美しいひと


「こら、よそ見をしないで。ちゃんとこっちを見て」

頬を両手で挟み込まれがっちりと固定された顔の真正面、ずいと眼前に迫ったネロに覗き込まれるのが落ち着かなくて、そわそわと瞳をうろつかせていたら、笑いの滲んだ声で柔らかく窘められてしまった。
仕方なく観念して覗き込む瞳をしっかりと見つめ返せば、大きく見開かれた瞳がきらり、横から差し込んだ陽の光で色を変えてきらりと煌めく。その鮮やな空の色に、一瞬にして羞恥を忘れて意識を奪われてしまったアルドは、息をするのも忘れてその輝きにほうっと見入った。
ネロと違ってアルドの中には、何が美しくて何が美しくないかの明確な基準は存在していない。
けれどそんなアルドをしても、きらきらと陽の光を反射して輝くネロの澄んだ水色の瞳は、美しいという言葉を思い浮かべさせるに十分たる説得力を持っていた。


大抵はアルドとネロの二人で、街を歩いている時。
言い争う声や、罵りの言葉、唇を曲げていかにも不機嫌そうにのしのしと荒っぽい足取りで歩く姿。そういう人を見かければついつい気になってしまい、首を突っ込んでしまうこともしょっちゅうで、うまく手助けになれることもあるけれどそうじゃない事だって当然ある。話すら聞けずに撥ねつけられる事もあれば、怒鳴られて終わる事もけして少なくはない。
アルドとしてはよくある事だからさして気にはしていないけれど、そういう場面に出くわしたあと、決まってネロはアルドの瞳をよく見せてくれとねだってくる。
ネロの言い分によれば、美しくないものを見たあとは美しいもので目の保養をする必要があるらしい。そしてネロにとってのその美しいものの中には、アルドの瞳も含まれているという。
他の仲間たちといる時は、言い出してはこない。アルドの仲間たちもまた、彼の中の美しいものに分類されているようで、彼らと一緒にいればそれだけで十分目の保養になるようだ。

言い出すのは、アルドと二人きりの時だけ。
大通りを外れた裏路地、建物の陰、灯台の後ろ、宿の部屋。
ネロは人の少ない場所にアルドを誘い出し、瞳を覗かせてくれないかと、頼み事の形はとっていてもまるで断られるとは思ってないような口ぶりで告げる。

ネロの主張は半分くらい分かって、残りの半分はちっとも分からない。
常々美しいものを愛してやまないと口にしているネロが、彼にとって美しくないものを目にしたとき、目の保養をしたいと願うのは分かる。ネロの言う美しさの基準は完全には分からないけれど、仲間たちが美しいと称されるのもなんとなくは分かる。美しいかどうかは分からないけれど、みんなとてもいいやつだから。
けれどアルドの瞳が美しいと言われるのだけは、やっぱりよく分からない。
元気がいいとか面倒見がいいとか、そんな言葉で褒められる事はあっても、外見そのものを褒められた経験はそれほど多くはない。ましてや美しいなんて言葉、それこそ記憶にある限り、ネロに言われたのが初めての経験だった。
ネロの言う美しさが見た目の事だけを指していないと分かっていても、いまいち納得がいかない。アルドの中で自分自身は、美しいという言葉からはかけ離れた存在であった。
美しいというなら、ネロの方がよほど。

人の顔立ちの美醜についても、アルドはいまいちよく分かってはいない。
よく知らない相手ならそういう顔の人だと思うだけだし、知った間柄ならその人柄に対して思うところがそのまんま見た目の印象にも影響される。
好きな相手ならその分、格好良く見えたり可愛く見えたりするし、苦手な相手なら笑った顔すらちょっぴり怖く見えてくる。
そんな風に美醜の基準がよく分かってないアルドをしても、ネロはとても綺麗な姿形をしていると思う。それこそ、彼がよく口にしている「美しい」という形容詞がぴったりと当てはまるような。
勿論それは、アルドがネロの事をとても好ましく思っている影響も多分にあるだろうけれど、そうじゃなくても。
何も知らなくてもきっと、彼を見たら美しいと思ってしまう。彼の持つ美しさは、そういう類のものだ。
さながら夢見の館で初めて彼と出会った時、よく分からない感動に支配されて一瞬、言葉を忘れてしまったような。あの時はそれが何かよく分かってはいなかったけれど、今になって考えればあれは、彼の美しさに打たれた衝撃だった気がしてならない。

じいっとアルドを覗き込むネロの瞳は、日が昇った直後、まだ生き物の気配の薄い早朝の高い空に似ている。ずっと眺めていると吸い込まれそうな心地になって、だけど手を伸ばしてもちっとも掴めはしないものと、よく似た色をしている。
よそ見をしてはいけないと言われたけれど、ずっと見ているとこんなに近くにいるのにネロが遠くにあるような気がして、ひどく不安になってきてしまうから、アルドは少しだけ視線をずらしてその目を囲む縁をまじまじと見つめた。
髪と同じ色をした睫毛は長く、びしりと詰まって茂っている。戯れに目頭から順に本数を数えてみようとしたけれど、十を数えてもちっとも目尻へと進む気配が見えないから、すぐにやめてしまった。
ネロが時折ぱちりと瞬きをする度に、伏せた毛先の作る軌道が妙に目に焼き付いて離れない。無意識のうちに宙に描かれた軌道をなぞるうち、なんだか胸がざわつき始めたから再び僅かに視線の向きを変える。
次に飛び込んできたのは、目の下側の縁。上睫毛ほどではないけれど、こちらもふさふさと豊かに生え揃っている。下睫毛なんて普段は存在することすら忘れているのに、ネロのそれは妙に存在感があるくせにちっともけばけばしくはなくて、切れ長の瞳を鮮やかに彩っていた。

やっぱり綺麗だな、とアルドは胸の内で小さく呟いた。
目の形も、瞳の色も、睫毛のつくる陰も、全部。どこもかしこも、ネロは綺麗だ。
見ていると落ち着かなくなって胸がぎゅっと苦しくなるのに、視線を逸らしてしまうことが出来なくって気づけば囚われている。
それは今までアルドの中に無かった類の感情で、その名前が何というのかは知らなかったけれど、ネロの言うところの美しさに目を惹かれているのだと考えれば、しっくりと馴染む気がした。

「またよそ見をしてるね、さっきから何度も」
「う、だって……ごめん。なあ、そろそろ飽きないか?」
「いいや、ちっとも。ずっと眺めていたいくらいだよ」
「うーん、よく分かんないなあ……ネロの方がよっぽど綺麗なのに」

そんな事をつらつらと考えていたら、穏やかな声音で咎められる。一応ネロの目の周りに視線を固定はしていたけれど、真っ直ぐに見返していないことにはとうに気づかれてしまっていたらしい。
両頬を挟む手の力が強くなり、一層ネロの瞳が近づいていよいよ逃げ場がなくなってしまう。言い訳の言葉を探そうとしたけれど見つからず、謝りついでに遠回しに終わりを促してみた。
しかしネロはアルドの言葉に頷いて同意することなく、僅かに目を細めて変わらずじいっと瞳を覗き込んだまま。それが嫌な訳ではないけれど胸の奥がくすぐられたような気になって、ざわつく心を落ち着かせようとため息をつけば一緒に、ぽろりと本音が転がり落ちた。
ネロはアルドの言葉に恐縮することなく照れることもなく、平然と受け止めてありがとうと呟くと、君の瞳はとても美しいよ、と続けて囁いた。

「嘘で濁ってない奥底まで澄んだ色、折れることのない強い意志の光。内から輝く君の瞳はとても美しい。でもね、それだけじゃないんだ」

滔々と語るネロの言葉に、嘘の色は見えない。全てが本心からの言葉に聞こえる。
手放しの賞賛にアルドが恥ずかしさに身を捩れば、ふっと笑ったネロがこつりと額をアルドのものに合わせて、まるで唄うように先を紡ぐ。

「今、君の美しい瞳には僕だけが映っている。他の誰でもないこの僕だけが。今この時、君の世界に映るのは、僕一人だけ」

なんて贅沢なことだろうね、と続けた口ぶりは朗らかなのに、アルドを見据える瞳の色は、いつもの高い空によく似たものとは些か様子が異なっていた。
ぎらりと艶やかに煌めいたかと思うと奥底、まるで青い炎が燃えているかのようにゆらゆらと深い青が揺れている。見つめているうち、今すぐにでも炎の端が飛び出してきて、丸ごと包み込まれて何もかも燃やされてしまいそうな心地になってくる。現に既にいくらかはこちらへと飛び火してしまったがごとく、ぼうっと頬が熱く火照って仕方がない。
ついには耐えられなくなってぎゅうっと目を瞑ってしまったアルドは、すぐさまよそ見をしてはいけないと念を押されたことを思い出して慌てた。

「ごめん、つい! な、んか、ネロの瞳を見てると、すごくここがぞわぞわして、どきどきして、落ちつかない」

閉じた瞼は変わらず開けられないまま。けれど何度も言い聞かされた約束を破ってしまった後ろめたさから、しどろもどろ、己の胸をとんとんと叩きながら正直に今の状況を懸命に告げれば、ぱっとネロが離れる気配があって、少しの沈黙の後、弾けるような笑い声が辺りに広がった。

「ははは、そいつは重畳だ!」

響く声につられて恐る恐る瞼を持ち上げると、一歩分の距離開けて肩を揺らすネロの姿があった。約束を違えた事への不快感はまるで滲んでいなくて、むしろひどく機嫌がよさそうに見える。
何がそんなに楽しいんだろう、と首を捻ったアルドは、自身の言葉を振り返るも心当たりがない。
急な展開について行けないアルドは、少々混乱しつつもとりあえずもう一度と、改めて謝罪の言葉を口にする。

「ええと、ごめ、ん?」
「構わないさ。……その蕾が花開くまで、ゆっくりと待つことにするよ」

対するネロの返事の意味するところは、やっぱり全然分からないし、からからと響く笑い声の理由も、変わらず分からないまま。
けれど、ふと。
口を閉じてアルドを見つめ、ゆるりと唇を緩めて目尻を下げたネロのその瞳に宿る光が柔らかくて、優しくて、知らずふるりと胸が震えたから。
そこに込められた意味について思考することも忘れてアルドは惚けたように、その陽だまりに咲く花のような笑顔に、ただただ見蕩れて息を呑んだ。