秘密の薬指


「あれ? イスカとシュゼットの爪ってさ、もしかしてお揃い?」

気づいたのは、フォラン。
なみなみとカフェオレの注がれたカップの取っ手を握るイスカとシュゼットの指先を交互に見やった彼女が、どこか楽しげな様子で尋ねてきた。
夕暮れの街角、カフェのテラス席に座るのはイスカとシュゼット、シエルとフォランの四人。アルドたちと別れてエルジオンに帰ってきたものの、夜まではまだ随分と時間があったから誰ともなしに言い出して、目に付いたカフェにて四人でとりとめもない話をしている最中のこと。

指摘されたイスカとシュゼットの反応は、いっそ対照的だった。
ああこれかい、とにこやかに笑って指先を揃え、フォランとシエルに向けて手の甲をかざしてみせたイスカ、一瞬の間をおいてぼっと頬を赤く染め、きゅうっと手を握りこんで爪が見えないように隠してしまったシュゼット。
向けられたイスカの爪をまじまじと見つめていた二人は、そんなシュゼットの大袈裟な反応にぱちくりと目を瞬かせてから、めいめいにフォローをいれ始める。

「えっ、恥ずかしがんなくてもいいって! ほら、あたしもこれ、友達とお揃いなんだー」
「そうだよ! ボクもこれ、お姉ちゃんたちとお揃いだよ」

どうやら二人とも、シュゼットの反応を『お揃い』に対する照れ臭さによるものだと受け止めたらしい。キーチェーンやアクセサリーをそれぞれひっぱって、自分たちも『お揃い』を持ってると主張し始めた。
そんな二人の言葉を聞いて少し落ち着きを取り戻したらしいシュゼットが、ちらり、と視線でイスカの方を窺ってから、おずおずと握り込んだ手のひらを開いて、そっと両手をテーブルの上に乗せる。すかさずその隣、イスカも両の手を並べてみせた。
揃ってどちらも、深爪といっていいくらい短く切り揃えられた爪。その中で一つ、右手の薬指だけ。他の爪よりも、幾分長いまま残されている。
切り忘れというには伸びた先が綺麗に丸められているし、透明なネイルがきっちりと塗りこまれて細やかな手入れの跡が見えた。意図的にそこだけ伸ばしているのは、明白だった。

「いいね、こういうの。なんか二人だけの秘密っぽくって楽しそう」
「ふふふ、そうだろう?」
「お、おおおお、おまじないですわ! ええと、その、仲良くなれるおまじない!」

二つの手を見比べたフォランが、にこりと笑って感想を述べれば、やはり二人の反応は対照的で。嬉しそうに目を細めて、左手で慈しむように自身の右手の薬指を撫でるイスカと、あわあわと落ち着かない様子で視線をさ迷わせるシュゼット。
そんなシュゼットが口にしたおまじないに食いついたのは、シエル。

「わあ、いいなあ! ボクもお兄ちゃんとお揃いにしたいな。もっと仲良くなりたいもん!」
「うん、いいんじゃないかい。仲良くなれるよ、とっても、ね?」

きらきらと瞳を輝かせるシエルに対して、イスカは意味ありげに笑ってぱちりとウインクを一つ。芝居がかった仕草なのに、違和感がなく様になってるなとフォランが感心したところで、綺麗に笑みの形を作っていたイスカの唇がぐにゃりと歪んだ。

「いっ!」
「ど、どしたの? だいじょぶ?」
「……いや、なんでもないさ。机の足につま先をぶつけてしまってね」

短い悲鳴に何事かと尋ねれば、苦笑いを浮かべたイスカが何でもないよと首を横に振った。ならいいけど、と重ねては追求はしなかったフォランは、ふと何か思いついた様子で、そうだ、とぽんと手を打った。

「今度さ、みんなで映画行かない? 来週から始まるやつ面白そうなんだー!」
「あっ、ボクも観たい!」

口にしたのは、爪ともイスカの異変とも全く関係の無い別の話。
しかし話題の唐突な飛びっぷりに指摘が入ることなく、すかさずシエルが食い付いて、シュゼットも乗ってくる。イスカもいいね、と頷いたところで映画館のスナックの話になって、ジャンクフードの話になって、IDAの食堂の話になって。
そうして話題は目まぐるしく移り変わり、移り変わり。すっかりと陽が落ちて辺りが人工灯の白い光に照らされる頃には、イスカとシュゼットの爪の話も流れゆく話の一つとなって、再度蒸し返される事はなかった。



散々喋って喋って喋り尽くし、店先で別れたあと。
あたしたちはこっちだから、と連れ立って去ってゆくフォランとシエルを見送ったイスカとシュゼットは、彼女たちの背中が見えなくなった頃、どちらともなく視線を合わせた。
むくれたように唇を尖らせて文句を言いたそうにするシュゼットを制して、イスカが先に口を開く。

「思い切り踏みつける事はないじゃないか」
「……あなたが悪いんですわ。あ、あんな、あんな……!」
「あんなって? どういうことかな? ……痛っ!」
「少し黙っていてくれませんこと?!」

抗議の意味は、お喋りの最中の短い悲鳴に隠れた本当の理由。不意打ちに声を出してしまったのは、机の足につま先をぶつけたのではなく、シュゼットに思い切り足を踏みつけられたせい。
それについては多少の後ろめたさもあったらしい。イスカが悪いと言いつつも、そろりと視線を足元に向けたシュゼットはどこかバツが悪そうだった。
そんなシュゼットの言葉尻を捉えて、イスカがにやりと笑う。とても楽しそうに。
揶揄いの色を交えつつも白々しくとぼけてシュゼットの口からあんな、が指す言葉を言わせようと迫れば、顔を上げてきっと眦を釣り上げたシュゼットの指がイスカの背中に触れた。親指と人差し指が服越し、隠れた皮膚をきゅっと捻りあげれば、イスカは悲鳴を上げて肩を跳ねさせる。
しかしイスカはシュゼットを睨めつけるどころか、ゆるりと目尻を下げて嬉しげに笑う。
ひどいなあ、と口では言いながらも纏う空気は浮ついていて、むくれてぷい、とそっぽを向いてしまったシュゼットの手に自身の手を重ねてそっと距離を詰め、ほんのりと赤くなった耳元でひそりと囁いた。

「ね、今日はうちに来るだろう?」
「……行きませんわ」

甘く蕩けた声に耳たぶはますます赤く染まったけれど、その持ち主の返事はつれない。
にべもなく撥ねつけられて一瞬、ひそりと眉尻を下げたイスカは、口を噤んでさてどう言いくるめようかと考え込む。諦める選択肢を選ぶにはまだ早い。
するとまるで見計らったかのように、そのタイミングで。難しい顔のまま、至近距離で黙り込んだイスカの瞳を捉えたシュゼットが、もぞもぞと口を開いた。

「あ、あなたがうちに来ればいいのよ!」

赤く染まった頬を晒し、早口で一気にそれだけを言ってまた、視線を外してしまったシュゼットの手を、無言のまま強く引いたイスカはかつかつと早足で歩き出す。

「ちょ、ちょっと! もう少しゆっくり!」

慌てたようについてくるシュゼットの抗議の声にも、イスカの歩調は緩まない。その表情は些か険しい。
だって少しでも気を抜けば、だらしなく口元が緩んでしまいそうだった。どろどろに表情が溶けて、とても外では晒してはいけない顔になってしまいそうだった。
ぎこちなく寄り添って受け入れてはくれているけれど、大抵いつも仕掛けるのはイスカの方で、シュゼットは渋々の建前を崩さないまま流されてくれるだけ。きちんと気持ちを寄せてくれる事は十分に理解しているけれど、たまに少しだけ寂しくもなる。
そのシュゼットが、自分から誘ってきたのだ。
それもあんな可愛らしい言葉と態度で。
さすがのイスカも、恋人のそんな珍しい姿に平静を保っているのは難しかった。
一刻も早く二人だけになって、その唇を塞いで、服を脱がせて、背中に爪を立ててしまいたかった。

短く切りそろえやすりで丁寧に磨き上げた爪は、内も外も柔い身体に不用意に傷をつけてしまわないように。
一つだけ長く残した爪は、意図して互いに痕をつけるために。

早足で帰路を急ぎながら、右の手のひら、閉じ込めた左手の甲。
薬指の先を軽く食い込ませたイスカは、それでも振り払われることなく少しだけ絡む指の力にが強くなった可愛らしい恋人の温度に、ふふふ、と小さく笑ってから、きりりと表情を引き締めた。