おやすみ
今日も長い一日が終わり、無事にザルボーの宿へと辿り着いたのはもうすっかりと日が落ちてからだった。
既に道中で早い夕食は終えていて、あとはもう寝るだけ。砂風呂に入るのだと盛り上がる女性陣と受付で別れ、部屋に荷物を置いたアルドは大浴場で軽く体の砂と汗を流すだけに留め、長居することなくすぐに引き返す。ゆったりと湯に浸かるだけの体力も気力も、もう残ってはいなかった。
意外なことに、同行していたネロも砂風呂には入らないようだった。ネロがザルボーの砂風呂をいたく気に入っていた事を知っていたから少々不思議に思いつつも、アルドより先に大浴場に来ていたネロをさして気に留める事もなく、ざぶざぶと湯を体にかけて埃と汚れをろくに湯船にも浸からずに引き上げる。
ネロが大浴場を出たのも、アルドと同じタイミングで、だった。まだ湿った髪のまま、アルドと連れ立って部屋に向かう。いつもならきっちりと髪を乾かしていて、アルドがそのままにしていれば眉を顰めるのにこちらも珍しい。ネロが身嗜みに気を遣う方だと知っていたから、さすがに訝しく思う。
(明日、覚えてたら何かあったのか聞いてみよう……)
けれど結局、理由は問わなかった。疲れでろくに頭が働かず、うまい言葉が見つからなかった事もあるけれど、一見して分かりやすく不調は見て取れなかったから。
身嗜みだけではなく、ネロは自己管理も徹底している。仲間によっては不調を隠してギリギリまで無理をしてしまう者もいるけれど、ネロはそういうタイプとは正反対だ。アルドよりよほど自分の体調に敏感で、翌日に疲れや不調を持ち越さないとよく知っている。その点についてはアルドはネロの事を全面的に信用しているが故に、体調管理の一環だろうと納得したのだ。
さして長くない部屋までの距離、のろのろと重い体を引き摺りやっとの思いで辿り着いたアルドは欠伸を一つして、割り当てられたベッドへと潜り込むべく歩を進めようとする。
「えっ? ね、ネロ?」
しかし踏み出しかけた足が床を踏むことはなく、唐突に伸びてきた手にひょいと腰を抱えられたかと思うと、ぽんとベッドへと転がされた。アルドではなくネロが眠る筈のベッドの方へとだ。
一体何が起こったのか理解するより早く、ネロも同じベッドに寝転がったから、いよいよアルドは困惑してしまう。だって男二人で眠るにしてはベッドの横幅は狭い上に、お互い添い寝が必要な年でもない。
ネロが何がしたいのかさっぱりと分からず戸惑っていれば、体ごとアルドに向いたネロが、ため息に乗せて囁いた。
「君、最近、あまりよく眠れていないだろう?」
確信を持った口調で問われたアルドは、ぎくりと身を強ばらせる。
時間にすればそれなりに眠っている、つもりだ。
けれどここの所、どうにも眠りが浅く何度も目が覚めて、朝になっても疲れが取れない。途切れ途切れの短い眠りを何度も繰り返す夜を過ごしていることは事実だった。
原因に心当たりは、あった。
エデンの事を思い出して以来、どうしようもない焦燥に駆られ漠然とした不安を抱く事があって、夢にもそれが現れる事があるのだ。
何か目指すものがある時はいい。それはいずれエデンに繋がるかもしれないと、殺された未来を救ける事に通じている筈だと信じられるから。
けれど、特に何も無くあちこちを走り回って闇雲に手がかりを探している最中は、どうにも駄目だった。何か見落としているんじゃないか、とっくに取り返しがつかなくなってるんじゃないか、焦りが募り、もどかしさが知らず知らず思考を蝕んでいってしまう。
伸ばした手がエデンに届かなくて、後一歩間に合わず大事な彼が永遠に消えてしまう、そんな夢を頻繁に見るようになって飛び起きて、また目を瞑るもなかなか眠れず、夜の闇に混じってぐるぐると不安が胸の中に積み重なってゆく。
どうにか再び寝入っても、夢の続きはけして希望を綴ってはくれず、最初に巻き戻ってエデンを助けられない自分を突きつけられ、また飛び起きての繰り返し。体は疲れているのに思考だけがやけにはっきりしていて、眠いのに眠れない状況にますます苛立って、ようやく眠れる頃には外が白みかけているなんて事もあった。
今日だって身体は疲れ切っているのに、悪い夢を見てしまいそうな予感もあって、だからこそせめて横になる時間を少しでも長くとって疲れを取ろうと思っていた。
「……ちゃんと寝てるぞ」
「嘘だね。言い訳は美しくないよ、アルド。本当は自分でも気づいてるんだろ?」
「……うん、ごめん……」
それでも心配をかけたくなくて、苦し紛れに否定をしてみる。悪い夢を見るけれど、夢魔の仕業ではないらしい。それとなく尋ねてみたマイティからは、夢魔の気配はしないと言われたから、純粋にアルドの心が作り出しているだけの、目覚めれば消えてしまう夢でしかない。
だからネロに心配されるようなものではないのだと、へらり笑って誤魔化そうとした。
しかしアルドの答えは、すぐさまネロにばっさりと切り捨てられる。厳しさを孕んだ声に、アルドがようやく認めてごめんと呟けば、全く君ってやつは、と呆れの滲んだ声が響き、きゅっと胸が痛くなった。
ネロにダメなやつだと思われるのは悲しい。ひやりと腹の底が冷たくなって、ぐっと喉の奥が詰まったような心地にやる。失望されてしまっただろうか、ちらりと考えるだけでますますじくじくと胸の痛みが大きくなってゆく。ネロの自信に満ちた姿にアルドは憧れに似た気持ちを抱いていて、徹底した自己管理も美しさに向ける拘りも、好ましいものとして受け止めていたから。
これ以上ネロに見損なわれるのが恐ろしくて、アルドは慌ててベッドから抜け出そうとした。こんな近くにいれば、何もかも見透かされてしまいそうだ。漠然とした不安に縮こまる心を、ネロには見られたくない。
「こら、逃げない」
しかし、起き上がりかけた上半身は、伸びてきたネロの手によって再び寝台に押し付けられた。跳ね除けようとしても、鍛えられた腕は胸の上でがっちりと固定されていてぴくりとも動かない。
なすすべも無く抑え込まれてしまった自分が情けなくって、ちょっぴり悔しくもあって、胸の痛みが怒りに転化してしまいそうだったけれど、アルドが反発の声を上げる前に、ふっとネロの纏う気配が柔らかく緩む気配があった。
「どうせ一人で寝てもまたうまく眠れないだろうし、かといって無理に眠らせても解決はしないだろう。なら、せっかくだ。君を甘やかしてやろうと思ってね」
どこか面白がっているような、けれど馬鹿にしている様子はなく、笑みを滲ませた声でネロがそんな事を言い出した。何だよ、甘やかすって、とふてくされて胸の中で毒づこうとしたけれど、うまくは行かなかった。ふんわりと優しげな言葉でささくれた心をすっと撫でられ、尖った気持ちは簡単にしゅるりと収まってしまったから。
そしてそれは冗談ではなく本気だと示すように、アルドの頭の下にネロの腕が潜り込み、そっと抱き込むようにネロの胸板が眼前に近づいてきた。頭に敷いた腕と逆の手はアルドの背に回され、アルドの心音と同じ速さで手のひらがとんとんと背中を叩く。
ふわり、漂ってくるのはネロが好む香水の薄い香り。風呂に入った筈なのに、すっかりと身体に染み付いているらしいその香りは、ぽんぽんとアルドの身体を優しく叩く手の持ち主が、ネロなのだとまざまざと教えてくれたから、ほっとして、少しだけ緊張した。
「君は一人じゃない。頼りになる仲間もいて、何より僕がついてるんだ、大船に乗ったつもりでいたまえ」
低く静かな声は、唄うように響いてじんわりと鼓膜を震わせる。幼子に言い聞かせるような口調に、微かに緊張していた心もゆるゆると解れてゆく。
「……焦るのは仕方がないけれど、あまり思い詰めるのは良くないよ。たまにはこうして甘えるのも悪くないって知っておくべきだね」
ひどく優しげにアルドを甘やかす言葉たちは、ひどく心地が良かった。だってネロは気休めに嘘の言葉を吐かないと知っている。たとえアルドを慰めるためだとして、偽りを耳に流し込みはしないだろう。
「君のことは気に入っているんだ。たまにはこの僕の胸を貸してもいいと思う程にはね。だから急いて君が損なわれるのは我慢ならない」
仮に一国の王相手だとして、敬意は払えどおもねる事はけしてしない。いつだってネロは、自分の心に正直に生きている。
だからこそ、その言葉の全てが本当のことなのだと分かる。慰めに優しい偽りの言葉を並べたのではなく、ネロが思うことを口にしているのだと分かってしまう。
ネロは普段から好意や感動を表す事を惜しまない方で、アルドだってネロから仲間として認めてもらえている事は分かっていた。称賛の言葉を贈られる事だって何度もあったけれど、こんな風に噛んで含めるようにとろとろと注がれれば、とても平静ではいられなかった。
恥ずかしくて照れくさくていたたまれなくて、だけど嬉しくって、そわそわとむず痒い気持ちを誤魔化すようにもぞりと身を捩れば、ぐりぐりとネロの頭に額を擦り付けて甘えるような格好になる。けしてそんなつもりではなかったのに、「いい子だね」と囁くネロの声が満足そうだったから、違うと首を振る代わりに、今度は意識して甘えるつもりで胸に額を擦り寄せる。
頭の下の腕は枕より固くてちっとも寝心地はよくないのに、すっぽりとネロの腕の中に収まる格好は妙にしっくりと馴染んで落ち着いた。
まるでそこは世界で一番安全な場所であるかのような錯覚すら抱き始め、本当に小さな子供に戻ったような気持ちになってゆく。
気づけば全てを預けるように体重を預けて寄りかかったネロの胸の奥、ひどく緩やかに打つ鼓動に合わせてゆっくりと息をすれば、呼吸の仕方すらネロに委ねてしまったよう。それに従いアルドの鼓動に合わせて背を叩いていた筈のネロの手の間隔も段々と開いてゆき、心臓の鼓動までもがネロに追従してゆくのを知った。
生命を繋ぐための身体の動きすらも、他者に預けてしまうというある意味では危うい状態である筈なのに、ちっとも不安な気持ちが湧いてはこない。やがて意識を向けずとも自然と息をする速さがネロの心音に重なって、背を叩く手のリズムがぴたりとネロのものとそろったのを自覚した時、アルドの中いっばいに広がったのは、ただただ満ち足りた気持ちだけだった。
きっと、朝になれば終わってしまう。
ネロはアルドを際限なく甘やかすことはしないだろうし、アルドだって常に誰かに依存する事を良いものだとは思っていない。
だからこそ、今だけはこの腕の中に閉じこもっていたかった。ひたひたと満ちた空間に、浸りきって甘えてしまいたかった。
そっと手を伸ばし、アルドの背を叩くネロの腕に両手を巻き付ける。ぴたり、止まった心地よいリズムを手放すのは少し寂しかったけれど、腕の中にネロの腕を抱きしめていれば、心のどこか、すうすうと隙間風が吹いていた部分がぴたりと埋まったようで、アルドはふにゃりと笑みを浮かべる。
「僕がいるんだ、悪い夢なんて見るはずがないさ」とネロが囁けば、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。きっとどこかでは、夢を見ることを恐れていた躊躇いが、ネロの言葉で綺麗に取り払われ、ようやく眠りの気配が見えてくる。
きっと、悪い夢は見ない。予感があった。
もしもエデンの夢を見ても、伸ばした手は彼に届く。アルドだけの手では届かなくても、かき抱いたネロの腕が一緒にエデンを掴んでくれる。それは希望ではなく確信だった。必ず、エデンを救けられる。
だから、けして悪い夢にはならない。
ゆっくりと閉じた瞼の裏。
悪い夢を見る日に押し寄せる、どろりとした粘つく闇の代わり。
ネロの瞳と同じ、美しく透き通った青がちかりと煌めいた。