで自分のものではないようなのに、ずっとずっと昔からそこに根付いてあって、芽吹くきっかけを待っていたような気もしていた。