初恋


人を恨んだことが一度もないといえば、多分、嘘になる。

心無い言葉を投げかけられて、嫌悪の眼差しを向けられて、魔獣と同じ扱いをされて。
それでも人は善きものだと常に信じていられたかといえば、けしてそうではなかった。
母のことを思い出し、魔獣への憎悪を奮い立たせ、己は人間であると何度言い聞かせたってそれでも、何をせずともただそこにいるだけで、ロキドがロキドであるだけで与えられる容赦ない仕打ちを思い返して、心が折れそうになった夜は一度や二度の事ではない。
魔獣だけではなく人間も己の敵ではないか、善き人間は母だけで、母以外の人間は魔獣と大差のない醜悪な生き物ではないか。いくら否定しようと魔獣として扱われるならば彼らの思う通り、魔獣として振舞ってやろうか。
ねぐらに定めた、セレナ海岸の洞窟。古ぼけた毛布に包まりながら、冷たい岩の上、一人きりで過ごす夜は何度超えてもひどく心許なく、闇は不穏な思考を呼び寄せる。
ぴとり、天井から染み出した水滴が頬に落ちる度、やるせなさが心の中を支配して、膨れ上がる凶暴な心が抑えきれなかった。今すぐ駆け出して目につくもの何もかもを引き裂いてやりたい衝動に駆られて、そんな己の心に苦悩して、また一つ眠れぬ夜を重ねる。

それでもぎりぎりの所で、踏みとどまれたのは母との想い出と、ごく稀に向けられる人の優しさがあったから。
海に近いセレナ海岸は、岩の多い立地もあって、流れ者や海賊たちの拠点になっている場所が多々あった。そうして同じように数多ある洞窟の一つをねぐらにしているロキドは、時々彼らと接触する事があった。
彼らの大半の反応は、王都の人間とさして変わりない。ロキドを見れば驚きと恐怖に顔色を変え、武器を構えて戦闘態勢に入る。こちらが敵対の意志を見せなくとも、あちらから襲ってくる事だって日常茶飯事だ。
けれど、そのうちの幾人かは、何度か顔を合わせるうちにロキドに敵意を向ける事がなくなっていった。警戒の交じった視線を向けられなくなって、たまに気まぐれに世間話を持ちかけられるようになり、ロキドが手持ちの薬草を差し出せば代わりにパンをくれる事だってあった。
彼らも彼らでそれぞれに事情があって、迂闊に街に顔を出せない身ではあったものの、それでも彼らとの僅かな交流は、寂しさに支配されて荒れそうになるロキドの心を慰めるには十分だった。

そうして、もう一人。
ロキドをこちら側につなぎ止めてくれる存在が、彼らとは別にあった。
その人は、王都の騎士団に属している。ロキドを目の敵のにしていて、何か起きればロキドのせいにしたがって、何も無くてもロキドを捕まえようとする騎士団の中に、その人はいた。
理由があって追われるなら、まだマシな方だ。彼らはロキドを嫌いはしても、どこかではロキドは無実だと理解して、八つ当たりまがいの執拗な尋問のあとは、苦々しい顔をしつつもきちんと解放してくれたから。最後の一線、無実の存在に罪を被せてしまわないだけの、騎士としての良心は守っていてくれたから。
けれど、残念ながら。
何の理由もなくて、ただそこにいたから、捕まえて殺してしまえば手柄になるだろう、罪がないなら適当に作り上げておっ被せてしまえばいい、そんな事を平然と話しながらロキドを追いかけてくる騎士もごくごく一部ではあるけれど、存在していた。平素ならばあちらの理不尽な言い分にも堪えて敵対する意思がない事を極力示すようにしているけれど、むざむざ殺されるつもりはなかった。
彼らに捕まれば、どうなるかは目に見えていた。理不尽に嬲られて、身を守るために反撃すれば、それみたことかと大義名分を掲げて魔獣として殺されてしまう。さすがにそれを、受け入れる事は出来なかった。

そんな、徒党を組んで追いかけてくる彼らから逃げる時に、その人は現れた。
騎士団の鎧を来たその人は、「こっちだ」と短い言葉でロキドを誘導し、安全な場所まで逃がしてくれ、或いは物陰に隠してくれ、ロキドを追う一団を誤魔化して煙に巻いてくれた。
その人、いや、正確には人ではない。
ぴんと尖った耳は、幼い頃に母が何度も話してくれたエルフそのもので、しかも彼は褐色の肌の非常に珍しいエルフだったのだ。
母との想い出の一つのエルフに出逢えただけでも僥倖なのに、彼はなぜだかロキドを助けてくれる。それだけでロキドが、褐色のエルフに心を寄せる理由としては十分だった。

残念ながら、彼と長く言葉を交わしたことはない。
彼に会える時は決まって、ロキドが窮地に陥っている時で、長々と話している余裕なんてなく、更には彼はロキドの安全が確保できたと判断できると呼び止める間もなく去っていってしまう。名を聞いてもはぐらかされ、せいぜいその背に礼を告げるのが精一杯だった。
ユニガンの近くに立ち寄った時、たまに彼の匂いを感じる事もあったけれど、そんな時ロキドはけして彼のいる方へと近づこうとはしなかった。
本音としては、すぐにでも駆け寄って、いつもの礼を告げて名前を聞いて、彼の話を聞きたかった。どうしてロキドを助けてくれるのか理由を聞いて、叶うならば、母の物語の中で聞いた話のように、肩を並べる友となり、一晩語り明かしてみたかった。
しかしロキドは、己の置かれた状況を嫌という程理解していた。騎士団に属する彼に、自分が親しげに話しかければ、きっと彼に向かう視線も厳しい事になるだろう事は否が応でも想像がつく。
ただでさえ彼は、密かにロキドを逃がす手助けをしているせいで、ロキドを執拗に追う過激な騎士団の一部から疑心を向けられていると知っていた。隠された物陰から、忌々しげにエルフである彼をも異端扱いして、聞くに耐えない醜い言葉を浴びせかける人間の言葉を耳にしていたから。
彼はのらりくらりとそんな過激派の言葉を躱し、鼻で笑って皮肉めいた返答で逆に彼らをやり込めたりもしていたけれど、これ以上無闇に彼の立場を悪くする事だけは避けたかった。
けれど彼の気配のしない場所まで、そそくさと去ってしまう事も出来なかった。十分な距離をとって、人にけしめ見つからぬよう息を潜めて、そっと彼の気配を追う。
そうしょっちゅうある事でもなかったけれど、時々彼の気配と出逢えたその日の夜は、酷く穏やかな気持ちで眠りにつくことが出来た。


人に絶望したことが一度もないと言えば、多分、嘘になる。

魔獣に襲われる人々を庇いに入ったその背を、魔獣の仲間だと判断され剣で斬りつけられるのは、体よりも心が引き裂かれんばかりに痛かった。ごくごく少数に分類されていたはずの、交流のあった人間が僅かな金と引き換えに過激派の騎士団へとロキドのねぐらの場所を売ったと知った時は、いっそ全て壊してやろうかと思った。

それでも、激情に身を犯されそうになるたび、彼の手を思い出して踏みとどまる。
こっちだ、と。逃げ道へと誘導する際に、己の、人とは違う色の手を、躊躇い無く掴む彼の、褐色の手。母以外誰もが忌避した己の姿を見ても、動揺一つすることなく、素っ気なく逃げろと口にする彼の声。己を追う過激派に、人間と違う種族であるエルフであることを悪しく言われようと、飄々と躱す皮肉めいた彼の言葉。

裏切らなかったごくごく一部のセレナ海岸の住人も、善意でロキドと交流を持っている訳では無いと知っていた。ロキドが周囲の魔獣や魔物を倒して回るから、或いは珍しい薬草を見つけてくるから、そんな彼らにとって利がある存在だから接触を持っているにすぎない。だから、ロキドのねぐらの場所を金で売った誰かのように、そちらが利になると知ればあっさりとロキドを切り捨てるのだと、何度も似たようなことを経験したためによく理解していた。

もしかしたら、エルフの彼も何か、ロキドに利を見出しているのかもしれない。ろくに彼と言葉を交わしたことのないロキドに、その心中まで推し量ることはできない。
けれど、今まで彼がロキドに何か要求をしてきたことは一度もなかった。名前さえも告げず、恩を売ろうともしてこなかった。同じ騎士団の仲間に責められても、ロキドを売り渡そうとはしなかった。
仮に何か思惑があったとして、関係ない。
ロキドからすれば、彼は、母以外で初めて。
何の見返りもない善意を、助けの手を、差し伸べてくれた存在だった。

だから。
人の中に混じり、騎士団として人を守る彼の体温を思えば、彼の守るものを壊したくないと思う。
人の中に混じり、生きるエルフの彼を思えば、もしかしたらいつか自分も人に受け入れられる未来があるのではないかと、淡い希望の光が見えてくる。

長くて冷たい、孤独の夜に。
寂しさで胸が張り裂けそうになっても、彼のことを思えば少し、胸が温かくなった。いつかを夢見る事が出来るようになった。
たとえどれほど実現する可能性の低い、途方もない夢であろうと。
彼と肩を並べ、力なき人を守るいつかの未来の空想は、孤独で錆びつき、母の想い出の優しい過去だけでは埋められなくなりつつあった、胸の中の虚を一時、満たして慰めてくれた。


そんな長い長い独りの夜は、ある日、新しいねぐらの一番奥、突如現れた青白い光に触れた事で、唐突に終わりを告げる。
光の向こうにあった大きな扉の向こうに待っていたのは、不思議な場所と一人の人間の男。
人間、アルドは最初、ロキドを見て一瞬驚いた顔をしていたものの、ロキドが話しかければ拍子抜けするほどあっさりとその内容を信じ受け入れて、よろしくな、と笑顔で手を差し出し、握手を求めてきた。あまりにあっけらとしたその態度に、逆にロキドの方が何か含みがあるのではと警戒したほどだ。

しかしさほど長く過ごさないうちから、アルドが心からロキドを仲間だと思ってくれていることはよく理解出来た。
ロキドが人に悪く言われれは、ロキドより先に怒りを見せ、ロキドの扱いを理不尽だと憤り、ロキドはこんなにいいやつなのに、と悔しげに奥歯を噛み締めて、悲しげに眉を下げる。
慣れたとはいえ、人から向けられる嫌悪の視線はロキドの心をざりざりと削っていたけれど、それにアルドが憤るたびに、削られた以上に心が歓喜に満たされる。ロキドがとうに反応する事すら忘れていたものまでアルドが腹を立てて悲しんでみせるから、壊れきった自尊心が徐々に形を取り戻してゆく。
夢でしかないと多分、どこかでは諦めていたものが、想像以上の形となって確かにロキドの横にあった。
あまりにもロキドに都合の良すぎる現実は、たまに夢を見ているんじゃないかと思わせたけれど、アルドはいつだって夢に見た以上のものをくれる。
アルドの仲間として行動を共にするうち、特にロキドに嫌悪の視線を向けていたユニガン市民の中、小さな友人が出来た。王にまでまみえる機会があり、彼の人直々に自身も王の民だと認めていただけた。
そして、きっと、ロキドだけなら魔獣への憎悪で斬り捨ててしまっていたものを、アルドの言葉でどうにか自制して進んだ先にあったものは、想像もしていなかった事実。
拒絶していた部分、己の姿かたちまで含めて心から受け止めるきっかけをくれたアルドには、本当に感謝してもしたりない。アルド本人に言えばまた悲しませると分かっていても、己を仲間と、友と呼んでくれる彼のためならば、命を捨てても惜しくはないと密かに思う程には。

そうして、もう一人。
アルドの仲間となってから、改めてロキドは彼のエルフに感謝をしていた。
もしも彼がいなければ、アルドの仲間になる未来はなかったかもしれないから。
とうに人間にも魔獣にも、それ以外にも絶望し果てて、暗い衝動に身を浸し破壊へと突き進んでいたかもしれない。
仲間と笑い合える現在へとロキドを導いてくれたのは、母との想い出と、打算を含むとはいえ細々とした人との交流、そして彼の存在であることは、明白だった。

アルドたちと過ごす夢のような日々を、現実だと飲み込めるようになってから、ロキドは新たな夢を抱くようになった。
ユニガン市民の中、未だ嫌悪の視線を向けてくる者が大半だけれど、少しずつ、少しずつ、ロキドを認めてくれる存在も増え始めた。守ってくれてありがとう、と面と向かって礼を言われる事すらある。
だからいつか、もっと人々に認めて貰えたら。
ロキドが話しかけてもけして彼の不利にならないと確信が持てたその時には、あのエルフの彼に堂々と会いに行こう、と。
そして改めて彼と、友となれたら。
仲間と眠る暖かな宿の中、頭に浮かべる空想は、何から何まで幸福の色をしていた。



しかし。
いつだってそうだ。
アルドは、決まってロキドの想像をひょいと飛び越えて、予想外の幸せを連れてきてくれる。
今回だって。

次元戦艦、食堂で休んでいたロキドは、部屋に入ってきたアルドが伴った仲間の顔を見て、驚愕にびしりと固まった。
だって、そこにいるのはまさしく、あの、褐色のエルフの彼だったから。いつか会いに行こう、もういいだろうか、いいやまだ時期尚早だ、と毎晩毎晩、悶々と考えていた彼の姿があったから。
彼はロキドを見ると、少し驚いたように眉を上げたが、すぐに元通りの表情に戻ってしまう。そんな彼の素っ気なさが寂しくもあり、ロキドを助けてくれた彼の淡白さらしくて、まさしく彼なのだとじわじわと実感が湧いてくる。
そうして実感が湧いてくるにつれ、どうっと全身に汗が噴き出して背中の毛が逆立ち、どっどっと心臓の鼓動が速くなった。

「アルド、彼は……?」
「ん? ああ、 そうだ、ロキドはまだ顔合わせた事なかったよな。紹介するよ、ブリーノだ」

そわそわと落ち着かない気持ちをどうにか抑えて尋ねた言葉は、少しだけ掠れていた。アルドはそんなロキドの動揺に気づいているのかいないのか、笑って彼の背を押しロキドの方にやりながら、彼の名前を口にする。
ロキドがずっと知りたかった彼の名前が、アルドによって告げられた瞬間。背中だけでなく、尻の毛までざっと逆立って、尻尾の先までぴんと伸びる。

「……ブリーノだ」
「ろ、ロキド、だ……」
「知っている」

忙しなくアルドと彼の顔を交互に見やっていれば、改めて彼が名乗ってくれた。慌てて紡いだ己の名は少し吃ってしまって、瞬時にふにゃりと垂れてしまいそうになった尻尾は、ブリーノが知っている、と頷いてくれた途端、ゆさり、現金にも揺れそうになった。浮つく自身をブリーノに見られるのが恥ずかしくて、必死で止めようと脳に命じるも、ふさふさと毛が擦れる感覚はなかなか治まってはくれない。
彼と会いに行った時の事は、何度も何度も想像していた。名乗って、礼を言って、出来れば何か雑談の一つでもして、叶うならば友と呼べる間柄になりたい、と考えていた。
そんな想像の中のロキドは、落ち着いていて、変に吃ったりもしなくて、毛だって逆立ってはいなかったのに。尻尾だって振ってはいなくて、堂々としていて、頼りがいのある、肩を並べるに足る相手だと思ってもらえるような姿であった筈なのに。母と暮らしていた頃、はしゃぎすぎて熱を出してしまった時のような、浮かれ上がった反応をするつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。
突然の彼との再会だけではなく、自身の反応も想定外で、ろくな反応が出来ないロキドの目の前、アルドがおや、と首を傾げた。

「あれ、もしかして知り合いだったのか?」
「ああ」

何気ないそれに、ブリーノがあっさり頷く様を見た途端、ロキドの心臓がぎゅうっと引き絞られたように痛んだ。悲しさで引き裂かれるのとは全く別の、嬉しくて嬉しくて叫び出してしまいたくなるような、甘い痛みだった。
だって、エルフの彼が、ブリーノが、ロキドを知り合いの範疇に入れてくれている。嬉しさの波が頭にまでめぐり、ガンガンと頭痛すらし始めていた。

友になれたら、と思っていた筈なのに、もしかして少々違うのではないだろうか、とこの辺りでようやく、ロキドは自覚し始めた。
アルドにもブリーノにも、思いを馳せれば胸が温かくなって、とろりと甘い幸福が心を満たすけれど、ブリーノについてはそれだけではない。じんじんと心臓がが痛くなって、じわりと口の中に唾が湧いてきて、そわそわと落ち着かない気持ちになって、ふんふんと匂いを嗅ぎたくなる。それはアルドには感じない、ブリーノにだけ抱く気持ちだ。
それに、だ。
仲間になれたのが嬉しくって、これから共に戦えるのが楽しみで仕方ないのに、アルドの仲間のうちの一人、だと考えれば、寂しいような悲しいような、物足りないような気持ちになって、勝手にはしゃごうとする尻尾がしゅんと落ち込む素振りを見せる。

もしもそんな胸の内を素直に仲間の誰かに、ポム辺りに相談すれば、嬉々として「恋ですわ?」と断言し、不可解なロキドの感情の動きについて解き明かしてくれただろう。
けれど残念ながらこの場には、その辺りの機微には滅法弱いアルドと、率直に自身の状況を告げるのはなぜか恥ずかしくて躊躇いを覚えるブリーノ本人しかおらず、ロキドが独力でポムと同じ結論に辿り着くには、経験と知識が足りていなかった。

故に。

(……仲間では足りない……し、親友だろうか? 親友、彼と、親友に……)

どこで知り合ったんだ? と話しかけるアルドと、何でもいいだろう、と至極面倒くさそうにあしらうブリーノの会話を聞きながら、ロキドは。
己の内面と向き合った結果、導き出した親友の言葉の甘美な響きに、とくとくと胸を跳ねさせ、うっとりと尻尾を揺らした。
それが友情の範疇からは些か飛び出した感情であることに、ロキドが気づくのはまだ当分先のことである。