もしもいつか
当面の仮宿として押さえたユニガンの宿屋、最上階の突き当たり。一日の公務を終えて執務室として利用している部屋から寝室へと移動した男は、被った王の仮面をほんの少しだけ緩めてほっと息を吐き出した。
魔獣王の脅威が去ったとはいえ、それだけで何もかもが万事上手くゆく訳では無い。城の再建のおおよその目処は立ったものの、一朝一夕で修復出来るものでもないし、それ以外にもやらねばならぬ事は山のようにある。東方の動きは以前にも増してきな臭く、西方や南方の動きも気になるところだ。国の最大の驚異ではあったものの、ある意味では他国への牽制にもなっていた魔獣王の座が空になった現在、むしろ対外的には一層の気を配って立ち回らねばならない。
もう一度、男は深いため息を吐き出した。王であり続ける外ではけして見せてはならぬもの。人払いを済ませた私室に戻ってようやく、吐き出せるもの。吐き出した分だけ一日の疲れがずんと肩に乗ったようで、ベッドサイド、ロッキングチェアに体を預けながら目頭を押さえて軽く揉む。
と、その時、男の視界に一枚のコインが目に入った。国で流通しているものとは違う、特別な意匠をあしらったもの。それは代々の王だけが知る、影からの符丁だ。
机の上にそれを見た男は、ふっと力を抜いて薄く微笑むと、ぱちり、指を鳴らす。
「ご報告を」
合図と同時に、音もなく部屋の隅に人影が現れた。男は驚くことなくそれを受け入れ、うむ、と頷いて目を瞑り人影の言葉に耳を傾ける。
「十日前、対象の姿をリンデにて確認。酒場で仲間と合流の後、村人の要請で失せ物探しにセレナ海岸へ向かい、無事目的の物を発見。その後、同じくリンデにて村人の要請によりユニガンまでの護衛を請け負い、送り届けた後に街の宿に一泊」
「ふふふ、相変わらずだな」
感情を排した声が語るのは、一人の青年の軌跡。巷ではミグランスの英雄とも呼ばれる彼の行動を聞いた男は、浮かべた笑みをますます深くして目尻に皺を刻む。
始まりは、ミューフィルユにつけた影からの報告だった。
城を飛び出したミューフィルユがとある青年と行動を共にするようになったと聞き、早急にその青年の素性を探るように命じた。いずれこの国の次代の女王となる身、せめて王女である間だけは自由にさせてやりたいと好きにさせてはいるものの、さすがに野放しという訳にもいかない。世間知らずな所もある娘、平民と言い張るには些か無理のある格好で行動していた事も承知していた。そんな娘に近づく輩、下心がないと無条件で信じられるほどおめでたい頭はしていない。
青年の素性はすぐに知れた。バルオキーの村長の養い子。その肩書きだけで、疑いの半分ほどは晴れる。
なにせかの村長の話は、先代の王より嫌というほど聞かされてきた。若い頃は先代の王である男の父と共に随分と無茶もしたようだが、親友だと豪語するかの存在を語る父の目にはいつだって深い信頼が滲んでいた。そんな村長の養い子であれば、ある程度は信用がおける。
それでも万が一ということもある。人格者の親からどうしようもないろくでなしが育つ例もない訳では無い。念の為、影にしばらくはより注意をするよう命じ、もしも怪しげな素振りがあればそれと悟られぬようにミューフィルユの周囲より彼を排除する準備もさせていた。
それが、いつからだっただろうか。定期的に影から報告されるミューフィルユの行動だけでなく、青年、アルドの行動までもを楽しみにするようになったのは。
影はいつだって、感情を排した事実だけを淡々と述べる。けれどその事実のみを並べても、浮かんでくるのは隠した下心なんて微塵も感じない恐ろしく人が良い青年の姿だった。
困っている人間がいれば躊躇いなく手を伸ばし、たとえそれで騙されて利用されても次を恐れる事もない。愚直なほどに真っ直ぐで、どこまでも善良で素直だった。
王であるが故、飽きるほどに虚飾には見慣れている。賛美の言葉を額面通りに受け止めれば足を掬われ、飾り立てられた言葉の裏に隠された真意を慎重に見極めねばならない。腹の探り合いは日常茶飯事、相手は潜在的な敵や外の人間だけではない。確かな味方と呼べる筈の存在ですら、まるでこちらの資質を試すかのように好々爺の顔でしれっと面倒な問いかけを投げつけてくる。
うんざりすることは毎日のようにあるものの、けれど投げ出すことは出来ない。纏った王の鎧の背には、数多の国民の命を背負っている。本音も何もかも隠して、悠然と笑っていなければならない。出来ないでは済まされない。やらねばならない。
それこそが王としての戦であると理解しているからこそ、逃げるつもりは毛頭ない。何もかも呑み込んで、笑っていられるだけの度量は持ち合わせているつもりだ。貴族たちの遠回しの嫌味にいちいち腹を立てることも無く、にこやかに受け流せるほどのふてぶてしさと老獪さも十分に飼い慣らしてきた。
それでも、いや、だからこそ。
青年の、アルドの、誰にでも等しく向けられるどこまでも真っ直ぐで素朴な優しさが心地よく、清水のようにじわりと胸に染みた。彼が誰かに親切にしたという報告を聞くたびこの上なく誇らしい気持ちになって、まるで己にその手が伸ばされたかのごとく疲弊した心が救われる。
影をミューフィルユだけでなくアルドにもつけるようになったのは、けして私情だけではない。善良な青年は、正しく英雄でもあった。時に大いなる時代のうねりに巻き込まれながら、国へと迫る不穏の芽を打ち払い何度も危機を救っている。彼の行動一つで様々な流れが生まれ、時に国に利益すら齎してくれる。彼と行動を共にする仲間たちにも国として見過ごせない立場の者が幾人もいて、万が一彼がこの国を出て他国に囲われてしまったら国としての損失はけして少なくないものになってしまうだろう。だから彼個人に影をつけて動向を注視するのは、国としても重要な事である。
けれど、それが取り繕った言い訳であることも男はどこかで理解していた。けして嘘ではない。嘘ではないが、彼の事を見守っていたい気持ちが一番奥底、本音の中にひそりと隠れている事もまた、自覚していた。
うんざりするほど聞かされた先代の武勇伝、またその話かと呆れつつも、父とその親友の若き日の出来事を聞くのはけして嫌いではなかった。身分も立場も超えて、対等な友人として、親友として肩を並べて笑い合う二人の姿はあまりにも眩しくて、憧れすら抱いていた。きっといつかは己も父のように、王太子としてでなくただ一人の男として共に笑い合う生涯の友と出会い、父のようにいくつもの武勇伝を積み上げてゆくのだと、幼心に夢想すらしていた。
けれどその夢はついぞ叶うこと無く男は王となり、頼れる臣下には幾人も恵まれど、父とその親友のような関係の相手を作ることは出来なかった。
恐らく、時期も悪かったのだろう。ちょうど男が十代の半ばの頃に先々代から代替わりした先代の魔獣王は酷く攻撃的で、いっそ無謀とも思えるほどの無鉄砲さで隙さえあれば攻め込んで来た。各地で小さくない戦いが頻繁に発生し、兵を率いて無我夢中で魔獣と戦ううち、気づけば王となっていた。合間に私人として動く余裕なんて、殆ど持てやしなかった。
後悔をしているか、問われれば答えは否。即断できる。もしも過去に戻れたとして、何度だって同じ道を選びとるだろう。王族として、王として、国のために生きる腹積もりはとうの昔に出来ている。
ただ、憧れは憧れとして存在しているのも事実。一度抱いてしまったそれを、消すことは出来ない。
だから男は、かの青年の軌跡にかつて抱いた夢を重ね合わせて、ほんの一時、只人としての己を夢想する。
「五日前、ヌアル平原にて次元戦艦に乗艦後、上空にて消失。昨日、ユニガン近郊にて次元戦艦を視認。本日、バルオキーに滞在」
そしてアルドの旅路は、まさに夢物語に相応しく時代すらも超えるらしい。噂に聞く東方の鬼族の空飛ぶ船とよく似た次元戦艦という船に乗り、遥か古代から数百年の後の未来を行き来している。まさか、と思いはしたが、ミューフィルユや彼女につけた影から聞いた話によれば、真実であるという。
ミューフィルユの影は彼女自身、そういうものが必要な身分であるとある程度は自覚しているために護衛という名目でどうにかねじ込ませてもらったが、さすがにアルドにつけた影までは時代を超えさせるのは難しい。おそらく彼の仲間の幾人かは影の存在に気づいてはいるだろうが、アルド本人は気づいてはいない筈だ。
国として動向を把握する必要があるとの建前はあれど、あの気の良い青年に悟られたくはない。必要なことだと王として判断すれど、個人としてはどこかで後ろめたさもある。国のためには仕方がないことだと、完全に開き直るには僅かの躊躇いがある。
恐らくは。己は、あの青年に、嫌われたくないのだ。
貴族たちには散々煙たがられても動じる事もなくなった心に、らしくもなく弱気で臆病な己を見つけた男は、苦笑いの後にそれを振り払って潰してしまうことなく、どこか新鮮な気持ちで大事に抱え続けている。
アルドに影をつけるのは、この時代でだけ。それが男が密かに取り決めた、王として譲れぬ部分と私として尊重したい部分、両方の兼ね合いを交えた線引きだった。
だから違う時代でアルドが何をしていたかは分からない。ミューフィルユが同行していれば後でこっそりと話してくれる事もあるが、今回は残念ながら一緒にはいなかったようだ。しばらくフェルミナと共にユニガンの街に滞在していたと、別の影からも報告を受けている。
けれど具体的には分からずとも、おおよそ何をしていたか想像も出来てしまう。きっとどこにいたって、彼は変わらない。時代が変わっても困った誰かを見つければ躊躇いなく手を差し伸べ、そして巡り巡って知らぬうちに世界を救っているに違いない。
一通り報告を終えた影は、現れた時と同じく、音もなくすうっと消える。部屋に一人きりになった事を確認した男は、ロッキングチェアの背にもたれかかり、目を閉じてかの青年の軌跡を反芻した。
リンデから、セレナ海岸。またリンデにて戻って、今度はユニガンへ。ユニガンからカレク湿原、月影の森。ヌアル平原とバルオキーを往復の後、次元戦艦に乗り込んで別の時代へ。
最初から最後まで軌跡をなぞり終えたら、もう一度初めから。今度は隣に、若き日の己の姿を添えて。
もしも、と考える。
何もかもをやり直したい訳じゃない。築いてきた道はけして平坦ではなく、ここに至るまでの犠牲も少なくはない。たとえ悪魔に甘露を囁かれようが、その全てを手放すつもりなんてない。
それでも、ただ一時だけ。私室、王の鎧を脱いだ束の間だけ。もしも、とありえない仮初の夢を見ることを、男は己に許していた。
もしも、かの青年が自身と同じ頃の歳だったならば。もしも己が、今のミューフィルユと同じ年頃だったならば。父とバルオキーの村長のように、並んで駆けることの出来る無二の親友となれたかもしれない。気安く肩を叩きあって、同じ釜の飯を囲んで、向こう見ずに突っ込んで肝を冷やしたあとにどちらともなく笑い合う。そんな、親しき友となれたかもしれない。
そして青年の旅に同行し、空飛ぶ船に乗って時代を超える。見たことも無い景色を青年の隣で共に見て、感動を共有する。きっと青年は笑っているだろう。同じ高さの目線で、仲間に向ける親しみのこもった眼差しで、男と目を合わせて笑ってくれることだろう。
そうして仲間の顔をして青年の旅路をなぞれば、まるで己の一部まで世界を巡っているような気持ちになれた。知らぬ景色がありありと瞼の裏に浮かび、心の奥底に封じ込めた幼い夢が息を吹き返し、いきいきと飛び跳ねてはしゃいで転げ回る。
アルドの剣の腕は重々承知していて、ついでに己の腕にもそれなりの自信はある。ならばアルドと二人で、かつての父たちが月影の森の奥に封じたという強大な魔物に、共に挑めばどうなるだろうか。夢想するだけでなく具体的な立ち回りまでもを考えていれば、ただでさえ短い夜はあっという間に更けてゆく。
そうしてゆらゆらとロッキングチェアに揺られるうち、いつしかうたた寝をしていたらしい。時間にしておよそ一刻にも満たぬ、短い間にみた泡沫の夢の中。
「――――!」
名を、呼ばれた。もう久しく誰にも呼ばれてはいない、ミグランス王としてでない個としての男の名を、誰かに呼ばれた。
それは現で夢想したものとは違う。男の姿は若い頃のものでなく、都合よく目の前に現れた鏡に映る形は、今よりも年老いたものだった。男の名を呼ぶ誰かの姿もまた、少年の名残を捨てて壮年に近い彼の、今よりも歳を重ねたアルドの形をしている。
描いた夢とはまるで違うのに、けれどアルドの笑顔は変わらないまま。
二人揃って旅装束、他の仲間はいない。親しげに、楽しげに言葉を交わしながら、リンデの船着き場に向かっている。
先に船に乗り込んだのはアルド。そして振り返った彼が男に向けて手を差し出し、にこりと笑ってもう一度男の名を呼んで、さあ行こう、旅立ちを示唆する言葉を告げる。
思わず手を伸ばしたのは、夢の中だけでなく現実でも。はっと目を覚ました男は、宙へと伸ばされた己の手に気づいてぽかんと目を丸くしたあと、頭を押さえて震えだし、やがて堪えきれぬようにとくつくつと喉を鳴らし、ついには、ははははとひどく楽しげに笑いだした。
仮初の夢、叶うことの無い幻だと決めつていたけれど、もしかしたらいつか。何もかもがうまくいって、平穏に満ちた世の中が訪れたその時は、夢が現実に近づく未来があるかもしれない。ただの夢だと切り捨てるには、束の間の夢にはあまりにも可能性が煌めいていて、もしもいつか、そっと呟いた言葉は、夜の闇に虚しく溶けて消えることなく、甘やかに胸の中で響く。
もしもいつかその時が来たら、と、試しに少し考えてみる。まずはどうやってアルドを誘ってみようか。案外簡単に頷いてくれそうな気もするし、渋られればどうやって口説き落とそうかなんて思案し始めれば、無性に胸が弾んで仕方がない。かつての幼い夢がはしゃぐのとはまた違う部分、現在の男が年甲斐もなく胸を高鳴らせている。撤回しようとしてももう遅い。既に心は、可能性を知ってしまった。
だから男は、その日から。
もしも、と仮初の夢を見たあとに、もしもいつか、遠い未来を夢みることを、己に許してやることにした。