背中


(贔屓、か)

ミグランスの英雄と共に部屋を出ていったかつての仲間の背中を目に焼き付けてラキシスは、くっと皮肉げに唇の端を歪める。

(相変わらずお前は何も分かってはいないのだな、ベルトラン)

あわよくば、その力を再び騎士団でふるう気にはならないかとの算段があることは否定しない。騎士団を預かる立場としても、依然衰えてはいないベルトランの力は喉から手が出るほど欲しいものだ。一部の若い騎士達の間では新たにミグランスの盾だと囁かれ始めてもいるアナベルと並べば、国の守りは更に磐石なものとなるだろう。
けれどラキシスは同時に、あの男のどうしようもない頑固さも知っていた。一度こうと決めたら、生半可なことではその意思は揺らがない。例外は王と姫の存在だけ。認めるのは癪ではあるが、最初からラキシスの言葉であの男が考えを変えるとは思ってはおらず、だからこそしつこく追うこともせずあっさりと退いてやった。

しかし、贔屓とは。
歪めた唇のまま、ラキシスはくつくつと笑う。そこにラキシスの影を見てとるだけの鋭さは持っているくせに、まるで見当違いの、あまりに可愛らしい理由を真面目くさった顔で持ち出してきたベルトランを思い出せば、笑うより他にない。
本当にあの男は、何も分かってはいないのだ。今も昔も、ずっと。自分の力が周囲に与える影響について、己に向けられた視線について、腹が立つくらい何も分かっていない。

ベルトランが自身には不釣り合いだと顔を顰めたミグランスの盾の名は、既に前線を退いて長い時間が経ったにも関わらず、ミグランスのみならず他国でも未だ根強く語り継がれている。
そんな男が騎士団を離れ傭兵になったとの噂が流れれば、当然のように海を超えて各国から引き抜きのための人員が送り込まれてきた。無論ラキシスの方で情報を抑えはしたが、どこかに閉じこもるでもなく、市井に下って他の傭兵に混じり仕事を探す彼の姿を完全に他国の間者たちの目から隠すことなんて出来るものではない。分かっていたことだ。
ベルトランの忠誠の在処を疑ってはいない。騎士団を離れたとはいえ、あの男の心は国と王、そして次世代の王たる姫に欠片も残さず全て捧げ尽くされている。どれほどの甘言を囁かれようと、この国以外に力を貸す道を選ぶとは端から思ってはいない。
しかしミグランスの盾を引き抜きに来た連中は、ベルトランが頷かなかっただけで、そうか残念だと大人しく引き下がってくれるような行儀のいい者ばかりではない。中にはきちんと敬意を払ってベルトランの意思を尊重するような立派な人格者も存在してはいたが、同意が得られないとなれば強引にでも国に連れてゆこうとする、そんな者たちだって多くあった。

単純な武力でなら、ベルトランが劣るとはまるで思っていない。他国で密かに動くとなれば、動員出来るだろう数はせいぜい数人、多くても十数名といったところか。たったそれっぽっちの数であの男を捕らえようなど、過小評価もいいところだ。そして戦闘ともなれば、生じた不穏の気配に気付かぬほど国の各地に配されたミグランスの騎士たちは間抜けではない。いずれ気がついて加勢に駆けつけることだろう。
けれど敵が武力を使った、ある意味では正攻法ともいえるやり方でやってくるとは限らない。薬や呪術、人質を使った搦手を使う可能性は、むしろ真正面から力でぶつかってくる可能性よりもよほど高い。
勿論、ベルトランとて見知らぬ相手から差し出されたものを素直に口にするほど、警戒心のない男ではない。殺気にも敏感で、それが己に向けられればすぐに察してけして相手に遅れはとらないだろう。
だが、その相手が善良な市民であればどうか。例えば先日、護衛してやったような幼い少女から渡されたものであれば、どうなるか。
あの男はそれをけして無碍にはすまい。花であれ食べ物であれ、受け取って大事に懐にしまい込むだろう。そしてその、たとえば菓子等に、少女すら知らぬうちに毒や睡眠薬の類を盛る算段は、残念ながら幾通りも存在している。
もしもラキシスがベルトランを捕らえるとするならば、そう試しに仮定してみれば、頭の中に描いたかの男は呆気ないほど簡単にラキシスの手の中に堕ちてきた。どこまでも強くて、けれど搦手にはさほど強くはなく、特に幼子を使えばそこに罠の匂いを感じ取ったとしても確実に踏み込んでくる誠実な弱さと脆さを抱えている。それがあの男だ。

それに。
そこまで考えてラキシスは、まだ復興の進まぬ部屋の中、最低限の業務を行えるようにと持ち込んだ簡素な机の上にちらりと視線をやった。そして積まれた書類の一番上にある一枚手に取ると、びりり、躊躇いもなく一気に引き裂いた。そこに書かれてあったのは、一人の男についての報告。ミグランスのとある貴族が犯した、罪の記録が詳細に綴られている。既に囚われ牢獄に繋がれたその男の罪、横領、誘拐、人身売買、違法薬物の売買。そしてそこには綴られぬ罪がもう一つ存在していることを、ラキシスは知っている。
ベルトランの拉致の計画、及び実行未遂。
それが男の犯した、けして表沙汰にされることはない罪の名前だ。

ベルトランを手にせんと動く者は多くあるが、その全てがあの男の力や名声を目当てにしている訳では無い。非常に腹の立つことに、あの男を手に入れる事そのものを目的としている輩も少なくない数存在している。
かつてミグランスの盾と呼ばれた男、ミグランスの英雄と呼んで差し支えないあの男を、どこかの戦場に出すでもなく、その武を頼るでもなく、ただただ手元に置いて所有して飼い殺し、玩具のように愛玩したい、そんな欲求であの男を求めるやつらは、許し難い事にこの国の貴族の中にすらあった。

ああ、後でもう一度書き直さねばならない。
自身の行動がひどく不合理で何の意味もない無駄な事だとは分かっていて、呆れた眼差しを向ける冷静な部分があることは自覚している。けれどその理性をしてラキシスの行動を止めることはない。
一度、二度、三度。引き裂いては重ねてまた引き裂いて、小さくなってゆく紙片たちを冷めた目で見つめてばらばらと床に散らし、ぐりぐりと足で踏みつけて靴底と床の間で磨耗させる。

本当に、度し難い。牢に送った男の顔が不本意にも脳裏を過り、ラキシスは紙片を踏みにじる足にぐっと力を込める。
国を落とさんと攻め寄せる魔獣どもの前に立ち塞がり死力を尽くし全てを跳ね返したあの男の背に、国ごと諸共何度も庇われ守られたくせに、身の程知らずにもあの男を所有しようとした貴族の計画を思い出し、気づけば大きな舌打ちが部屋の中に響いていた。

たかだか片目を喪ったくらいで、ベルトランの全てが損なわれる訳があるはずなんて無いのに、一部の阿呆共だけではなく、歯痒いことにベルトラン本人ですらもそうは思っていない。
だからだろうか、ベルトラン自身の意思で騎士団を離れたのにも関わらず、騎士として生きるにはもう力が及ばず、傭兵に身をやつしたのだなんて与太話が、一部ではさも真実であるかのように語られている。傭兵なんぞをしているからには、金に困っているのだろう、ならば己が飼ってやろうだなんて、不相応な望みを抱く者が後を絶たない。

全く、許せない。
しかし何が一番許せないかといえば、そんな屑たちの思考が手に取るように理解出来てしまう、己自身の思考であった。
ああ、それはさぞかし、甘美で心を満たしてくれることだろう。ミグランスの盾と呼ばれた男、国や人種を超えて今もなおその名を知られる男を、手元に置いて自分のものにする。まるで鳥の羽を毟るようにあの男を守る全てを奪い去り、籠に閉じ込めてその力を奮わせることなくただただ無為に飼い殺す。人だけでなく国をも守った英雄を、手の中に収めて愛でるのは、仄暗い優越感を擽り矮小な自尊心を満たし、この上なく心地よくさせてくれるだろう。そしてその誰よりも強くあった英雄を、小鳥のように手の中で囀らせることが出来れば、湧き上がる愉悦はとめどなく溢れて仕方がないことだろう。

戦場に立つあの男の背中は、血にまみれ土埃に覆われてもなお、一等美しかった。
絶望的な戦力差の中でもけして膝を折ることも揺らぐこともなく、常に前線に立ち続け、兵を、国を、守り続けた。濃い死の匂いに恐怖に駆られた兵のどれほどが、あの男の背中に勇気づけられたことか。
最早これまでと捨て鉢に己の命を放り投げようとしても、諦めることなく攻撃を防いでは弾き続けるあの男の背に、どれほどの兵が希望を見ただろうか。
新兵も古兵も、地位も身分も関係ない。等しく全てを守り通さんと立ち続けるあの男の背中に、どれだけの人の命が、殺されかけた数多の心が、救われたことか。

あまりにも愚直で、単純で、それ故に混じりけなく美しく眩い背中。
だからこそ。
美しければ美しいほど、輝けば輝くほど、それを自らの手で地に落とし羽を毟り穢す快感は堪えられないだろう。ベルトランを狙う連中のそんな下卑た思惑が、ラキシスにはよく分かってしまった。

一番初め、ベルトランを欲のままに手中にせんと画策する連中の存在を知覚した時、覚えたのは臓腑を焼くような激しい怒り。体の毛が全て逆立つような、強烈な殺意。そしてその中に、隠しきれない嫉妬と独占欲が混じっていた事をラキシスはよく知っている。
あれを手に入れるなど、大それたことをよくも言えたものだ。ろくに務めを果たす事もなく、こそこそと私腹を肥やすだけの豚どもに、あの男はその身を全て差し出したとして到底釣り合う筈がない。
だが。万が一、そんなやつらの手にあの男が堕ちてしまう可能性が僅かでも存在するのならば、いっそその前に、自分が。
考えなかった訳じゃない。それどころか、そんな連中の手の者を見つける度、毎回のように考えてしまう。そして考える度、欲求は膨れ上がってゆく。その背に向けて、手を伸ばしてしまいそうになる。

けれど、しかし。
あの男の背中の美しさを、一番理解しているのはラキシスだと自負もしていたから。あの男が片目を喪ったくらいで堕ちる男ではないことも、まだまだあの背に守るものを抱え続けていることを知っていたから。あの、何よりも美しい背中は過去のものではなく、今もなおあり続けているものだと、分かっていたから。
戦場に立つベルトランの背中を一番近くで見てきたのは、王でも姫でもなく、他の騎士でもなくましてや他国の敵兵や魔獣たちでもない。共に何度も死線を潜ってきたラキシスこそが、あの背中を一番多く目にしてきた。あの背中がどれほどのものを守ってきたか、どれほどの兵の心を鼓舞してきたか、どれほどの敵の心を挫いてきたか、そしてこれからも多くのものを守ってゆくだろうことを、誰よりも何よりも目の当たりにしてきて、そして。
誰よりも何よりも、一番。あの背中に鼓舞され、救われ、守られ、奮い立って共に死線を潜ってきたのは、他の誰でもない、ラキシスなのだ。

だからラキシスは、伸ばした手でその背に触れる代わり、方々から伸ばされた手を片っ端から叩き落とすことにした。僅かでも可能性があるならば、その僅かの余地さえ残さないほど徹底的に叩き潰してやればいい。それが存在したという事実ごと、闇に葬ってやればいい。
幸いにしてそれを為すべきだけの、建前として十分すぎる理由はある。国のためにも、まだ当分ミグランスの盾を失う訳にはいかないのだ。

小型の風のプリズマを使い、床に散った紙片を集めてまとめて宙に浮かせる。そして同時に火のプリズマを起動させれば、細かい紙くずはあっという間に燃え上がり黒い灰へと形を変える。

あの美しい背中を、けして穢させてなるものか。誰にも、ラキシス自身にすら。絶対に。何があっても。

本当に、何も分かっていない男だと思う。
けれどあの男は、それでいいのだ。
襲いかかる敵意を打ち払い、そこに潜む意図や策略に勘づいて警戒はしても、その一番奥底に流れるおぞましい欲望は知らなくていい。
あの男はただ顔を上げ前を見つめ、味方にはそのどこまでも頼もしい背中を見せていればそれでいい。俯いてどろどろと濁った澱みを覗き込む必要はない。あの男に、あの美しい背中に、そんなものはまるで似合いやしないのだから。
故にそれは全て、ラキシスが引き受ける。もう随分と前に、勝手に決めた事だ。ベルトランに知らせるつもりはない。生憎、表面上の動きは勘づかれ牽制はされてしまったものの、これからも騎士を使ってあの男の動向を探り続けるつもりだ。止めるつもりは毛頭ない。彼に向けて伸ばされた穢れた手を、全て叩き落とし跡形もなく潰すために。
誰にも、ベルトラン当人にさえ、邪魔をさせるつもりはなかった。再び何か言ってきたとして、けして認めてなんてやりはしない。また、素知らぬふりで誤魔化してやるつもりだ。そうすればきっとベルトランは、不本意そうな顔をしながらも渋々引き下がるだろう。
あの頑固な男に強情だと言わしめるほどには、ラキシスだって譲れないものはけして譲らない性質だ。ラキシスの言葉で決意を翻すことのなかったベルトランと同様、ラキシスだってベルトランの言葉で一度こうと決めた事を簡単に変えたりはしない。そんなお互いの気質の事はおそらく、お互いが一番よく分かっている。嫌というほどに。

窓を開け自然の風に灰を乗せて流せば、あっという間に何もかもは空に溶けて消えてしまった。
ふ、と嘲るように唇の端を吊り上げたラキシスは、すぐさま穏やかな表情を作ると、何事もなかったかのようにいつも通りの顔で、中断していた執務を再開した。