いい匂いがする
ネロからは、とてもいい匂いがする。
以前香水絡みの事件に巻き込まれた時にも、香りにいたく興味を示していたように、ネロ自身も普段からいろんな香りを纏っていることが多い。
花のような華やかな香り、晴れわたる空のようなすっきりとした香り、お菓子のような甘い香り。
日によって匂いの種類は変わり、そのどれもがしっくりとネロに馴染んでいる。それらは主張しすぎることなく、時折ふっと香る程度には控えめで、仲間たちにも概ね好評だった。
けれどそういう、後から追加した香りとは別に。
ネロからは、とてもいい匂いがする、とアルドは思っている。
初めは確か、戦闘が終わったあと。
案外好戦的なネロは積極的に前に出ることが多くって、その分魔物の体液や土埃を浴びやすい。二三戦も終われば、せっかく纏った香水はさっぱりと流れさり、汗と土、鉄錆の匂いへと変わってしまう。
それでも、その隙間から。汗と血を拭いながら、アルドの近くを通ったネロから、ふっと。じゃりじゃりと鼻の奥でねとつく赤い匂いの間を縫って、別の匂いがふんわりと漂い、戦場の臭気で麻痺した嗅覚を慰めてくれる事が度々あった。
よくよくそれを確かめようと鼻をひくつかせればすぐに別の匂いに覆い隠されて、すっとたち消えてしまう。
最初のうちはあまりに儚く消えてしまうそれが、ネロの匂いだとは分からなくて、勘違い、気のせいで済ませていた。
けれど何度も同じことが続けば、思い違いで片付けるのも難しくなる。そうして、それが香る時にはいつも必ずネロが近くにいることに思い当たれば、二つが結びつくのにさほど時間はかからなかった。
一度分かってしまえば、戦場以外でも時々、ネロからその匂いがしていることにも気づくようになる。
例えば宿に泊まった時、風呂上がりのネロから。或いはとりとめもない雑談の最中、ネロが楽しげに笑った時。美しいものを見つけて瞳を輝かせた瞬間。
ネロからは、とてもいい匂いがする。
花の香りとも違う、美味しそうな食べ物の匂いでもない。かといって人の体臭にしては、薄く透き通って透明な、生をあまり感じない匂い。
全く知らないもののようで、だけどひどく覚えのあるそれが、一番近いものは何だろうか。
それを知覚するようになってから、アルドは時折ぼんやりと考えるようになった。ネロの匂いを表すのに、一番相応しいたとえ。
草でもない、空でもない、夜でもない。雪は近いけど少し違う。
火でもなく、風でもなく、土でもなく、金属とも程遠い。
考えて、考えて、もう少しで見つかりそうなのになかなか見つからなくて、考え始めてしばらくして。
ある雨の日、唐突に、それの正体に気がついた。
あんまりにも身近にあって、毎日触れていたのに、なかなか匂いを意識しにくくてちっとも気づけなかったもの。
ざあざあと降り注ぐ雨の中、水気をたっぷりと含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、やっとそれを見つけることが出来た。
ネロから香る、いい匂いの正体。
それは水の匂いだった。
ネロからは、水の匂いがする。
ただし一口に水といっても、何でもいい訳じゃない。
井戸や瓶に溜めた水のものではなく、池の匂いとも違う。静ではなく動、絶え間なく動き続ける水の匂い。
きっかけにはなったけれど、降り注ぐ雨もちょっと違う。それは濃くて些か重すぎる。プリズマから生み出される水はとても近いけれど、ほんの少し味気なくて足りない。
一番ぴったりくるのは、海へと向かって流れる川から香るもの。それも上流、水源の近く。ちろちろと岩から染みだし、産まれたばかり細い川から香る匂いが、一番それらしい。
湧き出してすぐの川は、土も埃も落ち葉も混じってなくて、川底まで真っ直ぐと見透かせるくらい、どこまでも澄みきっている。
ネロからはそういう、きれいな水が流れる時の匂いがする。
ぴったりと馴染むたとえを見つけてからはますます、ネロから水の匂いを感じる機会が増えた。
一番多いのは笑っている時で、ちろちろと流れ始めた川の表面をさわりと風が撫でてぷつぷつと細かな水滴が跳ねた時みたいに、一際強く水が香る。時々、挑発的な言葉を使って微かに眦を釣り上げる時は少しだけ雨の匂いに近くなって、美しいものを愛でるネロを見れば、水の匂いだけでなく水面に射して散った光のきらめきが頭の中に浮かぶようにすらなった。
日替わりでネロが違う匂いの香水を纏っていても、その香りより水の匂いを感じ取ることの方が多くなってゆく。
流れる水の近く、息を吸えば自ずとネロを連想するようになって、ネロと話していればさらさらと流れる川の音が耳の奥に聞こえるようになってゆく。
ゆっくりと、確実に。二つの結び付きは強くなっていって、アルドの中では切り離せないものになりつつあった。
だから。
どういう流れでそうなったのかは覚えていないけれど、仲間たちと話している最中、ネロの匂いの話になった時。いつもいい匂いがするよね、いつもどこで買ってるんだろう、感心したようにネロの香水の話でみんなが盛り上がる中。
アルドは、水の匂いの話をした。
ネロからきれいな水の匂いがするのは、アルドの中に当たり前のこととして根付いていて、ちっともおかしな事じゃなかった。だから特に気負いもせず、それについても触れた。きっとみんな、同意してくれるだろうと思って。
なのにそれまで、うんうん分かる分かると互いの話に相槌を打ってた仲間達が途端に、揃って首を捻り訝しげな顔をした。誰もアルドの言葉に、頷いてはくれない。アルドが更に具体的に言葉を重ねて、ただの水の匂いじゃない、生まれたばかりの川の匂いなんだと一生懸命に説明をしても、伝わるどころか仲間たちの顔に浮かぶ困惑が深くなってゆくばかり。
同意はしてくれなかったけれど、仲間たちはアルドの気のせいだと否定もしなかった。どうしてだろうな、それぞれに考え込んで、アルドにだけ水の匂いが届く理由を見つけようとしてくれた。
いくつかに挙げられていった理由のうち、水の気を纏った技を使うからじゃないか、というのが一番有力で、アルド自身そうかもしれないと思いかけたけれど、他の水に属する技や魔法を使う仲間たちからはそんな匂いはしない。
アルドがそれを告げれば、また仲間達は考え込み、次に出てきた理由はネロの戦い方のせいじゃないかということ。身体の中で練った気を拳に纏わせ、敵に叩き込む。その練り上げた気に混じった水の気配を、アルドは察しているのではないかと。グローブをつけているとはいえ、他の武器を介するよりもリーチが短く近い分、水の気が身体に留まって残りやすいのかもしれないと。
今度の説にはさっきよりも納得がいって、そういうことだったのか、アルドがぼんやりと納得しかけた時。
誰かが、冗談めかして言った。
「もしかして、全然違ってさ。それ、アルドの中の綺麗なもののイメージなのかもね」
おどけたような声色はちっとも本気じゃなくって、軽い口振りはふざけているようで、どことなく気遣いがみえた。きっとわざとズレたことを言ってみんなを笑わせて、納得はしかけたものの誰にも伝わらなかった事に対してどこかでがっかりしていたアルドを、元気づけようとしてくれたのだと思う。
目論見は半分くらいは成功したのだろう。あちこちで楽しげな笑い声が湧き上がり、確かに綺麗だよね、と主に女性陣を中心にきゃっきゃと話が明るく盛り上がり始める。
けれど半分は、多分、成功しなかった。アルドは笑い声に交じることなく、瞬きもせずその場に立ち尽くす。
誰かの言葉が、ぴたり、はまった気がした。
なんとなく、それらしい、そうかもな、と納得するんじゃなくって。
それだ。
唯一無二の答えを見つけた気がした。
きらりきらり、輝く水面、ちろちろと湧き出す川のせせらぎ、鼻を擽る水の匂い。
ネロから香るその匂いが、ネロと接すると頭の中に浮かぶようになった情景の始まりがどこにあったか、改めて記憶を探れば随分と幼い頃のものに辿り着く。
まだ村にやってきたばかりの頃。
知らない人の中での暮らしになれなくって、じろじろと向けられる視線に縮こまって、家からあまり出られなかった頃。
よく眠った小さなフィーネを抱き上げた爺ちゃんに、連れられて行ったのはヌアル平原の、小川の源泉の近く。
ぽたんぽたん、岩から染み出した水がいずれ、大きな池を作るのだと聞いて目を輝かせたアルドは、太陽の光できらめく始まりを瞬きもせずに見つめた。ちかちかと跳ねる光が散りばめられた水面を見ていれば、息を吸い込んでもないのにぐうっと胸がいっぱいになって、むず痒いようなこそばゆさがさわさわと心臓を撫でて、どきどきしてくる。
それが何か分からないまま、流れ出す水の軌跡をじっと眺め続けていれば、きれいだろう、と柔らかな爺ちゃんの声が聞こえた。
まだ意味のある言葉をそれほど覚えていなかったアルドは、きらきらをじっと見つめながら、きれい、と何度も繰り返した記憶がある。
きれい、きれい、これは、きれい。
胸がいっぱいになって、くすぐったいようなこれが、きれいを見た時の気持ち。
その意味が身体に染み渡って、言葉と感情が結びつくまで、何度も繰り返した。
きれいなもの、これが、きれいなもの。
これが、きれいっていうこと。
それはアルドの中の、一番最初のきれいの記憶。
ネロに感じる水の気配は、そこに繋がっていたことに。
誰かの言葉でようやく気づいたアルドは、あちこちで響く笑い声の中、ひっそりと頬を赤らめる。
どうしたアルド、聞かれた言葉には、なんでもないよ、首を振って誤魔化すように笑って、誤魔化しきれなかった分の動揺をみんなの目から隠すように飲み込めば、腹の底がじくじくと熱くなった。
自然と浮かぶのは、ネロのこと。ネロの笑った顔。
頭の中、それを描いた途端、ふわり、水の匂いがする。
ネロはどこにもいないのに、ネロの匂いがする。
水の匂いが。とてもきれいな、水の匂いがする。
想像の中、きれいな水の匂いを纏って、ネロがきれいな顔で笑う。
そういうことか、小さな声で呟いたアルドは、見つけた答えを抱えるように胸の前に手を当てて目を瞑った。
ぐうっと胸がいっぱいになって、むず痒いようなこそばゆさがさわさわと撫でて、どきどきして、そして。
そのきれいな水に指先を浸す事を想像したら、ガンガンと割れるように頭が痛くなって、息が苦しくなって、口の中に甘みがほんのりと広がった。
気づいたばかりのそれを、宥めるように丁寧に撫でたアルドは、すん、と鼻を蠢かせると自嘲して苦く笑った。
ネロからは、きれいな水の匂いがする。
とてもきれいなものの、匂いがする。
アルドはその、とてもきれいなものを。
触れて、含んで、飲み下して。
自分のものにしてしまいたかったことを、ようやっと、自覚した。